山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

南アルプスから(5)

2024-07-26 15:15:35 | 南アルプスから

21日に2回目のヘリが来ました
今回は小屋前に荷物が降りましたが、風があったので屋根にぶつかるのでは!
とびっくりしました

水場の写真です

写真では出てるか確認できないかもですけど…ちょろちょろ出ています
古い登山地図には水場と記されてますが、今は立入禁止です

ここを通って

タンクに溜めて小屋に揚げます


今夏はタンクから溢れているので、現在では去年より心配無いかもです
(7月初旬の雨が良かったのかも!?)

KIMさんより、今回は山小屋のライフラインに関わる便りでした


日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

2024-07-24 11:47:06 | 山の本棚

2007年11月20日 講談社現代新書

【見えない歴史】1965年まで、日本人はキツネに化かされていた。なぜか?

かつては私たちの周りには“ヒトを化かす”たくさんの動物がいました。たとえばキツネ、タヌキ、ムジナ、イタチ……。そのような動物たちがヒトを化かすのは不思議でもなんでもなく、“普通の出来事”として語られていました。

内山さんよると1965年頃を境にして日本の社会から「キツネにだまされたという話が発生しなくなった」そうです。なぜこのようなことが起きたのか、それはなにを意味しているのかを問いかけたのがこの本です。

「なぜ一九六五年以降、人はキツネにだまされなくなったと思うか」と多くの人に訪ねたところいくつかの意見に集約されたそうです。
1.高度成長期の人間の変化:経済が唯一の尺度となり非経済的なものに包まれて自分たちは生命を維持していると言う感覚が失われた。
2.科学の時代:科学的に説明できないものはすべて誤りという風潮になった。
3.情報、コミュニケーションの変化:メディアの発達等でかつてあった村独自の「伝統的」コミュニケーションが喪失していった。
4.教育内容の変化:必ず「正解」があるような教育を人々が求めるようになり、「正解」も「誤り」もなく成立していた「知」が弱体化した。
5.死生観の変化:自然や共同体に包まれていることで成り立っていた生と死が個人として切り離され、自然と響き合わないようになっていった。
6.自然観の変化:自然に還りたいという祈りをとうしてつかみとられていた自然観がなくなった。
7.老ギツネがいなくなった:人工林が増え、一方で自然のサイクルであった焼畑農法も行われなくなりキツネの成育環境が変化。(だますことができると考えられていた)老ギツネがいなくなった。

つまり“近代化”によって「キツネにだまされる」環境が破壊され、過去のものとしてかえりみられなくなったのです。この“近代”が押し流していったものはなんだったのでしょうか。内山さんの思索はここから始まります。

“老ギツネ”が棲んでいた山は当時の人にとってどのようなものだったのでしょうか。内山さんは興味深い慣習であった「山上がり」というものを紹介しています。群馬県の山村の養蚕農家周辺で「昭和二十年代ころまで」あった仕組みだそうです。

養蚕農家は稲作農家と異なり、生糸という商品生産で生計をたてていました。貨幣経済が浸透し相場の変動によって「自己破産」する農家も出てきました。そのような破産した農家に対して「共同体」が行う「救済の仕組み」が「山上がり」というものでした。
――「山上がり」を宣言した者は文字どおり山に上がる。つまり森に入って暮らすということである。そのとき共同体にはいくつかの取り決めがあった。そのひとつは「山上がり」を宣言した者は誰の山に入って暮らしてもよい、というものであった。つまり森の所有権を無視してよいということである。第二は森での生活に 必要な木は、誰の山から切ってもよいというもので、ここでも所有権を無視することが許される。第三は同じ集落に暮らす者や親戚の者たちは、「山上がり」を 宣言した者に対して、十分な味噌を持たせなければならないという取り決めであった。――

山は“再生の場”でした。一種の相互扶助の仕組みとして「山上がり」があったのです。もちろんこの山には“ヒトを化かす老ギツネ”が棲んでいたでしょう。
――かつての豊かな山と、何でもできる村人の能力、最低限のものは提供してくれる共同体という三つの要素があってこそ、「山上がり」は成立したのである。――

これが「キツネにだまされていた時代」にはあったものでした。そのころは「人間観も自然観も、生命観も異なっていた」のです。
――いつの時代においても、生命は一面では個体性をもっている。だから個人の誕生であり、個人の死である。だが伝統的な精神世界のなかで生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もうひとつ、生命とは全体の結びつきのなかで、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと思っている。――

“近代”がおとずれるまえには確かにあったこの生命観の喪失とともに“老ギツネ”は私たちの前に姿をあらわさなくなりました。豊かさと再生の場としての自然が失われていったのです。

といっても内山さんは単なる“自然賛歌”“自然に還れ”といっているわけではありません。私たちを包み込む自然が同時に“荒ぶる神”であることを忘れてはいません。また「日本の自然は一面では確かに豊かな自然であるけれど、他面ではその改造なしには安定した村も田畑も築けない厄介な自然」であることもここに記されています。そしてその自然との交流のなかで村の在り方や、宗教なども生まれてきたのです。

このような多面的な自然を失いはじめたのが1965年でした。それを象徴するのが「キツネにだまされなくなった」という“事件”です。

そしてさらに内山さんは思索を続けます。「長い間、人がキツネにだまされつづけたということは、キツネにだまされた歴史が存在してきたと考えていいだろう」と……。それは「自然や生命の歴史」であり、それに包まれた「人間史」の発見です。

ここから最後の問いが始まります、「歴史とはなにか」という問いが。ここからの内山さんの思索はぜひ読みながら一緒に考え、歩んでください。

内山さんは今までの歴史の考え方は「制度史」であり「知性による認識」のものにしか過ぎないと疑問を投げかけています。この「知性が歴史に合理性を求めた」歴史観は「発展していく歴史」というものを私たちの思考にもたらしました。

「知的合理性」では化かすキツネの存在は認められません。迷妄とみなされてしまいます。これは老ギツネのいない世界です。でもかつては化かすキツネは確かに存在していました。そう思い生きてきた人々の歴史はどう考えればいいのでしょうか。
――身体や生命の記憶として形成された歴史は、歴史を循環的に蓄積されていくものとしてとらえなければつかむことはできない。――

乱暴にいえば直線的に解される「知的合理性の歴史」とは流れが異なる「蓄積されている記憶の歴史」というものが確かにあり、その中で人々は生きてきたのです。

この身体や生命の記憶としての歴史を「見えない歴史」と名付け、「知性による歴史」に対峙させていこうというのが内山さんの思考の根本にあるものなのです。
――現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語が生まれなくなっていくという変化も、このことのなかで生じていたのである。――

豊かさとはなにかを問いかけ、知性だけでない認識に達し、そのありようをたずねた「哲学」「歴史哲学」でもあるこの本は、地に足がついた思考、独力の思考の強さ、頼もしさを感じさせる奥深い1冊だと思います。

野中幸宏(2016.10.31『講談社BOOK倶楽部』「今日のおすすめ」)


森町 遠州山間地の道の交錯点

2024-07-22 08:43:08 | エッセイ

森町に通じる県道以上の山間道路

 遠州森町というのは実は島田とは隣り合せの町だ。と言っても川根塩本から大日山の平松峠を越える県道が、太田川上流部(吉川)の大河内に抜けているのだから、平成の市町村合併を経て川根町が島田市となった後のことだ。それまでは間に金谷町、掛川市があって、東海道のルートからは北に外れていたから、私にとっては大日山や春埜山を訪れた以外は、もっぱら水窪など北遠の山々への往来で通過するだけの町だった。遠州森町は太田川の谷口にあって三方を山に囲まれた小さな町だが、遠江國一宮・小國神社をはじめとする多くの歴史ある寺社があり「遠州の小京都」と呼ばれる佇まいを今に残しているのは何故なのだろうか。それは平成の大合併の最中、周智郡中唯一の町制を守った気概の在り処とも通じているのだろうか。
 東海道(国一)のルートからは大きく外れた森町だが、現在は新東名を使えば島田から僅かの時間で行くことができる。先のおはようハイクのゴール地点「門出駅」に隣接する島田・金谷ICから大代川を横切り、粟ヶ岳の下を潜って原野谷を抜ければ、次の森・掛川ICとなる。今はこうして直線的に道が貫かれるが、旧道においてもやはり大井川筋から森へと抜ける道がある。大代川の谷を溯り県道の庄司文珠トンネルを抜けると、粟ヶ岳・岳山(585.4三角点峰)と八高山との間の峠を越え掛川市丹間の谷となり、さらに原野谷を下れば城ヶ平(天方城跡)南側に出て森に至る。森からは現天浜線に沿った古い街道が都田、気賀へと通じ本坂峠を越えていたのではないか。森の石松ではないが、裏街道の存在である。
 冒頭に掲げた道もまた、家山→塩本→平松峠→大河内→三倉→城下(大河内→亀久保→鍛冶島→城下)を経て森に出ている。三倉から北に進めば気田川の谷に出て秋葉山に至る。ここから天竜川に沿ってさらに北上すれば伊那谷・信州へと至る。秋葉山常夜灯が随所に残る遠州森町は、秋葉街道(信州街道)の宿場であり、また遠州中央にあって東西通路と南北通路とが交錯する地点でもあった。三年ほど前にもなろうか、おはようハイクで二回に分けて菊川から掛川・原谷までの塩の道(秋葉街道)を歩いた。今回の森町散策は、その続きとも言える区間となる。
 大井川、天竜川という大河にあって、その上・中流域が峡谷で下流域との間の交通が容易ではない時代には、山間の集落の峠を越え、小さな谷を渡って物や人が往来した。そうした時代にあって、大井川右岸と天竜川左岸に挟まれた山間地の産物が集散されるのに、遠州森は絶好の位置にあったと言える。大井川右岸の川根筋においては、近代以降も遅くまで下流の金谷・島田といった鉄道駅のある町ではなく、森町との往来の方が多かったようだ。現在も森町を歩くと、茶や椎茸など山間の産物を扱う茶問屋の看板が多く目に付く。また反対に米や塩、日常品が森から山間地の集落に運ばれたことだろう。以下、先賢の浅井治平博士の論考を目にしてみよう。(2021年3月記)

森から家山への通路

鉄道開通前の遠州側の主要道路
(『大井川とその周辺』より)

 周智郡誌に「三倉家山往還と称する道」として「本郡三倉にて秋葉街道(信州街道)より分岐し、榛原郡下川根村家山に至り、川根街道に接す、(中略)本道は古来春野山、大日山に参詣の通路にして、又榛原郡より秋葉山への要路に当り、交通頻繁なりき」と書いてある。この道は森方面の人々が現在も利用する道で、森から三倉に出て三倉川の谷を上野平(五万分一秋葉山図幅参照)に進み、尾根道を登れば春野山大光寺に達する。別に適従谷に断層線まで加わった三倉川の谷を利用して大河内に進み、吉川の谷を登りつめると、割合に低い四八〇米内外の分水界に達する。この吉川と三倉川と、付近の断層運動との関係は、地理学的に興味深いものがある。ここから南一粁の尾根上に大日山金剛院がある。峠から尾根道を下ること一粁余で市尾に達し、必従河岸家山川の谷を下って塩本をへて上山に達する。すなわち三倉川や吉川は適従河川で、それらの河谷や、その削りのこしの尾根を伝って峠に出、そこから反対側の必従河川を下る道で、これらは皆、川の造った道といえるのである。そう云えば、前にのべた杉川や熊切川も適従河川で、これらに沿ったり、その間の尾根道なども河の造った道にほかならぬのである。
 この三倉家山往還は、春野山、大日山の参詣路であるが、幕末時代島田金谷の川越検問を恐れた浪人達は、岡部や藤枝から山中の裏道にかかり、江松峠から地名に出て、盥船を利用して石風呂に渡り、塩本でこの往還に入って三倉に達し、あとは秋葉街道と鳳来寺山道をとって御油に出たものである。この道をとると、第一に島田金谷の川越の検問や、川止めの難がさけられ、第二に浜名湖口の新居の関を通らなくてすんだから、凶状持ちの人々には天与の良道であったのである。
 しかし森から直接家山に行くには、城下から直ちに東北の尾根道に入り、黒岩山の南をすぎて大尾山(おびさん)に登り、尾根道を伝って前山から家山に達した。これが森からの川根街道で、太田川にそそぐ適従河川の造った尾根道を利用したことは、道路建設技術の発達しない徳川時代としては当然のことである。吉川の谷にそって問詰・鍛冶島から大尾山に行く道は明治以後のことである。

森の茶と古着市

 以上のように見てくると、森がいかに幕政時代から明治大正にかけて、川根筋に対して重要な地位を占めていたかがわかる。さらにくわしく云えば、森は信州街道の青崩峠から水窪、秋葉山をへて遠州平野に出る入口を扼し、秋葉山参詣客がここに蝟集して、交通上扇のような地位を占めるほか、太田川を利用して舟運がその河口福田(出)港に通ずる等、まことに四通八達の渓口集落を形成したのである。
 森・福田間の舟運は明治一八年頃までで、長さ三間位の小廻り船が用いられ、出水をまって舟を出したという。筏がかなり下ったのでこれも利用した。町の東部、太田川の東岸に船宿があったという。明治一八年頃、掛川との間に県道が改修され、森―掛川―相良と大八車が通うようになって、太田川の利用は減少した。
 明治の中期まで森では、「奥の衆」と云われた三倉川、吉川の谷の村落、気田川や熊切川の谷の人々と、「川根衆」と呼ばれた家山以北の大井川筋の人々を、商業的後背地として経済的に有利な地位を占め、山地物産の茶・繭・椎茸等を集め、米・塩・干塩魚・藁工品・衣料品・日用品等をこれら後背地に売った。川根茶はその中の特筆すべきもので、明治一五年頃の茶商は三百戸と称せられたが、現在は一二五戸(内再製二五戸、仲買人約一〇〇戸)である。明治初年には茶商で横浜に出店を持つもの六戸を数え、単に遠州茶だけでなく、三河の茶を始め、四日市を中心として伊勢・美濃の茶をも買い集めて、森茶として海外に輸出するほか、国内市場をも賑わした。森の石松物語りを表看板に森茶を宣伝するなど、森商人の商魂の逞しさは相当なものであった。
 森の古着商もまた商圏の広さにおいて茶に譲らなかった。同地出身の村松久吉氏の談による
「明治初年に森の茶商は太田川を利用して森茶を河口の福田港に出し、共同所有の観洋丸という小汽船で横浜港に出荷した。その売上代金を懐中にして箱根を越えて帰って来た。これは危険でもあるし、観洋丸の利用上にも不利であったので、その代金の一部で京浜の古着を買い集め、一包二〇貫から三〇貫に梱包して観洋丸の帰り荷とした。一方感洋丸は四日市にいって茶を買い集めたついでに、その地方の古着をも集めて福田に帰ったので、森は東京上方両地方の古着の集散地として、東海道筋に名声をとどろかした。その頃同町の有志が、松島見物にいって塩釜神社に参詣した所、境内の一隅に包装用の菰(こも)が乾かしてあった。何気なく見ると、正しく森の古着を包んだもので刻印にも屋号にも見覚えがあるではないか。「どこをどうしてここまで来たものか」と一同は首を捻りながら驚いたり懐かしがったりした。」
という。
 も一つ、森を繁昌させたのは、火防の神秋葉神社への表参道としての宿泊地であったことである。明治初年には年間約三〇万の人(と町の故老はいう)がここを通過宿泊したので、それによる繁栄は根深いものがあった。現在でも「旅籠町」の名が残っており、棟数四〇余軒、宿場町的遺跡景観が認められる。かりにその半数が宿屋であったとしても、なかなかの大規模である。途中三倉・若身平にも若干の宿屋はあったが、森には遠く及ばず、参拝者の大多数がここに泊ったものと考えられる。このように多数の他所者(よそもの)が通過して買物をする。その活況の中で、普通の谷口集落には見られない古着や茶の集散が行なわれるので、当時の繁昌は思いやられるのである。幕末に売り出された日本東西繁昌記の番付けに、森が五〇位あたりにあげられたことも当然なことである。これらの旅宿は森が郡役所所在地であった頃には、村長・助役・小学校長等の会合のための宿泊所となって、昔の夢をつないだが、今はそれすらも数少なくなったと嘆いている。

商圏の縮小と素通りされる秋葉詣

 大井川に舟行が許されてからは、川根筋の商圏は徐々に島田・金谷に奪われたが、昭和六年に大井川鉄道が千頭まで通ずると、森の商圏は川根筋から全く絶縁されてしまった。一方県道の発達とバス・トラックの進歩とは、いつまでも森を秋葉山の鳥居前町とせず、参拝客は二俣線の森駅や、袋井からの秋葉線により、或いは浜松から二俣をへて直接秋葉山に運ばれて行き、森に泊る必要はなくなった。交通の便はよいのに町には活気がなく、茶商の多いのはとにかくとして、町中には間口の広い住宅(しもたや)が多く、その背後には白壁の崩れ落ちた土蔵が立ち並ぶなど、おそらく往時の大商店の名残であろうか。衰頽の中に昔日の繁栄を物語っている。
 交通の利便によってかち得た昔日の繁栄が、同じく交通機関の進歩によって衰える。不思議なことである。都市の運命と個人の運命とが何か似通っているように思われる。

――浅井治平著『大井川とその周辺』第三章「川の造った道」より――

*「必従谷・適従谷」解説

 一般に云えば川はその流域の自然の傾斜に従って高い所から低い所に図のbdのように流れる。これを必従河というが、図に示すように地層の弱い所(図のabc)や、走向断層などにはまりこんで、必従河とほぼ直角になるような適従河を造る場合もある。


天方城跡

2024-07-21 14:04:20 | 日記

15日、Chi、Ryoと一緒に車で森町・城ヶ平(天方城跡)へ
たかだか248mの端山だけど、よく整備された城跡をゆっくり巡れば、風に吹かれて少しは涼しいかな〜
誰もいない櫓風の展望台は南西に開け、森町の市街、磐田原、遠くに浜松のアクトタワーが見える

森町の城郭

森町の山城(やまじろ)をめぐる戦いは1501年(文亀元年)の天方本城(あまがたほんじょう)(大鳥居)に始まる。城を守ったのは今川方の天方通季(みちすえ)軍、攻めたのは斯波(しば)・小笠原連合軍。通季は一時、城を奪われ、付近の山上に避難し、今川軍本隊の応援によってようやく城を奪還(だっかん)することができた。
通季の孫にあたる 通興 ( みちおき ) は、徳川家康軍が遠江に侵攻してくることを予想して、1568年(永禄11年)ごろ、向天方に天方 新城 ( しんじょう ) (現在の天方城)を築いた。1569年6月、徳川軍は大挙して同城を襲い、通興を降伏させ、続いて飯田城の 山内 ( やまのうち ) 通泰 ( みちやす ) 軍を攻めてこれを滅ぼした。通泰の 庶子 ( しょし ) 伊織 ( いおり ) が、家臣の 梅村 ( うめむら ) 彦兵衛 ( ひこべえ ) に伴われて三河(愛知県)へ落ちのびたのは僅かな救いであった。
1572年(元亀3年)、こんどは北から武田信玄軍が遠江へ攻め込んできた。 
信玄は天方新城に部下の久野弾正(くのだんじょう)を入れ、飯田城も攻略し、さらに南下して東海道に出て磐田原(いわたばら)台地を北上し、二俣(ふたまた)城を落としたのち、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川軍を大破したが、西進の途次、陣中で病没した。
家康は1573年3月、いったんは武田軍に攻略された天方城・ 各和 ( かくわ ) 城などを奪い返し、 一宮 ( いちのみや ) ( 片瀬 ( かたせ ) )城・ 向笠 ( むかさ ) 城を攻めた。一宮城を守っていた 武藤 ( むとう ) 氏定 ( うじさだ ) は 亀ノ甲 ( かめのこう ) (掛川市)へ逃れ、向笠城も一戦も交えず敗れ去った。6月、徳川軍は一宮城・ 社山 ( やしろやま ) 城(豊岡村)に防御柵を構築して 二俣 ( ふたまた ) 城の押さえとし、浜松城へ帰陣した。
氏定は、その後も武田方に属し、1581年(天正9年)、高天神(たかてんじん)城(大東町)で徳川軍と戦い、壮烈な戦死を遂げた。

(森町HPより)


安倍奥と井川を結ぶ道

2024-07-20 11:26:52 | エッセイ

井川峠

 安倍川と大井川の間には分水嶺として、南アルプス白峰南嶺から山伏を経て連なる山稜が横たわっていて、安倍と井川の集落とを結ぶには越えなければならない峠がいくつかあった。その内、2000年前後まで実際に使われていたのは、北から牛首(三尺峠)、井川峠、大日峠、富士見峠の四ルートである。牛首ルートは、井川最北集落の小河内に出る道で、西日影沢からの山伏周回ルートとして登山目的でも使われていたが、コンヤ沢トラバース部分の崩落で通行止めとなって久しい。井川峠は、安倍側の孫佐島や大代と井川の岩崎を結んでいる。岩崎は井川ダム建設前には大井川左岸の集落だったが、ダム建設による水没で対岸に移転した。ここに架かる井川大橋は、車の通れる吊橋として知られる。大日峠越えは、井川ダム建設以前、井川から静岡に出るための、また口坂本から生活物資が持ち子によって運び込まれるメインルートだった。そして南アルプスへ踏み入る登山者も、同様にこの峠を越えていった。現在は、この古道を辿るハイキングも行われている。富士見峠は、ダム建設に伴い昭和33年に開通した初の車道ルートである。以後、この富士見峠越えがもっぱら井川と静岡を結ぶルートとなっていくが、山の道もなお、登山目的のみならず山仕事や生活レベルの杣道として、安倍と井川を結んでいた筈である。

 【井川峠】

 '97/7定例山行で笹山に行きました。SHCの山行運営が現在より未熟な段階でしたので、時間が押してしまい、井川峠で昼食になりました。狭い峠の四方に散らばってめいめいが昼めしにありついた時です。篭を背負ったおじいさんと、壮年の男性が静岡側から登って来ました。二人は我々ハイカーには目もくれず、話しながら井川方面へ下って行きました。峠の静岡側でコンビニおむすびを食べていた私は、この事に感激しました。井川峠が今でも生活道として使われていたことにです。昭和36年、山を一緒に始めたO君とこの峠を越えて以来、この道のことはすっかり忘れていました。林道が至るところ開かれた今、自動車がすっかり普及した現在に孫佐島から井川へ歩いて峠を越えた二人に拍手を送りたい気持でした。
 という、憧れに近い思い込みは'99/7の山行でぶち破られました。Tさんと孫佐島から井川峠をめざしました。長かった。きつかった。おまけに山蛭はいるし。当分井川峠のことは棚へ入れてしまおう。
〔I・K「安倍奥雑記帳⑥」:『やまびこ』№33(1999年12月号)より〕

深沢山山頂

 孫佐島から井川峠に至る山道が通る支稜線の中間に深沢山がある。安倍川対岸の十枚山に比べ訪れる人が圧倒的に少ないのは、孫佐島から一服峠までひたすら我慢の急坂の労苦もさることながら、尾根の続きといったふうのピークの存在感と展望の無さもあるだろう。が、このルートの本当の魅力はここから先にある。ブナ、カエデの広葉樹となった尾根を辿ると、かつて木材の伐り出し場だっただろう〝木立場〟の鞍部となり、やがて山腹をトラバースしながら、濁川源流部の沢筋へと下って行く。明るい光の入る沢は、穏やかな流れを深秋にはすっかり色付いたブナ、カエデが取り囲み、キラキラと輝いていることだろう。ここは安倍奥山域の最も美しい景のひとつだと耳にしたことがある。二回、三回と流れを渡り返しながら進む先に稜線の弛みが見える。井川峠だ!あと僅かに思えるが最後がなかなかの急登だ。もうひと踏んばり「ファイトーッ!」。
(2019年11月記)

木立場

濁川源流部の渓流