昨年(2014年)の冬季合宿は今回と同じ南沢山を目指したが、生憎の大雪で木曽から伊那へと入る二つの道、中央道、国道256号のいずれもが不通となって当初の計画を果たすことができなかった。交通網の発達した現代においても(むしろ、「だからこそ」かも知れないが)なお谷を隔てる山塊を越えていくことは、気象などの条件によって左右されるのであり、古の旅の困難さは如何ばかりだったろうかと想像する。昨年の本欄でも触れたことであるが、木曽谷、伊那谷、そして目的の南沢山の位置と繋ぐ峠について今一度見てみよう。
南沢山山頂(2015年2月)
南沢山は、恵那山から北北東方向に伸びる主尾根上にある。この尾根は長野・岐阜県境であり、南沢山から北西に支尾根を出し馬籠峠を経て木曽川に没している。一方、主尾根には郡境線(木曽・伊那)があり、北上すれば清内路峠、大平峠を経て木曽山脈主脈へと繋がり、南沢山がその南部に位置することが分かる。山系を見るということは、同時にどういう水系がそこに絡んでいるのかということである。木曽山脈(中央アルプス)は、西側に木曽川によって形成される木曽谷、東側に天竜川によって形成される伊那谷に挟まれ、この両谷を隔てる距離がそのまま山脈の幅ということになるから、20数キロと南・北アルプスに比べ厚みは無い。これは赤石山脈で言えば大井川のような内側に食い込む川が無いということで、単列の浅い山脈になっているが、それでも2千メートル超の山並を越せる地点は限られた所となる。
山頂より恵那山方面の眺望
南アルプス方面の眺望
木曽山脈を越える最も古い官道は古代東山道で、南沢山と恵那山のほぼ中間の鞍部、神坂(みさか)峠1569mを越える。この峠からは古墳時代中期以降の祭祀関係遺物が多数出土していて、律令時代以前から主要な道として機能していたことが窺える。東山道は畿内から陸奥まで至る長大なルートであり、その発祥の主要な目的はヤマトによるアヅマ(周辺)征服のための軍事道路であったことは想像できる(京都から陸奥の軍事拠点、多賀城までは810キロ)。この手の道は移動の効率を優先し直線的なルートを取ろうとする。その最初の、かつ最大の地形的障害が木曽山脈越えであった。後の中山道のように木曽谷を通らなかったのは、直線的にという性格と共に、木曽谷の峡谷ゆえの不安定さや、伊那盆地・諏訪を押さえることの軍略・政略上の目的もあってのことだろう。それゆえにこの峠を「神坂」と呼び、アヅマの地に踏み入る不安を鎮め、勝利を祈願したに違いない。
神坂峠(Wikipediaより)
こうした古代伝承に関わる地名はこの周辺には多くみられ、例えば恵那山も「胞(衣)山(えなさん)」が古い名であり、記紀によればイザナギとイザナミが天照大神を産んだときにその(娩出される胎盤など)をここに納めたとされるが、「胞衣信仰」はミシャグチ神などと同様、ヤマト以前の土着信仰としてあり(かぐや姫伝説もその一種)、そこから発祥したとも思われる。他にも昼神(ひるがみ)は、ヤマトタケルの東征時、山中で地の神の反撃を受け、これを口にしていたノビルを投げつけて退散させたという「蒜噛み」からきたという説もある。アヅマにとって木曽山脈は、ヤマト侵攻を防ぐ天然の要塞としてもあったのだろう。
いずれにしても神坂峠は東山道随一の難所であり、峠を越えられずに途中で亡くなる者も多かったらしい。平安時代初期に最澄は、この峠のあまりの急峻さに驚き、旅人のために峠の両麓に広済院と広拯院という「お救い小屋」を設けた。今の避難小屋の原初とも言える。
(2015年1月記、会報『やまびこ』No.214)
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