郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「有賀・上野・皆木」

2019-12-03 15:51:12 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「有賀・上野・皆木」   宍粟市波賀町

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西谷地区内

■有賀(ありが)
揖保川の支流引原川下流域に位置する。地名の由来は、一説に「新処」アラカのなまりで、中心地の「有ケ野」を新たに開墾してできた土地からと考えられる。

【近世】有賀村 江戸期の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)一部が幕府領となり、同領は西有賀村、宍粟藩領は東有賀村と称された。延宝7年(1679年)両村が幕府領となる。その後、西有賀村は延享3年(1746)上野館林藩領、宝暦2年(1752)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。

 元文2年(1737)の砂鉄流し見積もり改書(平瀬家文書)によると、「有ケ野」の真砂一升に鉄砂1匁八分が含まれているが、これは当村をさすのであろうか。当村は天保年間(1830~44)以前に東有賀村・西有賀村が分かれたと伝えられるが、時期不詳。
神社は安賀の八幡神社

【近代】有賀村 明治22年西谷村の大字となる。宍粟郡のうち。東有賀村と西有賀村が合併して成立。なお合併年代不詳。明治22年西谷村の大字となる。

【近代】有賀 明治初年~現在の大字名。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。昭和53年鉱山の鉱毒による田畑の汚染を改善するため、国・県の費用で圃場整備が実施された。




■上野(うえの)
揖保川の支流引原川の左岸、同川に合流する水谷川の流域に広がる。地名は町の上(北方)に位置する平地の集落であることにちなむ。波賀城址がある。

【近世】上野村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図には「上ノ村」とみえる。
神社は、波賀城主芳賀七郎光節が祀ったといわれる宝殿神社・明神社。なお、当村民は安賀村八幡神社の氏子でもある。幕末に伊藤徳兵衛が当村内に寺子屋を開いた。明治6年皆木村・飯見村と当村を通学区域とする簡易小学校開校。明治22年西谷村の大字となる。

【近代】上野 明治22年西谷村の大字となる。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。




■皆木(みなぎ)
引原川支流皆木川流域。地名の由来は、平地を残した大部分は森林に一面おおわれていることによる。

【近世】皆木村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図にみえる「見無村」は当村であろうか。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮領、同年上野館林藩領、宝暦2年(1752)大坂城代松平輝高領、同13年(1763)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。
元文2年(1737)の鉄砂流し見積り改書(平瀬家文書)に流田山では真砂一升のうちに鉄砂二匁2分が含まれていたとある。宝暦6年(1756)の鳩屋孫右衛門鉄山請負につき一札(皆木区有文書)によると、同5年から同8年まで山崎城下の千草屋源右衛門が「皆木村之内有ケ原鉄山」などを請負うことになっていたが、借銀高となったため請負が困難となっている。

 神社は、邇志神社。「延喜式」神名帳にみえる宍粟郡七座のうちの「迩志(にしの)神社」に比定される。同社は安産祈願に霊験あらたかといわれ、参詣する人々も多い。古くは神田・苅田などがあり祭儀も盛大に行われていたという。
なお、明治22年に当村など九カ村が合併して成立した西谷村は、この神社の名前を採ったといわれている。慶蔵(けいぞう)院跡がある。同寺開祖の南木慶蔵順広は赤松氏の家臣で、慶長年間(1596~1615)に没したという(波賀町誌)。明治22年西谷村の大字となる。西谷村の大字となる。

【近代】皆木 明治22年~現在の大字。はじめ西谷村、昭和31年からは波賀町の大字。


◇今回の発見
・波賀町の地名には、「が」及び「か」と発音する地名には、祝福の意「賀」の字を当てたものが幾つかある。例えば、波賀・安賀・有賀。
・慶長国絵図にのみ記述されていて、当時の古文書とちがった字形・呼び名の地名がかなり見受けられる。今回は皆木が「見無村」(推定)とある。当て字なのか、皆木と付けられるまで使われていたのか。少ない資料の中で、地名の変遷を知ることの難しさを感じる。

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