山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

野本寛一『大井川―その風土と文化―』

2024-06-25 16:38:32 | 山の本棚

歩き続ける人

 今までに何度か触れてきたことだが、私が山歩きへ誘(いざな)われたきっかけの一つに『大井川―その風土と文化―』(文・野本寛一/写真・八木洋行 昭和54年7月26日・静岡新聞社)がある。

――この本は、文を野本寛一先生、現近畿大学名誉教授で一昨年(平成27年)文化功労者顕彰を受けられた環境民俗学の大家ですが、やはりご出身は地元の相良で当時はまだ静岡の高校の先生だったと思います。南アルプスに発する大井川の遮断性、また流通性、そして野本先生の主要なテーマ「焼畑文化論」などが展開されていて、本を読んで私は大井川という私たちの郷土そのものの大河と、この上流には何があるのかということに大変興味を持ちました。言ってみれば私の山歩きへの関心と、大井川流域の山々という地元山域への拘りは、ここから始まったといっても過言ではなく、私のバイブルのような本です。――(2017年3月18日・SHC20周年記念八木洋行氏講演時の「講師紹介」より)

 現況コロナ禍にあって、会の山行活動はおはようハイクを中心に近隣での歩きに制限されている。それでも昨秋以降14回が数えられたのは、歩く機会を何としても継続しようと思い、携わる人たちの大きな努力があってのことだ。また私は自分自身の極々小さな歩きでも、それらをなぞったりしてみた。そういう中で、何度か訪れた場所、普段通り過ぎている場所であっても、その地が持ってきた意味を改めて考えてみると、そこにこびりつく残滓を剥がしていくような面白さを知るようになった。今は山を歩く機会が減った分だけ「考えてみる」時間はたっぷりとあるわけだ。かつて上流域への憧憬として山歩きに誘ってくれた本書は、現在の生活に繋がる中・下流域の様相に対する理解の示唆も与えてくれる。駿河湾の河口までを歩いた大津谷川・栃山川では、志太平野を形成した大井川の力の痕跡や、現在の川の力を利用する様を知ったのをはじめ、粟ヶ岳では「海からの眼ざし」ということを知った。この一年間14回の小さな〝山行〟は、私の中では歩く価値と知る価値のある愉しいものとなった。

――風土と文化というのは、決して過去の歴史であったり、懐かしい思い出話ということではないのです。今を生きている私たちの精神性、またこの地に生きる私たちの土台、即ちDNAであって、とりわけ山を歩く私たちにとっては、私たちが何故山に向かうのかというその根本的な原理の一端なのだと思います。――(前掲記念講演「講師紹介」より)

 ところで、私が野本寛一氏の著作に関心を持つのは、ひとつは氏が同郷・同窓の大先輩であり、その文中に見知った場所、語られる人びとが幾つも出てくるからだが、同時に氏が、その見知った場所をはじめとして現実の山・海・里をひたすら歩き続けている人であるからだ。氏が太陽の下で森や峠や池や淵などに立って発想されてきたものは、私自身が山を歩き観たこと、聴いたこと、感じたこととも重なって、山頂に立つこととは別の種類の、体験の面白さや、考える面白さを与えてくれるようだ。

――静岡県浜松市水窪町の町の木は栃で、この地には「栃を伐る馬鹿植える馬鹿」という諺(ことわざ)がある。貴重な食料を恵んでくれる栃の木を伐るのは愚かである。同様に、栃の木を植えればすぐに実が得られると思うのも愚かだ。栃の木が実をつけるようになるまでには人の世代で三代かかるからである――(『生態と民俗 人と動植物の相渉譜』2008年・講談社学術文庫)

――ここにはトチの木の禁伐伝承を厳守し、世代を超えてトチの木を守りつづけ、大切に守りつづけるがゆえに長いあいだトチの木から大量の実をめぐまれつづけてきた水窪の人びとの思いが凝縮・象徴されているのです。ここには人とトチ、人と自然との共存・共生関係がみられるではありませんか。こうした人と自然との関係がトチの巨樹を残存させてきたのです。――(『民俗学者・野本寛一 まなびの旅』2019年・玉川大学出版部)

 即効的、刹那的な価値や充足感の追求の中では、本当の意味での「人と自然(ウィルスもその一つだろうか)との共存・共生」を図れることはないのだろう。それにしても、水窪もすっかりご無沙汰してしまった。そういうトチの巨樹を見に行き、それから以前、常光寺山下見の帰りにH・Kさんから教わったお薦めの栃餅を買うこと、それをコロナ自粛後の取り敢えずの愉しみにしても良いなと思った。そういう愉しみ方なら私もひたすらであるかどうかは分からないが、歩き続けることができそうな気がしている。

(2021年10月記)

追記

 ところで、赤坂憲雄は『神と自然の景観論』(2006年・講談社学術文庫)の解説の中で以下のように述べている。

 初版の「あとがき」によれば、野本さんが幼少年期を過ごしたのは、静岡県の相良町の在で、牧之原台地の裾にあるムラだった。野本さんはそこに、自身がかかわった聖地や聖樹についての記憶のラフ・スケッチを示しながら、それがみずからの「内部に生きる神々の風景であり、聖なる原風景である」ことを語っていた。たしかに、この著書のなかには、そうした原風景に連なるような故郷・静岡の景物がもっとも色濃く登場してくる。あるいは、そこで育まれた眼や心ゆえに捕捉されえたと感じられる聖なる風景が、次から次へと姿を見せる。まさに、「フランスの哲学者バシュラールは、家の構造が住まう人の思い出の形成とかかわり、地形が人間の精神形成に影響を与えると語っている」という言葉そのままに、『神と自然の景観論』の基底には、野本寛一その人の故郷にまつわる記憶が沈められているのである。
 わたしはじつは、野本寛一という民俗学者の故郷が、ほかならぬ静岡という、東の文化/西の文化が重なり合う「ボカシの地帯」であることに、いたく関心をそそられている。兵庫や周防大島からははるかに遠い東北が、静岡からはさほど遠くない。この距離感はとても微妙だが、なかなか示唆に富むものである。いわば東の文化も、西の文化も等距離に眺めることができる土地からのまなざしが、柳田や宮本とは異なる東北イメージ、さらには日本文化像を描くことを可能にさせている、ということだ。あるいは逆に、「ボカシの地帯」ゆえに東にも/西にも繋がり、開かれていることが、野本さんのまなざしに固有の屈折をもたらしている、といってもいい。(中略)
 
「緒言」には、信仰環境論の輪郭が辿られている。まずはじめに、人はいかに環境とかかわってきたか、という問いかけがある。野本さんはその問いに向けて、信仰と環境とのかかわりという視座からのアプローチを試みるのである。信仰ははむろん、人の心や魂と深く結ばれる営為であるが、地形や月の運行・周期といった自然環境にまつわる条件を抜きにしては考えられない。しかも、この信仰と環境との関係は複雑である。自然環境が信仰の生成を促すが、逆に、信仰の存在によって自然環境の保全がはかられるし、新たな文化や社会の環境が生成してくる、といった複雑な関係が見いだされる。それはさらに、日本人は何にたいして神聖感をいだき、いかなる景観のなかに神を見てきたのか、という問いへと深化させられる。野本さんはそこに『聖性地形』という名づけを施しているが、それがいわば、「日本人が古来、聖域・神々の座として守りつづけてきた地形要素と、それを核とした聖なる場」を訪ねあるくなかに、しだいに浮き彫りにされていったものであることに、注意を促しておく。「聖性地形」という名づけは、歩行の以前にではなく、以後に属している、ということだ。そうした聖性地形を核とした神々の坐す風景は、日本人の魂のやすらぐ原風景であり、郷愁をさそう景観であり、先人たちが末裔のために選んだ最大の遺産である。それは、われわれの内省・蘇生・再生・復活のためには絶対不可欠な場であるとともに、「環境問題を考える原点」にもなりうる、という。

 この本もまた私の大切な山のバイブルとなったのだった。



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