郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

 特産 「胡瓜」 

2019-12-01 17:08:59 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
 特産 「胡瓜」  宍粟市山崎町戸原地区
【閲覧数】776件(20101.26~2019.10.31)


昭和27年(1952)頃 戸原地区での胡瓜(キュウリ)の出荷風景




人力の大八車が運搬の主流。箱詰めにされた胡瓜は各地域に運ばれたのだろう。



昭和40年(1965)頃の共同出荷風景(川戸)




写真:「宍粟1952」、「やまさき 10周年記念号 1965」より

米どころ城下平野

2019-12-01 16:13:36 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
米どころ城下平野      宍粟市山崎町城下地区


【閲覧数】745件(2010.4.27~2019.10.31)



昭和初期の城下村 


 
米俵づめと米俵の運搬  (宍粟1952より)

昔は、農家は稲わらを綯(な)い、米俵で出荷していた。

米俵 1俵4斗60kg。この米俵を担げないと一人前の男ではないと聞いたことがある。


地名由来「今市・安賀・齋木」

2019-12-01 10:07:42 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「今市・安賀・齋木」  宍粟市波賀町


【閲覧数】2,019 (2013.2.18~2019.10.31)


■今市(いまいち)
揖保川の支流引原川下流域。名は市が開かれていたことによる。

【近世】今市村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮領、同年上野館林藩領、宝暦2年(1752)大坂城代松平輝高領、同13年(1763)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。
神社は安賀村にある八幡神社。明治22年西谷村の大字となる。

【近代】今市 明治22年~現在の大字。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。波賀町内では最も早く昭和52年圃場整備完了。




■安賀(やすが)
引原川とその支流斎木川との合流点南部に位置する。周辺地域の中で一番平地の広がりのある地域であり、田の区画が整然となっているので、条里制の遺構との説もある。地名の由来は、不詳。一説に、文政古図に安知とあり、安加の誤りではないかと指摘され、そうであるなら安らかな佳名と考えられる。

【近世】安賀村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮領、同年上野館林藩領、宝暦2年(1752)大坂城代松平輝高領、同13年(1763)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。
神社は八幡神社。同社は当村のほかに上野・有賀・斉木・今市・飯見 各村の氏神。寺院は真言宗仏祥山遍明院満願寺。同寺の※本尊大日如来は運慶の作と伝える。



【近代】安賀 明治22年西谷村の大字となる。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。スポーツ会社美津濃、かばん会社西播などの企業を誘致し、町の中心地となっている。






■斎木(さいき)
東流する斎木川(引原川支流)流域に位置する。地名の由来は、不詳。説に、引原川の支流斎木川の支谷で、稲の実りを祈願する塞(さい)の神を祭った集落の入り口を指すともいわれる。

【近世】齋木村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。齋木とも書く。慶長国絵図には村名はみえないが、齋木川上流に「流田村」とあり、現在地内に流田東・流田西の小字が残る。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領、文政6年(1823)上野館林藩領、天保元年(1830年)幕府領となり幕末に至る。
 元文2年(1737)の鉄砂流し見積り改書(平瀬家文書)に流田山では真砂一升のうちに鉄砂四匁が含まれていたとある。宝暦6年(1756)の鳩屋孫右衛門鉄山請負につき一札(皆木区有文書)によると、同5年から同8年まで山崎城下の千草屋源右衛門が「済木山鉄砂流出」などを請負うことになっていたが、借銀高となったため請負が困難となっている。なお鳩屋孫右衛門は須加村(現山崎町)に在住している。 
 神社は安賀村八幡神社。「川すそさん」という古くからの祭りがある。寺院は、真言宗医王山薬師院安養寺と日光寺跡がある。日光寺は永禄3年(1560)に大檀那芳賀七郎左衛門が創立した真言宗寺院という『波賀町誌』)。明治20年有賀村・飯見村と当村を通学区域として温知小学校開校。明治22年西谷村の大字となる。

【近代】斎木 明治22年~現在の大字。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。
平成19年11月鳥ケ乢(とりがたわ)トンネル(斎木-岩野辺間)が開通。








◇今回の発見
・チャンチャコ踊りは、市の無形民俗文化財として安賀(波賀)・原(波賀)・横山(一宮)がある。
・「川すそ」祭りは、齋木(波賀)・原(波賀)・深河谷(一宮)・河原田(一宮)に残されている。
・気になったこと:今回の記事の中で安賀の満願寺の大日如来は運慶作と伝えるとあるが、波賀町誌には、その記述がなく、作成年代は南北朝~室町時代のものと推定される(昭和60年11月12日調査)とあり、もし運慶作ならば平安末期~鎌倉初期なので、残念ながら運慶作ではなさそうだ



地名由来「日見谷・谷・小野」

2019-12-01 09:54:19 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「日見谷・谷・小野」    宍粟市波賀町


【閲覧数】4,127件(2010.2.17から2019.10.31)

西谷地区内

■日見谷(ひみたに)
揖保川の支流引原下流域。地名は、山林に囲まれた渓谷の当地からの平地も広がり、視野も広がるので日を見る地とされたことによる。

【近世】日見谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮領、同年上野館林藩領、宝暦2年(1752)大坂城代松平輝高領、同13年(1763)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。
神社は、火魂(ほむすび)神社。(地元では「かこん」ともよぶ)境内に県指定天然記念物の※大ムクノキがある。明治20年谷村・小野村と当村を通学区域として研精小学校開校。明治22年西谷村の大字となる。

【近代】日見谷 明治22年~現在の大字。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。昭和59年圃場整備完了。




■谷(たに)
揖保川の支流引原川下流域。山々に囲まれた渓谷で古くから播磨街道の要所にあたり、豊富な谷川の水を利用して耕地が広がり、早くから人々が集落を営んでいた。地名は、山間の水流近くで地形のくぼんだ所からと考えられる。

【近世】谷村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、文政6年(1823)上野館林藩領、天保元年(1830)幕府領となり幕末に至る。当村から下小野村が分村。なお、下小野村の分村は寛文(1661~73)前後と考えられる。明治7年に小野村と合併。
神社は、三嶺(みつみね)神社。同社は安政6年常陸国鹿島郡より、当時の庄屋与三兵衛が村内の安寧(あんねい)を祈るために勧請したという。

【近代】谷 明治22年~現在の大字。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。




■小野(おの)
揖保川の支流引原川下流域。地名は、山と山に囲まれた渓谷の中にわずかな(ちいさな)平地(ひろがり)があることによる。引原川沿いに柳の大樹がある。

【中世】小野村 鎌倉期~室町期にみえる村名。播磨国宍粟郡三方西のうち。正応3年(1290)
8月2日の関東下知状(中村甚太郎家文書)によると「播磨国小野村」の在家一宇は中村氏馬充光時の遺領で、その後家光阿が分割相続し、同日に鎌倉幕府の安堵を受けている。在家一宇には光国名の田七段20歩と御園(みその)とよぶ田三段が付属しており、三方西小野村の地頭職を示している。御園は引原川左岸の現波賀町谷の集落溝野(みぞの)と推定される。

【近世】小野村 江戸期から明治22年の村名。宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮領、同年上野館林藩領、宝暦2年(1752)大坂城代松平輝高領、同13年(1763)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。

 神社は、諏訪神社。同社は中世には武蔵丹党に出身をもつ中村氏の氏神として祀られたと考えられる。引原川支流の小野川上流に県指定天然記念物の大トチノキがある。明治7年下小野村を合併。明治22年西谷村の大字となる。

【近代】小野 明治22年~現在の大字。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。




◇今回の発見:日見谷の火魂神社、最初はどう呼んでいいのかわからなかった。地元ではかこんと呼ぶ。地域によって、かこんともほむすびとも呼ばれている。