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山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

2024-06-29 11:24:31 | 山の本棚

金谷牧の原鳥瞰図を眺める

 コロナ禍の最中にあって、近隣歩きのネタを求めた『古地図で楽しむ駿河・遠江』(加藤理文編著・2018年 風媒社)の冒頭に、吉田初三郎の鳥瞰図がいくつか掲げられていた。吉田初三郎という鳥瞰図絵師の名を聞いたのは、『やまびこ』245号(2017年9月)「地図は物語る」と題したS・Mさんの巻頭エッセイで、その時、大いに興味を覚えた。

――描かれている情報は、その場所に人を誘う目的でデェフォルメされており、ある物語を伝えてくれている感さえある。――

 全ての任意の地点が、どの方角からも同様に同等に、すなわち等距離に描かれる地形図とは全く逆に、鳥瞰図には主観的な視点(目的)が存在するから、図の中心にはその視線の先、すなわち目的の核心が描かれることになる。そこから眺められるストーリー性が面白いのである。

金谷牧の原鳥瞰図 *詳細は下記WEB「吉田初三郎式鳥瞰図データベース」より閲覧可能

 掲図の主題となっている牧ノ原茶園といえば、中條景昭など旧徳川家臣団や大井川川越人足による開拓が知られているが、全国ブランドの名を得るには、さらに昭和までの年月を要したことが編著者の加藤氏の解説から窺われる。この鳥瞰図作成の目的は、そうした牧ノ原茶のPRであることは明白だが、実際の依頼主はどうも製茶機メーカーの川崎鐵工所のようで、絵図の左右の中心に八木式製茶機工場と川崎製茶研究園が大きく描かれ、かつ自社関連施設は赤の名称標示で強調されている。牧ノ原茶のPRでは、やはり吉田初三郎の「牧野原茶園を中心とせる静岡県鳥瞰図」(1927年)があって、こちらは静岡県茶業組合の制作依頼によるものだ。
 牧ノ原茶園の背景として富士山が描かれるのは当然として、その左、大井川の上流に[南アルプス連峰]とあるのは嬉しい。西に目をやれば[夜泣石]、[小夜ノ中山]、[久延寺]とあり、ここは外せない名所だったのだろうか。旧国一の[大井川橋]を渡った先に[島田]がある。このザックリ感はさすがに少し寂しい気がするが、[藤枝][焼津]のまるで農村、漁村感よりはましか。また中心があれば辺境もあるわけで、右上には[東京]の先に[青森][函館]、さらに遠く[桑港](サンフランシスコ)まであるのは、そこが牧ノ原茶の輸出先であったゆえであろうか? やはり左上には[大阪]の先に[門司]さらに[釜山]まで記される拡がり方に時代性が感じられる。
 左側中程上の「大」の字には[淡々山](あわわやま?)とあり「粟ヶ岳」(あわんたけ)だと思い至るが、おや?「茶」の字ではないではないか。粟ヶ岳の「茶」の字の由来は、掛川観光協会のHP『掛川観光情報』によると

 粟ヶ岳山腹の巨大な「茶」の字は、昭和7年頃、東山のお茶のPRのために、茶業組合や村民が力を合わせ、粟ヶ岳の急斜面に松の樹を植え付けたのが始まりだそう。茶の字の形を決めるために、白い紙を付けた縄を持って並び、それを向いの山から遠望して、手旗で合図して調整を繰り返したとのこと。その後、初代の松の木がマツクイムシの害にあい、檜に植え替えられたそうですが、今でも定期的にメンテナンスを行い、美しく雄大な茶文字が保たれています。

とのこと。この絵図の制作が1931年(昭和6)で、「茶」の字が完成した昭和7年の一年前であることから、あるいは吉田は植栽途中のものを見て「大文字」と勘違いしたのだろうか。でも鳥瞰図制作の目的が牧ノ原茶(同時に川崎の製茶機)の振興なのだから、「あれは茶の字になるんですよ」くらいの話が川崎の人から出なかったのかなぁと不思議に思った。

 金谷・元「金河座」

 ところで、私の亡母は金谷田町の八百屋の生まれで、小さい頃、大衆芝居好きの母の祖母に連れられ芝居見物に通ったことをよく話していたが、それが[八木式製茶機工場]の南に描かれる[金河座]だったのだろう。金谷の街並の代表的な建物として絵図に載るのだから、当時の金谷の文化の殿堂といった存在だったのかも知れない。絵図を眺めていると、金谷という町はこじんまりとしているが、街並と寺社さらに茶園とその工場がうまく配置された、一寸お洒落感のある町に見えてくる。かつての母の話の端々には、そんな金谷自慢の雰囲気があったことを思い出した。いずれにせよ、お茶が地域発展の大きな力となっていた頃の話である。

(2022年2月記)

吉田初三郎式鳥瞰図データベース

*2024年7月7日まで府中市美術館にて「Beautiful Japan 吉田初三郎の世界」展を開催中


野本寛一『大井川―その風土と文化―』

2024-06-25 16:38:32 | 山の本棚

歩き続ける人

 今までに何度か触れてきたことだが、私が山歩きへ誘(いざな)われたきっかけの一つに『大井川―その風土と文化―』(文・野本寛一/写真・八木洋行 昭和54年7月26日・静岡新聞社)がある。

――この本は、文を野本寛一先生、現近畿大学名誉教授で一昨年(平成27年)文化功労者顕彰を受けられた環境民俗学の大家ですが、やはりご出身は地元の相良で当時はまだ静岡の高校の先生だったと思います。南アルプスに発する大井川の遮断性、また流通性、そして野本先生の主要なテーマ「焼畑文化論」などが展開されていて、本を読んで私は大井川という私たちの郷土そのものの大河と、この上流には何があるのかということに大変興味を持ちました。言ってみれば私の山歩きへの関心と、大井川流域の山々という地元山域への拘りは、ここから始まったといっても過言ではなく、私のバイブルのような本です。――(2017年3月18日・SHC20周年記念八木洋行氏講演時の「講師紹介」より)

 現況コロナ禍にあって、会の山行活動はおはようハイクを中心に近隣での歩きに制限されている。それでも昨秋以降14回が数えられたのは、歩く機会を何としても継続しようと思い、携わる人たちの大きな努力があってのことだ。また私は自分自身の極々小さな歩きでも、それらをなぞったりしてみた。そういう中で、何度か訪れた場所、普段通り過ぎている場所であっても、その地が持ってきた意味を改めて考えてみると、そこにこびりつく残滓を剥がしていくような面白さを知るようになった。今は山を歩く機会が減った分だけ「考えてみる」時間はたっぷりとあるわけだ。かつて上流域への憧憬として山歩きに誘ってくれた本書は、現在の生活に繋がる中・下流域の様相に対する理解の示唆も与えてくれる。駿河湾の河口までを歩いた大津谷川・栃山川では、志太平野を形成した大井川の力の痕跡や、現在の川の力を利用する様を知ったのをはじめ、粟ヶ岳では「海からの眼ざし」ということを知った。この一年間14回の小さな〝山行〟は、私の中では歩く価値と知る価値のある愉しいものとなった。

――風土と文化というのは、決して過去の歴史であったり、懐かしい思い出話ということではないのです。今を生きている私たちの精神性、またこの地に生きる私たちの土台、即ちDNAであって、とりわけ山を歩く私たちにとっては、私たちが何故山に向かうのかというその根本的な原理の一端なのだと思います。――(前掲記念講演「講師紹介」より)

 ところで、私が野本寛一氏の著作に関心を持つのは、ひとつは氏が同郷・同窓の大先輩であり、その文中に見知った場所、語られる人びとが幾つも出てくるからだが、同時に氏が、その見知った場所をはじめとして現実の山・海・里をひたすら歩き続けている人であるからだ。氏が太陽の下で森や峠や池や淵などに立って発想されてきたものは、私自身が山を歩き観たこと、聴いたこと、感じたこととも重なって、山頂に立つこととは別の種類の、体験の面白さや、考える面白さを与えてくれるようだ。

――静岡県浜松市水窪町の町の木は栃で、この地には「栃を伐る馬鹿植える馬鹿」という諺(ことわざ)がある。貴重な食料を恵んでくれる栃の木を伐るのは愚かである。同様に、栃の木を植えればすぐに実が得られると思うのも愚かだ。栃の木が実をつけるようになるまでには人の世代で三代かかるからである――(『生態と民俗 人と動植物の相渉譜』2008年・講談社学術文庫)

――ここにはトチの木の禁伐伝承を厳守し、世代を超えてトチの木を守りつづけ、大切に守りつづけるがゆえに長いあいだトチの木から大量の実をめぐまれつづけてきた水窪の人びとの思いが凝縮・象徴されているのです。ここには人とトチ、人と自然との共存・共生関係がみられるではありませんか。こうした人と自然との関係がトチの巨樹を残存させてきたのです。――(『民俗学者・野本寛一 まなびの旅』2019年・玉川大学出版部)

 即効的、刹那的な価値や充足感の追求の中では、本当の意味での「人と自然(ウィルスもその一つだろうか)との共存・共生」を図れることはないのだろう。それにしても、水窪もすっかりご無沙汰してしまった。そういうトチの巨樹を見に行き、それから以前、常光寺山下見の帰りにH・Kさんから教わったお薦めの栃餅を買うこと、それをコロナ自粛後の取り敢えずの愉しみにしても良いなと思った。そういう愉しみ方なら私もひたすらであるかどうかは分からないが、歩き続けることができそうな気がしている。

(2021年10月記)

追記

 ところで、赤坂憲雄は『神と自然の景観論』(2006年・講談社学術文庫)の解説の中で以下のように述べている。

 初版の「あとがき」によれば、野本さんが幼少年期を過ごしたのは、静岡県の相良町の在で、牧之原台地の裾にあるムラだった。野本さんはそこに、自身がかかわった聖地や聖樹についての記憶のラフ・スケッチを示しながら、それがみずからの「内部に生きる神々の風景であり、聖なる原風景である」ことを語っていた。たしかに、この著書のなかには、そうした原風景に連なるような故郷・静岡の景物がもっとも色濃く登場してくる。あるいは、そこで育まれた眼や心ゆえに捕捉されえたと感じられる聖なる風景が、次から次へと姿を見せる。まさに、「フランスの哲学者バシュラールは、家の構造が住まう人の思い出の形成とかかわり、地形が人間の精神形成に影響を与えると語っている」という言葉そのままに、『神と自然の景観論』の基底には、野本寛一その人の故郷にまつわる記憶が沈められているのである。
 わたしはじつは、野本寛一という民俗学者の故郷が、ほかならぬ静岡という、東の文化/西の文化が重なり合う「ボカシの地帯」であることに、いたく関心をそそられている。兵庫や周防大島からははるかに遠い東北が、静岡からはさほど遠くない。この距離感はとても微妙だが、なかなか示唆に富むものである。いわば東の文化も、西の文化も等距離に眺めることができる土地からのまなざしが、柳田や宮本とは異なる東北イメージ、さらには日本文化像を描くことを可能にさせている、ということだ。あるいは逆に、「ボカシの地帯」ゆえに東にも/西にも繋がり、開かれていることが、野本さんのまなざしに固有の屈折をもたらしている、といってもいい。(中略)
 
「緒言」には、信仰環境論の輪郭が辿られている。まずはじめに、人はいかに環境とかかわってきたか、という問いかけがある。野本さんはその問いに向けて、信仰と環境とのかかわりという視座からのアプローチを試みるのである。信仰ははむろん、人の心や魂と深く結ばれる営為であるが、地形や月の運行・周期といった自然環境にまつわる条件を抜きにしては考えられない。しかも、この信仰と環境との関係は複雑である。自然環境が信仰の生成を促すが、逆に、信仰の存在によって自然環境の保全がはかられるし、新たな文化や社会の環境が生成してくる、といった複雑な関係が見いだされる。それはさらに、日本人は何にたいして神聖感をいだき、いかなる景観のなかに神を見てきたのか、という問いへと深化させられる。野本さんはそこに『聖性地形』という名づけを施しているが、それがいわば、「日本人が古来、聖域・神々の座として守りつづけてきた地形要素と、それを核とした聖なる場」を訪ねあるくなかに、しだいに浮き彫りにされていったものであることに、注意を促しておく。「聖性地形」という名づけは、歩行の以前にではなく、以後に属している、ということだ。そうした聖性地形を核とした神々の坐す風景は、日本人の魂のやすらぐ原風景であり、郷愁をさそう景観であり、先人たちが末裔のために選んだ最大の遺産である。それは、われわれの内省・蘇生・再生・復活のためには絶対不可欠な場であるとともに、「環境問題を考える原点」にもなりうる、という。

 この本もまた私の大切な山のバイブルとなったのだった。


高桑信一編『森と水の恵み』

2024-06-18 14:51:47 | 山の本棚

――生を取り戻す舞台

2005年8月発行・みすず書房

 みすず書房から今夏(*2005年)刊行されたシリーズ「達人の山旅2」と銘打たれた16篇からなるアンソロジー。編者の高桑信一氏は、元浦和浪漫山岳会の代表で、ベテランの山旅派(?)の沢屋。会報11月号の編集後記で「登山者が山麓の風景を見なくなった。」という氏の言葉を紹介したが、消えゆく山里の文化や失われた径などを記録し、活発に著述や発言をしている。私が「山」を見ようとする時、大きな示唆を得ている一人である。
 高桑氏は本書「編者あとがき」の中で、

 本書を編むにあたって心がけたのは登山者の視点を捨て去ることだった。そこには登山という行為を基軸としながら、自然との共存をわが事のように慈しむ生がある。(中略)
 登山という領域に終始しながらも、山は主体ではなく、日々を暮らす者たちが生を取り戻すための舞台なのであった。

と述べている。
 まさしく、「山」は単一に山だけとしてあるのではなく、「日々を暮らす」こととの関係の中で、ある時は対峙しながらも、癒されていくことができるのだろうと思う。「山」は舞台装置に過ぎず、そこには多様な精神が投影される。本書は山を鑑にしながら、多様な生の有り様を示したものだと言える。
 本書を手にしたもう一つの大きな理由は、執筆者の中に若林岩雄氏の名前を目にしたことだった。若林氏は、これも沢登りの代表的な山岳会である「わらじの仲間」の元代表であった。氏の名前に初めて触れたのは、もう何年か前、セルフレスキュー関連の資料を求めていた時、『岳人』誌に連載を執筆されていた。当時は都岳連の遭対関連の仕事もされていたかと思う。それからまた何年かして、再び『岳人』で氏の文章を目にした。「いくつもの季節をめぐり いまの山登りへ」と題し、「わらじの仲間」を退会し、故郷である長野へ移住(職場は東京でのサラリーマンのまま)したこと、その訳のひとつとして第三子の自閉症という障害のことを知った。バリバリの沢屋(『ヤマケイ登山学校』の沢登り篇を担当)から、家族だけの「安曇野山歩会」と称し、里山を巡っているということだった。私は、自身の息子の障害(ダウン症)のこともあって、氏の「いまの山登り」への転進を強く受け止めた。
 本書では「息子と歩く里山」と題し、その詳しい経緯(いきさつ)や、その後の自身の意識の変化、山登りでの息子の様子、人との拡がりなどが語られていた。それは例えば

 そんな意識を引きずりながらも、近くの里山に通っているうちに、しだいに登山とか沢登りとかいう意識が抜けはじめた。里山をウロウロすること自体が、楽しみに変わっていく。のであり、「せいぜい山にでも一緒に行くくらい」の中で、息子とのコミュニケーションの工夫や、様々な発見を繰り返し、それに伴い、近所、養護学校、幼なじみといった人との繋がりも、また拡がっていくのである。
 山では、とくに何かのルールや規則に従う必要がない。もちろん、天気、温度、道の状況などへの対応は必要であるが、人間が設定したルールや目標があるわけではない。自然のルールに従えばよいので、それさえ守っていれば、何に興味を示そうと、どんな寄り道をしようと自由であり、拒否されない。

と、若林氏は総括するのであるが、山が拒否しないのは、個々の人間存在の有りのままを映す鑑であるということに他ならない。そこにある山は、日々の暮らしと無関係にあるものではないし、逆に日々の暮らしを包括してしまうものでもないだろう。困難を伴う登山であれ、里山歩きであれ、山に通うのは、少しずつ生を確認していく作業ではないのか。
 それにしても、若林氏をはじめ本書に登場している人たちの姿は、何と軽々とした精神だろうかと思う。「日々の暮らし」が、生きづらい方向に向けられている今日の中で、そうした精神の存在は「ああ、山に行こう」という気持を強くさせてくれるのだ。

(2006年1月)

 


柏瀬祐之『ヒト、山に登る』

2024-06-10 16:54:05 | 山の本棚

1999年8月発行・白水社

――風景をこえて

 今年(*2002年)は国連の定める「国際山岳年」である。国連の意図するところは、環境あるいは資源としての山岳地域の〝保全〟あるいは〝開発〟なのであり、行為としての〝登山〟を考えてのものではないが、これを契機として山岳地域を遊び場とする側も某かのアピールをしていこうと、各種のイベントが企画され開催されている。山岳地域の〝保全〟あるいは〝開発〟が、国連にとって重要な課題となる背景には、地球環境の破壊という、その存立基盤への危機感がある。つまり、ほころびを見せ始めた〝近代〟を延命させるためには、山岳資源の管理が欠かせないものとしてあるのだろう。それでは行為としての登山をする側は、この機会に何をアピールしようとするのか。保護、保全といった環境の側面からだけでなく、行為としての〝登山〟そのものが、人間や近代の存立にどのように関わっているのかを考えることは、あながち無意味なことでもあるまいと思う。柏瀬祐之(かしわせゆうじ)氏の著作から、その辺りを探ってみたい。
 中公文庫版『午後三時の山』の著者紹介によれば、柏瀬祐之氏は
「1943年、栃木県足利市に生まれる。10代より山登りを始め、20歳の時に岳志会を設立。当時の初登攀争いに伴う権威主義的傾向に反発し、谷川岳一ノ倉沢の全壁トラバースをもって問題を提起、硬直化した登山界に新風を吹き込む。日本山岳会々員。中央大学法学部卒。著書に『山を遊びつくせ』『ヒト、山に登る』があり、編著書に『日本登山体系』(全十巻、以上すべて白水社)がある。」とある。
 谷川岳一ノ倉沢全壁トラバースや、『山を遊びつくせ』での近代アルピニズム終焉の予告が、当時の登山界へどのような衝撃を与えたのかは知る由もないが、頂上を極めることでなく、もたらされる「感覚の覚醒」こそが登山という行為の意味なのだという主張には、首肯する。

……日本経済がまだかろうじて高度成長路線を歩んでいた一九七〇年代はじめまでは、登山の世界を初登頂・初登攀主義(より未知へ)、標高主義(より高くへ)、困難度主義(より困難へ)が覆っており、登山者たちはその目玉商品に向かって蟻のように群がっていればよかった。他にことさらの動機など必要もなかったのである。だが、群れれば群れるほど対象となる山やルートは喰いつくされ、小粒化して、やがて目玉商品は事実上この地球から失われ、あとにはわずかに、自然の中で無為に遊ぶ物見遊山の楽しみが残るだけの寂しさとなった。
 近代登山誕生以来二百年にわたって人々をひきつけていた目玉商品とその裾野がなくなったのだから、そこに不毛の荒野しか残らないのは当然だろう。いや、ひとつだけ残った物見遊山を寂しいといい荒野と呼ぶのは浅見かもしれない。自然の中で無為に遊ぶというその精神の成熟と豊穣は本来語るべくもないからだ。むしろその成熟と豊穣が耳目をひきつける目玉商品の存在によって忘れられ、痩せ衰えさせられていたと見るべきなのだろう。

(午後三時の山「今、山に登るということ」、下線―takobo4040以下同様)

 アルピニズムを至上の価値とするヒエラルキーではなく、岩登りには岩登りの、沢歩きには沢歩きの、雪山には雪山の、そして尾根歩きには尾根歩きの個々の楽しみがあり、「登山の大目的は体験のおもしろさ、楽しさ、すばらしさである。だからそのメイン・ディッシュを味わうためには、登らない登山があってもいい。登らない貪欲さも時には必要だし、頂上なんてドーデモイイサと思う自由は、いつも保っておきたい」(前掲「なによりも深く雪と遊べ」)と軽やかに述べるのである。
 さて、アルピニズムの〝終焉〟は、ひとり登山に限ってのことだろうか。時を同じくして〝近代〟そのものもまた〝終焉〟に向かい始めているのではないか。近代を支えてきた経済主義、世界主義、科学主義のほころびは、経済的停滞、民族・宗教的対立の拡大、地球環境の破壊という形で顕著になってきている。それでは、そもそも登山と近代とはどのような関係の中にあったのか、また登山という行為は、近代を超える契機となるのか、その辺りを提示したのが『ヒト、山に登る』である。
 柏瀬はまず、近代登山の幕開けといわれる1786年のモンブラン初登頂劇の謎を追いながら、その中心的人物の一人にして近代登山の始祖と呼ばれるH.ソシュールに焦点を当てていく。そして、モンブラン初登頂は登山のみでなく、ヨーロッパ近代の始まりそのものである、と大胆な結論を導き出すのである。
 私たちが山に登る理由の一つとして上げる〝風景〟に対する美意識は、人間が根源的に持っていたものではない。中世教会支配の弱まりによってもたらされたルネサンス=人間中心主義によって、人間の眼の焦点=視覚こそが空間の中心となっていったのである。

 私は「近代」を視覚優位の時代と理解している。人間に視、聴、臭、味、触の五感があるとして、視覚の論理が他の四つの感覚をも席捲した時代と思っている。
 視覚の論理とは焦点主義である。空間という漠然とした広がりを、いつも焦点を中心に据えてとらえる。焦点は、それを絞りこむことによって外界を認識するという、もっぱら人間の側の事情にもとづく任意の一点にすぎないが、その任意の一点が定められた瞬間、それは唯一絶対の中心として空間を支配する。

(「ヒト、山に登る」)

 〝風景〟は最初から存在していたのではなく、空間の中心が神から人間の視覚(正確には、線遠近法的解釈)へと移ったことによって初めて認識されたのである。言い替えるならば、自然が神や悪魔といったものの領域から人間の領域へと変貌していったとも言える。柏瀬は「神聖な場所やケガれた場所など異質な空間の入りくんだ状態が、距離や高低といった測定可能な物理的空間に還元され、どこもかしこもノッペラボウに均質化してしまう、それこそ近代の根本である」というE.フッサールの言葉をあげ、モンブラン登頂は、世界史上でも初めての「空間の大衆化・均質化」、つまり近代の始まりそのものであったと喝破する。
 一方で、「自然に帰れ」と唱えた同時代の思想家ルソーの自然観が、絵画的、調和的なもの、言うなれば「去勢された自然」であるのに対し、H.ソシュールの中には自然との臨場感、接触感が存在するという。H.ソシュールは「危険そのもの、希望と恐怖との入れかわり、自分の動作によって、心の中に保たれる不断の動揺」こそがアルプスの魅力なのだと吐露しているのである。

 自然との接触が強まることによって、物理的空間のノッペラボウな均質性は崩れ、自分の接する空間だけが異質な濃密さでふくらんで、他とは異なった非均質な心理的空間をつくりだす。山は高さと気象条件こそ違え、同じ物理的空間として平地と連なっている、という脱中世的意識が、山を広く人々に開放したにもかかわらず、実際そこに登りはじめるやいなや、その科学的前提は、H.ソシュールのいうわけのわからない「不断の動揺」とともに崩れるのである。

(前掲)

 このような「自然との接触感」は、私たちも山に登る中で往々に体験する。それは、肌で感じる風や掌で掬う水であったり、指で感じる岩肌の硬度や足裏の土の感触であったり、木や獣の臭いであったり、さらには闇やガスの中の何か解らない気配だったりする。単なる視覚的な〝風景〟ではなく、それら全てが登山という行為の中から感じられるのである。そこでの心理的な振幅「不断の動揺」が大きいほど、濃密な接触感=質感が生まれるのである。それは、自然を通した「自己との接触感」とも言えるだろう。例えば人と会うこともない静かな山や、凛とした冬の山を想起すれば、その中で感覚が研ぎすまされていくことは容易に体験できる。言ってみれば、視覚によって客体としての〝風景〟を捉えるのではなく、自分自身が風景の一部となる、風景に溶け込んでいく感覚なのだ。
 かくして、登山なる行為は視覚の絶対化という近代的価値感の中から誕生したにもかかわらず、その接触感、触覚的志向によって、「はじめから脱近代の懐刀をのんでいる」と柏瀬は言うのである。
 先に柏瀬は、近代を「視覚優位の時代」と定義したが、人間のいわゆる五感は、「視覚、聴覚、触覚、嗅覚および味覚、痛覚の順で展開し、最初の視覚に近づくほど対象の認知が優位を占め、逆に最後の痛覚に近づくほど自分の身体の経験が優位になる」。つまり視覚の客観主義から痛覚の主観主義へというスペクトルであり、その中間に位置する触覚は、両者をまるごとかかえこみ生かせる――近代を超える可能性を持ったものではないかと願望するのである。それは劇場空間から祝祭空間へとでもいうのだろうか、「臨場感の高揚した社会」と柏瀬は形容している。
 近代とりわけ20世紀は、「映像の時代」といわれるように、まさに〝視覚〟が優位を占める時代だ。子供のテレビゲームや犯罪の様相を見ても、現代が〝痛覚〟から最も遠ざかっている時代であることがわかる。例えばTVやコンピューターに代表されるように、フッサールの言う「測定可能な物理的空間」=デジタル(記号的)な空間は、実体のない「臨場感の喪失した」バーチャルな空間(その政治的表現が〝グローバリズム〟であろうと思うのだが)へとヌエのように変貌しようとしている。繰り返しになるが、それは「任意の一点」に過ぎない視覚=線遠近法的解釈が、「唯一絶対の中心として空間を支配する」ということ、空間の解釈が一元化されるということである。

……われわれの目の前にある実在の世界というものは、線遠近法的に見るひとには線遠近点法的な空間が、そうでないひとにはそれなりの空間がひらける。どんな見かたも受け入れられる。多元的な世界解釈が許されるわけだ(人間ばかりでなく、動物にだって彼らなりの解釈が許される。したがって実在世界では生きとし生けるものすべてが共存できる)。

(前掲)

(2002年11月記)


串田孫一『山歩きの愉しみ』

2024-06-06 16:21:46 | 山の本棚

 木の中に、もし物語を見るのならば、それは植物らしい物語のはずである。地上に生きる一切のものと同様に、宿命的にそれぞれの場所に根を張っているが、通りすぎて行くものとして私が見る時には、見られるものらしく、あるものは申し分なく気取り、気取りそこねてうなだれるものもあり、またあるものは争いのあとを隠し切れずにいる。
 彼らの生命の長短は別にして、彼らには、私たち人間に隠されている時間があるに違いない。その時間の、あまり窮屈でない区切りのなかで、木は物語を自分で創り出している。その物語をまちがいなく見抜くことは困難であるが、時にはなまめかしい仕種のあとさえ残っているのを見かけることもある。

(串田孫一「山の博物手帖」より)