ちょっと気になって調べてみました。
徳川家康が江戸幕府を立て、江戸から伸びる五つの街道を整備した。その一つが、
この地を通る中山道であった。もともと存在した比較的大きい村落を宿場として
整備しようとしたが、桶川と鴻巣(現・北本)が近すぎた。そこで、慶長7(1602)
年、幕府の命によって鴻巣村は高崎方面に4キロほど移転させられ、鴻巣宿となっ
た。これが現在の鴻巣市の前身である。
これによって、公式の宿場ではなくなってしまった旧・鴻巣村だが、さら地になってしまう訳ではなく、
町場としての機能は残った。そして、もともと鴻巣宿があったところなので、本
宿(もとじゅく)村と呼ばれることになった。
時は流れて明治11(1878)年のこと。「郡区町村編制法」という法律によって、
「県」の下の行政単位として「郡」が制定された。この時、本宿村は北足立郡に
含まれることになったが、ここで困った事態が発生した。同じ北足立郡内にもう
一つ、字は違えども読みがいっしょの「元宿村」があったのである。
そこで、その2つの「もとじゅくむら」を区別するために、位置関係で区別し、
本宿村を「北本宿村」、元宿村を「南元宿村」と改名した。なお、南元宿村は、
現在のさいたま市の西部、埼京線南与野駅の近くで、桜区南元宿一丁目・二丁目
として現存している。南元宿の人は「北はどこだろう?」と思っているかも知れない。
そして明治22(1889)年、「町村制」の施行によって、北本宿村は、
「北足立郡中丸村大字北本宿」となり、昭和18(1943)年に中丸村と石戸村が合併して、
「北足立郡北本宿村大字北本宿」となった。
昭和34(1959)年の町制施行にあたり、北本市ホームページによると「語呂が長く呼びにくいので」
という単純な理由によって「宿」の字を省略してしまって、「北足立郡北本町」となり、駅も学校も
郵便局も、みな「北本宿」から「北本」に改められた。その後、昭和46(1971)年に「北本市」となり、
今に至っている。
・・・・・・・・・だそうです。
鳥は先週の残りミミとカンムリ・・・
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