山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

山を彫る(番外篇)乗鞍岳

2025-01-23 15:18:32 | 山を彫る

東海フォレストツアーとして乗鞍高原スノーシューハイキングの案内があった。友人夫妻と共に我々夫婦も申し込んだが‥‥。妻が帯状疱疹に罹り取り止めて、我が家は私だけの参加となる。ロッジ「ふもと」到着後は、早い時間から飲みながら談笑。上等な宿とは言えないが酔ってしまえば、なんていうことはない。
2日目、観光センターが起点。スノーシューを借り衣装を整えた。私は積雪期登山や高遠少年自然の家での経験から難なく支度できたが、中にはスノーシューは初めてと言う人もいて手間取った。目が届き易いようにA,B2班に分けられた。ガイドの後に続いて参加者が、えっちらおっちら歩を進める。スノーシューは大きくて足にまとわりつく。多少の上り下りでも、それなりのテクニックが要る。間もなく牛留池に到着。氷結した上に真っさらな雪、Yonさんの計らいで向う岸までのかけっこ、よーいドン。こけつまろびつ各人好きなところをドタバタ、ドタバタ。「ここで後ろを振り向きましょう」の合図に振り返ると‥‥、わーお、林の上に乗鞍岳が、素晴らしい!要所々々でガイドがあり楽しい。おっ、熊の食事処(熊棚)だ。楢の木の梢に枯れた枝が広がっている。あんなに高い細枝の所まで上れるのだ。熊に遭遇して木の上に逃げたとしても追いつかれてしまう。もっとも、この姿では木に上れそうにもない。小さなコブを上がったり下がったり進み一ノ瀬遊園地に到着。ここは、更に開けていて絶景の場所だ。弁当を食べながら良い時間を過ごした。この後急降下して善五郎の滝へ。氷瀑を登っているところを初めて見た。14時スタート地点に戻り道具を返却。乗鞍岳には不気味な雲が現れていた。天気が崩れる予兆とか、天気に恵まれスノーハイクを充分楽しむことができた。
乗鞍岳は姿が良い。一ノ瀬遊園地からの眺めを彫ることにした。先生から中景に樹林を置くようにアドバイスを受けた。美しい峰を、それなりに表現できたと思っている。
2018/7SHC夏山合宿で乗鞍岳に登った。乗鞍高原が眼下にあった。

追記
このツアーに一緒に参加したT夫妻とは長きに亘り旅行を共にした。7月乗鞍高原泊、シャトルバスで畳平へ、富士見岳下のコマクサ群を見てもらいたいと宿の予約をしたのに‥‥。奥様が病に罹り予約をキャンセル、10月亡くなられた。版画の師に続いて大切な友人を失い、とても悲しい。今になって乗鞍岳は様々な想いが重なる山となっている。

(2025年1月・IK記)

*  *  *

この画の素材となった乗鞍高原は、IK氏の個人的なツアー参加ゆえに、それがいつのことか、また元になった写真など全く分からないのだが、2012年3月、会の合宿山行で乗鞍岳西麓の乗鞍青少年交流の家に泊まった。丸黒山を目指してのスノーシューハイキングは、時間と天候の関係もあって3分の1ほどの行程で終わったが、フカフカの積雪の中のどこを歩いてもOKという自由な感覚は、初心者を混じえて楽しいものだった。

 昨年の高見山に続いて今回の冬期合宿にも大勢の方が参加され、企画した者として嬉しく思います。今回のテーマは、「スノーシューを使って雪の上に自分達のトレールを刻む」ということでした。交流の家備品のスノーシューはあまり上物ではなく、装着に手間取ったり、最初は足の運びに戸惑ったりしましたが、時間が経つにつれ、皆さん人の踏んでいない所をどんどんと進んで行きました。雪の上を自由に歩き回る愉しさを覚えたことが、皆さんの感想から伝わってきました。力にあった場所を選び、充分な用意をし、そして少しだけ大胆な気持を持って臨めば、雪の野山ほど心が解放される所はないと思います。
 帰りの時間や下り坂の天候のこともあり、目的地の半分くらいの地点で引き返しましたが、なだらかで静かなこの尾根は気持ち良く、冬のこんな遊びには最適のフィールドと感じました。ぜひとも機会を作ってあの続きを歩きたいものです。(『やまびこ』No.182)

この3月「あの続き」を歩けることになった。どんな景が待っているだろうか。


山を彫る(番外篇)会津駒ヶ岳

2025-01-10 15:16:12 | 山を彫る

会津駒ヶ岳1

駒ノ小屋が見えてきた、稜線まであとわずか

愛唱歌「夏の思い出」の中の一節に「はるかな尾瀬遠い空‥」とある。尾瀬が好きで何度か行っているうちに燧ケ岳、至仏山から見える会津駒ヶ岳が気になり始めた。地形図を見ると尾瀬よりも更にはるかな峰である。その地の様子も知らないままルートを考えた。桧枝岐から登るしか道はなさそうである。桧枝岐か、遠いなぁ。島田からのアクセスが悪い、長い。計画倒れのまま幾星霜。2012年チャンスが巡ってきた。SHC夏山合宿で会津駒ヶ岳を目指す。ここで問題発生、先に計画していた東北旅行と日が重なった。山行担当者にお願いして7/27桧枝岐の手前、会津線「会津高原尾瀬入口駅」で落ち合うようにさせてもらった。旅行は全体を1日前倒しに、車には旅行の支度と山の支度を用意した。7/27会津若松駅まで送ってもらい、しばしの別れ。独り会津線に乗車、呑み鉄のはしりであった。会津高原尾瀬入口駅で降車、SHCを待つ間にもうワンカップとソバの昼食。貸切バスに乗り8時間かけてやってきた会友と無事合流できた。その夜は七入山荘で早速宴会。

会津駒ヶ岳2

駒ノ大池の脇を通って山頂を目指す

7/28いよいよ会津駒ヶ岳に登る日が来た。広葉樹の中の急坂をひたすら登る。2ピッチ、1:40登った所に水場があり、しばし休憩。つわものは給水に行ったが私にはそんな余裕はない、あきらめた。ひと上り後、視界が開けてきた。いつしか周りは針葉樹に変わり駒ヶ岳も見えるようになってきた。ここまで来ればしめたもの、木々は矮小になり展望がどんどん広がる。10:45駒ノ小屋に到着、ここで早めの昼食。エネルギーを補給し、衣装を整え出発、山頂を目指す。この上り道も爽快だ。11:40はるかな峰であった会津駒ヶ岳にとうとう登ることができた。班毎に集合写真を撮り中門岳に向けて出発。計画書でこの名前を目にしたとき、聞いたことがない名称の山に首を傾げた。しかし、この道こそ永年求めていた楽園だった。ほとんど起伏のない広い尾根をゆったりと歩く。お花畑、中でもハクサンコザクラ、残雪、湿原、求めていたものが揃っていた。中門岳で山行の達成を祝い、来た道を引き返した。小屋付近でOさんが捻挫して下山は難儀したが、なんとか宿に戻ることができた。

会津駒ヶ岳ハガキ

 

会津駒ヶ岳山頂

さて、会津駒ヶ岳を彫るのは、なかなか手強い。山が大きくて画がまとまらない。考えた末、小屋下から下を見たところ(登ってきた道)を彫ることにした。木道に人ひとり、これは私だ。永年の夢が叶い達成感を反芻しながら下っている姿です。満足する出来映えではなかったためもう一枚挑戦。ちょうど年賀状の時期だったためハガキサイズで一作仕上げ構図を決めた。ほぼ同じ構図の絵を描きf6サイズで彫り上げた。駒ケ岳山頂に向かって笹原が広がり針葉樹が点在する様は、とても気持ちが良い雰囲気だが納得できる表現には到達せず。勢いそのままハクサンコザクラをハガキサイズで、結局、会津駒ヶ岳は4作品を生む元になった。ありがとう会津駒ヶ岳。

ハクサンコザクラ

追記
山行の4年後、版画教室は先生の高齢化を理由に閉じた。太田友一先生が’24/9亡くなられた。102才の大往生!与えることをいとわぬ大人でした。人生の後半に良き人に出会えてラッキーだった。深謝。

(2025年1月、IK記)

駒ノ小屋から尾瀬へと続く稜線、遠く燧ヶ岳を望む

頂稜湿原の稜線上は池塘が散在する

会津駒山頂から中門岳に続く稜線は天上の楽園

「この辺り中門岳」標識、皆で寄り掛かると倒れちゃう?

*  *  *

この2012年7月の夏山合宿は、企画した私にとっては会心の山行のひとつだった。檜枝岐の宿手配、貸切バスの運行スケジュール管理、三日目昼食場所の手配から、会津駒ヶ岳と駒止湿原の山行まで、Oさんの怪我トラブルを除いてほぼ計画どおりに運べ満足のゆくものだった。ところで、この年の夏山合宿地に檜枝岐を選んだのにはわけがあった。

 夏山合宿「会津駒ヶ岳」山行が今月末に行われます。昨年は震災後の自粛ムードもあって自主山行としましたので、2年振りの夏山合宿となります。目的地を敢えて原発事故被災地の福島としたのは、私たちが山を登る意味や周りとの関わりなどを、答えのないことを承知の上で、少し考えてみようということです。福島県の最西端に位置する檜枝岐は、福島第1原発から約160キロ離れているにも拘らず、尾瀬や南会津の山々への入山者は減ったそうです。尾瀬全体では約2割、福島側沼山口では約4割減とのこと。観光業など第3次産業就業人口が9割を占める村にとって、これは大きな痛手となっているでしょう。福島県を訪れ、彼の地の山に登ることが、ささやかながらも復興に向けての要素になればと思います。無論これは対岸のことでなく、浜岡原発より30キロ圏内に生活する私たちにとっては、我が身のことでもあります。(2012年7月『やまびこ』184号)

また山行後には次のような感想を持った。

参加者全員から寄せていただいた感想と多くの写真で、この夏の思い出を振り返りました。皆さん本当にいい笑顔をしているし、感想からも全員で中門岳まで行けた充実感が伝わってきました。色々な制約や面倒もあるけれど、仲間と共にやり遂げることに、合宿山行の確かな感動があると思いました。本来ならば、この〝天上の楽園〟は、もう少しのんびりと時間をかけて味わいたい所ですから、皆さん各々が、機会を作ってチャレンジしてもらえれば嬉しいことです。また、今回は残念ながら不参加となった皆さんも、次はこの笑顔の中に加わってください。山はいつでも〝行ったもの勝ち〟です。(2012年9月『やまびこ』186号)

 

 


山を彫る(番外篇)守屋山キャンプ場にて

2024-12-04 08:31:08 | 山を彫る

高遠少年自然の家を利用するようになったのは、いつ頃からだろうか?随分昔から行っているはずだ。試みに会報「やまびこ」の索引を使って検索してみた。始まりは1998/2、よほど気にいったのだろう、7月も。以降2002年まで2月ないし3月のスノーハイクは恒例になっていた。しばらく休み2008,9年、また少し飛んで2013、2020年と訪れている。自然の家ではクロスカントリースキーやスノーシューを無料で貸してもらえるからありがたい。チョットしたルールを守れば格安で利用できるのも嬉しい。コテージで薪ストーブを囲み、呑み、かつ歌い、踊れば浮世の憂さを忘れる至福の時だ。初回は自然の家周辺で雪と戯れていたが2回目’98/7には守屋山へ登っている。

2013/2/10自然の家出発、立石口から登山開始。雪はあるがアイゼン無しで進行。立石から少し剣呑な道になる。南面にあたるため雪が融け、岩が露出する箇所が多い。間をおいて慎重に進む。木にできた二つ瘤がちょうど女性のバストの様で“平成のビーナス”の銘板に一同緊張がほぐれた。鬼ヶ城のある巨岩地帯、浅間の滝を経て、急な上りを凌げば前岳のコルに出る。ひと休みしたら開けた道をジグザグに進み、杖突峠への分岐点に出れば山頂は近い。灌木になり、空が広くなった道をひと上りで東峰の頂に到着。わーお、360度の展望だ。北アルプス、美ヶ原、八ヶ岳、手前に入笠山、南アルプス、中央アルプス、御嶽山、ぜーんぶ見えた。本隊は西岳へ。芦田、天野、池田ロートル3人はここに留まり、自然の家特製の昼飯を戴く。快晴無風、抜群の眺め、ええなぁ。西峰に向かった本隊が戻ってくるのが見通せたので3人は先発。下りはアイゼンを着けた。順調に下りキャンプ場に着く頃、本隊が追いついた。夏の賑わいは知らない、人影は無くひっそりしていた。ふと見上げると青い空、白い雲、葉を落としたカラ松がアートしていた。これ、いただき、この様を版画に彫った。写真の通りの画を描いたら、先生からは中心に向かって木を配置するようにアドバイスを受けた。カラ松が落葉して枯枝に粒々が残っている状態を表したい。その頃はまっていた木田安彦の表現を応用した。浅丸刀で丹念に彫る。加減しながら摺ってみると粒々が出てきた。それらしい表現ができたと思っている。この画は、東京に住む孫の部屋にピンナップされている。(どうも傷隠しらしい)

平成のビーナス

鬼ヶ城

浅間の滝

守屋山頂から望む八ヶ岳連峰

追記
2024/2/11,12高遠少年自然の家に泊まり、守屋山に登ることができた。この時も快晴、無風、素晴らしい山行になった。3月末をもってSHCを退会。始まりから終わりまで関わってきた自然の家と守屋山に感概ひとしおである。

(2024年11月 IK記)

*  *  *

IKさんが書くように、高遠少年自然の家は冬合宿の常泊場所だった。最後の冬合宿となったコロナ禍前2020年2月もここに泊り守屋山を目指したのだったが、残念ながら雨模様で神長官守矢資料館や諏訪大社四社巡りとなった。

【2020年3月記】

(前略)守屋山頂からは眼下に諏訪湖が、そして東に八ヶ岳連峰とその南西麓がはっきりと望まれる。縄文期の諏訪に住む人々はこの聖なる山に立ち、自らの集落と生活の場である山(もり)と湖(うみ)の姿を一望し、どのような感懐を持ったのだろうか。共生する自然への鋭い感性=インスピレーションを持ち合わせた彼らは、現在ここに立ち眺望する我々には受けることのできないものを感じとり、視ていたのかもしれない。さらに、この豊かな古代諏訪文化は、天竜川水系、富士川水系を下って太平洋岸にまで至り、また屛風のようにそそり立つ南アルプスの峠を越えて井川にまで達していたらしい。我々の大井川流域の山々と八ヶ岳連峰は、古代において結ばれていたのであり、その結節点が守屋山であったとも言えるだろう。
(会報『やまびこ』№191「月々の山」)

 これが、私が山を歩くことの関心(テーマ)のひとつである。前宮から守矢史料館、本宮にかけての一帯は、是非とも案内したいと思っていた場所で、雨で守屋山から代ったのも良い機会になった。この地区をもっとじっくりと探っていけば、それだけで面白そうな史跡ハイキングを企てられそうである。
 宿泊した高遠青少年自然の家のロビーには、ランドサットが撮影した写真に自然の家の位置を印したパネルが掲げられている。これを見ると、ここがちょうど南アルプスを挟んで南北に我が街と対の位置にあることが理解できる。実は、この話は高遠青少年自然の家に通っていた初めの頃、当時代表であったIKさんが、夕べの集いの団体紹介で挨拶された事柄で、懐かしく甦る。すっかり〝長老〟(?)となられたIKさんが、今回の合宿にも参加され、夜の懇親会ではノリノリでハモニカを披露してくださったこと、また合宿初参加の皆さんも気持ち良く輪の中に加わり、全く良い思い出となった。「会員同士の親睦を図る」という合宿のもう一つの目的も叶えられた。


山を彫る(番外篇)三方分山

2024-11-23 10:07:59 | 山を彫る

三方分山西面の展望図

私はこの山が好きだ。まず名前が良い。“サンポウブンザン”山の名前としては珍しい字面である。名前の通り山頂から三方へ尾根が張り出している。頂きでは判りにくいが地図上で見ると見事に三等分されている。次にロケーションが良い。定例山行での上り道は中道往還であった。駿河から甲州へ抜ける街道のひとつ。駿河湾で獲れた魚を担いでこの峠を越えた。沼津からここまでの道のり、更に峠を下り上九一色村(古関)までの距離を測ると想像し難いが紛れもないことだ。上り始めの精進集落の佇まいは、それとなく歴史を感じさせる。峠を西進すれば気持ち良い尾根を通って小一時間で三方分山に着く。富士山方面は切り開かれていて明るい。西側は樹木が茂り、眺めが遮られるが木の間越しに南アルプスが見える。あのピークはどこだろう?眺めを楽しんだら南南西への尾根を急降下。精進峠を過ぎた辺りより精進湖が現れ富士山がますます大きく見えてくる。大室山を懐に抱いた“子抱き富士”は面白い。続く尾根筋は快適だ。根子峠を過ぎ、ひと歩きでパノラマ台に出た。前にも増して富士山がドーンと在った。素晴らしい。上り口から山頂へ、更にパノラマ台へ、このコースは本当に良い。
付け足しになるが、アクセスが良いことを挙げる。広々とした駐車場の存在もありがたい。時間的、体力的に三方分山が無理な時でもパノラマ台往復も可、十分に眺望を楽しめる。

阿難坂方面から望む三方分山

パノラマ台からの子持ち富士

2013/1/13積雪期の山行を彫った。良いアイデアを思い付いたので山頂から西を眺めた構図とする。立川さんにお願いして山頂から見える南アルプスを表してもらった。同定された山々を木の間越しに見えるように配置した。際立つピークは東岳(悪沢岳)だった。左寄りの木と木の間に置き、続く山並みは木に遮られたり、見えたりしながら北に連なり、右寄りの樹間に北岳が在る。原画の段階での先生からのアドバイスに従い倒木を追加、なるほど。

蛇足
定例山行の際、斎藤、小沢、池田は精進峠から集落へのショートコースを選択した。急坂を一気に下り集落近くまで来て、ルートを見失った。ボサを通して集落の屋根が見える程の位置だったから右往左往している間に道が見つかった。近道のつもりだったが通る人は少なく踏まれていないようだった。後に続く方あれば注意あれ。

(2024年11月、IK記)

*  *  *

阿難坂(女坂)

駿河・甲斐を結ぶ街道の一つ中道往還は、IKさんが触れられているとおり「魚の道」でもあった。吉原(富士市)を起点に富士山西麓を通り、精進湖西岸から阿難坂(女坂)1215mで御坂山地を越え、さらに古関(旧上九一色村)からは右左口(うばぐち)峠855mを越えて、甲府まで20里の道程だった。朝、沼津沿岸から揚げられた海産物は、暑い日中を避けて夕方から夜通し馬なども使って運ばれ、翌朝には甲府の魚問屋に並んだという。甲府周辺は、内陸へ生魚を運べる限界である「魚尻線」にあたり、中道往還は別名「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)とも呼ばれた。現在、山梨県は人口あたりの寿司屋の件数が日本一、またマグロの消費量が静岡県に次ぐというほどの魚(マグロ)好きは、中道往還あってのことだったのだ。なるほど、山梨の長男妻実家で出された料理の刺身が旨いものだったことを思い出した。山梨土産と言って、中央道の談合坂SAでアワビの煮貝を買ってきて、驚いたこともあった。現在の中道往還といえるR358・精進湖道は中部横断道開通前には、大菩薩嶺など山梨東部の山行によく利用した道だった。

 


山を彫る(番外編)荒川岳

2024-11-13 11:57:03 | 山を彫る

加齢に伴い南アルプスは遠のいていった。でも、もう一度赤石岳に登ってみたい。想いが実現するチャンスが巡ってきた。Yonツアーで千枚、荒川、赤石縦走をするという。しかも、長い、長い千枚道を駒鳥池下まで車で入ってくれるというのだ。願ってもないチャンスに気を良くして同期入社のOtu君を誘ってメンバーに加えてもらった。ところが、予定日前に台風が接近し計画は、お流れに。台風一過、9/8からやり直しとなった。ただ、千枚林道は土砂崩れで通行不可。東尾根を登り赤石から千枚へと逆コースに変更された。下る頃には千枚林道の土砂は撤去される見通し。厳しい上りの東尾根を思い浮かべ一刻ひるんだが、このチャンスを逃せば後は無い。やっぱり行こう。
想定通り東尾根の登りは厳しかった。「赤いカラビナ」の会が主体となっているが、我々を含め寄せ集め軍団の感は免れず、統制も取れていなかった。ここを登るのは甥が赤石小屋(旧)の小屋番をしていた時、陣中見舞いに訪れた以来だ。彼が大学2,3年生の時だから35,6年前になる。何もかもいっぱい、いっぱいで17:50小屋着。へ~、これが建て直した小屋か、20ん年も経っているとは思えないほど立派できれいだ。明日の登りのことも忘れて飲み過ぎた。
2日目、富士見平では、これから縦走する荒川岳方面が見えていたが北沢源流からの登りから霧発生。稜線への登りも、やっと到達した鞍部も、さらに赤石岳までも眺望無し。山頂下の避難小屋では、Enoさんとパートナーが迎えてくれた。狭い小屋で暖をとりながら昼食、濡れた着衣をある程度乾かして出発。大聖寺平辺りで、ようやく晴れてきた。
荒川小屋では、富士山の夕焼けを眺めながら2次会、朝焼けに背中を押されて小屋を後にした。
ここからの登りも厳しいが、好天とお花畑に励まされ高度を稼いだ。中岳を通過、悪沢岳の手前で振り返って眺めた中岳が素晴らしかった。これは形として残したい。南アルプス全部を堪能しつつ千枚小屋着。縦走最後の夜とあって、またまた痛飲。最終日、駒鳥池までは指呼の間。お約束通り車で千枚道を駆け下り椹島に到着。白樺荘で温泉に浸かるサービスも受けて懸案の山行を終えた。

荒川中岳山頂に立つIK(右)と友人のOtu

山行の後、山陰への旅の準備が始まり暫く手につかなかった。年明けから原画作りを始める。A4に中岳をプリント、縦方向に1.15倍して高さを強調した。画の上に縦横の線を等間隔に引き格子を作る。f8号の紙には拡大した格子を描き桝毎の線を写していく。大きさは自室に飾れる最大サイズを考慮してf8に決めた。登山道がそれとなく判るように刻んだ。手前に小さくリンドウを入れて洒落たつもりだったが先生は歯牙にもかけなかった。摺りの段階で、手前の岩塊を何色か試した。最終的に黒っぽい色にして安定感が出るようにした。先生から山頂に朱を差すように言われ「えっ」と思ったが、やってみると、ご指摘通り浮き上がってきた、さすが。結果、自分でも気にいった作品となった。

追記
画を中岳避難小屋に掲げていただきたいと密かに想い続けていた。’23夏、会友のMasさんが赤石小屋のスタッフとして入山すると聞き、この画を託した。小屋の壁に掲げられた報告を拝見し、嫁ぎ先は変わったけれど想いが叶い嬉しい。

赤石小屋の壁に掲げられた版画

(2024年11月、IK記)

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『山を彫る』シリーズのブログ掲載に気を良くしたIKさんが、続編を寄せてくれた。この「荒川岳」は、会20周年記念の栞表紙に使ってもいて外せない一枚だと思っていたから嬉しいことだった。
IKさんの赤石〜荒川三山縦走がいつだったのか、会報のバックナンバーを捜してみるとNo.175(2011年10月)に「南ア登り納めでも悔い無し」と題した短文の報告があった。今まで掲載の画と違って、この山行には同行していない。それに私が千枚岳〜荒川岳の稜線を歩いたのは1999年、それもガスの中のことで、画のような荒川中岳の姿は記憶に無いが、ふとMasさんが去年の赤石小屋出稼ぎの帰りの駄賃でこのコースを歩いていると思い出した。

荒川中岳(2023.9.26、Mas撮影)

なるほど、合点した。IKさんが記しているように、画はそのMasさんの手によって赤石小屋に掲げられた。三山縦走で小屋を訪れることがあったら、ぜひ、自分の目で見てきた荒川岳と画を見比べてみてほしい。