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山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

竜頭山の宇宙人

2025-04-26 12:59:27 | エッセイ

1997年5月・竜頭山山頂にて

ひょんなところから竜頭山に登った昔の写真が出てきた。この山行後、所属会の長老だった故内田道晴氏が会報に寄せた素敵な短文があったことを思い出した。

竜頭山の宇宙人

内田道晴

 竜頭山よりの帰路、私はTさん親子の後に続いて青ナギに向かって、天竜美林の中をひたすら下っていました。その時突然、一年生のSyo君が大声で、「アッ!ここは宇宙人の基地だ」と叫びました。私はエッ!とあたりを見廻しました。老眼ではそれらしいものは見えず、なにかな?と首をかしげました。すると又Syo君が「宇宙人がいっぱいいる……基地だ基地だ」と叫びました。
 寝不足の目をこすりながらあたりを見廻しました。そしてアッ!と驚きました。
 いるいる十いや五十か百ぐらいかな、木の陰、岩の陰につり上がった異様な黒い目が、あっちにもこっちにも私達をじっと凝視しているのです、少し動いているのもいます。私は思わずウーンと唸ってしまいました。
 皆さん見たでしょうか、竜頭山の宇宙人を? まさしく宇宙人です。細くてつり上がった異様な目……翔君大発見の宇宙人は、黒い斑の入った水引草の葉でした。これを宇宙人に見たてた翔君の感受性と発想の素晴らしさに恐れ入ってしまいました。これほど立派な黒斑の入った葉を見たことがありません、さすが竜頭山の宇宙人だ。
 Syo君は「宇宙人だ、宇宙人だ」と叫びながら駆け下りていきました。
 Syo君はこれからもいろいろな宇宙人や、恐竜に出会うことでしょう、それは決して我々大人には見えない世界なのです。

(参考)水引草の葉は斑が入り易く、場所によっては、無いもの、薄いものいろいろあります。幼い葉は食用にもなります。(内田さんのメモより)

(1997年5月、会報『やまびこ』No.2)

懐かしい面々


伊那に入る峠

2025-04-24 10:26:32 | エッセイ

 昨年(2014年)の冬季合宿は今回と同じ南沢山を目指したが、生憎の大雪で木曽から伊那へと入る二つの道、中央道、国道256号のいずれもが不通となって当初の計画を果たすことができなかった。交通網の発達した現代においても(むしろ、「だからこそ」かも知れないが)なお谷を隔てる山塊を越えていくことは、気象などの条件によって左右されるのであり、古の旅の困難さは如何ばかりだったろうかと想像する。昨年の本欄でも触れたことであるが、木曽谷、伊那谷、そして目的の南沢山の位置と繋ぐ峠について今一度見てみよう。

南沢山山頂(2015年2月)

 南沢山は、恵那山から北北東方向に伸びる主尾根上にある。この尾根は長野・岐阜県境であり、南沢山から北西に支尾根を出し馬籠峠を経て木曽川に没している。一方、主尾根には郡境線(木曽・伊那)があり、北上すれば清内路峠、大平峠を経て木曽山脈主脈へと繋がり、南沢山がその南部に位置することが分かる。山系を見るということは、同時にどういう水系がそこに絡んでいるのかということである。木曽山脈(中央アルプス)は、西側に木曽川によって形成される木曽谷、東側に天竜川によって形成される伊那谷に挟まれ、この両谷を隔てる距離がそのまま山脈の幅ということになるから、20数キロと南・北アルプスに比べ厚みは無い。これは赤石山脈で言えば大井川のような内側に食い込む川が無いということで、単列の浅い山脈になっているが、それでも2千メートル超の山並を越せる地点は限られた所となる。

山頂より恵那山方面の眺望

南アルプス方面の眺望

 木曽山脈を越える最も古い官道は古代東山道で、南沢山と恵那山のほぼ中間の鞍部、神坂(みさか)峠1569mを越える。この峠からは古墳時代中期以降の祭祀関係遺物が多数出土していて、律令時代以前から主要な道として機能していたことが窺える。東山道は畿内から陸奥まで至る長大なルートであり、その発祥の主要な目的はヤマトによるアヅマ(周辺)征服のための軍事道路であったことは想像できる(京都から陸奥の軍事拠点、多賀城までは810キロ)。この手の道は移動の効率を優先し直線的なルートを取ろうとする。その最初の、かつ最大の地形的障害が木曽山脈越えであった。後の中山道のように木曽谷を通らなかったのは、直線的にという性格と共に、木曽谷の峡谷ゆえの不安定さや、伊那盆地・諏訪を押さえることの軍略・政略上の目的もあってのことだろう。それゆえにこの峠を「神坂」と呼び、アヅマの地に踏み入る不安を鎮め、勝利を祈願したに違いない。

神坂峠(Wikipediaより)

 こうした古代伝承に関わる地名はこの周辺には多くみられ、例えば恵那山も「胞(衣)山(えなさん)」が古い名であり、記紀によればイザナギとイザナミが天照大神を産んだときにその(娩出される胎盤など)をここに納めたとされるが、「胞衣信仰」はミシャグチ神などと同様、ヤマト以前の土着信仰としてあり(かぐや姫伝説もその一種)、そこから発祥したとも思われる。他にも昼神(ひるがみ)は、ヤマトタケルの東征時、山中で地の神の反撃を受け、これを口にしていたノビルを投げつけて退散させたという「蒜噛み」からきたという説もある。アヅマにとって木曽山脈は、ヤマト侵攻を防ぐ天然の要塞としてもあったのだろう。
 いずれにしても神坂峠は東山道随一の難所であり、峠を越えられずに途中で亡くなる者も多かったらしい。平安時代初期に最澄は、この峠のあまりの急峻さに驚き、旅人のために峠の両麓に広済院と広拯院という「お救い小屋」を設けた。今の避難小屋の原初とも言える。

(2015年1月記、会報『やまびこ』No.214)


お茶も塩も越えた桧峠

2025-04-13 14:48:36 | エッセイ

島田・藤枝市境の峠

 今月も〝峠〟のことを書く。と言っても、先月の井川峠のように高く、大きく、両者を隔てるような尾根を越えるのではなく、島田・藤枝市境の山間の集落を繋ぐささやかな峠だ。島田と藤枝は天下の街道・東海道が通っていたが、それは平野部のほんの僅かな空間に過ぎず、大半を占める北部の山間集落は、小さな峠を越えて隣りの谷へと繋がっていた。川に沿った上流域と下流域といった縦軸の交流ではなく、峠を越えた横軸の交流である。野本寛一は『大井川―その風土と文化―』の中で次のように述べている。

 大井川上流部は行き止まりの閉塞谷で、中流部に至るまで両岸には山が迫っている。その上、江戸時代には架橋、通船が禁じられていた。このことは、大井川中、上流域の人々に大きな影響を与え続けた。生活に必要な物資はすべて峠越えで求めなければならなかったし、産物もまた峠越えで出さなければならなかった。
 こうした悪条件は中、上流域の人々と渓口都市である島田、金谷との結びつきを驚くほど弱いものにしていった。左岸部は静岡、藤枝、右岸部は森(周智郡)と強く結びついたのである。―〈中略〉―
 他地域に比べて大井川流域の峠利用は多く、しかも遅くまで続いた。こうした状況なればこそ、この地域においては峠の信仰も盛んであり、今日に至るまでそれが生き続けている。

 そうした峠のひとつに伊久美・小川と藤枝・滝沢を結ぶ桧峠がある。2万5千図を見ると、小川橋から桧峠に向かって登っていくその道は黄色に塗られていて、山道県道(215号・伊久美藤枝線)となっている程に主要な道だったのだ。茶は全国的に有名なこの地域の産物であるが、江戸期・文禄年間(1592)には既に年貢の一部として代納されている記録が残る。生産された茶や椎茸など山の産物は、桧峠を越えて藤枝・滝沢に集積され、瀬戸川を下って音羽町・茶町の問屋へと出荷されていった。標高400メートル余の桧峠周辺には今も民家が残り、椿山にかけてのなだらかで広い尾根には現役の茶畑も多い。

桧峠の地蔵堂

 桧峠には地蔵堂があって、次のような伝説がある。

 寛仁元年(1017)大津波があり、滝沢一帯にまで波が押し寄せたので、村人たちはみな桧峠まで避難した。しばらくして、村人が草むらの中に光るものがあるのに気づいた。土の中から掘り出してみると、貝や小石がいくつもついた地蔵さまだった。村人たちは津波のために押し流されて来たと思い、末永く祀ることにした。地蔵さまは鯵沢という所で発見され、桧峠に移して祀られたと伝えられている。

 野本寛一は「この地蔵の伝説が海と山との結びつきを語り、特に桧峠と海との関係を語っている点を見逃してはならない。桧峠と海、さらには桧峠と塩の関係を暗示しているのである。」と言う。大井川町・吉永では塩田から塩が作られ、その塩売りたちが藤枝、瀬戸谷方面に赴き、さらには桧峠を越えて伊久美にまで出かけていたという。ここに大井川を遡っていく「塩の道」が浮かんでくる。伊久美から祭文峠を越えれば身成、身成から阿主南寺峠を越えれば川根である。
 こうした小さな峠を使った流通が山間の生活を支えていたのである。今回の忘年山行では桧峠から始まり、島田・藤枝市界の尾根を辿りながら、相賀と滝沢を結ぶ現県道81号(焼津森線)の峠、千葉と滝沢を結ぶ千葉峠と三つの峠を越える。東西に長く平らな椿山頂部の茶畑の彼方には、大きな富士山が望めるだろう。のんびりとホームグラウンドの千葉山門前まで歩き、一年の締め括りとしたい。

(2019年11月記 『やまびこ』No.272掲載)

桧峠〜千葉山智満寺のルート

椿山山頂付近から望む富士山

椿山山頂から望む焼津・虚空蔵さん

椿山南尾根から望む千葉山と相賀谷

【追記】
 今回の伊久美・小川から智満寺門前までの距離は約9キロメートル。伊久美から徒歩で島田に出るには最短のコースである。かつて、伊久美小学校の遠足コースになっていた話が出て子供たちの健脚さに驚いたが、島田の町の各小学校から千葉山までもほぼ同じような距離なのだ。そうした距離感からいうと、伊久美をはじめとする大井川左岸の山間集落が、渓口の島田ではなく藤枝の滝沢~茶町といった瀬戸谷へとより強く繋がっていたことが理解できる。

 

 

京柱峠・祭文峠、地名の考察 - 山の雑記帳

京柱(きょうばしら)峠(570m)と祭文(さいもん)峠(590m)は伊久美川右岸尾根上にあって、いずれも伊久美の谷と川根・身成の谷を繋ぐ峠道であった。藤枝側から蔵田や桧...

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山菜遭難

2025-04-09 08:47:10 | エッセイ

Ryoカレンダーより

 元会員のMさんが、山菜採りに行くと言って出掛けたまま戻らないという連絡があったのは、日暮れ間近な時刻だった。山菜採りが山歩きの主目的のようだったMさんは、時季になるとワラビやフキなどを届けてくれたが、どの辺りで採っていると聞いたことはなかった。既に暗くなる時刻であっては直ぐに探しに行くわけにはいかず、島田在住の四役と千葉山周辺に詳しいお二人に助力を求め、明朝を待つことにした。
 Mさんが家族に残していったキーワードは、「尾川」「ワラビ」「黒の変速機付ママチャリ」だった。ワラビ採りが目的なら、尾川丁仏参道などのハイキングコース沿いはまずないだろう。高齢とはいえ達者なMさんのことだから、自転車を麓に置くのではなく、林道や農道があれば上まで入るのではないか(家族が麓を廻った範囲では自転車は見つかっていない)。出掛けた場所が本当に大津の「尾川」であるかは疑問が残るが、取り敢えずは絞って探すしかない。山菜採りをやらない私だが、ワラビの出そうな場所の見当をつけた。一つは新東名「尾川第二トンネル」上、平坦で茶畑と蜜柑畑が広がる日当りの良い尾根で、集落から農道が上がっている。もう一つは花火工場上の尾根で、踏み入れたことはないが南面の緩やかな尾根で果樹園記号もある。さらに「尾川」からは外れてしまうが、茶畑記号の散在する大草の池周辺の小尾根も範囲に加え、翌早朝、ご家族も含め三手に分かれ探し始めた。これとは別にIさんが伊太周辺を探すと連絡を入れてくれた。前夜、ご家族から警察に行方不明の届けはなされたが、パトロールで自転車の発見には注意するが、捜索隊などの具体的な動きはないようだった。
 私とAさん夫妻、Sさんの四人は、尾川第二トンネル上の尾根に向かった。農道の登り口に車を置き歩き出すと道は二手に分かれる。左の暗い沢沿いはワラビ目当てでは無いと考え、尾根に直接上がる道を選んだ。この道は周回できるので下りには沢沿いを探すことができる。少し進むと軽トラで犬の散歩をさせている近くの方が追い付いてきた。事情を話し、何か見付けたら連絡をとお願いした。ワラビの出も尋ねると、確かに尾根の上でよく出るという。田代の峠へ向かう分岐を過ぎても手掛かりはなく、尾根の下りに差し掛かった頃、見つかって救急隊が向かっているという連絡が入った。聞けば、どうも私たちが探した反対、沢沿いの道らしい。農道の登り口に戻ると、既に救急車が到着していて救助作業に取りかかっているようだった。暫くすると担架に固定されたMさんが搬送されてきた。Mさんは左手の農道を入った場所に倒れていたのを、たまたま農作業に向かう地元の方が発見してくれたらしい。大腿骨折の大ケガだが命に別状はなかった。斜面上の何か〝獲物〟を採ろうとして滑り落ち動けなくなり、ひたすら見付けてくれるのを待っていたのだろう。当夜からは雨が予報されていたので、今日中が勝負と考えていたから、早い時間に見つけられたことは幸いだった。

 この遭難騒ぎで、いくつかの教訓が浮んでくる。

①黙って行かない
 里山だろうが散歩道だろうが、転んだり滑ったりすればケガをすることはあり得る。些細な全てに届けを出せとは言わないが、行き先を家族や誰かに告げておくことは必要。ハイキング目的なら山名のみではなく、具体的にどのコースを歩くのかも。口頭だけではなく地図コピーにコースを記したものを残せばベター。殊に家族が山歩きに詳しくなかったり、ハイキング・登山コースでない場所を歩くならなおさらのことだ。

②携帯電話を持つ
 里に近い場所なら、山中でも繋がる可能性は高くなっている。連絡手段が無ければ偶然の発見を待つしかないから、殊に単独で行くのなら必携。スマホ或いはGPS受信機を持っているならば、現在地の特定方法を知っておく。

③バランス感覚の衰えを自覚する
 元気であっても、バランス感覚は齢とともに確実に衰えていく。年寄りの冷や水のようなことをしない。

④警察(捜索)はすぐには動かない
 「帰ってこない」というだけでは、すぐには動いてくれない(行方不明のお知らせの同報無線くらい)。基本的には場所が特定されなければ救助隊は出ないし、ある程度の絞り込みができ緊急性が判断されるまで捜索はされない。

⑤家族との関係を良くしておく
 最終的に頼れるのは家族と仲間。自分のやっている山登りへの理解を得る努力をする。家族から仲間(会)への連絡手段を確保しておく。

 病院に運ばれたMさんが最初に心配したのは、置いてきてしまったワラビのことと、大谷選手の活躍(TVが観られるか)だったと聞いた。文字通りの〝大丈夫〟なことだとひとまず安堵した。

(2018年5月記・『やまびこ』No.254掲載)


堅雪のころ

2025-04-08 09:39:54 | エッセイ

Ryoカレンダーより

 高校時代の英語の教師であったN先生が、自著の制作を依頼してくださった。先生は、H高校長を最後に定年退職後、JICAの一員としてモンゴル、中国、パキスタンなどで現地の日本語教育に携わっていた。帰国後、どういうきっかけで私の仕事を知ったのか、名刺、年賀状など小さな仕事をくださっていたが、80歳を超え、今度は今まで周囲にあまり話すことの無かった自分の生き方の原点を、まとめたくなったとのことだった。先生は既に数冊の著書を発刊されていて、そうした手づるは幾つもあるのだろうに、なぜ「私は、あなたの仕事ぶりを信頼していますから」などと気に掛け、話しを持って来られたのかと思った。高校時代の私は、自意識だけが強く、教師たちに楯突き、周りと交わることもできないタチの悪い生徒で、数学や英語といったコツコツと積み上げなければならない教科は、まるでお話しにならない劣等生だった。N先生の英文法の時間も例外でなく、授業ではいつも死んでいた。おおよそ先生の長い教師生活の中で、印象に残るまともな生徒では無かったはずだ。だが、高校最後の日、N先生が掛けてくれた言葉を私はよく覚えていた。
 蛇嫌いが蛇をよく見かけるように、数学嫌いな私の高校時代のクラス担任は3年間とも数学の教師だった。殊に2、3年の担任であったTとは、お互いに何から何まで反りが合わず、反発と無視を繰り返していた。卒業式が終わり、クラスに戻って担任が「餞の言葉」のようなものを話した時だった。Tはかつて自分の教え子だった連合赤軍のUを例えにあげて、私を名指しし「お前も、これからロクな人生を送らないだろう」と言い放った。大半はそれまでの私の行動が招いたこととは言え、クラス全員の面前で罵倒された悔しさと、暗く凍りついたまま高校時代が終わることに、少しの淋しさも残った。そんな気持で校門に向うと、偶然にN先生と出くわした。それまで英語の教科以外に私との関わりはなかったはずの先生は、唐突に「Tan、志望する所に入れて良かったなぁ、本当の君はこれからだなぁ」と、声を掛けてくれた。ガサガサとささくれていた心が、少しだけ救われた思いだった。
 N先生の故郷が、蝦夷富士とも称される後方羊蹄山(しりべしやま・羊蹄山)とニセコ連山に囲まれた北海道・倶知安(くっちゃん)であることは、今回の著書『堅(かた)雪のころ』の中で初めて知った。もっとも先生自身「私が北海道の出身であることや、静岡の地に英語教師として赴任することになった経緯を知っている人は、あまりいないですよ」と話していたから、光栄にも最初の読者として選ばれた私は誰よりも早く先生の少年時代の姿と想いを知ることとなり、あの頃の自分と重ね合わせていた。

 豪雪地帯・倶知安での日常は雪とのたたかいといってもいい過ぎではない。今は除雪車が片付けてくれるが、当時は、十一月から四月まで白い魔手にはばまれ、陸の孤島と化す倶知安の冬であった。(中略)
 そんな中でも三月も半ばを過ぎると日中の日差しが強くなり、外にいても汗ばむほどになる。だが夕方になると気温はまたぐんぐんと下がり外は冬の景色になる。こうして雪面が融け夕方からの気温の低下とともに雪面が凍結する「堅雪(かたゆき)」という北国独特の季節がはじまる。
 四月に入ると雪融けはさらに進む。谷川は融けた水を集め、木々は芽吹き、大地はなつかしい土の香りを漂わせはじめる。目ざめたばかりの大地にいち早く色彩をおとすフキノトウや福寿草。それに応えて活動をはじめる新しい生命たち。野山に春の鼓動が満ちあふれる。(中略)
 読む人にとってはほとんど関わりはないし、興味のないことばかりであろう。しかし、私にとってはこのことがあって今がある貴重な人生のモニュメントである。稚拙であったかつての自分を白日にさらすのは本意ではないが、それでもいま書いておかないとこれまでのすべてが雲散霧消してしまいそうな思いに駆られる。これは私の人生そのものである。

  果てしなき堅雪の原 登校の子ら渡りゆく
  追い追われつつ 夏樹 
*おそらく私たち兄弟のことを詠っているのであろう。正規の道を通らず、堅雪の上を対角線上に田圃を近道する情景が懐かしく思い出される。
 

(追憶(プロローグ)より)

 おそらく、あの卒業の日に掛けてくれた言葉を、N先生自身は覚えていないだろう。けれど、私にとっては、少し融けてはまた堅く凍りつく「堅雪のころ」にあって、あの一言が早春の陽光の一射であったことは間違いない。

(2014年5月記・『やまびこ』No.206所収)

*  *  *

【2025年4月追記】

元連合赤軍活動家の植垣康博氏は本年1月、76歳で亡くなった。静岡新聞論説委員の川内十郎氏は同紙時論(3月16日)コラムで『元連合赤軍「兵士」のフルート』と題して次のように記した。

 静岡市の繁華街にあるスナック「バロン」で店内にあったフルートを手にしたのは20年ほど前の夜。その楽器を少しだけかじっていたので、店主に促されるままビゼー作曲の「アルルの女」のさわりをおぼつかない指遣いで吹くと、穏やかな笑顔を返してくれた。
 店主は元連合赤軍メンバーで1月下旬に亡くなった植垣康博さん(享年76)=旧金谷町出身=。自著「兵士たちの連合赤軍」(彩流社)で植垣さんは、フルートとの出会いは中学で一時所属したブラスバンド部の時だったと記す。
 大学では合唱団に所属。クラシック音楽のファンで特にベートーベンが好きだったようだ。同著には「対位法」や「ソナタ形式」といった音楽用語も出てくる。
 植垣さんの訃報が伝えられた直後、静岡新聞社に匿名の1通の封書が届いた。「同封しましたノートは、60年近く前に私のところに送られてきたものです」
 表紙にフェルトペンで「弦楽三重奏曲第一番へ長調」と書かれたバネとじの五線譜用紙。植垣さんが高校3年の時に書いたとみられる楽譜だった。主旋律らしき部分を手元のフルートでなぞると、快活な第1楽章の出だしから変奏曲を経て、力強く締めくくる構成だとおぼろげに分かった。
 植垣さんは山岳アジトで「総括」と称して仲間をリンチし、12人が死亡した事件に加わり、殺人などの罪で懲役20年の判決を受け服役、出所後に店を開いた。「バロン」は活動家時代のあだ名だ。
 「連合赤軍問題から逃げずに語り残すことが自分の責任だ」と話していたという。自らの過ちと向き合う中で、長く付き合ってきた音楽は心の大きな支えになっていたに違いない。

Tの言うような「ロクな人生を送らない」者などいないのだと改めて思うのだ。

『堅雪のころ』表紙絵/早春の胆振線とニセコ連山