山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

ランドマークとしての粟ヶ岳

2024-07-05 08:55:15 | エッセイ

山頂下の「茶」の字で知られる粟ヶ岳

 我が家から外に出ると、ほぼ真西の方角に粟ヶ岳(あわんたけ)の「茶」の字を見ることができる。振り返って真東を見ると白岩寺山で、この両山と我が家は東西線上に並んでいることが分かる。もう少し広い地域のことを言うと、志太平野は東端の高草山と西端の粟ヶ岳の両ランドマークに挟まれた地域であり、この両山を目印に新旧の東海道が越えているのだ。高草山塊を越える古東海道の峠が「日本坂」であるのに対して、粟ヶ岳から牧之原台地へと続くこの山塊を西から越える道は「日坂」で、いずれ劣らぬ難所であったことが窺えるが、大井川と共に駿河・遠江の境として存在する粟ヶ岳の方が、より東西文化を分かつ面が強かったのではないかと思える。高草山塊が白峰南嶺から続く大井川左岸尾根の最末端であるのに対して、粟ヶ岳は赤石山脈主脈から続く大井川右岸尾根の最後の高みである。

粟ヶ岳山頂より大井川・駿河湾を望む

 山頂まで車で行けてしまうこともあって、登山対象からは外れている観があった粟ヶ岳だが、一面の茶畑を前景に駿河湾から遠く伊豆諸島まで続く山頂からの眺めは全く素晴らしく、最近はハイカーやチャリダーが訪れることも多い。殊に西側の倉真温泉からのルートは、松葉の滝などとも組み合わせれば、変化に富んだ良いハイキングコースだと思う。
 ところで私自身の粟ヶ岳への関心は、山頂の磐座(いわくら)群や阿波々(あわわ)神社に代表されるように、遠州有数の信仰対象の山となってきた歴史文化の過程にある。おおよそ里から目立って仰ぎ見られる山、水源となる山は信仰対象となっていくことが多いが、粟ヶ岳は志太平野の西のランドマーク(逆方向から見れば、遠江東端のランドマーク)として顕著な存在だ。それは単に陸路の東西視点での目印ということに留まらず、現在この山が林野庁の「航行目標保安林」の指定を受けていることからも明らかなように、海上からのランドマークともなっている。野本寛一氏は「山当ての実際」を次のように述べている。

 漁師が、多くの魚の棲息する魚礁に舟の位置を決め、海人が貝の豊かな根の位置を定めるのに陸上の目標物をつなぐ方法は広く行われている。南伊豆ではこれを「ヤマタテ」と称し、西伊豆では「ヤマアテ」「ヤマテ」などという。入江のない遠州灘に面した地の漁師は「ヤマツナギ」「ヤマをつなぐ」などと称している。(中略)
①小笠郡大須賀町大淵小字中新井では、浜から約三〇〇メートル沖の「大根」で鯛のテグリ網漁をする時、野賀山→高天神→小笠山(二六四㍍)→粟ヶ岳(五一四㍍)と山をつなぎ、これを「ヤマツナギ」と称した。粟ヶ岳には巨大な磐座群があり、山頂近くに延喜式内の阿波々神社が祭られている。この山は「粟」と「雨乞い」の聖山である。(中略)
④榛原郡御前崎町では、鯛・カサゴ・モロなどの漁に際して、オザカ(松)沖では燈台→粟ヶ岳、御前(根)の場合、燈台→落居山を使った。ここでもこの方法を「ヤマツナギ」と称した。(中略)
 遠州灘沿岸では、粟ヶ岳・本宮山・高松山・落居山などがあげられているが、これらはいずれも信仰の山であり、特に、遠江一宮小国神社の神体山ともいうべき本宮山と粟ヶ岳は遠州地方の聖山として広く知られるところである。かつて、一月六日に行われる本宮山の祭りには遠州灘ぞいの漁師達が多数参列したというのも、この山がヤマツナギの山として重要な位置を占めていたからである。また、粟ヶ岳は本来畑作物たる粟の豊穣をもたらす山ではあったが、雨乞いの山として平地水田地帯の信仰も集めた。粟ヶ岳には講組織による拝登形式があり、かつては海浜部から参拝もあった。五来重氏は、各地の竜燈杉は海神に燈をささげる海洋宗教のいとなみの拠点であったと説かれた。本宮山の奥に秋葉山(八六〇㍍)があり、そのまた奥に竜頭山(一三五一㍍)がある。竜頭山は「竜燈山」であり、海神に燈をささげる山だったのである。原初、竜燈杉は海浜に近いところにあり、それが次第に陸地に入りこみ、やがて山中に入って行ったのである。竜燈杉にしろ、竜燈山にしろ、それらは初期の段階では、漁民のヤマアテの「当て山」「当て木」であり、さらに大きくは航行する大型の舟の目標だったのである。そのような、「海からの目(まな)ざし」「海からの視線」の帰結点・目標点がやがて海への目ざし、海神への献燈の基点に転換してゆくという空間構造の論理が認められるはずである。海からの「海の眼」は「漁民の目」であり「舟人の眼」にほかならないのである。(後略)

――「当て山と当て木●信仰の基層をなす漁撈民俗」(静岡県民俗芸能研究会著『静岡県 海の民俗誌―黒潮文化論―』静岡新聞社刊)より――

遠州の霊山を巡る「春の入峯修行」の想定ルート

「東海道名所図会」に描かれた阿波が岳(粟ヶ岳)

 目標物の乏しい海上においては、冒頭に記した「粟ヶ岳と白岩寺山を結ぶ線上に我が家がある」というような「ヤマツナギ」の方法で地点を定めていたのであり、遠州灘においてはその重要な「当て山」として粟ヶ岳があったのだった。信仰の対象となる山には、里からの視線に加え、「海からの視線」が注がれているのだ。ところで、粟ヶ岳から南下する尾根の末端と東西方向の東海道とが交わる地点に事任(ことのまま)神社が祀られている。主祭神は己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)、「事(言)のままに願いが叶う」といわれ、近年ではパワースポットとして若い人たちにも人気の場所だ。一方の粟ヶ岳・阿波々神社の主祭神は阿波比売命(あわわひめのみこと)=別名・天津羽羽神(あまつははがみ)で、己等乃麻知比売命の姉妹神(父神が天石戸別命)、和魂(にぎたま)とされている。何でも願いが叶う事任の比売様に対して、粟ヶ岳の比売様は全く逆に欲深き人々を地獄に落とす(遠州七不思議「無間井戸」)ところが面白い(神仏混淆以降の仏教的な倫理観が多分に反映されているのだろう)。地形的な位置関係、また主祭神の系譜の近さから考えて、この両社は里宮と奥宮の関係にあるとみて間違いないだろう。そして、古代この山に阿波比売命=天津羽羽神を祀ったのは、黒潮と共に「舟人の眼」を持ってこの地に来た人々(阿波忌部?)と考えられるだろう。

(2021年7月記)



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