郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

庶民の楽しみ「相撲」

2019-12-17 22:29:44 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
庶民の楽しみ「相撲」    宍粟市波賀町

【閲覧数】900件(2010.3.26~2019.10.31)


波賀 西谷小学校庭にて 相撲巡業  



「取材記録集 掘り起こそうわがふるさと (写真:堀市郎氏提供) 」より


※すごい人の集まり。本格的な土俵が用意され、当時の相撲人気がうかがわれます。周辺の幟がイベントを盛り上げています。左上の運動場に昔の車数台が見えます

庶民の楽しみ 「相撲」

2019-12-17 22:26:52 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
庶民の楽しみ 「相撲」   宍粟市波賀町


【閲覧数】660件(2011.9.14~2019.10.31)

昭和中期 奉納相撲風景(安賀八幡神社)



写真:「取材記録集 掘り起こそうわがふるさと No15」より

※昭和10年代相撲人気は高く、横綱双葉山が全盛期の昭和14年に前人未到の69連勝を果たした。地域の神社の祭りには奉納相撲が定番で、大会の応援に熱が入った。

播磨 高取城跡

2019-12-17 20:42:35 | 城跡巡り
【閲覧数】3,235件(2014.8.30~2019.10.31)



播磨 高取城跡   一宮町福知字高取

▼高取城を望む




 田路氏の本城が三方山城そして、その支城として高取城と草置城がある。

その高取城がかなり高山であり案内が必要なこと、一度雪が降れば登ることが困難となるため探索が後回しになってしまった。

 この高取城は福知渓谷の入口付近で、但馬の朝来方面に繋がる。そのせいかこの地域の気候は但馬の気象に似ているところがあり時雨れることが多く、同じ一宮町でも南部の気象とは違った一面をもっている。


▼田路氏の諸城 三方城・草置城・高取城の位置図





 高取城は608mの高い山(比高350m)で登山口がいくつかあるようで、ちょうど地域の歴史に詳しいTさんの協力を得ることができ、その案内で登城が可能となった。



 ▼高取城マップ




 「小の倉滝※」の案内板のある対面にある高取集落への橋を渡り、左に沿って歩き民家の脇を通り登りはじめるとす防獣網フェンスがある。



▼福知川の右岸(北岸)                         
 


▼民家の間を抜ける 



その先の谷合いの石垣段が目をひいた。ここは現在は杉林になっているが以前は畑だったそうだ。


▼高く積み上げられ石垣




 そこを左に横切って登り始りはじめると、水路の跡があった。その近くから幅2mほどの窪み状の道が上の方まで続いている。木々を運ぶための人為的に掘った道(木場道)ではなかろうかとの意見が出る。



▼木場道?を通る



 その窪みの道を通って登っていくと、尾根筋の突き出た展望のよい平坦地に到着した。城の見張り台にちょうどいい。



▼見張り台?




 いよいよ城は近くかなと思いきや、ここからまたを木々の間を縫いながら急斜面の尾根筋をひたすら登る。

やや平坦になった道に堀切を見つけるや、その向うに頂上が見えはじめた。斜面の雑木が伐採され見通しがよくなっている。最近地元の人たちが整備されたという。


                       
  

▲堀切   


▲頂上を望む 



  山頂が見えるや先を急いだ。岩の壁のある頂上にやってきた。山頂から来た方角を振り返ると、眼下の景色たるやすばらしく、しばらく見とれていた。



 ▼山頂からの絶景とズーム




  周辺を探り始めるも、山頂部は自然石と土塁の細長い地形で城跡とただちに呼べるものではない。しかし、東の尾根筋を下りてみると、尾根をえぐる堀切が2つあった。



▼自然石と土塁  



              
▼東尾根筋の堀切




 また、西の谷に降りていくと、幾つかの平地があり、さらに下に降りていくと鞍部というのにふさわしいゆるやかで広い場所に降りた。この場所で水の確保を可能にしていたのではないかとの意見であった。



▼鞍部 水場か?




 東の堀切と鞍部の水の確保などがなされていたと考えれば、城としては未完成というより、播磨と但馬を結ぶ街道の見張りに重点をおいた砦的な城だという印象を受けた。


 帰りはもと来た道の東側の谷筋を下るとその途中に石積みの水場を発見する。整然とした石積みは築城時のもののようにも感じられる。そうであるならこの谷筋が高取城の大手道であったことが考えられる。



▼谷筋で見つけた石積みの水場




雑感


左せんちやうこゐ道




 田路氏の支城といわれる高取城の探索が、宍粟市内の城跡探索で一番最期になってしまった。

 三方盆地に本城を構え、播磨と但馬を結ぶ街道や山道を押さえていた田路氏は、元は朝来の田路谷からやってきたという。播磨と但馬国境には笠杉山・段ヶ峰が並び立ち、その間をくぐるように田路谷から千町を結ぶ古くから山道があったという。次は田路氏の足跡を辿る探索が気になっている。




◆城郭一覧アドレス

地名由来「漆野・西下野」

2019-12-17 09:33:51 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「漆野・西下野」

【閲覧数】1,165件(2010.3.23~2019.10.31)



■漆野(うるしの)
千種川上流域の屈曲部に形成された丘陵と後背山地に立地。地名の由来は、往古より漆の木が多く、特に才ノ谷は群生地で良質の漆を生産していたことによると伝える。地内の光福寺に播磨随一の※大イトザクラがあり、樹齢推定300年、根回り4.87m、目通り3m余、高さ13mの大木で、通称播磨一本堂のシダレザクラとして知られている。


光福寺の大イトザクラ



【近世】漆野村
全面積の9.3割が山林で、耕地面積0.7割の中で畑地が6.6割を占め、米麦作のほかは大豆・稗(ひえ)・蕎麦(そば)を作り、副業として薪炭作りや漆の採取などで生計をたてた。

 神社は松尾神社(明治42年中三河の大森神社へ合祀)。寺院は浄土真宗本願寺派光福寺で、播磨一本堂の名で知られる。堂寺は永禄9年(1566)創建、開基は教善という。寛永18年(1641)大火のため消失、元禄9年(1696)再建。寺の縁起によれば、第7世残真が、聖徳太子の夢告をこうむり、千種町の西土井久にあるケヤキの大樹1本で寺を再建したので播磨一本堂という。大樹の幹にあった太子の木像を、本堂に祀ると伝える。寺内で見渡せる40数本の柱はすべて四方柾で心部を使ったものはない。

【近代】漆野
従来米麦・大豆作などと薪炭作り、漆取などで生活をたてていたが、明治中期頃より優良種牛導入による蓄牛の品種改良・増殖と養蚕に力を入れた。近年までは漆の木の樹皮に傷をつけ、樹液を竹の筒に受けて採集する風景も見られたが、桑園になるような所は漆の木を伐採し桑畑の栽植に変えたため、現在はほとんど漆の木の姿は消えた。また、クヌギの補植を奨励し、薪炭・材木生産による林業を期した。





■西下野(にししもの)
千種川上流の河谷に位置する。地名の由来は、三河谷の下にあり、原野が多かったことによると思われる。なお、西を冠したのは郡内の同地名と区別するため、地内字金屋で計5基のたたら場が発見され、炉の周辺から出土した多数の土器などから8世紀初頭の製鉄遺跡であることが確認された。山腹西向緩斜面を断面L字形・平面角丸方形に掘削した基盤面をもち、また柱穴の確認により約25㎡の平坦面に堀立柱の覆屋があり、炉を設けていたと推定される。

【近世】下野村 江戸時代には、耕地の6割は畑地で、耕地面積は当地の7%、多くは水田となりにくい原野であった。文政8年(1825)作州・播州の百姓一揆では、三河谷の百姓たちが当村の庄屋へ詰めかけ、田の中にて多人数で薪を持ち出し、11~12ヶ所で「火を焚き飯を致しなすよう彼是申す所」を中心人物3~4人召し捕られて鎮定(庄屋公私用日記)、

 神社は若王神社(明治43年中三河の大森神社に合祀)。旦那寺は主に漆野村の光福寺。ほか地内の観音堂がある。正業は米麦作や、畑作の大豆・稗・蕎麦のほか、タバコの生産も行われていた天明3年の文書にある。また作間稼に薪炭をつくり下徳久の久崎から高瀬舟で出荷した、明治8年西下野と改称した。
 ※明治8年に宍粟郡内に下野が2か所あり、三河谷の下野を西下野と改称し、山崎蔦沢谷の下野は東下野と改称した。

【近代】西下野 従来米麦・大豆・タバコ作りと薪炭作りを主としてきたが、明治中期頃より種牛優良種の導入による品種改良・増殖と養殖に力を入れた。特に養蚕業は明治33年山崎町の製糸工場が、大手の郡是製紙に買収され、事業が拡大されるに伴って飼育家数・飼育量ともに増大した。また林業にも力を入れ、大正6年クヌギの補植を奨励した。





◇今回の発見
・漆野は、漆の群生地があった所で、近くで漆の採取が行われていた。漆器は、日本の伝統文化の一つ。その細工には蒔絵(まきえ)・沈金(ちんきん)・螺鈿(らでん)などがあり、山崎には蒔絵師による伝統文化が今も続く。
・西下野遺跡は、古代製鉄跡の創業年代が不明のものが多い中で、土器(奈良時代初期)とともに見つかり、年代判定ができた数少ない例という。
・千種川では、下徳久の久崎から高瀬舟が出ていたという。