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山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

高根白山神社

2024-11-10 15:55:07 | 日記

芋穴所[いもあなど]のマルカシ

11月10日、所属会の「おはようハイキング」は、藤枝・高根山へ出かける。生憎の天気と思いきや、昼前の解散時までもってくれて、山頂ではそこそこの展望も得られた。午前中の一時の山歩きが心地よい。

高根山頂からの眺望

高根山は東海自然歩道の本コースとなっているが、中学の時、同級生二人とここから家山までを歩いたのが、私が自分自身で計画した山歩きの最初だった。身成川の谷に出た後の8km余の林道歩きが長く疲れ、家山駅に着く頃はすっかり日暮れていたと覚えている。東海自然歩道の全区間完成が1974年、東京高尾の「明治の森」から大阪箕面の「明治の森」までを結び、つまりは「明治百年」の昂揚の一環だった側面もあるだろう。それから50年が経って「昭和百年」はもう間近のこととなった。

高根山中腹には、1188年、加賀白山より勧請された高根白山神社が鎮座する。

*  *  *

【2019年7月記】

洋上から望む加賀白山

 誰がいつ決めたのかは知らないが、「日本三名山」は富士山、立山、白山を指す。ところが、これが「四名山」となると白山が抜けて木曽御嶽山、伯耆大山が加わるというのだからややこしい。いずれが“名山”であるかはさておいて、この五山の共通点は、いずれも古くから山岳信仰の対象の霊山ということだ。そうした霊山は、里からはっきりと見上げられる独立峰であることが多い。加賀、美濃、越前の三国境に位置する白山も、平野部や日本海からその姿を仰ぎ見ることができる。山頂部は一年の半分以上を雪で覆われ、まさに〝白き山〟の姿となる白山への信仰がいつ頃始まったのかは定かでないが、農のための水の源の神として、また海上交通の目印として航海と漁労の守護神でもあったのだろう。白山信仰の広がりを示すものに全国の白山神社の分布がある。大正年間の神社明細帳によれば42都府県にまたがって2716社があるとされ、白山の隣接地を中心にして東国へと広がっている。また、加賀白山は奈良、京都など古代の政治や仏教界の中心地域に近く、その存在は「越のしらやま」として早くから知られていたことから、単なる土着的な信仰対象ではなく、全国的規模(あるいは東アジア的な)の信仰対象となっていったと思われる。

 山岳信仰の発展とともに麓から眺め拝むだけではなく、御山に登り修行する人々が出てくるようになる。白山主峰群の一角、大汝峰[おおなんじみね](2684m)は、立山の大汝山と同様に阿弥陀如来が姿を変えて現れた、大己貴[おおなむち]権現(大国主)を祀る「おおなむち―おおなんじ」峰である。仏教の阿弥陀如来が出雲系の大己貴権現に姿を変えて出現するというのは、日本の神道と朝鮮渡来の仏教を習合させるための本地垂迹説で、養老元年(717)に泰澄[たいちょう]大師が白山に最初に登り開山したという伝説は、土着の信仰が中央仏教界の流行に組み込まれた時点と考えられる。白山そのものを祀る白山比咩[しらやまひめ]神社の存在から、昔は「はくさん」ではなく「しらやま」がその名であり、常に白雪をかぶった美しい山の姿から、白山神=白山姫が作り出されたのだろう。また、白山には朝鮮半島からの新羅[しらぎ]明神信仰(白の信仰)が入り込んでいる。古代の陶器窯跡と各地域の白山神社の位置が重なることは、白山信仰が朝鮮渡来の技術者と何らかの関わりがあると考えられる。日本海文化における海上交通路の目標としての白き山の価値も高かったはずだ。

 全国に広がった白山信仰の痕跡は、我が地でも見ることができる。上図はグーグルマップで検索した島田近隣の白山神社の分布で、意外と多くの社があることが分かる(図には載らないが、藤枝高根山も白山神社)。この内、一番の馴染みは何と言っても相賀にある高山白山神社だろう。『島田風土記 ふるさと大長伊久美』によれば「白山神社は、1191(建久二)年平安末期、石田氏が加賀国から勧請し、高山(標高566.7m)の中腹に高山権現社として永く奉祀してきたとされる。そして室町時代、応永年間(1394~1428)に加賀国(石川県)白山神社社僧が当山に移り住み、以後白山神(加賀白山比咩神社)を併せ祀り高山白山権現社と改称したと言伝えられている。」(2010年7月の当会のグループ山行「白山」には、現宮司のIK氏(kazさん夫君*故人)もゲストメンバーとして参加している。)また、浜岡、菊川、掛川などでは、塩の道(秋葉街道)沿いに白山神社が散在するのも、古来から続く北陸地方との交流が窺えて興味深い。(以下略)

(『やまびこ』No.267「白山信仰と越前禅定道」より)

 


安田の大椎

2024-10-19 11:23:52 | 日記

かねてから気になっていた粟ヶ岳北東中腹の安田(あんだ)にある巨樹を訪ねてみた。ムラの小さな神仏たちをその懐に抱えて悠然と立つ。

静岡県島田市金谷安田の大椎と呼ばれるスダジイの巨樹である。この木は、ムラのなかに張り出した土手状の小丘の上にあり、根まわり18.5メートル、樹高27メートル、枝張り東西26メートル、南北23メートルで、樹齢は1000年と推定され、静岡県の天然記念物に指定されている。木の南根方には瓦葺きの小祠があり、なかに山の神と秋葉社の木祠が納められている。本来、この椎の木が山の神の座であったことをうかがわせる。椎の根もとには、このほか西側に庚申塔・北側に稲荷社も祭られており、この椎の傘下にムラの神々が集まっていると言える。ムラ中の、椎の枝に蔽われた小丘は安田の聖地なのである。八俣の大蛇(やまたのおろち)のように八方の天空に枝を張りくねらせたこの椎の古木は、一樹ではあるがその巨大な風貌と機能からして一つの森をなしているとみることができよう。八月上旬の真昼、この椎の樹下に座して握り飯の弁当をゆっくりと食べた。その間、絶え間なく涼風が吹きぬけていった。目を閉じて仰臥すると急に周囲の山々の蟬の声が高くなったような気がした。しばらくしてかすかに目をあけると黒々とした椎の枝葉の重なりの隙間から青い空が見えた。はかり知れない歳月を経、風雪にたえ続けてきたこの椎の巨木に抱かれ、夏の強い光線から身を守られて樹蔭を吹きぬけてゆく風に身をまかせているとき、現代生活とは異なる時間単位を与えられたような気がした。ここには、荘子の「逍遥遊」の世界もある。「人を蘇生・再生させる」という意味で、巨樹の樹下は森と同じ力をもっている。

(野本寛一『生態と民俗』第一章「巨樹と神の森」より)

*  *  *

ところで[安田/あんだ]という地名だが、野本寛一氏の著作の中では[あだ]とルビが振られていることもある。『民俗地名語彙事典』(松永美吉・日本地名研究所編、ちくま学芸文庫)によれば

アダ ①オク(奥)に対する里がアダ ②日あたりのよい土地。

とされている。金谷安田の場所を見てみると、粟ヶ岳北東に位置し、東側が開けた菊川上流部の小さな谷であるから、「①オク(粟ヶ岳)に対する里 ②日あたりのよい土地」の語意を充たしていると思われるがどうだろうか。


チェーンソーマン

2024-08-18 16:11:22 | 日記

末の息子が来て伸び放題だったケヤキを伐ってくれた。
ついでに裏のザクロなどは根元から。チェーンソーで速い、速い!
さすがチェーンソーマン有難う!
年寄りは、枝片付けを手伝って朝から3時間くらい外にいたら、汗だくで疲れ果て熱中症寸前、ゆえに午後は昼寝。


天地耕作 初源への道行き

2024-06-27 13:57:42 | 日記

 

左/何やら巨大な鳥の巣のような(生?) 右/枝を積み重ねた塚・墓のような(死?)

2024年上半期で面白かったことのひとつ、2月12日、静岡県立美術館とその裏山で天地耕作(あまつちこうさく)を観た。観るというより民俗学的に体験したということか。24日には村上誠氏と赤坂憲雄氏との対談「円環が産まれ、壊れるとき」聴講にも再訪したのだった。

天地耕作は旧引佐郡出身の村上誠、渡兄弟と山本裕司によって1980年代から2003年まで続けられた、同地域を主な舞台としたアート活動。その場の立木や斜面の傾斜、水の流れなどをそのまま取り入れた作品は、〝縄文〟のようなエネルギーに充ちていた。「彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマに迫りました。」(同展チラシ)。フィールドワーク=這って歩き廻ることから生まれてくるもの、見えてくるものは、山でも何でも面白いものなのだろう。

美術|村上誠HP

野外展示の会場MAP、此処は古代の埋葬の場所でもあったのだ


伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

2024-06-19 14:28:10 | 日記

前記事の参考資料です。

旧下田街道

■旧天城街道を開削――板垣仙蔵(いたがき・せんぞう)

 豆州梨本村(現河津町梨本)に生まれた板垣仙蔵は、旧天城(下田)街道を開削した。生年は不詳。家は代々名主を務めた家柄で、屋号は新家[にいえ]と言う。
 名主当時(1810年前後)、田方郡と賀茂郡を隔てる天城連山は、昔から南北の交通を妨げてきた。江戸時代になると河津梨本の宗太郎から沢を登って中間業[ちゅうけんぎょう]峠を越え、湯ケ島の大川端へ下っていたらしい。仙蔵は新しい道を造ることを思い立ち、韮山代官・江川英毅(坦庵の父)に願い出た。韮山代官の許可は下りたが、補助金は一切出なかった。
 仙蔵が計画した新道は、宗太郎から中間業峠へ抜ける道よりもう一つ西側の沢に沿い、二本杉峠を越えて湯ケ島の大川端に通じるというものである。最短コースだが橋を架けたり、岩石を砕かなければならない箇所が多い難工事で、莫大な費用が見込まれた。
 仙蔵は近在の村々の名主にも訴え、応分の資金を援助してもらったが、それだけでは足りない。この道を利用した近郷の村々が援助したことも記されている。仙蔵は私財を投じ、自らもくわやもっこを担いで工事の先頭に立った。梨本村および近村の人々も手弁当で参加した。難工事だった二本杉峠の新道が開通したのは、1819(文政2)年である。以後、この道は伊豆の南北を幹線下田街道として多くの旅人が往来し、大いに助かった。
 安政年間(1854~59年)下田で黒船騒ぎが起こった時代には、江川坦庵、吉田松陰、ハリスらが1857(安政4)年10月8日、慈眼院を出発し、通訳のヒュースケン青年を含め350人の行列を組んで峠を越えた。
 1905(明治38)年、天城トンネル経由の新道が開通したが、歩いて天城峠を越えた86年間、現在は「天城の旧道」と呼ばれている「二本杉歩道」は活躍した。梨本の住民であった仙蔵の功績は図り知れない。
 仙蔵の生家は、川合野のほぼ中央部にあり、豆州梨本宿の本陣を務めた大家「稲葉家」と隣接していた。代々名主を務める素封家であった。途中養子を迎えたが財産を売り払い絶家した。1884(同17)年、生家も売り払った。
 仙蔵は1835(天保6)年8月26日没す。墓は梨本の慈眼院にあり、墓のみが物語を残している。戒名は「道嵪峻作居士」。当時の住職が仙蔵の偉業をそのまま諡号[しごう]にしたものだ。道嵪とは山中の険しい道、峻は山の高峻なことで、その仕事の出来栄えや功績の高く優れたことをも知らしめたものであろう。まことにふさわしい立派なものである。
 仙蔵の妻「とき」は後妻のようで、韮山反射炉の工事日誌にしばしば名が出て来る板垣助四郎の娘である。仙蔵とはひどく離れた妻であったようである。87歳で没。
 筆者が居住している家は、建ててから200年以上たっている「にいえ」の本宅である。仙蔵、助四郎、鉄砲(筆者の屋号)と、何か因縁めいたものを感ずる。

(河津町・稲葉修三郎/「伊豆新聞」2014年6月23日)

二本杉歩道概念図

■天城峠の変遷

 伊豆は長い間、天城連山によって南北に分断されていました。天城越えの陸路の建設は、時代毎の命題でありましたが、道路づくりは急峻な地形にはねのけられ、困難を極めました。このため、道は切り立った崖の上、岩を刻んだ階段等にもつくられ、天城越えで尊い命を捨てた人も少なくありません。一方、「天城」という地名は「雨」に由来しているとも言われています。地形的に雨量が多く、自然災害を受けやすい天城山岳地域の街道は、峠の場所そのものにとっても、変遷を重ねざるを得ない状況だったと言えます。

  • 新山峠:室町期以前の峠です
  • 古 峠:室町期から寛政時代にかけての峠です。
  • 中間業 (ちゅうけんぎょう):寛政時代から文政2年にかけての峠です。
  • 二本杉峠:文政2年(1820)以後の峠です。幕末、下田にアメリカ領事館がおかれていたころは、江戸の幕府と領事館を結び、外交使節団が往来しました。まさに「日本開国の道」です。しかし、下田から三島へ通じていたとは言うものの、途中の天城路は難所中の難所でした。このほか、江戸後期の天城越えに登場する人物は、老中松平定信、タウンゼントハリス、吉田松陰、唐人お吉など、この峠をよく利用したと言われています。
  • 天城峠(旧トンネル):峠、トンネルとも数多くの文学作品の舞台となっています。ノーベル賞を受賞した川端康成の代表作「伊豆の踊子」は、天城峠が始まりです。この名作にあこがれて、この地を訪れる人々もたえません。明治38年に開通した天城トンネルは当時のまま、実に周辺の四季の彩りにマッチする天城のシンボルです。

(『天城湯ヶ島郷土研究』より)