山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

広重・五十三次の山(5)

2024-08-28 13:03:54 | 浮世絵の山

江尻・三保遠望 江戸より18番目の宿

 江尻は今の清水だが、静岡県の一番薄くなった部分に位置している。駿河、遠江内の東海道から北へ抜ける数少ないルートの起点の一つであり、現在では興津から国道52号線が貫かれている。この道は我々の山行においては、山梨南部の山はもちろん、南北アルプス、八ヶ岳などへ行く折に随分と利用していて、沿線の風景も馴染みのものとなった。いわば我らの山街道でもある。江尻は駿府の手前にあって、海上交通と東西ルート、南北ルートのジャンクションという、絶好のポジションにあることが分かる。湾の向うの山並は愛鷹山塊か、現代では富士の煙突群も望められるだろう。
 清水とくれば今はサッカーでの知名度が高いが、それ以前は何といっても海道一の大親分次郎長だろう。次郎長一家にとっても、東海道の港湾江尻と山国甲州を結ぶこのルートは重要だったようで、ライバルの甲州・黒駒の勝蔵とは盛んに抗争を起こしている。博徒といっても一家を構えれば賭博だけで成り立つものではなく、荷役や交易など様々な利権に絡んでいたのだろう。従って彼らの活動範囲は極めて広く、現代の新聞用語でいえば「広域暴力団」の様相を示す。その広域性の故か子分達の出身地も様々である。最初の子分、桶屋の鬼吉は尾張の出で遠州秋葉山の縁日賭博で拾っているし、大政も尾張の武士くずれ、関東綱五郎は名前のとおり、法印大五郎は大阪の坊主くずれとくる。
 生まれた場所と環境の中で生きざるを得ない封建社会の中で、裏街道とはいえ身軽にあらゆる道を往来する彼らアウトローたちの旅姿は、後世になってもある面で憧れであり、爽快なものとして映ったのは理解できる。秩父困民党をはじめ明治の自由民権運動に、少なからざる博徒が関わったことも故ないことではあるまい。
 我らもまた道を歩く者。裏街道のさらに奥深く、獣しか通わぬ道を行くこともあるが、精神の自由さを希求することにおいては、山屋もまたアウトローたちと同じ系譜を引くのかもしれない。

(2003年7月記)

*  *  *

【2024年8月追記】

日本平から望む富士山

 上の文で「湾の向うの山並は愛鷹山塊か」と書いたが、これがどうも引っ掛かっていた。沼津以西の駿河湾沿岸で愛鷹山が富士山の左にあることはあり得ず、そんな全くの虚構のアングルを広重が採ることは無いだろうと。もちろん、これは画の中央奥に小さくではあるが描かれた尖った峰が富士山であるという前提による。WEB上にあった幾つかの解説の中から、画の視点と背景の山に関することを拾ってみた。

○東京富士美術館
江尻は現在の清水港。中央には有名な三保の松原が見え、遠方には愛鷹山がごつごつとした山並みが見える。おそらく愛鷹山の左側には富士も見られたに違いない。
○アダチ版画研究所
江戸幕府の初代将軍・徳川家康が最初に埋葬された東照宮のある久能山から、清水港を眺望した図です。
○東京伝統木版画工芸協同組合
本来は富士の眺望が良いはずだが、意図的に外した様だ。
○文化遺産オンライン
白い船の帆や港に停泊する船のかたちが様式化され美しい。広重は高い位置から見渡すようにこの風景を描いている。
○kanazawabunko
この風景絶佳の展望は、久能山・日本平あたりからのものでしょう。(中略)遠景は愛鷹山らしい山並みの展望から霞を隔てた海上に数多くの帆影で賑やかさを見せています。
○地図から見る「東海道五十三次の旅」(Canon Creative Park)
家康の霊廟のある久能山から三保の松原を遠望した図です。左奥の山塊は愛鷹山です。本来は右手にあるはずの伊豆半島は描かれていません。
○Google Arts & Culture
遠景に見える伊豆半島は、実景では右に伸びていくはずですが、広重はこれを省略して水平線の広がりを表現しました。

 まとめると、⑴左に描かれた山は愛鷹山、⑵富士山は(意図的に)描かれていない、⑶久能山・日本平辺りからの景、といったところだろうが、どうも納得がいかない。だいたい富士山の見える場所で、扱いの大小はともかくとしてこれを画の中に置かないわけがない。江尻から見える景で、シンボルチックな円錐形に描かれる山は富士山をおいて他にはない。もっと大きく見える富士山を広重が意図的に小さく(しかし中央に)置いているのは、駿河湾の奥深さと、そこを白帆を立てて進む何艘もの船を主題としたからではないだろうか。つまり海上交通の要地としての江尻の賑わいである。

三保・御穂神社から北北東方向の展望図

 では、左の山並は何だったのか。愛鷹山塊ではなく、掲げた展望図に示されるように浜石岳と大丸山の山塊で間違いないだろう。浜石岳については前回(4)「由井・薩埵嶺」で述べたように、遮断性のある大きな山塊だ。愛鷹山は画では富士山右側の裾野と一体化して描かれている部分だろう。実景では、さらにその右に箱根の山並があって、伊豆半島へと続いていくのだが、これは春霞の中で見えないのだろう。波もなく穏やかでキラキラ輝いている水面は、春の海そのもののようだ。
 最後に画の景がどこからのものかだが、日本平辺りからの景であるとすると、写真のように浜石岳と大丸山が富士山に被りすぎてしまい、もう少し東に寄る必要がある。また、画の家並や停泊する船の描かれ方を見ると、2、3百メートルの高さから見下ろしているとは思えない。現在の三保の地形とはだいぶ異なっているだろうが、砂嘴に囲まれた折戸湾最奥部の少しの高みからではないかと想像する。展望図は、仮に御穂神社から高度20メートルで作成したものだ。

 


広重・五十三次の山(4)

2024-08-27 13:45:46 | 浮世絵の山

由井・薩埵嶺 江戸より16番目の宿

 薩埵[さった]峠から見る富士山の姿は今も画になる。NHK「私の富士山」でもお馴染みの撮影ポイントである。車や電車で東進するとき、由比にさしかかると立派な富士の姿がドンと現れいつも見入ってしまう。海には桜エビ漁だろうか、広重の画のごとく帆を張った漁船が浮かんでいることがある。由比には広重美術館があるが、実景に最も近いのがこの画らしい。
 薩埵峠は、東海道の難所であり要所でもある。現在は旧道にバイパス、東名、それに東海道線が並んで眼下を通っているが、かつて旧街道は上道・中道・下道の三つに分かれ、断崖下のルートが「親不知子不知」と呼ばれていたのは、北陸道のそれと同様だ。SHCがまだ準備会の頃、但沼から浜石岳を経て薩埵峠まで歩いた。農作業のおばさんが蜜柑を放ってくれた。長い歩きで疲れた身体に染み渡った。海と富士が見えて蜜柑のなる山、浜石岳から薩埵峠にかけては、いかにも静岡らしい山だ。

(2003年6月記)

現在の薩埵峠から富士山と愛鷹山

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浜石山塊の遮断性

 庵原地域は静岡県内で南北が最も薄い所で、興津の国道52号線の起点から山梨県境の境川(富士川支流)までは、直線で僅か16キロである。この薄い地点を駿河湾まで塞いでいるのが浜石岳で、標高707メートルの低山ながら山塊と言える程の随分と大きな山なのだ。広重・東海道五十三次「由井」に描かれたように山塊南端の薩埵山下の断崖に海岸が迫る地形は、大崩海岸で駿河湾に落ち込む高草山塊と同様に、非常に強い遮断性を保つ。また、この山塊は安倍奥・青笹山から分かれ徳間峠、高ドッキョウ、樽峠と続く県界尾根の支脈(つまりは白峰南嶺の末端)であるから、東西方向に対するのみならず、北の甲州側に対しても一定の障壁となっている。
 こうした地形的特性は同時に交通の要所となり、現在、由比南側海岸の猫の額程の狭い平地に、国道1号線、東海道本線、東名高速道路(薩埵峠下は短いトンネル)が並んで通り、東海道新幹線はトンネルが南の尾根を貫き、新東名は山塊の北端をやはりトンネルで貫いている。北からは国道52号線(身延街道)が万沢の峠と宍原の富士見峠(逢坂)を越えて興津へ、また富士川側からは稲瀬川を遡り逢坂へ、有無瀬川を遡り大代を越えて由比へと通じている。
 浜石山塊の遮断性が強く、古くから東海道の難所としてあったのは「磐城山[いはきやま]ただ越え来ませ磯崎の許奴美[こぬみ]の浜に我たち待たむ」(『万葉集』巻12-3195)〔大意:磐城山(薩埵山の古名)をまっすぐ越えてきて下さい。磯崎の許奴美の浜(由比倉澤辺りか?)に立って、私はあなたを待っています〕という恋歌でも示されるとおりで、下道しかなかった当時、この山を越えるには波に攫われないよう断崖絶壁にへばりついて通るか、干潮を待って崖下の磯を駆け抜けるしかない『親知らず子知らず』の場所だった。中腹を開削した中道は1655年、朝鮮通信使を迎えるにあたり幕府の威信をかけて新たに造られた峠道で、さらに江戸後期になって山側により安全な上道、現在の薩埵峠が整備された。現在、国道や鉄道の通る海岸部の僅かな平坦地は「安政の大地震」(1854年)の隆起による偶然の産物に過ぎない。
 このような遮断性は、駿府の東側の最終防衛線とするに相応しいところで、1568年、武田信玄の駿河侵攻に際し今川氏真は1万5千の兵力を薩埵峠周辺に配し、自らも清見寺に本陣を構えた。今川勢はよく峠を守ったというが、重臣の武田側への内通などもあって駿府は陥落した。翌年、北条氏政率いる今川への援軍と武田軍との第二次合戦においては、立場を替えて武田側が薩埵峠に防衛戦を引くことになる。

浜石岳周辺の地形図

 ところで昔、『ジャズ大名』(筒井康隆原作、岡本喜八監督)という映画を観た覚えがある。幕末、東海道の要所に位置する(架空の)庵原藩に漂着したニューオリンズの黒人ジャズメン三人組の音楽に惚れ込んだ藩主が、佐幕派、維新派どちらにも与[くみ]せず、城そのものを通行御免のただの通り道にしてしまう。通り道と化した城内(廊下)での官軍、幕軍の争い、世の喧騒をよそに自らは地下に籠り、黒人ジャズメンや家臣たちと共に琴や笛、和太鼓、三味線なども加えて“ええじゃないか”セッションが繰り広げられる。やがて地上の方にそっと顔を出してみると明治が訪れていた…、といった話だったような……。「庵原藩」の地形的設定が抜群に面白かったのだが、どんなに遮断性を持った場所でも無理やりにでも開き、均一化していくのが“近代”であるわけで、地下の非政治的熱狂[カオス]も「やがて悲しき……」という運命なのかと思えた。

(2021年12月記)


広重・五十三次の山(3)

2024-08-26 11:46:38 | 浮世絵の山

蒲原・夜之雪 江戸より15番目の宿

 温暖の地、駿河の国でも、かつてはこれほどの雪が降ることがあったのだ。どれほど歩いてきたのか、蓑や笠に積もった雪が重そうである。茅[かや]や菅[すげ]などで作られたこの昔の雨具は、防水性と共に通気性もあるなかなかの優れものであったらしい。背後のドームのような山は大丸山だろう。広いカヤトの山頂で、東の金丸山にかけての一帯は、富士川沿いの整備されたハイキングコースになっている。

(2003年5月記)

新蒲原駅西に建つ蒲原夜之雪記念碑

【2024年8月追記】

 『文化遺産オンライン』の解説によると
「深々と雪が降る寒村の夜の情景を描いた広重。画面に漂うその静寂さはシリーズの中でも突出した傑作といわれる。現実の蒲原にはこのような豪雪がみることはできず、広重の創作した心象の風景ではないかといわれている。(後略)」
 “心象風景”であることは、この画に限らずそうなのであろうが、本当に蒲原でこれくらいの雪が降ったことは無かったのだろうか。描かれている人物の足下を見ると、左の傘をさした人は宿の住人なのだろうか、履いているのは下駄で雪には埋まっていない。右の蓑を着けた人物の足元も埋まってはいないし、前の人物に至っては上半身を布で羽織るだけで足には何も着けていないようで、埋もれているのもせいぜい足首程度。よく見れば屋根の積雪もそれ程多いわけではない。つまり“豪雪”というには大げさで、10センチにも満たない位の雪が降ったのだろう(その後、さらに降り積もったかは分からないが…)。いかに温暖の地といえども、南岸低気圧が通過するときなどには、その程度の雪が降ることはたまにはある。従って全くの想像上のシチュエーションというわけではない。広重は“温暖の地”という駿河のイメージとのギャップを利用してこの画を創作し、それが見事にハマって名作となったということだろう。
 見飽きた冬の低山を雪の山の景に変える南岸低気圧通過のチャンスを、現在の静岡の登山者たちも今か今かと待っているものだった。

Google Earthで作成した蒲原宿北方の風景


広重・五十三次の山(2)

2024-08-25 13:28:09 | 浮世絵の山

吉原・左富士 江戸より14番目の宿

 前宿の「原・朝之富士」が、ドンと枠からはみ出すほど大きく描かれているのに対し、これはまた小さく遥か彼方という感じである。この辺が変幻自在の対象への距離感で面白い。しかし、手前に描かれている馬上の篭に乗った三人は子供のように見えるが、真ん中の人物の視点はしっかりと富士山を捉えている。
 さて、この一行は江戸へ下っているのか、京へ上っているのだろうか。「左富士」と題されているのは、本来ならば右手に見えるはずの富士が左に見えるからだと、そう解釈すれば西に向かっていることになる。西進していた街道が一時、北へ向かうような地点が、東海道の吉原宿辺りでどこになるのか私には不明だが、例えば川の流れが蛇行し南北逆だったり、太陽が海に沈んだりすると、方角の錯覚を起こしたりすることがある。おそらく初めての旅なのであろう馬上の子供は、その不思議さを楽しんでいるようにも思える。さらに、右端に描かれた山はおそらく愛鷹山なのであろうが、それを無理やりに箱根だと解釈すると、旅立ってきた江戸への想いも感じられる。
 と、ここまで書いて、免許更新の際に貰う静岡県のドライブマップをふと手にしたら、表紙が同じ「東海道五十三次・吉原」だった。こちらの絵をよく見ると、東海道の松並木は先の左端で再び曲がりずっと右側へと続いているようにも見える。なんだ、東進しているのか……? 前述の感想は、思い込みに過ぎなかったかもしれないが、手前勝手な解釈も鑑賞なら許されるだろう。
 三月の定例山行は「沼津アルプス」。車中から吉原辺りでの富士の印象をと期待していたが生憎の天気で富士は見えないのだ。

(2003年4月記)

【2024年8月追記】

『ウィキペディア』の「吉原宿」の項には次のように記されている。

「吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、1639年寛永16年)の高潮により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原、現在の八代町付近)。しかし1680年延宝8年)8月6日の高潮により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に移転した。このため原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸からに向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、“左富士”と呼ばれる景勝地となった。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は1本のの木が残るのみである。」

名勝 左富士の碑

 現・富士市依田橋町の県道171号の交差点前後は、道が一時的に北北東方向となっていて、交差点には「名勝 左富士」の碑が、少し南には左富士神社(元は悪王子社で改称されたのは明治期)がある。同地点からのパノラマ展望図を作成すると、富士山・剣ヶ峰は6.5°の方位、神社前から左富士バス停までの街道の方位は約23°となるから、たしかに「左富士」の景観が生み出されることになる。また、愛鷹山塊・越前岳は43度、同・愛鷹山は64度の方向に在ることから、「吉原・左富士」図の中で右手にあるのは、“残念ながら”箱根ではなく愛鷹山塊に間違いないだろう。


広重・東海道五十三次の山(1)

2024-08-24 14:33:04 | 浮世絵の山

原・朝之富士 江戸より13番目の宿

玉置哲広

(前略)そして、いよいよ天下の険「箱根」越えで、その後「富士」の裾野を通過していくが、この二山は有名すぎていうまでもなかろう。原宿の浮島ケ原からの富士や、吉原宿の左富士の景は実在する場所があり、「愛鷹山」や「宝永山」まで描かれているが、有名な箱根宿の景で描かれた美しい岩峰は、カルデラ内壁にいかにもありそうな地形だが実在しないようだ。広重のイメージ上の峰なのだろう。
 駿州路遠州路にかかると、全国的には無名であるが、古くからその名を知られたり、地元では親しまれているような特徴のある山々が続々と登場してくる。
 由井宿の「薩埵[さった]峠」は、海辺の絶壁から海越しに富士を眺める人々が描かれた印象的なものだが、五十三次中もっとも浮世絵に近い風景が見られる場所だ。旧街道はここで上道・中道・下道の三ルートに分かれる難所だが、断崖下を通るルートを「親不知子不知」と呼ぶのは北アルプスの北端と同じで、現在は海上を高速が走っているのも一緒だ。現在の薩埵峠は浜石岳からのハイキングルートとしても知られ、一面みかんの山で、運搬用のレールが延びる明るい印象の場所である。
 江尻宿(現・清水)で「愛鷹[あしたか]山」を振り返り、現・静岡の府中宿に入るが、ここで広重は安倍川の渡しと黒い山を描いている。右岸から見た「賤機[しずはた]山」とすると、静岡の名のルーツともなった、静岡市民にはお馴染みの山だ。
 安倍川餅に続いてとろろ汁と名物が続く鞠子宿では、茶店の背後に描かれた山が気になる。現存するとろろ飯屋の背後にはたしかに山があり「横田山」というらしいが、近くに周囲の山を借景した庭園が有名な吐月峰柴屋寺[とげっぽうさいおくじ]があり、寺の東の山を「吐月峰」と風流に読んだのがこの山だ。吐月峰は竹の名所で灰吹きの別称でもある。借景対象は「丸子富士」「天柱山」という地元の小山。
 こうした山々が現れて、いよいよ難所、宇津ノ谷峠にさしかかる。岡部宿「宇津ノ山」の景も、いかにも山深き風情だ。古くは伊勢物語で「宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあわぬなりけり」と詠まれた「蔦の細道」も並行している。今では軽い観光ハイクルートであるが、この山塊が海に落ちている所が、高速や鉄道が日本坂トンネルで越える大崩海岸であり、現在の交通でも難所には違いない。
 ここを過ぎると遠州に入る。越すに越されぬ大井川は越しても、すぐに西の箱根と称された「小夜の中山」が待っていた。日坂宿の景では胸突き八丁の峠道と怪石・夜啼石が描かれている。地形的には茶どころ牧ノ原台地を越える所で、現在は霜取り扇風機の林立する茶畑が広がる気持ちのよい所でもある。峠の寺には夜啼石も現存している。また、日坂宿のランドマークとして「無間山」なる山が隷書版等にあるが、これは北方の「粟ヶ岳」のことである。
 さて、遠州路から先は大きな山は存在しないが、浮世絵にはさまざまな山が登場する。掛川宿の景は「秋葉山」の遠望。防火の神として当時から著名な信仰の山である。筆者は街道の玄関先で盆の迎え火を燃やす頃に通りかかり、火との関連で印象的であったが、山はまったく目立たず、絵はかなり誇張されていると思われる。(後略)

(『岳人』667〜669号「山の雑学ノート」欄より転載)

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 上記の文に興味を覚え、家に「宿駅制度四百年記念」の絵はがきとなった広重・東海道五十三次があったのを思い出した。静岡県内の五十三次の宿場は三島から白須賀まで二十二と最多であり、富士山をはじめ山が描かれているものも多い。玉置氏も指摘しているようにイメージ上の山や誇張された表現もあるので、正確に実在の山と重ねることは難しいが、想像力で考えていくのも楽しいかもしれない。連載で掲載したい。
 まずは有名な「原・朝之富士」、富士山の前の愛鷹連山は容易に判るが、裾野左遠景の雪を頂く山は何だろうか。方角的には「毛無山」という線もあるが、立派に描かれていることを考えると、ずばり「白根山(白峰三山)」だと推測するがいかがだろうか。

(2003年3月記)

【2024年8月追記】

「原・朝之富士」の描かれた位置を現東海道本線・原駅の北東として([https://creativepark.canon]内「東海道五十三次」を参照)、北岳の見通しをアプリ『スーパー地形』でシュミレーションしてみると、その毛無山南の雪見岳(1605m)が障壁となって実際には見ることはできないようだ。

だが、間ノ岳は猪之頭峠の鞍部越しに山頂部が僅かに覗く可能性がある。また、塩見岳以南の南アルプス南部は、悪沢岳、荒川岳、赤石岳、聖岳など主脈各峰や笊ヶ岳などの白峰南嶺を望むことができたようだ。