山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

天地耕作 初源への道行き

2024-06-27 13:57:42 | 日記

 

左/何やら巨大な鳥の巣のような(生?) 右/枝を積み重ねた塚・墓のような(死?)

2024年上半期で面白かったことのひとつ、2月12日、静岡県立美術館とその裏山で天地耕作(あまつちこうさく)を観た。観るというより民俗学的に体験したということか。24日には村上誠氏と赤坂憲雄氏との対談「円環が産まれ、壊れるとき」聴講にも再訪したのだった。

天地耕作は旧引佐郡出身の村上誠、渡兄弟と山本裕司によって1980年代から2003年まで続けられた、同地域を主な舞台としたアート活動。その場の立木や斜面の傾斜、水の流れなどをそのまま取り入れた作品は、〝縄文〟のようなエネルギーに充ちていた。「彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマに迫りました。」(同展チラシ)。フィールドワーク=這って歩き廻ることから生まれてくるもの、見えてくるものは、山でも何でも面白いものなのだろう。

美術|村上誠HP

野外展示の会場MAP、此処は古代の埋葬の場所でもあったのだ


伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

2024-06-19 14:28:10 | 日記

前記事の参考資料です。

旧下田街道

■旧天城街道を開削――板垣仙蔵(いたがき・せんぞう)

 豆州梨本村(現河津町梨本)に生まれた板垣仙蔵は、旧天城(下田)街道を開削した。生年は不詳。家は代々名主を務めた家柄で、屋号は新家[にいえ]と言う。
 名主当時(1810年前後)、田方郡と賀茂郡を隔てる天城連山は、昔から南北の交通を妨げてきた。江戸時代になると河津梨本の宗太郎から沢を登って中間業[ちゅうけんぎょう]峠を越え、湯ケ島の大川端へ下っていたらしい。仙蔵は新しい道を造ることを思い立ち、韮山代官・江川英毅(坦庵の父)に願い出た。韮山代官の許可は下りたが、補助金は一切出なかった。
 仙蔵が計画した新道は、宗太郎から中間業峠へ抜ける道よりもう一つ西側の沢に沿い、二本杉峠を越えて湯ケ島の大川端に通じるというものである。最短コースだが橋を架けたり、岩石を砕かなければならない箇所が多い難工事で、莫大な費用が見込まれた。
 仙蔵は近在の村々の名主にも訴え、応分の資金を援助してもらったが、それだけでは足りない。この道を利用した近郷の村々が援助したことも記されている。仙蔵は私財を投じ、自らもくわやもっこを担いで工事の先頭に立った。梨本村および近村の人々も手弁当で参加した。難工事だった二本杉峠の新道が開通したのは、1819(文政2)年である。以後、この道は伊豆の南北を幹線下田街道として多くの旅人が往来し、大いに助かった。
 安政年間(1854~59年)下田で黒船騒ぎが起こった時代には、江川坦庵、吉田松陰、ハリスらが1857(安政4)年10月8日、慈眼院を出発し、通訳のヒュースケン青年を含め350人の行列を組んで峠を越えた。
 1905(明治38)年、天城トンネル経由の新道が開通したが、歩いて天城峠を越えた86年間、現在は「天城の旧道」と呼ばれている「二本杉歩道」は活躍した。梨本の住民であった仙蔵の功績は図り知れない。
 仙蔵の生家は、川合野のほぼ中央部にあり、豆州梨本宿の本陣を務めた大家「稲葉家」と隣接していた。代々名主を務める素封家であった。途中養子を迎えたが財産を売り払い絶家した。1884(同17)年、生家も売り払った。
 仙蔵は1835(天保6)年8月26日没す。墓は梨本の慈眼院にあり、墓のみが物語を残している。戒名は「道嵪峻作居士」。当時の住職が仙蔵の偉業をそのまま諡号[しごう]にしたものだ。道嵪とは山中の険しい道、峻は山の高峻なことで、その仕事の出来栄えや功績の高く優れたことをも知らしめたものであろう。まことにふさわしい立派なものである。
 仙蔵の妻「とき」は後妻のようで、韮山反射炉の工事日誌にしばしば名が出て来る板垣助四郎の娘である。仙蔵とはひどく離れた妻であったようである。87歳で没。
 筆者が居住している家は、建ててから200年以上たっている「にいえ」の本宅である。仙蔵、助四郎、鉄砲(筆者の屋号)と、何か因縁めいたものを感ずる。

(河津町・稲葉修三郎/「伊豆新聞」2014年6月23日)

二本杉歩道概念図

■天城峠の変遷

 伊豆は長い間、天城連山によって南北に分断されていました。天城越えの陸路の建設は、時代毎の命題でありましたが、道路づくりは急峻な地形にはねのけられ、困難を極めました。このため、道は切り立った崖の上、岩を刻んだ階段等にもつくられ、天城越えで尊い命を捨てた人も少なくありません。一方、「天城」という地名は「雨」に由来しているとも言われています。地形的に雨量が多く、自然災害を受けやすい天城山岳地域の街道は、峠の場所そのものにとっても、変遷を重ねざるを得ない状況だったと言えます。

  • 新山峠:室町期以前の峠です
  • 古 峠:室町期から寛政時代にかけての峠です。
  • 中間業 (ちゅうけんぎょう):寛政時代から文政2年にかけての峠です。
  • 二本杉峠:文政2年(1820)以後の峠です。幕末、下田にアメリカ領事館がおかれていたころは、江戸の幕府と領事館を結び、外交使節団が往来しました。まさに「日本開国の道」です。しかし、下田から三島へ通じていたとは言うものの、途中の天城路は難所中の難所でした。このほか、江戸後期の天城越えに登場する人物は、老中松平定信、タウンゼントハリス、吉田松陰、唐人お吉など、この峠をよく利用したと言われています。
  • 天城峠(旧トンネル):峠、トンネルとも数多くの文学作品の舞台となっています。ノーベル賞を受賞した川端康成の代表作「伊豆の踊子」は、天城峠が始まりです。この名作にあこがれて、この地を訪れる人々もたえません。明治38年に開通した天城トンネルは当時のまま、実に周辺の四季の彩りにマッチする天城のシンボルです。

(『天城湯ヶ島郷土研究』より)


伊豆・二本杉歩道の補修

2024-06-19 13:52:23 | 日記

二本杉峠(旧天城峠)

 山の仲間がラインで「河津側の二本杉歩道は少しづつ整備されそうですね。」と情報を届けてくれた。
こちらにリンク↓

吉田松陰も通った古道“通行禁止の道”復活へ一歩【河津・二本杉歩道】

(『テレしずWasabee』2024年6月15日)

峠の名の由来となった二本杉

 歴史的な街道である旧下田街道を今に伝える二本杉峠の河津側は、大雨被害によって10年余に亘り「閉鎖」されたままであったが、歩道の復活に向けて地元の有志たちが登山道整備を始めたとのことだった。二本杉歩道の荒廃は河津側だけでなく、北側の伊豆市(湯ヶ島)側も同様で、先日の伊豆山稜線歩道山行の際にも感じられたことだった。「天城遊々の森(旧大川端野営場)」の上部にあたるが、歩道の管理者すらおらず勝手に手が付けられない状況のようで、こうした歩道の保全には行政の問題もあって難しい面がある。
 また、旧下田街道という歴史的遺産の側面を重視するのか、あるいは単なる自然歩道として整備するのかによっても、補修方法や管理方法が変わってくることだろうと思う。その意味で、「目標は下草やササが茂る環境になり、その中に人が歩ける最小限の道があることです。」という施工者の方向性には少し考える処があるが(馬も、駕篭も、荷車も通ったのが“街道”であるのだから)、ともあれ手が付けられ始めたのは良いことだった。

二本杉峠下(河津側)に佇む地蔵仏

 二本杉歩道について以前、私は所属会の会報に次のような文を寄せていた。

*     *

 来年度定例山行候補地としてTAKさんより提案の「二本杉歩道」を、一緒に歩かせていただいた。二本杉峠は、三島から下田まで伊豆半島を縦断する旧下田街道(現国道414号)が天城山稜線を越える核心部である。河津町の資料には次のように記されている。
 天城峠を越えて南(賀茂)と北(田方)の交通の始まったのは、いつの頃か定かではないが、いくつかの古道や旧道が残っている。その内の一つ、二本杉峠(旧天城峠)越えのルートは文政2年(1819)に開通し、幕末開国を巡って、数多くの歴史上の人物が往来した街道である。(中略)明治38年(1905)に旧天城トンネルが開通するまで、この街道は伊豆の南北を結ぶ幹線道路で、文化交流や日本歴史に多大な影響をもたらしたため、日本の歴史の道百選に選ばれている。
 TAKさんの要請は、この峠道は近年の大雨で荒れ、河津側の宗太郎園地~二本杉林道間が閉鎖されているようだが、歩行が可能かどうか踏査してみるということ。この道は観光地である河津七滝の延長上であって、「閉鎖」はおそらく観光客に向けての処置だろうと推測した。案の定、登山者にとっては「少々荒れ気味」位で普通に歩ける状態だった。長い歳月踏まれてきた道は、易々とは失われない。ただ、気になることもあった。
 二本杉歩道は「踊子歩道」(旧天城トンネル越え)などと共に、前記文のとおり行政もその価値を認めているのだが、歩いてみると保存意欲が後退しているのではないかと感じられた。これは河津側だけでなく湯ヶ島側も同様。倒木の伐採除去や木橋の補修、付け替え、道標の明確化といったことが、近年行われた様子が見られない。無論、それは登山者にとってはさほど大きな問題ではないが、一方で「歩道」と銘打ち歴史的遺産として位置付けている割には中途半端な対応ではないかと思う(ひょっとすると放棄、永遠の閉鎖ではないかとさえ思える)。道は歩かれることによって維持されるのだから、「通行止め」ではなく、この峠道を歩いてみようと思う人たちに開かれることが大事なことだと言えよう。現代の下田街道=伊豆縦貫道の早期開通と同等に、過去の下田街道の「開通」も意義があることだろう。

(2015年7月記)

*     *

二本杉歩道の壊れた橋(2016年12月)

 河津七滝宗太郎園地より北西に上がり伊豆山稜線を越える二本杉歩道(旧下田街道)については、既に昨年6月踏査を行った(『やまびこ』№220)。その後のルート状態と冬季となる定例山行での問題点を確認するため下見を行った。
 今回再訪し、宗太郎園地~二本杉林道間の状態は前回同様、沢内が歩きにくいものの登山者にとって特に危険な箇所があるものではないが、宗太郎園地分岐の橋渡り口には進入禁止ロープが前よりもしっかりと張られ、また二本杉峠北側には通行止め告知の指導標が目立って設置されていた。もとより2013年夏より「当面の間」ということで閉鎖され三年余が経つが、一向に修復に着手した形跡はないのだから、道は荒れるに任せたままというわけだ。定例山行という性格上、また冬季という条件上、通行止めルートを使い万が一参加者にケガがあった場合には問題があると判断、天城峠から二本杉峠への縦走に変更を提案し、企画者のTAKさんの了解を戴いた。道の駅に下る本隊と別れ、同ルートを逆に歩いた。葉を落した山稜線歩道からは富士山がきれいに眺められ、展望のない二本杉歩道より気持ち良く歩けるかなと感じた。
 前回の報告にも記載したことだが、行政の保存意欲の後退と「閉鎖」という安直な方法が、歴史的な街道を埋もれさせてしまうのではないかと危惧する。道は人に歩かれることで保たれるのだから。

(2016年12月記)

涸れ沢状で踏み跡は判然としない(2016年12月)


花菖蒲

2024-06-18 16:07:27 | 日記

いつもより大回りの散歩から

長谷川家長屋門前の花菖蒲

長谷川家長屋門(はせがわけながやもん)前の花畑では、季節毎の花が見られる。今は花菖蒲がみごとに咲いている。

*長谷川家は、慶長元(1596)年頃から島田代官であった長谷川藤兵衛長盛の弟、三郎兵衛長通が先祖になります。長通は、兄の長谷川七左衛門長綱に随い相模国に赴き、代官職を務めた後、ここに居を移し、代々三郎兵衛を名乗り庄屋を務めました。この長屋門は、その庄屋宅の門で、棟札には「維時元治元龍舎甲子臘月吉日・野田村・大工棟梁・栄次郎」と記されており、元治元(1864)年に建てられたことが分ります。茅葺入母屋造り、間口5間半(約10メートル)、奥行2間(約3.6メートル)で、市内に唯一残る茅葺長屋門です。(島田市ホームページより)

立石稲荷(たていしいなり)

こちら側から見ると何やら巨神兵(ナウシカ)の頭部のようで怖ろしい。下部の洞の中の小さな狐たちは可愛らしいが……

*静岡県島田市を走る国道一号線バイパス脇の樹木が林立する山中にある、巨大な石が立っていることからその名が付いたとされる、御神体として高さ8m 幅10mの巨石を祀る稲荷社。その昔、沢の砂防工事を行う際に、この巨石の西側部分を砕き次々運んで工事をしたという所が今も残ることから、元々はもっと巨大な石だったと考えられている。商売繁盛や大漁祈願などの御利益があるとされ、江戸時代末期より「波田のお稲荷さん」として、地元民をはじめ焼津の漁師や島田の芸人達に親しまれてきた稲荷社で、毎年3月の第1日曜日に、地元の方々により祭事が執り行われている。(島田市観光ガイドより)


いつもの散歩

2024-06-09 16:25:48 | 日記

はっきりしない天気で予定の山歩きが中止となって、いつものコースの散歩。まずは6/6記事「大津落合のクスノキ」中とは別の八兵衛碑二つ。
左/野田・鵜田寺境内の八兵衛碑(明治35年・西野田講中建立)大小二つの碑が重なって建てられている。藤枝バイパス工事に伴ってここに移されたらしい。
右/尾川・尾川丁仏参道入口の八兵衛碑(明治35年・建立者不明)千葉山尾川丁仏参道入口に馬頭観音(左)や地蔵菩薩、道標などと共に建つ。丁仏参道の登り口は昔はここではなかったから、これも移されたものではないだろうか。
ちなみに落合の八兵衛碑は明治36年建立、大草は平成7年に再建だが元は明治38年建立。明治35年〜38年に何があったか?

 これも例の招魂社の大クスノキと大津谷川。離れて見てもなかなか立派に思う。

足元を見ると道端にはさまざま草花。オオキンケイギク(5/25記事)ではないが、外来種で野草化したものも多いようだ。
「おのが身を特定外来生物と知らず誇れりオオキンケイギク」知人の短歌、帰化定着してしまったものは、それはそれで良いのかな、あんまり排外主義的な態度は……。変化していくのも自然の内。

 アジサイ

 ムラサキカタバミ

南アメリカ原産、江戸末期に導入されて帰化したらしい、環境省の要注意外来生物に指定されている

 ノアザミ

 ネジバナ

 マツヨイグサ

待宵草 これも北アメリカ原産で要注意外来生物、「宵待草」は竹久夢二か

 ホタルブクロ

花、つぼみ、若苗が食用にされるそうだ、食べたことはないなぁ