山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

山を彫る(番外編)荒川岳

2024-11-13 11:57:03 | 山を彫る

加齢に伴い南アルプスは遠のいていった。でも、もう一度赤石岳に登ってみたい。想いが実現するチャンスが巡ってきた。Yonツアーで千枚、荒川、赤石縦走をするという。しかも、長い、長い千枚道を駒鳥池下まで車で入ってくれるというのだ。願ってもないチャンスに気を良くして同期入社のOtu君を誘ってメンバーに加えてもらった。ところが、予定日前に台風が接近し計画は、お流れに。台風一過、9/8からやり直しとなった。ただ、千枚林道は土砂崩れで通行不可。東尾根を登り赤石から千枚へと逆コースに変更された。下る頃には千枚林道の土砂は撤去される見通し。厳しい上りの東尾根を思い浮かべ一刻ひるんだが、このチャンスを逃せば後は無い。やっぱり行こう。
想定通り東尾根の登りは厳しかった。「赤いカラビナ」の会が主体となっているが、我々を含め寄せ集め軍団の感は免れず、統制も取れていなかった。ここを登るのは甥が赤石小屋(旧)の小屋番をしていた時、陣中見舞いに訪れた以来だ。彼が大学2,3年生の時だから35,6年前になる。何もかもいっぱい、いっぱいで17:50小屋着。へ~、これが建て直した小屋か、20ん年も経っているとは思えないほど立派できれいだ。明日の登りのことも忘れて飲み過ぎた。
2日目、富士見平では、これから縦走する荒川岳方面が見えていたが北沢源流からの登りから霧発生。稜線への登りも、やっと到達した鞍部も、さらに赤石岳までも眺望無し。山頂下の避難小屋では、Enoさんとパートナーが迎えてくれた。狭い小屋で暖をとりながら昼食、濡れた着衣をある程度乾かして出発。大聖寺平辺りで、ようやく晴れてきた。
荒川小屋では、富士山の夕焼けを眺めながら2次会、朝焼けに背中を押されて小屋を後にした。
ここからの登りも厳しいが、好天とお花畑に励まされ高度を稼いだ。中岳を通過、悪沢岳の手前で振り返って眺めた中岳が素晴らしかった。これは形として残したい。南アルプス全部を堪能しつつ千枚小屋着。縦走最後の夜とあって、またまた痛飲。最終日、駒鳥池までは指呼の間。お約束通り車で千枚道を駆け下り椹島に到着。白樺荘で温泉に浸かるサービスも受けて懸案の山行を終えた。

荒川中岳山頂に立つIK(右)と友人のOtu

山行の後、山陰への旅の準備が始まり暫く手につかなかった。年明けから原画作りを始める。A4に中岳をプリント、縦方向に1.15倍して高さを強調した。画の上に縦横の線を等間隔に引き格子を作る。f8号の紙には拡大した格子を描き桝毎の線を写していく。大きさは自室に飾れる最大サイズを考慮してf8に決めた。登山道がそれとなく判るように刻んだ。手前に小さくリンドウを入れて洒落たつもりだったが先生は歯牙にもかけなかった。摺りの段階で、手前の岩塊を何色か試した。最終的に黒っぽい色にして安定感が出るようにした。先生から山頂に朱を差すように言われ「えっ」と思ったが、やってみると、ご指摘通り浮き上がってきた、さすが。結果、自分でも気にいった作品となった。

追記
画を中岳避難小屋に掲げていただきたいと密かに想い続けていた。’23夏、会友のMasさんが赤石小屋のスタッフとして入山すると聞き、この画を託した。小屋の壁に掲げられた報告を拝見し、嫁ぎ先は変わったけれど想いが叶い嬉しい。

赤石小屋の壁に掲げられた版画

(2024年11月、IK記)

*  *  *

『山を彫る』シリーズのブログ掲載に気を良くしたIKさんが、続編を寄せてくれた。この「荒川岳」は、会20周年記念の栞表紙に使ってもいて外せない一枚だと思っていたから嬉しいことだった。
IKさんの赤石〜荒川三山縦走がいつだったのか、会報のバックナンバーを捜してみるとNo.175(2011年10月)に「南ア登り納めでも悔い無し」と題した短文の報告があった。今まで掲載の画と違って、この山行には同行していない。それに私が千枚岳〜荒川岳の稜線を歩いたのは1999年、それもガスの中のことで、画のような荒川中岳の姿は記憶に無いが、ふとMasさんが去年の赤石小屋出稼ぎの帰りの駄賃でこのコースを歩いていると思い出した。

荒川中岳(2023.9.26、Mas撮影)

なるほど、合点した。IKさんが記しているように、画はそのMasさんの手によって赤石小屋に掲げられた。三山縦走で小屋を訪れることがあったら、ぜひ、自分の目で見てきた荒川岳と画を見比べてみてほしい。


山を彫る(9)山小屋の主

2024-10-31 08:44:28 | 山を彫る

 初めての沢登りだった。着るものや、履くものが判らなかったので、聞き込みをして、それなりの準備をした。足回りは、この日のために地下足袋を購入、ザックは古くから持っていて、なかなかへこたれないデイバッグの底に穴を開け、水浸しになっても排水できるようにした。着替え他の装備は、それぞれビニール袋に入れて防水を図った。興津川の上流、田代峠への上り口に車をデポ、Ahさんの案内で、いよいよ沢に入る。早々に滝に出会った。手近にあった丸太を淵に渡し、危なっかしい足取りで一同通過。第2の滝は強烈だった。足が底に着かないほど深い淵を右から回りこみ、先行した青島さんがフィックスしてくれたザイルを頼りに、本流に足を取られながら体を引き上げた。8月末の山行で、相当暑いと思いきや、二つ、三つの滝を上がっただけで寒くなってきた。着衣が沢歩きに適していないことを思い知った。メンバー全員が沢初体験で難儀していることは、Ahさんには直ぐ判ったのだろう。早い時点で切り上げて、沢を離れ、登山道に出て、車のデポ地点に戻った。
 その日は、ヒュッテ「樽」に泊めていただいた。水汲み、薪運び、飯炊きを分担して、夕食の仕度が忙しい。囲炉裏の薪が、なかなか燃えないので小屋中煙が充満し、目に沁みる。既に飲っている好き者もちらほら。薪が充分燃え盛ったところで火を殺し、得られたオキで、いよいよメインディッシュ作りが始まった。Ahさんが予め馴染みの店で仕入れてくれてあった豚肉の塊を鉈で切っていく。囲炉裏越しに、煙の中で撮った一枚が後で役に立った。
 6号スケッチブックに原画を描いたところで先生から指摘されたのは、体の寸法のことである。手は、広げると、ほぼ顔をカバーする。また手は、顔より手前に来ているのでもっと大きくすること、手足の長さも他の部位と比較して、バランスをとっていくことを教えられた。
 そそくさと彫り、摺りあげた画は、自分でも納得できるものではなかったが、先生の眼も厳しかった。手がまだ小さい。頭の輪郭線は要らない。彫りすぎて画面全体が白っぽくなっていて軽い。などなど。
 アドバイスを元に、彫り、摺り直し。どうしても輪郭を彫ってしまうんだよなー。後壁の描き方や、脇の器も工夫を要することも言われた。3回目は、器を樽とし、後に背負子を付け加えた。ようやく仰ることが判るようになったので、4回目にチャレンジした。こうして完成したのが、この画である。モノトクロで題材も地味ですから決して見栄えのする画ではないが、版画を続けて行くうえで様々な収穫があり、大切な1枚となった。木版画と言えば文字通り木版に、見たこと、思っていることを彫って表現するが、いかに彫らずに済ますか、線を少なくして見る人の想像をかきたてるようにするかを学んだ。体の寸法についての基本的なことも知った。4回もやり直したことで、諦めずにやれば、何とかなることも体得でき、私の記念碑的な作品になっている。

【エピローグ】

1.画は完成し、市民文化祭や、勤めていた会社のOB作品展に出品したが、私の心中では、この画は、まだ完結していない。ヒュッテ「樽」に掲げさせてもらい、完結できる機会があれば嬉しい。
2.1年半、9回に亘っての投稿も今回で、終了します。きり良く10回まで続けるつもりでしたが以下の理由もあり、お終いです。
3.9/2~5までO先生門下生の作品展が開催されます。プラザ「おおるり」1階ホールは随分広く感じて、当初は10点揃えて出品しなければ壁が埋まらないように思えましたが、門下生が多く、たくさんの出品が見込まれてきましたので、これ以上頑張らないことにしました。
4.上記に併せて、版が残っているものを、擦り直してみようと思います。今まで掲載した中で、ご所望の作があれば、贈呈しますので、ご連絡ください。画だけなら無料です。額共の方は、申し訳ありませんが材料費2千円と、暫くの猶予をいただきたくお願いします。
 長らくのお付き合い、ありがとうございました。 〔完〕

(2010年8月、IK記)

*  *  *

鉈で肉を切り分けるAh氏

興津川支流の中河内最奥・樽の登山口からワンピッチ、沢を外れ右の尾根の乗越しが南に開けたわずかな平となった所に、小さな青い山小屋が佇んでいる。戸を開けると、燻った山小屋特有の匂いが漂ってきて、何とも言えず嬉しくなってくる。ヒュッテ樽は30年程前、若かりしAh氏が仲間の皆さんと共に手作りで建てた小屋である。管理、補修をしっかりされているせいだろう、歳月と共に深まったいく渋みはあっても、不具合なところは何もない。元小学校の廃材を利用したと伺っている小屋は、なるほど壁の羽目や窓などに古い木造校舎の雰囲気が感じられるし、木の机、小さな椅子なども隅にあってなおさら愛らしい気になる。南の開けた側にはテラスがあって、風を感じながら移りゆく山裾を眺められる。カップなどを傍らに置いて、うつらうつら想いを巡らすのも良さそうだ。(2005年1月『やまびこ』No.94)

山小屋の主Ah氏は当時、県岳連の遭対委員長で、2003年静岡国体山岳競技救護部の慰労会にIKさんのお供をしたのが、この小さなヒュッテに泊まった最初だった。
2005年8月、Ah氏に誘われIKさんほか仲間6人で興津川源流の沢登りに出かけた。

興津川源流部を滝を越えて遡る

――SHCの皆様、8月27日は私の好きな興津川源流へ足を運んでくれてありがとうございました。盛夏を過ぎ少し水が冷たくなる季節でしたが、皆様と一緒が冷たさを忘れさせました。台風後で若干水量がありましたが、かえってそれが水垢などを取り去り歩き良くしたと思っています。一年を通して源流を歩く人は、一部の釣人を除いて十人もないと思います。もう少し季節が早ければ岩タバコの花盛り、濃いみどりの葉の上に紫色の宝石が散りばめられ、目を細めます。時期の遅れた今回は、皆様との会話や協力して行動したことが其の代りとなり、良い思い出となりました。IK代表、Thさんは元より、Nhさん、Ak夫妻、Ohさんと旧知の如く会話が弾んだこともうれしかったです。(中略)夜のヒュッテは言う事なし、正に行った者の勝ち、来た者の勝ちの世界でした。(Ah氏の返信)

囲炉裏を囲んで最高の夜

あれからさらに20年も経って、ヒュッテは半世紀も小峠に建っていることになる。小屋の主・Ah氏は「元気なのは口だけ」と言いながらも、時々山頂から「Thさん、今○○山!」と電話をくださり、「行った者勝ち」という氏の人生のモットーを貫いている。画を見ていると、あの時の燻った匂いまでも思い出し、またヒュッテに泊まりたくなってきた。


山を彫る(8)八島湿原

2024-10-27 17:49:00 | 山を彫る

 霧ヶ峰、ここは私にとって不愉快な、というほどではないが愉快ではない思い出のある場所だった。昭和34年、日本楽器(現ヤマハ)に入社、設計課に配属された。当然18才の私らが最年少なのだが、ほとんどが20才周辺の若者で、当時流行っていた青年活動も盛んに行われていた。
 ようやく職場に慣れてきた8月盆休に、白樺湖へキャンプに行くことになった。入社後半年も経っていない身では、登山用具などあるはずもなく、リュックザックは親戚から借りて間に合わせた。靴も、スニーカーに毛の生えた程度のものを使うしか思い至らなかった。生憎、山行の直前に台風が襲来し、少なからぬ被害が出た。中央線が不通になり、なんとか列車が動いていた飯田線を利用して長野に向かった。飯田線を全線乗った人は少ないと思うが、とにかく長い。距離的には短いのだが、スピードが遅く、豊橋から辰野までの所要時間が長いのだ。間もなく座ることができるようになったが、難儀していた子連れをみて席を譲った。それから辰野まで何時間かかったのだろう、立ちっぱなしで通した。もとよりローカル線のこと、客の乗降が結構あり、空席もでたのだが、意固地になって立っていた。山のことは、ほとんど忘れたが、飯田線を立ちっぱなしで居たことだけは、記憶に強く残る。
 二つ目は、春休みに女神湖に行った、いや、行こうとしたことである。子供の春休みに合わせて、女神湖畔にあった会社の契約保養所を予約した。家族5人がブルーバードに乗り、当時は有料の精進湖道路を通って、一路女神湖を目指す。中央道に入ると降雪に見舞われた。雪は次第にひどくなり、とうとう長坂ICで閉鎖により先へ進めなくなってしまった。ICを降りて公衆電話で蓼科荘にキャンセルを伝えたが、宿の周りは雪が深く、車を乗り入れることが困難になっているとのことで、了解してくれた。宿泊を楽しみにしていた子供をなだめるのに苦労したが、その日の夜遅く家に戻った。
 二つの愉快でない出来事のせいではないだろうが、霧ヶ峰からは、なんとなく足が遠のいていた。
 '05/6ようやく機が熟し、霧ヶ峰に行けることになった。本番は、欠席になることが判っていたので、下見に参加した。この山の周辺は、昔からスキー、スケートのゲレンデとして開発が繰り返されていたため、山登りは我々レベルでも容易だった。私にとって日本百名山の26座目となった車山を越えて八島湿原に向かう。Nhさんと私は車山湿原を迂回し、車の回送のため八島湿原入口に先回りした。軽装の観光客を後にして、木道を進んだところで目を見張った。湿原全体が見渡せ、その超明るい景観に歓声を挙げてしまった。過去の苦い思い出を吹き飛ばすのに、充分な展開だった。湿原の中央に雪山がチョコンと出ているところが特に面白い。これは画になると、直感し写真を撮った、が‥‥。
 版画にするには、画が複雑すぎた。デフォルメする才を持ち合わせないこともあり、表したかったのは原っぱなのか、雪山か、散在する樹木か、焦点がボケてしまった。でも、この明るい景色には、また会いに行きたい。
「蛇足」:本番の日、「望月青年の家」で伝説の「油虫踊り」に参加できなかったことは、今も悔やまれる。
(2010年6月、IK記)

*  *  *

八島ヶ原湿原

車山のニッコウキスゲ

望月少年自然の家でのキャンプファイヤー

【2024年10月記】

この画の元になった2005年6月の蓼科山・霧ヶ峰の下見には、いつものごとく私も同行しているのだが、この時の写真は見つけることができなかった。代わりに「蛇足」でIKさんが触れている本番(2005年7月)の写真を上げてみた。こんな感想を残していた。

「今回は特にSHCらしい雰囲気の良い山行だった、と私は感じました。それは、蓼科山に登った、ニッコウキスゲを見たということだけでなく、SHCとしての一体感、会員同士の親近感を一層増すことができたからでした。これは何と言っても、キャンプファイヤーを演出してくれたOh君の手柄によるところ大でした。山はもちろん素晴しく、感動も多い。それに併せて、山を通じ人と触れ合い交感できることが、なお喜びを倍加させると思うのです。私はこの世でたった一人であるとすれば、おそらく山に登ることはないと思っています。」(2005年8月、会報『やまびこ』No.101)

本年9月、会山行で再び望月少年自然の家に泊った(本ブログ『事始めとなった八ヶ岳』)が、あの時の殊勲者Ohは既に鬼籍に入り、幻の「油虫」が再現されることはもちろん無かった。IKさんの「八島湿原」(八島ヶ原湿原)の画の明るさは、会のまだ青年期だった頃の活力に満ちた心持ちを映しているようにも感じた。

事始めとなった八ヶ岳 - 山の雑記帳

西天狗岳より東天狗岳を望む2024年9月28日/唐沢鉱泉〜西天狗岳9月の会定例山行は、望月少年自然の家に宿泊し初秋の北八ヶ岳を楽しむ。天気は当初の雨天予報が良い方向に転...

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山を彫る(7)鳥海山々頂への道

2024-10-25 16:35:50 | 山を彫る

 ようやくたどり着いた御室小屋の脇、建物を風雨から護る石垣の傍らにザックを置き、これから山頂を往復する。岩場では、ストックは邪魔になるから持たないようにと指示があった。杖に頼ることが多くなっている私には不満だったが、言葉に従うことにした。トップを行くThさんは、奥さんの出身が山形県温海町であるということもあって、何回も登っていると聞いていた。足場が悪いので自信の無い人は見合わせるようにとの呼びかけがありAkさんが手を挙げ待機を宣言する。いよいよ山頂を目指して出発。直ぐに、大きな岩塊をへばりついて上り始めたところでMtさんがリタイヤ。道はますます険しくなっていく。Thさんは、当時小学生だったお子様を連れて登ったとも言っていたが、この道については何も語っていない。子供でも登れるんだからと、油断していた部分もある。正直これほど険しいとは、思いもよらなかった。上を目指している筈なのに、今度は岩の間に下っていく。それも段々狭くなる暗い谷間へ。足元に注意しながら片手で先行する仲間の後ろ姿を撮った。谷間の底から再び岩を伝わって上り始める。直ぐに停滞。どうやら先がつかえているらしい。岩の向こうを下る人があり、右上の方では、はしゃぐ声がする。間もなく行列が動き始め、ひと上りで山頂に着いた。なるほど新山の頂上は狭い。2班7人と代表が座れば一杯の広さしかない。ファイトを称え、万歳三唱してから記念写真を撮り、下りも上り同様岩ゴツゴツの道を慎重に下り、デポ地点に戻った。

岩の隙間を抜けて新山山頂へと向かう

岩の積み重なる新山ドームの山頂

 このときの様子を彫ったのが「鳥海山々頂への道」である。岩の谷間へ下っていく様子と、前方岩の間に光が射していて、未来が明るいことに通じているような光景を描きたかったが、後者は止められた。画の全体としての方向の先を白っぽくすると、抜けてしまうのだそうだ。市民文化祭に出品することを意識して私が彫れる限界の10号にしたが、この大きさだと彫りはともかく、摺りの段階で全体にむら無く絵の具を載せることは、なかなかエネルギーの要る作業だった。最近は、いかに彫らないようにするか腐心してきたのに、彫りだすと全体が見えにくくなり、今回も岩の線を彫りすぎ煩雑になってしまったことは、反省。もうひとつ、木田安彦に見る“カスレ”をどうすれば表現できるか研究してきたが平刀を使えば良いことが解ったのは、収穫。岩の表面に一部採用した。この構図が気に入ったので、葉書サイズに画を起こし直し、'10年の賀状として投函した。SHC会員の何人かに、届いていると思います。葉書では、岩の谷間右上のインクを薄くした。この方が狙った通りになったし、作品としても、まとまっていると感じている。
(2010年4月、IK記)

遊佐方面を見下ろす

千蛇谷雪渓を登る

登ってきた千蛇谷を振返る

八丁坂のお花畑

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【2024年10月記】

Ko(甥・中3)Yu(長男・小4)Sho(次男・小1)

2009年8月の合宿山行は、出羽の名峰 鳥海山・月山へと遠征した。IKさんが書いているとおり妻の実家が庄内で、帰省の駄賃に子どもを連れて山に登ったものだった。最初の鳥海山は1997年夏、「恒例としている帰省山形山行は8月16〜17日と鳥海山に行った。“その山では雪で遊べるか、岩に登れるか”これがSho(次男・小1)の出した条件であったが、山形の山は冬の豪雪のおかげで、真夏でも雪渓が残る。若い火山である鳥海山の新山ドームは積み重なった岩が天を突くという。これで決まりである。」ローカリスト(?)の私にとっては、地元の南アルプス以外に通った数少ない山域が飯豊、朝日両連峰と庄内の山々だった。

 本年度の夏山合宿「鳥海山・月山」が無事に終り、担当として安堵しています。今年の東北地方は夏が無かったと言える程不順な気候で、当初この山行も雨が心配されましたが、幸いにも好天を当てることができました。また、数度の山行で私も見たことのない真っ盛りの花々に迎えられました。これが第一の成功のポイントでした。
 道中の長さゆえ、本番の体調を維持するのに苦労された方も見受けられましたが、鳥海山は全員で10時間に及ぶ行程を歩き通すことができました(2名は新山山頂には立てませんでしたが)。皆さんの日頃の鍛錬の成果でしょう。花を見る時の、雪渓を渡る時の皆さんの喜々とした(中にはちょっぴり不安げな)顔も忘れられません。下山口でスイカ、メロンの用意をして待っていてくれたS鉄小型バスのK、S両運転手の心遣いにも感激しました。
(会報『やまびこ』No.151、2009年10月)

参加された故Akさんは「振り向けば日本海、前方は雄大秀麗な山並み、点在する大雪渓、広く長く続く高山植物のお花畑。鳥海山は感動的な交響詩のような山でした。」と感想を述べられたが、私にとっても会心の合宿山行の一つだった。


山を彫る(6)房小山

2024-10-23 09:13:36 | 山を彫る

 会報150記念号アンケートに、好きな山を挙げよという項目があった。迷わず「房小山」と書いた。好きな理由はいくつかあるが、まず、佇まいが良いことを挙げたい。鋸岳直下、樹間から眺めて良し、いくつかの沢を隔てて、静かに座っているところが好ましい。帰りのことを考えるとかいだるいが、急降下してガレの頭を過ぎてから北上する稜線が良い。笹原の中を緩やかに上下する道は、私の最も好む雰囲気である。この稜線には白やしおがたくさんあり、花の当り年にここを通れば顔が火照る程であろう。Saさん(千頭山の会)によれば、私の太腿くらいの木でも樹齢300年は経っていようという代物が並んでいる。一旦、巻き道に入った辺りは、眺めもなく、時々急坂が現れるので気分的にも体力的にもきついが、我慢、我慢。そこを抜ければ笹原が山頂まで続く超明るい道が開ける。山頂までは1時間かかるが、もう大丈夫だ。笹の中に埋もれた木の根っこや石に注意しながら、あっち見、こっち見して歩を進める。天気が良ければ、これ以上の幸せは無い。
 房小山のことを初めて教えてくれたのは、千頭のEnさんである。'98年、御殿場山岳会に富士山の茸狩りに招待された。同席していたEnさんが、酔うほどに「房小山はええぞー、房小山はええぞー」と言っていたのが気になり、行ってみたいなーと思った。チャンスは意外と早く訪れた。'99年県スポーツ祭の折、SHCは島田しらびそ山の会と共にBコース(高校生)を受け持ったが、隊付きのスタッフも多かったため急遽Aコースの房小山に連れて行ってもらうことになった。この時は、千石沢登山口まで川根町のマイクロバスが乗り入れてくれたので、行き帰りの2時間余りを歩くことなく随分楽に行ってこれた。一度で好きになってしまったこの山へ2000年に、なんと3度行く破目になる。4月にAEさん、MKさん、YTさんと、5月には私のDIYの師匠、Osさんと、さらに11月には山の師匠2人を案内した。いずれの山行でも、常の山行にはないエピソードが伴ったことも、この山を忘れられないものにしている。

笹原に続く道(2008年10月・大川連親睦山行)

 久し振りに、今度は県岳連大井川地区の方々と親睦のための登山をした。例によって、山犬段の小屋で大宴会をやった翌日の山登りはつらいものがあるが自業自得ではある。この日も秋の好天日で、私にとっては堪らない場面であった。残念ながら山頂には届かなかったが十二分に楽しんだ。この時の印象を版画にした。笹原の中に点在する、色付き始めた広葉樹と常緑の針葉樹の対比が面白く、そこにまた立ち枯れの白木が絡む様を画にする作業は、手間がかかったけれど楽しいものだった。彫刻刀の使い方を工夫して針葉樹を100本余彫ったのに、摺りの段階で思ったほど表現されていないのには、ガックリきた。紙を変えたり、絵の具の濃度をあれこれしてみても効果が上がらず弱っていたところ、ちょうど我が家を訪ねてくれたYoさんに相談したら、言下にバレンが悪いと指摘された。バレンを借りて再度摺ってみたら、考えていたものに近い仕上りになった。後刻Yoさんを通じて3,900円也のバレンを購入し、それ以来重宝して使っている。大好きな山を画にすることができたし、版画を続けていく上でも収穫の多い作品となった。
(2010年2月、IK記)

この辺りは恰好の鹿の遊び場

【2024年10月記】

房小山は寸又峡を基点に馬蹄形に連なる大間川(寸又川支流)流域尾根の西奥にあたり、山犬段辺りの南赤石林道から望めば鋭峰・黒法師岳から南に続く平らな尾根にイボのように隆起した小さなピークだ。私が初めて訪れたのは、IKさんの5ヶ月前の1999年6月初頭で、県スポ祭のコース下見として千頭Enさんの先導だった。

房小山(1999年6月)

(前略)千石平を通り鋸山へ。樹林の中のあまりはっきりしないピークだ。担いできた千頭山の会の道標を設置。ここから先、いよいよヤブこぎが始まるということでTシャツから長袖に着替え、軍手をはめる。房小山まで三回ほどの深いヤブ。体が完全に隠れ、すぐ前を行く人も見えないほどの笹だが、下はしっかりと踏み跡がついており、思っていたほど歩きにくくはなかった。また要所に赤ペンキでマークを付けたので、道は以前よりはっきりしたと思う。六回ほど小ピークの登降を繰り返す。道はほぼ稜線上を進む。白ヤシオの群生があり、見事な花をつけていた。二重山稜になった地点に着くと右先にポコリと房小山が見えた。右に曲がりあちこちに鹿のフンの落ちているなだらかな斜面を登ると頂上に着いた。スッキリとした明るく感じの良い山頂だ。蕎麦粒山から大札山へと続く尾根、また板取山から沢口山へと続く尾根が望まれた。ここから先、バラ谷山から黒法師へと続く稜線はさらにヤブも深い道なのだろうが、いつか歩いてみたいと思う。
(1999年6月『やまびこ』28号より)

房小山が一般ルート化したのはこの県スポ祭がきっかけで、Enさんをはじめとする千頭山の会の尽力のおかげだった。Enさんは後に赤石頂上小屋の名物小屋番になった。私にとっては、房小山は南アルプス深南部への道筋を拓いてくれたものだった。この山の先を踏んで黒法師岳を目指したのは2年後の秋だった。