山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

御塔処参りの道

2024-08-04 11:27:42 | エッセイ

 コロナ禍での帰省控えもあってのことなのか、いつもはごった返す盆の御塔処(おたっしょ)参り(墓参り)は、今夏(2020年)は静かなものだった。こうした盆の風習も、地域や宗派、寺によって異なっているようで、祖霊をお迎えに行くタイプとお送りするタイプがあるが、家(うち)のお寺さんは15日が恒例で、「ご先祖さんは家に帰っていてお墓は留守じゃないのか……?」と思えてしまう。以前、前の方丈(ほうじょう/住職)さんに伺ったら、「この寺は、元は街中にあったので檀家に商売屋が多く、盆休み明けにすぐ店ができるように一日前倒ししている」とのこと。七年前、老父が亡くなり墓所を旗指(はっさし)の法幢寺(ほうどうじ)とした。前住職が言うように、法幢寺は元々は本通一丁目北側の大村酒造の建つ場所にあって、現在地の旗指に移ったのは昭和50(1976)年、都市計画による道路拡張に伴うものだった。同様に旗指に移転した寺は、現在地で法幢寺の向かいに建つ敬信寺や、中央幼稚園西側の康泰寺があって、谷奥の古刹・静居寺(じょうこじ)と共に寺の集中地域となっている。

 さて、掲載した空中写真は地理院地図の「年代別の写真 1961年~1969年」で、島田地域が載る最も古い年代となる。1961年に建てられたばかりの我家が米粒ほどに写っていて、他にこの道沿いに農家以外の住宅が見当らないところをみると、60年代もごく早い時期の撮影だと思われる。当然ながら国一バイパス、はなみずき通りや島田大橋はまだ影も形もない。目立った道を黄色にトレースしてみた。都市計画の整備前で、島田駅から現ばらの丘方面へ北に向かう道も、まだ貫かれていない。島田の中心街(旧東海道沿いの宿場)から直接北方面に向かう道は三本しかないことに気づいた。即ち大津の谷へ向かう大津通、江戸期当初の大井川渡し場であった向谷・大鳥、また伊太の谷に向かう向谷街道、そして旗指・静居寺方面に向かう道だ。この三本の道が、江戸期においても島田宿と北側の村々とを結ぶ道ではなかっただろうかと想像するが、旗指に向かう道だけが唯一、駅から直接出ている道となっている。現況では、駅西から本通りを渡り、大井神社東側を抜け向谷街道を渡り、アポロン先で伊太谷川を渡った所で二手に分かれ、左手の道は静居寺に行き当り、右手の道は現在の法幢寺が建つ場所に行き当っている。右手の道の途中には地蔵堂があって、子供の頃、盆のお祭りは結構な賑わいを見せていた。余談となるが、この地蔵堂は明治の中頃、疫病が流行したためその平癒を祈念して、遥々下北半島の恐山から本尊の分身を譲り受け建立されたと言われているから、コロナ退散にもあるいはご利益があるのでは……。

 こうしてみると、法幢寺は元々あった大井神社東側の場所からまっすぐ北への道を辿って、山の端の現在地に移ってきたことになる。前住職は「たまたま、檀家さんの紹介があって……」と言っていたが、法幢寺は曹洞宗で静居寺の末寺として開山(1601年)されたのであるから、本寺近くの場所に移ってくるのも自然なことかもしれない。静居寺の開山は永正七(1510)年、この地域の曹洞宗の伸張に影響を持った格式のある寺で、江戸期になって東海道五十三次として島田宿が発展し人口が増加するのに伴い末寺が宿内に開山されていった。二丁目裏の康泰寺、普門院、三丁目裏の快林寺、福泉寺など含め、いわば静居寺の出張所のようなものだったかもしれない。そう考えると、この道は宿から静居寺へ向かう参道としての意味もあっただろうし、山の端の旗指という場所は死者の魂が集まり山に登っていく、また祖霊が正月、彼岸、盆にと里(宿)に下りてくるのに都合の良い地形ではなかったかと思えてくる。そんなこともあってか、静居寺には町屋の檀那衆の古い立派な墓も多い。この〝都合の良い地形〟は、何も江戸時代になって島田宿が確立されて以降のことではなく、例えば古墳時代から律令時代にかけての墳墓遺跡(旗指古墳群、旗指蔵骨器埋葬墳墓)が、国一バイパス旗指インターの周辺に分布されていたことにも見てとれる。(同地からは弥生時代、縄文時代の住居跡の遺跡、さらに旧石器時代の遺物も発見されていて、太古からの生活の痕跡がある)

 さて、今の法幢寺西側の丘陵に上っていく入口には秋葉さんの祠と共に小さな祠が建っている。Googleマップには「左軍神社」と記されているが、前住職によれば通称「おしゃもじさん」と呼ばれ、いつの時代からか分からないがずっとここに在ったと言う。これを拝めば食べる事に困らないのだそうだ。少し調べてみると、どうも「ミシャグチ(ジ)神」に由来するのではないかと思われた。ミシャグチ神の大元は諏訪・神長官守矢史料館の南側(山側)に「御左口神(ミシャクジ)神社」がある。柳田國男によればミシャグチ(ジ)は、元々は塞ノ神=境界の神であり、侵攻氏族と先住民それぞれの居住地の境に立てた石の標識であると考察している。ミシャグジ→シャ(サ)グンジ→シャクシ→シャモジ、当てられた漢字に意味はないので、音が時代や地域の変遷に従って変化し、もう当初の意も分からなくなって「飯が食える」という庶民の信仰にまで行ってしまったのだろうが、確かに旗指のこの場所は山の端にあって、山間部と大井川の沖積平野との境のモニュメントとして相応しい位置と思える。あるいは魂の彼岸と此岸との境界なのやもしれない。

 この「おしゃもじさん」の裏を丘陵へ上っていくと、突然小広い平らに出て、竹林の中に幾基もの古い墓石が並んでいる。江戸期に島田宿一丁目の大檀那であった稲葉屋・桑原家の墓所だという。この墓所は、今はすっかり廃屋のようになってしまった傳心寺(でんしんじ/静居寺末寺)の境内で、この寺は稲葉屋分家・仁兵衛正直(明和元・1764年没)によって再興された。稲葉屋は一丁目交差点の辺りにあったというから、例の宿からの道をまっすぐに北上し、山に突き当たったその場所を一族の墓所としたのだった。桑原分家(上の稲葉屋)四代目・伊右衛門正作宣之(1767~1832)は、伊豆の山根氏の生まれだったが三代目の跡取りが幼少であったため中継ぎとして養子に入るが、33才で家督を譲り、桑原家の墓所近く現在の法幢寺東側の金子沢に閑居を構え隠居する。この人こそが地誌『駿河記』37巻を著した桑原藤泰(ふじやす)=桑原黙斎(もくさい)である。島田宿から旗指に続くこの道は、なかなか面白い道だと墓参りの度に思うのだ。

(2020年10月記)


森町 遠州山間地の道の交錯点

2024-07-22 08:43:08 | エッセイ

森町に通じる県道以上の山間道路

 遠州森町というのは実は島田とは隣り合せの町だ。と言っても川根塩本から大日山の平松峠を越える県道が、太田川上流部(吉川)の大河内に抜けているのだから、平成の市町村合併を経て川根町が島田市となった後のことだ。それまでは間に金谷町、掛川市があって、東海道のルートからは北に外れていたから、私にとっては大日山や春埜山を訪れた以外は、もっぱら水窪など北遠の山々への往来で通過するだけの町だった。遠州森町は太田川の谷口にあって三方を山に囲まれた小さな町だが、遠江國一宮・小國神社をはじめとする多くの歴史ある寺社があり「遠州の小京都」と呼ばれる佇まいを今に残しているのは何故なのだろうか。それは平成の大合併の最中、周智郡中唯一の町制を守った気概の在り処とも通じているのだろうか。
 東海道(国一)のルートからは大きく外れた森町だが、現在は新東名を使えば島田から僅かの時間で行くことができる。先のおはようハイクのゴール地点「門出駅」に隣接する島田・金谷ICから大代川を横切り、粟ヶ岳の下を潜って原野谷を抜ければ、次の森・掛川ICとなる。今はこうして直線的に道が貫かれるが、旧道においてもやはり大井川筋から森へと抜ける道がある。大代川の谷を溯り県道の庄司文珠トンネルを抜けると、粟ヶ岳・岳山(585.4三角点峰)と八高山との間の峠を越え掛川市丹間の谷となり、さらに原野谷を下れば城ヶ平(天方城跡)南側に出て森に至る。森からは現天浜線に沿った古い街道が都田、気賀へと通じ本坂峠を越えていたのではないか。森の石松ではないが、裏街道の存在である。
 冒頭に掲げた道もまた、家山→塩本→平松峠→大河内→三倉→城下(大河内→亀久保→鍛冶島→城下)を経て森に出ている。三倉から北に進めば気田川の谷に出て秋葉山に至る。ここから天竜川に沿ってさらに北上すれば伊那谷・信州へと至る。秋葉山常夜灯が随所に残る遠州森町は、秋葉街道(信州街道)の宿場であり、また遠州中央にあって東西通路と南北通路とが交錯する地点でもあった。三年ほど前にもなろうか、おはようハイクで二回に分けて菊川から掛川・原谷までの塩の道(秋葉街道)を歩いた。今回の森町散策は、その続きとも言える区間となる。
 大井川、天竜川という大河にあって、その上・中流域が峡谷で下流域との間の交通が容易ではない時代には、山間の集落の峠を越え、小さな谷を渡って物や人が往来した。そうした時代にあって、大井川右岸と天竜川左岸に挟まれた山間地の産物が集散されるのに、遠州森は絶好の位置にあったと言える。大井川右岸の川根筋においては、近代以降も遅くまで下流の金谷・島田といった鉄道駅のある町ではなく、森町との往来の方が多かったようだ。現在も森町を歩くと、茶や椎茸など山間の産物を扱う茶問屋の看板が多く目に付く。また反対に米や塩、日常品が森から山間地の集落に運ばれたことだろう。以下、先賢の浅井治平博士の論考を目にしてみよう。(2021年3月記)

森から家山への通路

鉄道開通前の遠州側の主要道路
(『大井川とその周辺』より)

 周智郡誌に「三倉家山往還と称する道」として「本郡三倉にて秋葉街道(信州街道)より分岐し、榛原郡下川根村家山に至り、川根街道に接す、(中略)本道は古来春野山、大日山に参詣の通路にして、又榛原郡より秋葉山への要路に当り、交通頻繁なりき」と書いてある。この道は森方面の人々が現在も利用する道で、森から三倉に出て三倉川の谷を上野平(五万分一秋葉山図幅参照)に進み、尾根道を登れば春野山大光寺に達する。別に適従谷に断層線まで加わった三倉川の谷を利用して大河内に進み、吉川の谷を登りつめると、割合に低い四八〇米内外の分水界に達する。この吉川と三倉川と、付近の断層運動との関係は、地理学的に興味深いものがある。ここから南一粁の尾根上に大日山金剛院がある。峠から尾根道を下ること一粁余で市尾に達し、必従河岸家山川の谷を下って塩本をへて上山に達する。すなわち三倉川や吉川は適従河川で、それらの河谷や、その削りのこしの尾根を伝って峠に出、そこから反対側の必従河川を下る道で、これらは皆、川の造った道といえるのである。そう云えば、前にのべた杉川や熊切川も適従河川で、これらに沿ったり、その間の尾根道なども河の造った道にほかならぬのである。
 この三倉家山往還は、春野山、大日山の参詣路であるが、幕末時代島田金谷の川越検問を恐れた浪人達は、岡部や藤枝から山中の裏道にかかり、江松峠から地名に出て、盥船を利用して石風呂に渡り、塩本でこの往還に入って三倉に達し、あとは秋葉街道と鳳来寺山道をとって御油に出たものである。この道をとると、第一に島田金谷の川越の検問や、川止めの難がさけられ、第二に浜名湖口の新居の関を通らなくてすんだから、凶状持ちの人々には天与の良道であったのである。
 しかし森から直接家山に行くには、城下から直ちに東北の尾根道に入り、黒岩山の南をすぎて大尾山(おびさん)に登り、尾根道を伝って前山から家山に達した。これが森からの川根街道で、太田川にそそぐ適従河川の造った尾根道を利用したことは、道路建設技術の発達しない徳川時代としては当然のことである。吉川の谷にそって問詰・鍛冶島から大尾山に行く道は明治以後のことである。

森の茶と古着市

 以上のように見てくると、森がいかに幕政時代から明治大正にかけて、川根筋に対して重要な地位を占めていたかがわかる。さらにくわしく云えば、森は信州街道の青崩峠から水窪、秋葉山をへて遠州平野に出る入口を扼し、秋葉山参詣客がここに蝟集して、交通上扇のような地位を占めるほか、太田川を利用して舟運がその河口福田(出)港に通ずる等、まことに四通八達の渓口集落を形成したのである。
 森・福田間の舟運は明治一八年頃までで、長さ三間位の小廻り船が用いられ、出水をまって舟を出したという。筏がかなり下ったのでこれも利用した。町の東部、太田川の東岸に船宿があったという。明治一八年頃、掛川との間に県道が改修され、森―掛川―相良と大八車が通うようになって、太田川の利用は減少した。
 明治の中期まで森では、「奥の衆」と云われた三倉川、吉川の谷の村落、気田川や熊切川の谷の人々と、「川根衆」と呼ばれた家山以北の大井川筋の人々を、商業的後背地として経済的に有利な地位を占め、山地物産の茶・繭・椎茸等を集め、米・塩・干塩魚・藁工品・衣料品・日用品等をこれら後背地に売った。川根茶はその中の特筆すべきもので、明治一五年頃の茶商は三百戸と称せられたが、現在は一二五戸(内再製二五戸、仲買人約一〇〇戸)である。明治初年には茶商で横浜に出店を持つもの六戸を数え、単に遠州茶だけでなく、三河の茶を始め、四日市を中心として伊勢・美濃の茶をも買い集めて、森茶として海外に輸出するほか、国内市場をも賑わした。森の石松物語りを表看板に森茶を宣伝するなど、森商人の商魂の逞しさは相当なものであった。
 森の古着商もまた商圏の広さにおいて茶に譲らなかった。同地出身の村松久吉氏の談による
「明治初年に森の茶商は太田川を利用して森茶を河口の福田港に出し、共同所有の観洋丸という小汽船で横浜港に出荷した。その売上代金を懐中にして箱根を越えて帰って来た。これは危険でもあるし、観洋丸の利用上にも不利であったので、その代金の一部で京浜の古着を買い集め、一包二〇貫から三〇貫に梱包して観洋丸の帰り荷とした。一方感洋丸は四日市にいって茶を買い集めたついでに、その地方の古着をも集めて福田に帰ったので、森は東京上方両地方の古着の集散地として、東海道筋に名声をとどろかした。その頃同町の有志が、松島見物にいって塩釜神社に参詣した所、境内の一隅に包装用の菰(こも)が乾かしてあった。何気なく見ると、正しく森の古着を包んだもので刻印にも屋号にも見覚えがあるではないか。「どこをどうしてここまで来たものか」と一同は首を捻りながら驚いたり懐かしがったりした。」
という。
 も一つ、森を繁昌させたのは、火防の神秋葉神社への表参道としての宿泊地であったことである。明治初年には年間約三〇万の人(と町の故老はいう)がここを通過宿泊したので、それによる繁栄は根深いものがあった。現在でも「旅籠町」の名が残っており、棟数四〇余軒、宿場町的遺跡景観が認められる。かりにその半数が宿屋であったとしても、なかなかの大規模である。途中三倉・若身平にも若干の宿屋はあったが、森には遠く及ばず、参拝者の大多数がここに泊ったものと考えられる。このように多数の他所者(よそもの)が通過して買物をする。その活況の中で、普通の谷口集落には見られない古着や茶の集散が行なわれるので、当時の繁昌は思いやられるのである。幕末に売り出された日本東西繁昌記の番付けに、森が五〇位あたりにあげられたことも当然なことである。これらの旅宿は森が郡役所所在地であった頃には、村長・助役・小学校長等の会合のための宿泊所となって、昔の夢をつないだが、今はそれすらも数少なくなったと嘆いている。

商圏の縮小と素通りされる秋葉詣

 大井川に舟行が許されてからは、川根筋の商圏は徐々に島田・金谷に奪われたが、昭和六年に大井川鉄道が千頭まで通ずると、森の商圏は川根筋から全く絶縁されてしまった。一方県道の発達とバス・トラックの進歩とは、いつまでも森を秋葉山の鳥居前町とせず、参拝客は二俣線の森駅や、袋井からの秋葉線により、或いは浜松から二俣をへて直接秋葉山に運ばれて行き、森に泊る必要はなくなった。交通の便はよいのに町には活気がなく、茶商の多いのはとにかくとして、町中には間口の広い住宅(しもたや)が多く、その背後には白壁の崩れ落ちた土蔵が立ち並ぶなど、おそらく往時の大商店の名残であろうか。衰頽の中に昔日の繁栄を物語っている。
 交通の利便によってかち得た昔日の繁栄が、同じく交通機関の進歩によって衰える。不思議なことである。都市の運命と個人の運命とが何か似通っているように思われる。

――浅井治平著『大井川とその周辺』第三章「川の造った道」より――

*「必従谷・適従谷」解説

 一般に云えば川はその流域の自然の傾斜に従って高い所から低い所に図のbdのように流れる。これを必従河というが、図に示すように地層の弱い所(図のabc)や、走向断層などにはまりこんで、必従河とほぼ直角になるような適従河を造る場合もある。


安倍奥と井川を結ぶ道

2024-07-20 11:26:52 | エッセイ

井川峠

 安倍川と大井川の間には分水嶺として、南アルプス白峰南嶺から山伏を経て連なる山稜が横たわっていて、安倍と井川の集落とを結ぶには越えなければならない峠がいくつかあった。その内、2000年前後まで実際に使われていたのは、北から牛首(三尺峠)、井川峠、大日峠、富士見峠の四ルートである。牛首ルートは、井川最北集落の小河内に出る道で、西日影沢からの山伏周回ルートとして登山目的でも使われていたが、コンヤ沢トラバース部分の崩落で通行止めとなって久しい。井川峠は、安倍側の孫佐島や大代と井川の岩崎を結んでいる。岩崎は井川ダム建設前には大井川左岸の集落だったが、ダム建設による水没で対岸に移転した。ここに架かる井川大橋は、車の通れる吊橋として知られる。大日峠越えは、井川ダム建設以前、井川から静岡に出るための、また口坂本から生活物資が持ち子によって運び込まれるメインルートだった。そして南アルプスへ踏み入る登山者も、同様にこの峠を越えていった。現在は、この古道を辿るハイキングも行われている。富士見峠は、ダム建設に伴い昭和33年に開通した初の車道ルートである。以後、この富士見峠越えがもっぱら井川と静岡を結ぶルートとなっていくが、山の道もなお、登山目的のみならず山仕事や生活レベルの杣道として、安倍と井川を結んでいた筈である。

 【井川峠】

 '97/7定例山行で笹山に行きました。SHCの山行運営が現在より未熟な段階でしたので、時間が押してしまい、井川峠で昼食になりました。狭い峠の四方に散らばってめいめいが昼めしにありついた時です。篭を背負ったおじいさんと、壮年の男性が静岡側から登って来ました。二人は我々ハイカーには目もくれず、話しながら井川方面へ下って行きました。峠の静岡側でコンビニおむすびを食べていた私は、この事に感激しました。井川峠が今でも生活道として使われていたことにです。昭和36年、山を一緒に始めたO君とこの峠を越えて以来、この道のことはすっかり忘れていました。林道が至るところ開かれた今、自動車がすっかり普及した現在に孫佐島から井川へ歩いて峠を越えた二人に拍手を送りたい気持でした。
 という、憧れに近い思い込みは'99/7の山行でぶち破られました。Tさんと孫佐島から井川峠をめざしました。長かった。きつかった。おまけに山蛭はいるし。当分井川峠のことは棚へ入れてしまおう。
〔I・K「安倍奥雑記帳⑥」:『やまびこ』№33(1999年12月号)より〕

深沢山山頂

 孫佐島から井川峠に至る山道が通る支稜線の中間に深沢山がある。安倍川対岸の十枚山に比べ訪れる人が圧倒的に少ないのは、孫佐島から一服峠までひたすら我慢の急坂の労苦もさることながら、尾根の続きといったふうのピークの存在感と展望の無さもあるだろう。が、このルートの本当の魅力はここから先にある。ブナ、カエデの広葉樹となった尾根を辿ると、かつて木材の伐り出し場だっただろう〝木立場〟の鞍部となり、やがて山腹をトラバースしながら、濁川源流部の沢筋へと下って行く。明るい光の入る沢は、穏やかな流れを深秋にはすっかり色付いたブナ、カエデが取り囲み、キラキラと輝いていることだろう。ここは安倍奥山域の最も美しい景のひとつだと耳にしたことがある。二回、三回と流れを渡り返しながら進む先に稜線の弛みが見える。井川峠だ!あと僅かに思えるが最後がなかなかの急登だ。もうひと踏んばり「ファイトーッ!」。
(2019年11月記)

木立場

濁川源流部の渓流


静岡の一等三角点

2024-07-16 11:38:23 | エッセイ

一等三角点「坂部村」(坂部高根山)

 師走の「おはようハイク」は、坂部高根山に行った。担当の河野君お薦めの展望所からは、高草山の上に富士山が、また北には大井川筋の山々と申し分無い眺望だった。目的地の坂部高根山頂には白山神社の祠があり、藤枝蔵田の高根白山神社との関連も窺えて興味が湧くと共に、もう一つここには一等三角点(点名:坂部村)と、県内ではここだけという天測点(かつて三角測量の位置座標を補正するための天文測量に用いられた測量標、全国で48点)が埋設されている。現在は木立に囲まれ山頂からの展望は望めないが、この場所が地図測量において重要な地点だったと推測される。
 三角測量の原理は、三角形の2点間の長さと内角が分れば、もう1点の位置(残り2辺の長さ)が分るというものだが、ここで必要になるのは正確な2点間の距離(基線)となる。国土地理院によれば「基線は3㎞から10㎞という直線と平坦な地域が確保できるところを選び、4mから25mの伸縮の少ない正確な物差し(基線尺)を使用して、その長さを慎重に測りました。特に温度による伸縮を少なくするため、明治末期までは氷漬けにして温度を0度に保った基線尺を使用したといわれます。」(地理院HP「一等三角測量とは」)とある。
 坂部高根山は牧之原台地末端の、山というより丘陵部の僅かな出っ張りに過ぎないが、地形図を眺めると南東側の川尻より静波の海岸に沿った平坦地から望めば明瞭な目標点となるピークに思える。仮にこの海岸部に基線を設けたとすると距離は約7㎞となり充分に条件を満たすわけで、坂部高根山は三角点網の基点としての役割を果たすことになる。顕著な山でもない場所に一等三角点が存在するのは、こういう訳があるようだ。坂部高根山(坂部村)をはじめとして静岡県の一等三角点を探してみよう。
 おはようハイクの折、先述の展望所で富士山や大井川の奥山の他に二つの山を探していた。北東方向の富士山やや左には静岡市のランドマークで、担当のK君のフィールドでもある「竜爪山」が見えた。反対側の北西方向には島田の街の向こう側に「八高山」が見えた。この2峰と城跡でもある高天神山(高根山北面の展望所からは見ることはできない)が、一等三角点「坂部村」と共に三角点網を形成する地点となる。
 静岡県内(県境を含む)の一等三角点(補点を含む)は次の通り。(地図参照)
①神石山(324.95m)
②富巻山(563.49m)*富幕山
③神ケ谷(37.58m)
④都田村(86.11m)*2016年3月支障撤去
⑤白倉山(1027.40m)
⑥上野巳新田(33.63m)
⑦熊伏山(1653.67m)*長野県
⑧黒法師岳(2068.09m)
⑨八高山(832.38m)
⑩高天神山(220.86m)
⑪坂部村(150.53m)*高根山
⑫大無間山(2329.62m)
⑬赤石岳(3120.53m)*長野県(県境上)
⑭竜爪山(1040.84m)*文珠岳
⑮毛無山(1945.40m)
⑯羽鮒村(320.71m)
⑰愛鷹山(1187.54m)
⑱達磨山(981.83m)
⑲岩科村(520.09m)
⑳万城岳(1405.63m)*万三郎岳

 その間隔は約40㎞間隔で本点、25㎞間隔の密度に補点といわれるが、地図を見ると必ずしもそのようにはなっていないようだ。しかしながら、海岸部の小さな三角から、山間部に向けて段々と大きな三角形になっていく傾向は見て取れる。また、点名が山名である一等三角点は里山、奥山に拘らず、いずれも山座同定の標準となる特徴を持った(隣接の一等三角点からよく確認できる)山であり、静岡を代表する山が含まれる。私自身は、この内「熊伏山」が未踏であるから、本年はこれを訪れ、静岡一等三角点峰達成としたいものだ。また、会の20周年では春合宿で「毛無山」を訪れる。ここからの隣接一等三角点「赤石岳」「大無間山」の眺望も楽しみである。(2016年2月記)

【追記】2024年7月14日

 会のLINEトークの中で、O・Kさんから「行ったことのない県内一等点の場所を地形図で見ました。都田村が??このあたりと見当はつくが、見過ぎて目に入らない?」とのメッセージ。調べてみると一等三角点「都田村」は2016年3月、支障撤去されていました。

おらが町の自慢の一つ「一等三角点」

一等三角点があったのは、都田浄水場の東隣の場所

 さらに、国土地理院の基準点体系分科会は2024年を目途に「少数の三角点を除き測量の基準としての用途を廃止する方針」を報告しています。“支障”がない限り既存の三角点標石が撤去されることはないでしょうが、測量の基準点という役割は終えられ、衛生測位システム(GNSS)を利用した電子基準点に置き換えられてゆくということでしょう。静岡県内の一等三角点の内、現在、電子基準点が取りつけられているのは、愛鷹山、達磨山、万城岳(万三郎岳)、岩科村の4点。また国土地理院は「電子基準点、三角点、水準点等の基準点の標高成果について、令和7年4月1日に衛生測位を基盤とする最新の値に改定します」と予告しています。標高が変わるお山も出てくることでしょう。

全国の標高成果の改定【予告】国土地理院

「野原の三角点は三角点を知らぬ人に、山の三角点は三角点を読む人に掘り取られてしまいつつあるのは誠に惜しい事ではありませんか。これらの三角点は国宝でありますから少なくとも我々だけは三角点を愛してやりましょう。」(加藤文太郎『単独行』より)


井川への峠越え

2024-07-11 13:17:58 | エッセイ

 井川は静岡最北部の山村であり、大井川最上流部の南アルプスによって遮断された閉塞谷、つまり行き止まりの谷である。車道が整えられた今でこそ、大井川の平野部への出口となる島田から二時間程で行けるが、戦後も暫くまでは、峠の山道を越える以外にない文字どおりの離れ里だった。井川へ越える車道が入るのは1957年の井川ダム完成の後であり、1958年、富士見峠を越える大日林道(現・県道南アルプス公園線/県道60号)、大井川筋では1971年、林道閑蔵線の完成を待ってのことであった。また、大井川鉄道井川線の前身は、戦前より電源開発(ダム建設)のための軌道としてあったが、旅客営業を開始するのはやはり井川ダム完成後の1959年であった。
 こうした閉塞谷の秘境にあって、外へと通ずるルートは、主要には川に沿って縦に移動するものではなく、隔てる山稜の峠を横に越えての交流だった。山伏から南下する大井川・安倍川分水嶺では、梅ヶ島へ抜ける三尺峠(牛首)、孫佐島へ抜ける井川峠、湯の森や奥仙俣に抜ける峠などがあるが、地形的に見ても中河内川へと抜ける大日峠が、一番越え易かったであろうことは想像できる。大日峠を越えた中河内川最上流部の口坂本は、名のとおり井川への入口であり、それ故、旧井川村に属していた。ダム建設以前の井川と静岡との交通には、徒歩での大日峠越え(3時間)、口坂本からのオート三輪(2時間)、上助からのバス(1.5時間)、計6時間半程を要したようだ。物資は持子と呼ばれる運搬人が背負って、もしくは索道を使って大日峠を越えるしかなかった。


昭和30年頃の井川・大日峠

 『修訂駿河国新風土記』によれば

〝大日嶺は此村より登り一里半許、東の方、途中に冷水の湧出る処あり、ここを水呑と云、下の方に大日堂あり、嶺の名これによる、神祖府に御在城の時、此嶺に御茶小屋を建、足久保にて製せし茶を壼に詰、此処に納め置、後に御台所に納めしとぞ、海野弥兵衛・朝倉六兵衛司る処なりと由緒書に見えたり、其跡石垣存す、此峠を西に下れば井川中野村なる刎橋の本に到る、凡下り一里半余……〟

とあり、既に江戸時代より頻繁な往来のある峠であったことが窺える。〈冷水の湧出る処〉には、水呑茶屋があったらしい。
 大日峠を越えたのは、井川の人々や生活物資だけではない。南アルプス登山のためには、この峠を越えて井川へ入らなければならなかった。冠松次郎の『大井川の冬』によれば、静岡駅の到着が早朝の4時42分、7時50分の安倍鉄道の始発に乗り、牛妻からは自動車で唯間へ。それから5貫目位のルックを背負って、気ままに歩き出した……とある。

〝口坂本で峠へ行く人に荷を托し、写真機だけ持って峠道を登って行った。長堤のような大日峠につづく山々を見ながら、途中の掛茶屋でウドンを一杯食べて空腹を癒し、それからやや急な坂道を登って行くと間もなく水呑茶屋についた〟

 北アルプスで言うならば上高地への入口としてのかつての徳本峠越えと全く同様の意味が、井川・大日峠にはあったのである。今日、由緒正しき峠を歩いて越すのも一興だろう。

*参考:金子昌彦・廣澤和嘉著『登山誌:静岡市を含む南アルプスの山々』

(2014年10月記)

現在の大日古道の様子は下記「大日古道と井川村」参照

『大日古道と井川村(2022,10,17~18)前編』

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