10月13日 土曜日晴れ
敗北を抱きしめて ジョン・ダワー著
三浦陽一・高杉忠明 翻訳 2600円 読後のメモの一部を
序 1853年 黒船2隻を含んだ蒸気船4隻のふねが日本を開国させるためにやってきた。~そして1945年 鋼鉄を輝かせた大艦隊が再びこの国に戻ってきて~、93年の夢を閉じたのである。~ 此の93年間の日本の興隆の姿は誰もが予想したよりも、目覚ましかった。~ 振り返れば近代日本の登場はアメリカの軍艦とともに始まり、アメリカの軍艦とともに終わった93年間の夢のようであった。
① マッカーサーとその側近は、天皇の戦争責任ばかりでなく、~の道徳的な責任さえも全て免除しようと決断していた。
② アメリカ人が見て見ぬふりし、否定さえもした為に「戦争責任」が何時の間にか有耶無耶にされた。普通の人が自分自身の戦争責任を真剣に考える等と、誰が思うであろうか。
その結果として「官僚制民主主義」「天皇制民主主義」戦争裁判で「少数の武官・文官の最高指導者たちが戦争犯罪者」とされた。…・その後の色々な問題の派生 征服者と被征服者間の複雑な相互影響から・・
③ 無条件降伏 原爆の投下 トルーマン
ミズリー号での無条件降伏の調印式に ペリー提督の旗艦 星31こ 1941年12月7日ホワイトハウスに翻ていた星条旗である。
本の内容について ごく一部のみの紹介であるが、② の中の矛盾が後々までも影響して今だに国内的にも、国際的にも問題を残している。又一方では今の繁栄をもたらしている。
以降は省略いたします
・ 敗北の文化
メモより 1946年 9月29日の投書 21歳の女性、職を探して3日も食べづ 男が紹介してくれた。
・ 1947年 星のながれに ヒット曲
こんな女に誰がした ポン引きや 売春業者でなく、政府と役人組織。
・ 1947年8月18日 内務省は全国の警察管区に占領軍用の「慰安施設」を特設するよう 指示した。翌日は日本の娘を守るために警察長官自から指揮を執って欲しいと要請した。
日本政府が関与すべきではないと、此の時の大蔵官僚の池田 隼人は「一億円で純潔が守られるなら安いものだ」といった。業者は濡れ手に粟で、国に奉仕出来る好機に恵まれた。等等
9月30日日曜
本の紹介 川本三郎 著
今ひとたびの戦後日本映画 ~戦後五十年・日本の
<いま>を考える。 目ぼしい目次、
1 戦争未亡人と死者 2 田中絹代と戦争未亡人・
3 三船敏郎と復員兵 4 戦後を生きられなかった
男と女「浮雲」5 私が捨てた母親「日本の悲劇」
の望月優子
6 働く子供の健気さ 「美空ひばり」の「悲しき口
笛」ほか 7 愉しい民主主義「青い山脈」の明るさ
※ 此の本の目次だけを見てもわかるように、戦後の日
本人がどのように生きるべきかを、映画のスクーリン
を通して、監督が観客に訴えている。
戦後80年を経ようとする今読むと、特に「東京物語」
昭和28年・戦争未亡人を演じた、原 節子は 夫の遺影
を部屋に飾り義父・義母の再婚のすすめを固く断り、(夫
の兄弟が、世話をしないのに) 義父・義母の世話までする
戦後の、日本女性を描いている。
女優(田中絹代、山田五十鈴,高峰秀子、淡島千景、小暮
実千代、望月優子…・日本映画を代表する女優が一度は、
戦争未亡人を演じている。
原節子や田中絹代は自己主張しない、つつましい日本女
性が良く似合ったからと言う、資質もあっただろう。
戦後日本映画はーー戦争未亡人を描く事で、戦争で死ん
だ多くの死者達を追悼、鎮魂 しようとしたのだ。「死者
を忘れるな」と生き残った自分たちに、言い聞かせようと
したのだ。
戦後の貧しさ、復員兵の複雑な心境のからみ、そして何
とか人間らしい生活への望みを、日本国民が必死に生きた
いく様がとても良い本であり、読み応えのあるほんである
そのほか戦後を生きた、復員兵の生き方も多くある。
以下省略・・・…御免なさい。
「父帰る」菊池寛原作の芝居を見て
舞台の上の筋の運びと、俳優の情熱的な演技とが、見事に一本に
なってまことに呼吸もつかせぬ感動的な芝居であった。
此の芝居を見ていた私もやはり、抑えても抑えても涙が出てくる。
いつか涙はほほからあごえ流れ落ちた。
幕が下りてやがてパッと電燈がついた。隣にいる芥川を見ると芥川も
ハンケチでしきりに瞼を拭いている。久米の頬にも涙がとめどなく流れ
ている。小島政二郎も・・・目を真っ赤にしている。…・・・・・
私はすぐ後ろに座っている菊池寛を振り返った。その瞬間思いがけな
いものをそこに見て、また新しい感動が私を襲った。作者の菊池寛まで
が泣いているのだ。
菊池寛はあぐらをかいたまま、しばらくたとうとしない。とめどなく
あふれる涙は、彼の頬をすじになって流れている。・・・・
「泣くまい泣くまいと思って随分我慢したんだが、とうとうないちゃった」
と言う小島政二郎のいささか照れたような声が、廊下を出る戸口の辺から
聞こえてきた。
その時菊池寛の顔に、それまで一度も見たことの無い悲痛な表情をはっき
り私はみた。
菊池寛の人柄の一面であるが、人の面倒見の良いこと、多くの人が金の
無心に来るが、気に入った人には原稿を書かせて、原稿料として金を与えたり
(原稿はつまらないのでぼつにして) 垢だらけの天才少年 等、そのほか人間
性のあふれる内容が一杯書かれている。
「 心の栄養を補うには 」 ことかかない本である。
9月23日 日曜日
食事を始めるとき「頂きます」と言う。外国の人は知らず、日本人
なら誰もが日常使っているこの言葉、それが「絶滅のおそれ」ありと
人は夢にも思うまい。けれどどうか。小学校の給食で、先生が子供た
ちに「頂きます」と言わせたら、母親たちはこう文句をつけたという
のだ。「私たちはちゃんと給食費を払っている。なのになぜ頂きます
と言わせるのか。」もう、足許の、蟻の穴から言葉の堤は崩れようと
しているのだ。
タダなら「頂きます」か。なんとさもしいことよ、違うだろう。食
べものは天の恵み、農民の汗の結晶、と感謝する。いや何はともあれ、食べられる幸せに感謝する。その心が「頂きます」だ。ついで
に言えば「御馳走様」もそう。家庭には絶対に欠かせない 三対の
基本挨拶言葉がある。
あと二つは、「お早う」「お休み」・「行ってきます」「ただ今」
この三つさえ守られれば家庭の崩壊はないというが、さて現実はどう
か? 続 懐かしい日本の言葉 P10より抜粋
著者 藤岡 和賀夫 2004年 発刊 600円
私の私見を少しばかり
正しいと思いますが、[言葉を交わす時には必ず正対して相手の
目を見て話すように」することが大切です。、[行ってきます
・ただいま・と必ず目と目を合わせて」顔の表情に気を付けながら・
[何時でも 何処でも向き合ってあいての目を見て話す]様に心掛け
ましょう。ちなみにどんなに忙しくても「後ろ向きに挨拶をしては
いけませんよ・・・。」
「人と人が話す時の基本の中の基本です」一番大切なことです。
気を付けて、会話をなさってください。
私が朝早く学校に行き黒板に行事予定を書いていました、其処に
学校長が私の後ろから「お早う」と声をかけてきました。私は即座に
「お早うございます。」と言葉を返しました、すると校長先生は
教頭さん」後ろ向きの挨拶なんてないよ。」と言はれました。私は
恥ずかしさで「顔が焼けるように、あつかった事を」覚えていま
す。その時の注意して下さった校長先生に、今でも感謝の気持ちを
抱いています。
9月14日
「瞼の上下をぴったり合わせ思い出しやー・
絵で描いたように見えていた。」
生みの母を恋い慕う番場の忠太郎、しかし忠太郎が
幼い時に生き別れし、ようやく出会うことの出来た母
おはまは、現実の生活を失いたくないあまりに、心な
らずも息子を斥けてしまう。
幼い頃から抱き続けた理想の母を「わざわざ骨を折っ
て消してしまった。」嘆きがひいては、母への恨みが忠
太郎を襲う。「これ程慕う子の心が、親の心には通じね
えのだ。」
お母さん「そりゃー恨みだ、あっしは恨みますよ。」
しかしながら恨みを抱き、去って行く忠太郎に!!未練が
生じ、涙にくれつつ息子の後を追う母。母心を取り戻した
真の母である。
闇夜に向かって、「忠太郎ヤーイ」と叫ぶ母の悲しみが
「やっぱりお母さんだ!!」
番場の忠太郎‐長谷川 伸作の一節
此の母の叫びに 忠太郎の恨みもはれ・・・・・
「こう上下の瞼を合わせ、ジーと考えりゃー逢わぬお母さんの姿が出てくる・・・
それでいいんだ。 逢いたくなったら俺あ眼をつぶろうよ」本物の母の姿を瞼に
刻みこんで去ってゆく忠太郎 ・・・・・・
※ 怨念を巷と化す現在社会
かっては、お父さんお母さん・お役人・先生(教師)・お医者さんが国民 患者さん
教え子の身になってその為を思ってくれたはずの立場の人々が自己の権利を優先する
のがごく当然のこととなってしまった。今の社会矛盾・・・・
平成5年3月20日のメモより