郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨の城跡「瑞泉寺城」

2019-12-03 17:39:50 | 城跡巡り
播磨の城跡 「瑞泉寺城」
~安積氏の城~

【閲覧数】2,943件(2014.2.15~2019.10.31)


ずいぜんじ
瑞泉寺城


 瑞泉寺城跡は宍粟市一宮町安積にある。鳥取に通じる因幡街道(播州街道)と因幡に抜ける街道が交わる要衝の地にあった。





▲端泉寺城跡



▲安積氏の城跡の位置図



▲航空写真 昭和22年(1947)国土交通省



安積氏は幕府の御家人

 安積氏は鎌倉末期には宍粟郡安積保の下司職(げししき)・公文職(くもんしき)として任ぜられた御家人であった。はじめ足利氏に属していたが、赤松氏が播磨国守護に任ぜられるとその被官となり代々下司・公文職として安積保を支配していた。




▲安積居館跡  東安積村地番字別図 安積地区蔵


戦国時代に瑞泉寺城を築城

嘉吉の乱(1441)、応仁の乱(1467~77)が始まり戦国の世となり、このころ平地の居館から新たな居館城・瑞泉寺城を築いたのだろう。安積氏の勧進と伝わる安積八幡神社の随神門の左に土塁と石積みによる居館跡が残る。その南西の山頂に主郭があり、愛宕社が祀られている。


 
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▲安積八幡神社の向うに古城山    ▲神社山門左 土塁と石積みによる居館跡




▲瑞泉寺城の名のもとになった寺跡が残る



宇野氏との対立

  戦国末期になると赤松総領家は衰退し、尼子氏の侵略をくいとめることができず、播磨は混乱した。その頃宍粟郡代宇野氏が赤松家から離反・自立し勢力を拡大していた。安積氏は赤松家と手を結んでいたので、宇野氏とは対立し古城山に詰の城を築いたと考えられる。



宇野氏の城攻めに従軍

 天正八年(1580)羽柴秀吉の播磨平定に、安積氏は置塩城主赤松則房に従って秀吉軍に属した。秀吉軍による長水城の落城後、安積将監は宍粟郡河東(一宮町)に百石を加増されている。




▲羽柴秀吉書状  秀吉が安積氏、田路(とうじ)氏に与えた軍事指令



江戸初期は鉱山・輸送の権限

一宮町北端の富土野鉱山の銀・銅の採掘・輸送業者が結成していた諸座に対し、運上銀の納入を命じた慶長六年(1601)の文書には、池田輝政とともに安積盛祐・盛秀の署名があり、鉱山と山崎・姫路を結ぶ街道の用地の有力者として活動を続けていたことが知られている。




▲池田輝政判物 富士野鉱山(一宮町)の差配を命じた。富士野鉱山では、銀の採掘が始まっていた。


・参考文献:『山崎町史』、『播磨北部の生業と武士』他



◆城郭一覧アドレス


特産 「地酒」

2019-12-03 16:17:43 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
特産 「地酒」  宍粟市山崎町

【閲覧数】803 件(2010.2.26~2019.10.31)


大正初期 老松酒造  酒蔵前で従業員の記念写真



(文・写真「追憶 ふるさと宍粟写真集」より)


※江戸期に始まった酒造 嘉永年間(1848~54)には山崎町内には大口酒造家は7軒あったといわれるが、今なお、2軒の蔵元(老松・山陽盃)が伝統の味を守り操業している。
大きな杉樽は酒造の歴史そのもの。

地名由来 「飯見・野尻・原」

2019-12-03 16:04:41 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「飯見・野尻・原」  宍粟市波賀町


【閲覧数】2,122 件20102.22~2019.10.31)



奥谷地区内

■飯見(いいみ)
揖保川の支流引原川下流域。地名の由来は、「風土記」敷草村の中に飯戸阜が見え、伊和大神が国占めの争いをした時、ここで飯を炊いたため、飯戸の阜(岡)といい、阜の形も竈(かまど)に似ている、と記されていることから転じて飯を見る、飯見となったという。説に、稲がよく実るところで、昔「ヒミ(冷水)」の音転といわれ、引原川の冷水のながれる所でよく実る地域からといわれる。

【近世】飯見村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。幕府領。加茂神明神社。同社は京都の賀茂神社から勧請。なお、当村民安賀村八幡神社の氏子でもある。

【近代】飯見 明治22年~現在の大字。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。




■野尻(のじり)
揖保川の支流引原川中流域。地名は、南から北上してくると、ここで山が両方から川にせまり、野原(平地)がとだえ、わずかな広がりしかない平地の終わりという意味から、野尻と名付けられた。

【近世】野尻村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。幕府領。引原川支流の広路(ひろじ)川流域に広路川蹈鞴跡がある。元文2年(1737)の鉄砂流し見積改書(平瀬家文書)によると、「広次」の真砂一升には鉄砂三匁五分が含まれていたとあるが、これは広路山のことであろう。 
神社は、八幡神社。明治22年奥谷村の大字となる。

【近代】野尻 明治22年~現在の大字。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。




■原(はら)
揖保川の支流引原川中流域。地名は、山間部の中で野原の広い集落であることによる。「川すそさん」の祭りが行われ、また名勝不動滝がある。

【近世】原村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。幕府領。延宝3年からは同7年には千草屋源右衛門が、四カ年の運上銀600枚で「原村之内鍵掛鉄山」を請け負っていた(山崎藩領鉄山請負所につき覚書)。元文2年(1737)の鉄砂流し見積り改書(平瀬家文書)によると、鍵掛(かんかけ)山の真砂一升には鉄砂一匁九分が含まれている。安政3年(1856)から五年間は山崎城下の徳久屋兵平九郎が「原村之内字赤西山」の鉄山を1カ年三貫110 匁の運上銀で請け負うことになっていた。赤西鉄山は引原川支流の赤西川流域にあり、蹈鞴製鉄を行っていた。
 神社は八幡神社。

【近代】原 明治22年奥谷村の大字となる。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。奥谷村役場が置かれた。



今回の発見
・飯見は、難解な読みの地名の一つ。「いいみ」というが、「いんび」とも呼ばれている。
・奥谷地区では、古くから鉄砂が採れ、蹈鞴(たたら)製鉄跡が数多く見られる。鉄砂流しの記録に「真砂一升に○匁○分の鉄砂」という記述がよく出てくるが、どのくらいの含有量で採算が合ったのだろうか。

地名由来「有賀・上野・皆木」

2019-12-03 15:51:12 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「有賀・上野・皆木」   宍粟市波賀町

【閲覧数】2,965件(2010.2.19~2019.10.31)


西谷地区内

■有賀(ありが)
揖保川の支流引原川下流域に位置する。地名の由来は、一説に「新処」アラカのなまりで、中心地の「有ケ野」を新たに開墾してできた土地からと考えられる。

【近世】有賀村 江戸期の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)一部が幕府領となり、同領は西有賀村、宍粟藩領は東有賀村と称された。延宝7年(1679年)両村が幕府領となる。その後、西有賀村は延享3年(1746)上野館林藩領、宝暦2年(1752)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。

 元文2年(1737)の砂鉄流し見積もり改書(平瀬家文書)によると、「有ケ野」の真砂一升に鉄砂1匁八分が含まれているが、これは当村をさすのであろうか。当村は天保年間(1830~44)以前に東有賀村・西有賀村が分かれたと伝えられるが、時期不詳。
神社は安賀の八幡神社

【近代】有賀村 明治22年西谷村の大字となる。宍粟郡のうち。東有賀村と西有賀村が合併して成立。なお合併年代不詳。明治22年西谷村の大字となる。

【近代】有賀 明治初年~現在の大字名。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。昭和53年鉱山の鉱毒による田畑の汚染を改善するため、国・県の費用で圃場整備が実施された。




■上野(うえの)
揖保川の支流引原川の左岸、同川に合流する水谷川の流域に広がる。地名は町の上(北方)に位置する平地の集落であることにちなむ。波賀城址がある。

【近世】上野村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図には「上ノ村」とみえる。
神社は、波賀城主芳賀七郎光節が祀ったといわれる宝殿神社・明神社。なお、当村民は安賀村八幡神社の氏子でもある。幕末に伊藤徳兵衛が当村内に寺子屋を開いた。明治6年皆木村・飯見村と当村を通学区域とする簡易小学校開校。明治22年西谷村の大字となる。

【近代】上野 明治22年西谷村の大字となる。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。




■皆木(みなぎ)
引原川支流皆木川流域。地名の由来は、平地を残した大部分は森林に一面おおわれていることによる。

【近世】皆木村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図にみえる「見無村」は当村であろうか。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮領、同年上野館林藩領、宝暦2年(1752)大坂城代松平輝高領、同13年(1763)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。
元文2年(1737)の鉄砂流し見積り改書(平瀬家文書)に流田山では真砂一升のうちに鉄砂二匁2分が含まれていたとある。宝暦6年(1756)の鳩屋孫右衛門鉄山請負につき一札(皆木区有文書)によると、同5年から同8年まで山崎城下の千草屋源右衛門が「皆木村之内有ケ原鉄山」などを請負うことになっていたが、借銀高となったため請負が困難となっている。

 神社は、邇志神社。「延喜式」神名帳にみえる宍粟郡七座のうちの「迩志(にしの)神社」に比定される。同社は安産祈願に霊験あらたかといわれ、参詣する人々も多い。古くは神田・苅田などがあり祭儀も盛大に行われていたという。
なお、明治22年に当村など九カ村が合併して成立した西谷村は、この神社の名前を採ったといわれている。慶蔵(けいぞう)院跡がある。同寺開祖の南木慶蔵順広は赤松氏の家臣で、慶長年間(1596~1615)に没したという(波賀町誌)。明治22年西谷村の大字となる。西谷村の大字となる。

【近代】皆木 明治22年~現在の大字。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。


◇今回の発見
・波賀町の地名には、「が」及び「か」と発音する地名には、祝福の意「賀」の字を当てたものが幾つかある。例えば、波賀・安賀・有賀。
・慶長国絵図にのみ記述されていて、当時の古文書とちがった字形・呼び名の地名がかなり見受けられる。今回は皆木が「見無村」(推定)とある。当て字なのか、皆木と付けられるまで使われていたのか。少ない資料の中で、地名の変遷を知ることの難しさを感じる。