わが山旅五十年
(田部重治著、1996年2月15日、平凡社ライブラリー)
木曽路と田部重治
今回の冬季合宿は、「木曽路&南沢山・横川山」である。ここ数年、冬の合宿(特別山行)は、諏訪、吉野、高山と雪の中で遊ぶことにプラスして、山麓の歴史や風土に触れることを企画してきた。山歩きが単に自然の中に浸るということや景観ということを越えて、山と人との関わりという楽しみも加わるように思う。こうした楽しみは何も考えずに歩くのではなく、事前に自分なりの興味の在り所を掴んで臨んだ方が、いっそう深くなるようにも思う。
木曽路は訪れたことのある人も多いことだろう。江戸宿場町の面影を残す妻籠は、全国に先駆けて景観保全活動に取組み、1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。現在では隣接する馬籠宿と合わせ、木曽路を代表する観光地となっている。私が訪れたのは1974年、高校進学前の春休みの姉弟行で、お仕着せでない旅は初めてのことだった。当時盛んだったユース・ホステルに宿泊しながら、木曽福島から馬籠までを散策し、さらに恵那から岩村、明智まで足を延ばした。なぜ初めての旅で選んだのが木曽や明智の里だったのか、またいったい何を見てきたのか今では判然と思い出せないが、もしかしたら当時のNHK大河ドラマ〔72年「新・平家物語」(吉川英治)、73年「国盗り物語」(司馬遼太郎)〕の影響があって、木曽義仲、明智光秀といった歴史の〝徒花(あだばな)〟のような人物への関心というものもあったかもしれない。加えて「海よりも山が好き」というのは、この頃からだったようだ。
閑話休題。今回の目的地の地理的な概念をざっくりと頭に入れておこう。山登りも旅も、比較的大きな把握があると理解が深まることがある。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村「夜明け前」)の言葉のとおり、木曽川上流部の木曽山脈(中央アルプス)と御嶽山系に挟まれた木曽谷は、V字谷状地形が約60㎞にわたり古くから交通の難所とされてきた。現在の岐阜県中津川市と長野県塩尻市間であり、濃尾平野と信濃を結ぶ位置にあるが、古代官道であった東山道はこの木曽谷を通らず、恵那山北東の神坂峠を越え伊那谷へと抜け、中世まではこれがメインルートだったらしい。木曽路が幹道となるのは、近世となり五街道の一つ中山道として整備され、木曽十一宿が置かれてからとなる。狭窄な木曽谷より、広い盆地である伊那谷を通る方がはるかに容易な道だろうと思うのだが、標高1569mの神坂峠越えはそれを上回る難路だったようだ。一方、木曽路の場合は、南から谷へと入る馬籠峠が標高790m、北で奈良井川へと抜ける鳥居峠(中央分水嶺)が標高1197mで、比較的緩やかに越えられことは利点だったのかもしれない。また、尾張藩による林業開発(木曽五木)や、御嶽講による御嶽山信仰登山が盛んに行われるようになったことも、木曽路の確立に影響していたのだろう。
明治以降は木曽路に沿って国道19号線や中央本線が通り、東西の幹線で沿岸ルートである東海道の裏道、山沿いルートの一部となったが、現代、濃尾平野と信濃を結ぶ幹道となった中央自動車道はここを通らず、東山道神坂峠のわずか北側の富士見台下を長大なトンネルで越え伊那へと抜けている。このような古い時代のルートの復活とも言えることは、例えば東名高速の箱根越えにも見られるもので、無論、トンネル掘削など土木技術の発達により最短ルート、直線ルートが容易に取れるようになったからだろうが、どこをルートとしていくのかということは、その時代時代の社会の在り様というものも感じられるようだ。今、論議を呼んでいる、リニア中央新幹線の南アルプス貫通ルートも我々の時代の在り様が問われることになる。
ところで〝山旅派〟の元祖とも言える田部重治(たなべじゅうじ)は、昭和十二年十月に木曽路を旅しているのだが、この年の七月には岩菅山を訪れていて、全く偶然にも本年度のSHC夏・冬の合宿地と重なることになった。田部は、幸田露伴の中山道紀行『酔興記』(明治二十一年)に魅せられて木曽路を訪れようと思い立つ。
「私に取って面白いのは『酔興記』の内で木曾の洗馬(せば)の宿場に立よって十四、五才の美しい乙女を見たことの記事で、それから奈良井の徳利屋に泊り、次に須原に泊って名物花漬を買ったことが書いてある。(中略)露伴の感激して眺めた乙女はどんな女性だろう。もし生きているとすれば多分六十七、八才であろうと思われる。そのおばあさんをさがして、万一会えるとすれば面白いだろうと思った。」(『わが山旅五十年』第四十三篇)
なかなか粋で艶っぽい動機で、これは結構なことだと思った。しかし「洗馬が最近に焼けてから昔の面影がなくなった」こともあって「洗馬から奈良井までを他日にゆずることにして、今度は奈良井から始めることにした。」田部は鳥居峠を越え木曽川の谷に入り藪原に投宿する。中津川までの汽車を須原で途中下車し、目的の花漬を求める。「花漬は全く見て美しいもの、箱に模様形に配置され、花は四季の花で梅酢につけられ、つみ取った時のままに生き生きしている。たべる気がしないほど美しい。」と記すが、いったいどれ程の美しさだったのだろうか、想像すらできない。中津川から馬籠、妻籠へと向かう道中では「全く幽山裡を歩く気がし」、さらに「妻籠か蘭(あららぎ)村へかけての秋はよく、それから清内路(せいないじ)峠へは一層よくなって行くように見えた。蘭村は実にいい村だった。」と感激している。蘭というのは、南木曽岳南麓の木曽(妻籠)から伊那(飯田)へと抜ける大平街道(現・R256)沿いの集落、また清内路は昼神への途上の集落であるが、いずれも山間の地名とは思えないような高貴で艶やかな趣が感じられる。いったいどんな集落なのか、田部先生ならずとも麗しい乙女と共に楽しみに期待したいものだ。
さて、合宿二日目の目的地である南沢山(1564m)・横川山(1620m)は、その清内路から登ることになる。木曽山脈(中央アルプス)主脈南端上、逆から見れば恵那山北東尾根の富士見台北側のピークで、岐阜・長野県境(美濃・信濃国境)及び伊那・木曽郡境上にあり、木曽川水系と天竜川水系との分水嶺でもある。南側を神坂峠、北東側を清内路峠、そして北西側を木曽路の入口である馬籠峠と、いずれも由緒正しき歴史的な峠が越える貴重な位置にある。この辺ではあまり耳にしない山だが、マンサクが群生する山として地元では知られているらしい。春はそのマンサクの淡黄色の花が咲き、秋は田部も感嘆した見事な紅葉を見せるという。笹原の山頂は抜群の展望台となっており、中央アルプスをはじめ、御岳、乗鞍、そして東には我が南アルプスの美しい姿も望まれるだろう。最近は樹氷の見られる山としても知られるようになり、スノーシュートレッキングなども盛んに行われているようだ。山頂の雪原の中で、目いっぱい雪と遊びたいと思う。
(2014年1月記、会報『やまびこ』No.202)
広重「木曽海道六拾九次・妻籠」
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【2025年4月追記】
『わが山旅五十年』の解説の中で水野勉は次のように述べていた。
そうして、田部が発見したのは、日本の渓谷と深林の美である。同時代の小島碓氷などがヨーロッパのアルピニズムに少なからず影響され、槍ヶ岳の盗聴に感激し、南アルプスの縦走に先駆者らしい意気込みを持っていたのとは対照的に、田部は渓谷と深林の美のみを追い求めて行った。田部は《アルピニズム》という、ハイカラなヨーロッパから来た言葉を嫌った。
絶頂よりも渓谷、雪よりも深林という風な変化が、著しく私の山に対する嗜好の上に現れるようになって来た。峯より峯へと伝わるような、いかにも面白そうに考えられて、しかも事実変化に乏しい山あるきよりも、渓谷を深く登りつめ、深林に分け入って、絶頂に攀づることが、最もよく山に対する嗜好を総括しているように想われる。そして、それのみが、最も印象の生々とした多様の変化を感享せしむることが出来る。
彼は「アルピニズム」とか「スポーツ」といった概念には、ほとんど影響を受けなかったように見える。むしろ、江戸時代に発達した《旅》の伝統を受け継いだといったほうがいいかもしれない。山登りという言葉も適当ではないかもしれない。《山旅》という言葉が最もふさわしいように思う。田部が自分の長い年月の山行のしめくくりとして書いた『わが山旅五十年』という著書の名がそれをよく表している。