加齢に伴い南アルプスは遠のいていった。でも、もう一度赤石岳に登ってみたい。想いが実現するチャンスが巡ってきた。Yonツアーで千枚、荒川、赤石縦走をするという。しかも、長い、長い千枚道を駒鳥池下まで車で入ってくれるというのだ。願ってもないチャンスに気を良くして同期入社のOtu君を誘ってメンバーに加えてもらった。ところが、予定日前に台風が接近し計画は、お流れに。台風一過、9/8からやり直しとなった。ただ、千枚林道は土砂崩れで通行不可。東尾根を登り赤石から千枚へと逆コースに変更された。下る頃には千枚林道の土砂は撤去される見通し。厳しい上りの東尾根を思い浮かべ一刻ひるんだが、このチャンスを逃せば後は無い。やっぱり行こう。
想定通り東尾根の登りは厳しかった。「赤いカラビナ」の会が主体となっているが、我々を含め寄せ集め軍団の感は免れず、統制も取れていなかった。ここを登るのは甥が赤石小屋(旧)の小屋番をしていた時、陣中見舞いに訪れた以来だ。彼が大学2,3年生の時だから35,6年前になる。何もかもいっぱい、いっぱいで17:50小屋着。へ~、これが建て直した小屋か、20ん年も経っているとは思えないほど立派できれいだ。明日の登りのことも忘れて飲み過ぎた。
2日目、富士見平では、これから縦走する荒川岳方面が見えていたが北沢源流からの登りから霧発生。稜線への登りも、やっと到達した鞍部も、さらに赤石岳までも眺望無し。山頂下の避難小屋では、Enoさんとパートナーが迎えてくれた。狭い小屋で暖をとりながら昼食、濡れた着衣をある程度乾かして出発。大聖寺平辺りで、ようやく晴れてきた。
荒川小屋では、富士山の夕焼けを眺めながら2次会、朝焼けに背中を押されて小屋を後にした。
ここからの登りも厳しいが、好天とお花畑に励まされ高度を稼いだ。中岳を通過、悪沢岳の手前で振り返って眺めた中岳が素晴らしかった。これは形として残したい。南アルプス全部を堪能しつつ千枚小屋着。縦走最後の夜とあって、またまた痛飲。最終日、駒鳥池までは指呼の間。お約束通り車で千枚道を駆け下り椹島に到着。白樺荘で温泉に浸かるサービスも受けて懸案の山行を終えた。
荒川中岳山頂に立つIK(右)と友人のOtu
山行の後、山陰への旅の準備が始まり暫く手につかなかった。年明けから原画作りを始める。A4に中岳をプリント、縦方向に1.15倍して高さを強調した。画の上に縦横の線を等間隔に引き格子を作る。f8号の紙には拡大した格子を描き桝毎の線を写していく。大きさは自室に飾れる最大サイズを考慮してf8に決めた。登山道がそれとなく判るように刻んだ。手前に小さくリンドウを入れて洒落たつもりだったが先生は歯牙にもかけなかった。摺りの段階で、手前の岩塊を何色か試した。最終的に黒っぽい色にして安定感が出るようにした。先生から山頂に朱を差すように言われ「えっ」と思ったが、やってみると、ご指摘通り浮き上がってきた、さすが。結果、自分でも気にいった作品となった。
追記
画を中岳避難小屋に掲げていただきたいと密かに想い続けていた。’23夏、会友のMasさんが赤石小屋のスタッフとして入山すると聞き、この画を託した。小屋の壁に掲げられた報告を拝見し、嫁ぎ先は変わったけれど想いが叶い嬉しい。
赤石小屋の壁に掲げられた版画
(2024年11月、IK記)
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『山を彫る』シリーズのブログ掲載に気を良くしたIKさんが、続編を寄せてくれた。この「荒川岳」は、会20周年記念の栞表紙に使ってもいて外せない一枚だと思っていたから嬉しいことだった。
IKさんの赤石〜荒川三山縦走がいつだったのか、会報のバックナンバーを捜してみるとNo.175(2011年10月)に「南ア登り納めでも悔い無し」と題した短文の報告があった。今まで掲載の画と違って、この山行には同行していない。それに私が千枚岳〜荒川岳の稜線を歩いたのは1999年、それもガスの中のことで、画のような荒川中岳の姿は記憶に無いが、ふとMasさんが去年の赤石小屋出稼ぎの帰りの駄賃でこのコースを歩いていると思い出した。
荒川中岳(2023.9.26、Mas撮影)
なるほど、合点した。IKさんが記しているように、画はそのMasさんの手によって赤石小屋に掲げられた。三山縦走で小屋を訪れることがあったら、ぜひ、自分の目で見てきた荒川岳と画を見比べてみてほしい。