山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

南アルプスから(3)

2024-07-14 17:17:05 | 南アルプスから

小屋開けを迎えたが生憎の天候が続く
「昨日、今日(7/11)と風が強くて雨もありで…嵐みたいな時もあります」「夕方4時、小屋前気温11℃」
「今朝(7/12)6時頃の小屋裏から」

赤石岳

聖岳

荒川・悪沢岳方面

裏の展望台への道

ハクサンシャクナゲ

2564.4m三等三角点『奥槙沢』、名なしではありません

小屋裏の小ピーク2564.4m三等三角点「奥槙沢」の名前が出ましたので、南アルプス南部の三角点について少々。
三伏峠から光岳までの南アルプス南部主稜線のピークで一等三角点は盟主・赤石岳(3120.5m「赤石岳」)だけで、範囲を南アルプス全域に拡げても甲斐駒ヶ岳(2965.5m「甲駒ケ嶽」)と二峰しかありません。二等三角点は南部主稜線では小河内岳(2802.0m「小河内」)と上河内岳(2803.4m「上河内岳」)。
三等三角点は主稜線から少し外れますが荒川中岳(3083.7m「荒川岳」)、大沢岳(2819.8m「大沢岳」)、兎岳は2818mの山頂から西に少し外れた場所に2799.8m「兎岳」、吊り尾根の聖岳も少し複雑で三つの標高があります。聖岳自体の最高地点は3013m前聖岳ですが、主稜線から外れた静岡側に2982m奥聖岳があり、三角点は吊り尾根の東端に2978.7m「聖ノ岳」としてあります。やはり主稜線から少し外れますが、薊平の分岐から少し伊那側に下りた所に2314.5m「西沢」、静岡側に外れた2524.2m「仁田岳」、2354m易老岳もまた易老渡側に少し下りた地点に2254.5m「易老岳」、最後は2591.5m「光岳」となります。支稜線では3141mの悪沢岳(荒川東岳)には意外なことに三角点は設置されていません。千枚岳(2880.3m「上千枚」)、2515mマンノー沢頭の山頂から僅かに外れて2503.9m「千枚」がありますが、この点名「上千枚」は上河内岳東尾根上の2359.0m上千枚山の点名ともなっています。聖岳東尾根上には白蓬ノ頭(2632.8m「白蓬沢」)があります。
こうしてみますと三角点は全ての主要ピークに設置してあるものではなく、また標高や山頂(最高地点)とも基本的には関係がないことが分かります。日本第二位の高峰・3193m北岳(3192.5m「白根岳」)は三等三角点ですし、第三位の3190m奥穂高岳には三角点そのものが設置されていません。その意味では、我が赤石岳の一等は立派(?)なものです。ご存知のとおり三角点網は細かい四等から大きな一等へと段々と大きな網になっていきますが、赤石岳に隣接する県内の各一等三角点との距離は、毛無山35km、大無間山23km、熊伏山33kmとなります。もう一つ蛇足となりますが、聖岳には三つ標高があることを前述しましたが、富士山剣ヶ峯も『地理院地図』には三つの標高が記載されています。
(1)電子基準点「富士山」3774.9m
(2)二等三角点「富士山」3775.5m
(3)富士山最高地点の標高3776m(二等三角点「富士山」より北へ約12m)


井川への峠越え

2024-07-11 13:17:58 | エッセイ

 井川は静岡最北部の山村であり、大井川最上流部の南アルプスによって遮断された閉塞谷、つまり行き止まりの谷である。車道が整えられた今でこそ、大井川の平野部への出口となる島田から二時間程で行けるが、戦後も暫くまでは、峠の山道を越える以外にない文字どおりの離れ里だった。井川へ越える車道が入るのは1957年の井川ダム完成の後であり、1958年、富士見峠を越える大日林道(現・県道南アルプス公園線/県道60号)、大井川筋では1971年、林道閑蔵線の完成を待ってのことであった。また、大井川鉄道井川線の前身は、戦前より電源開発(ダム建設)のための軌道としてあったが、旅客営業を開始するのはやはり井川ダム完成後の1959年であった。
 こうした閉塞谷の秘境にあって、外へと通ずるルートは、主要には川に沿って縦に移動するものではなく、隔てる山稜の峠を横に越えての交流だった。山伏から南下する大井川・安倍川分水嶺では、梅ヶ島へ抜ける三尺峠(牛首)、孫佐島へ抜ける井川峠、湯の森や奥仙俣に抜ける峠などがあるが、地形的に見ても中河内川へと抜ける大日峠が、一番越え易かったであろうことは想像できる。大日峠を越えた中河内川最上流部の口坂本は、名のとおり井川への入口であり、それ故、旧井川村に属していた。ダム建設以前の井川と静岡との交通には、徒歩での大日峠越え(3時間)、口坂本からのオート三輪(2時間)、上助からのバス(1.5時間)、計6時間半程を要したようだ。物資は持子と呼ばれる運搬人が背負って、もしくは索道を使って大日峠を越えるしかなかった。


昭和30年頃の井川・大日峠

 『修訂駿河国新風土記』によれば

〝大日嶺は此村より登り一里半許、東の方、途中に冷水の湧出る処あり、ここを水呑と云、下の方に大日堂あり、嶺の名これによる、神祖府に御在城の時、此嶺に御茶小屋を建、足久保にて製せし茶を壼に詰、此処に納め置、後に御台所に納めしとぞ、海野弥兵衛・朝倉六兵衛司る処なりと由緒書に見えたり、其跡石垣存す、此峠を西に下れば井川中野村なる刎橋の本に到る、凡下り一里半余……〟

とあり、既に江戸時代より頻繁な往来のある峠であったことが窺える。〈冷水の湧出る処〉には、水呑茶屋があったらしい。
 大日峠を越えたのは、井川の人々や生活物資だけではない。南アルプス登山のためには、この峠を越えて井川へ入らなければならなかった。冠松次郎の『大井川の冬』によれば、静岡駅の到着が早朝の4時42分、7時50分の安倍鉄道の始発に乗り、牛妻からは自動車で唯間へ。それから5貫目位のルックを背負って、気ままに歩き出した……とある。

〝口坂本で峠へ行く人に荷を托し、写真機だけ持って峠道を登って行った。長堤のような大日峠につづく山々を見ながら、途中の掛茶屋でウドンを一杯食べて空腹を癒し、それからやや急な坂道を登って行くと間もなく水呑茶屋についた〟

 北アルプスで言うならば上高地への入口としてのかつての徳本峠越えと全く同様の意味が、井川・大日峠にはあったのである。今日、由緒正しき峠を歩いて越すのも一興だろう。

*参考:金子昌彦・廣澤和嘉著『登山誌:静岡市を含む南アルプスの山々』

(2014年10月記)

現在の大日古道の様子は下記「大日古道と井川村」参照

『大日古道と井川村(2022,10,17~18)前編』

『大日古道と井川村(2022,10,17~18)前編』

所属する静岡山岳自然ガイド協会の研修で大日古道を歩いてきました。大日古道とは静岡と井川を結ぶ道です。今では林道が開通し、歩く人はほとんどいません。今回は車で大…

クララのブログ

 

 


井川に見る様々な「日本」

2024-07-09 13:25:39 | エッセイ

一面に花が咲いたソバ畑=静岡市葵区小河内

 (2014年)9月22日付静岡新聞に〝焼き畑復活3年目 静岡・井川の「在来ソバ」根付く〟という記事が掲載されていた。

 静岡市葵区井川地域で伝統の焼き畑農業を復活させ、在来ソバのブランド化を目指す取り組みが3年目を迎えた。ことしは近隣の民家を改装し、そば打ち体験など交流拠点としての活用も始まった。県外からの移住者も受入れ、集落に活気が生まれ始めている。

として、2012年、井川小河内で約50年ぶりに焼き畑を実施し、井川地区の村起こしの一つとなりつつあることが紹介されていた。
 井川において焼畑が行われていたのは、遠い昔のことではない。戦後しばらく、場所によっては昭和50年代まで続けられ、山間(やまあい)の集落という地理的条件に即した農法であり、生活の基盤であった。井川の昭和28年の主要農作物の作付面積は、水稲がわずか13.2反に対し、焼畑作物である稗(193.4反)、粟(69反)、大豆(70.6反)、小豆(70.2反)、甘藷(181反)の割合が高く、主要な作物であったことがわかる。また、井川における焼畑農法では、3、4年を基本とするローテーションで作物を植え、20~30年かけて雑木林を復活させるという循環的な方法が用いられ、山の自然のリズムと恵みに頼る暮しを、長い伝統として保持してきた。


近世における焼畑のローテーションの想定図


焼畑の居小屋と井川湖
(共に静岡市立登呂博物館『祖父母から孫に伝えたい焼畑の暮らし』より)

 米が日本人の生活を支え、稲作が日本文化生成の基盤になったことはまぎれもない事実である。しかし一方、焼畑農業が山に住む人々の生活を力強く支え、そこに独自な文化を育んできたのも事実である。(中略)
 焼畑農業を基盤として生まれた伝説、民謡、芸能、家屋、食物、酒、祭り、儀礼、葬送などを総合的、有機的にとらえた時に、真の「焼畑文化論」が成り立ち、それがまた日本文化解明の鍵にもなる。(野本寛一『大井川 ―その風土と文化―』)

 日本の〈原風景〉として語られる田園と里山というものとは異なるもの、これは井川に限ったことではなく、例えば一昨年合宿の檜枝岐や遠山郷・下栗の里などを格別に上げずとも、山の行き帰りに山間の集落に目をやれば幾つでも気付く風景だ。「豊葦原千五百秋瑞穂国」(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)この記紀来の「瑞穂の国」(某首相が「美しい国、日本」の同義としてよく使う)のみが、古代から現在に至るまで、「日本」の隅々に亘るもので無かったことは確かであって、言うなればヤマトとしての理想郷〈幻風景〉だったのではないか。「瑞穂の国」を前提とした伝統、文化、地域は、野本寛一氏の述べるように「日本」のある個別の一面に過ぎず、列島には南北や山間の地域によって様々な伝統、文化が存在し、多種多様な「日本」があったはずだ。それは今日の「東北」や「沖縄」の問題、位相にも繋がっているのだと思う。
 井川の歴史は古い。割田原遺跡は縄文時代中期の遺跡であり、この頃から既に人の住み着きがあったことが示されている。また、井川田代では「先祖が遠山から来た」と伝えられ、山を越えた伊那側でも滝浪姓の家に「井川から来た」「井川へ行った」という伝承があったという。人だけではなく文化の根源となる信仰(神)もまた奥山の峠を越え、信濃俣、沼平、田代と入ってきたことは、田代諏訪神社の伝えから明らかで、南アルプスそして諏訪へと連なる三住ヶ岳(大無間山)が聖地として崇拝されてきたことを示している。そうした「瑞穂の国」以前の、あるいは外の、今日にまで連なる様々な「日本」の姿を垣間見ることも、私にとって山歩きの一つである。

(2014年10月記)


続・山名の読み方

2024-07-07 10:30:07 | エッセイ

 先の会報に『山名の読み方』と題する小文を載せた。さっそくにA・Hさんが手紙の中で触れて下さり、また幾人かの会員からも反応があって気を良くした。今回は文末に記した「○○ノ頭」の頭について、無い頭(あたま)で考えてみた。
 A・Hさんは「私は頭(かしら)の呼び名が好きです。」と述べられ、また山の話をしていると、他の多くの人も[かしら]と呼んでいるようである。なるほど語感的には[かしら]の方が、すっきりと納まる気がする。ところで一般に使われている[あたま]と[かしら]の区別は、おおよそ以下のように思う。
 まず、体の部位としての区別は、[あたま]は頂点そのものであるのに対し、[かしら]は首(肩)から上の全てと範囲が広くなる。「おかしら付き」は顔のついた状態であり(魚に首や肩は無いが)、「かしら右!」の号令では首から上を右に向ける。敵の武将の首を刎ねる時は「お(み)かしら頂戴!」と言う。
 比喩的に組織のトップを頭とも言う。この場合、頭領的なものは[かしら]と呼ぶ。火消しや鳶の親方、またヤクザや盗賊の親分は[かしら]となる。ある種の実力集団的なもので、現実の力(武力、腕力)を有した名実共にトップを[かしら]と言っているようだ。一方「天皇を頭に戴く」や「○○会の頭をやる」などは、[あたま]と呼ぶのが一般的だろう。この場合には、力云々よりもポジション、象徴的な意味が優先されるようだ。
 山名で「○○の頭」というとき、殊に近代登山とは別の歴史性の中で名付けられている場合、○○の部分はその山を源とする沢の名前であることが多い。例えば、ヨモギ沢の頭、アツラ沢の頭、ワサビ沢の頭など(いずれも安倍奥)。また山名が「○○の頭」でなくても、上河内岳は上河内沢、聖岳は聖沢、赤石岳は赤石沢の頭なのである(いずれも赤石山脈)。山名、沢名のどちらが先かという議論もあるが、高山の山頂に立つという目的がない昔、まず踏み入って認識する(名付ける)のは沢の方であると思われる。大きなピーク(すなわち大きな沢といえる)は、やがて「沢の頭」が取れ独立した名となり、小ピークの場合は未だに沢を引きずっていると言えるだろうか。ただし、これは山深い高山の場合で、里山あるいは里からそれを認識できる象徴的な峰や独立峰は、山自体に由来する固有の名前が付けられているだろう。
 かつて山を歩いた人々は、沢を辿り、その最初の一滴が生まれる源頭部の頂きを「○○沢の頭」と呼んだのである。従って、それが指しているのは山体全てとか、源流部という大まかな範囲ではなく、あくまでも頂点(ピーク)そのものだと考えられる。山体の部位としての頂点、つまり[あたま]である。肩から上の総称である[かしら]では範囲が広く、まだ尾根の途中や斜面をも含んでしまうように思うし、稜線上の小ピークでは[かしら]に当る部分がないこともある。それに[かしら]と呼ぶと、何か群の親分、つまり連山の中心、主峰というような感じがしてしまうのだ。だからこそ語感は良いのであるが。
 ご存知の「富士山」の歌は、

〽あたまを雲の上に出し……

と唄う。雲から出ているのが、[かしら]部分に相当していても、やはり「富士山が頭(あたま)を出している」と人は言うのである。
 1980年代頃の『アルペンガイド』(山と渓谷社)には、巻末に三宅修解説による登山用語集が載っていて、その最初の項目が「あたま頭」となっていた。そこでは、

稜線上に位置する小さなピークのこと。かしらと読むことはまれで、長次郎ノ頭とか屏風ノ頭など、いずれも〝あたま〟と発音する。

とあるが、登山界の統一見解であるのか不明だし、さらに、その個別の地域で実際にどちらの呼び名であったかは判らない。ただ、この説を踏襲しているのか、手元にある山と渓谷社発行のガイドブックでは、山域、執筆者を問わず、[あたま]と読ませているようだ。……と書いて、最後に『谷川岳と越後の山』(2000年発行版)を検証していたら、どっこい索引に名の出る「○○ノ頭」21座中、[かしら]読みは16座、[あたま]読みは6座だった。この本は共著となっていて、[かしら]はいずれも「谷川岳周辺の山」の項で群馬県岳連関係者が執筆、[あたま]は「越後の山」の項で長岡ハイキングクラブが執筆している。両項は巻機山周辺で重なり合っているので、これは両者の読み慣わしの違いという他ないだろう。中には、永野敏夫氏の『山といで湯』(2000年・静岡新聞社)ように一冊の中で鉄砲木ノ頭[あたま](三国山稜)と五葉沢ノ頭[かしら](小無間小屋のピーク)と混在させている例もある。
 前述の考えどおり本来の歴史性を持った読みは[あたま]であったのが、おそらく一部登山者(クライマー辺り?)の間で始まったと思われる[かしら]読みが歳月の中で広まり、近年、一般化しつつあるのではと想像するが、どうだろうか。[あたま]は下(里や沢など)から見上げ、辿る視点、[かしら]は稜線上を攀じる視点、「お山の大将」とも感じられる。

(2006年12月記)

【追記】

『民俗地名語彙辞典』(松永美吉著・日本地名研究所編 2021年・ちくま学芸文庫)によれば

アタマ 溪谷又は渓流の源に当たる峰又は隆起を指す、其の渓谷の名を冠して呼ぶのが普通である。時としては凸起ならざる尾根の上部にも当てる〔『地形名彙』〕。

 何々頭(アタマ)とよぶ山は、山岳語としては谷や沢の源の突起部あるいは枝尾根が主脈に合するあたりの隆起が目立っている場合に「何沢の頭」と呼ばれる例が多い。それは主峰的な存在、あるいは何山、何岳とよばれるような顕著な独立的存在でないものが多い。しかし、中には何山、何岳と呼ばれて然るべきものもあり、必ずしも厳密に区別されない。

とある一方で、カシラについては「① シリ(尻)の反対語で起点、ものの始まり(井ノ頭、田ノ頭) ② 山」と記しているので、地域によって[カシラ]読みの山名があることは間違いではないと思われる。

(2024年7月記)