郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

庶民の楽しみ [素人演劇2」

2019-12-16 10:17:06 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
庶民の楽しみ [素人演劇2」       宍粟市波賀町飯見


【閲覧数】633件(2011.9.9.8~2019.10.31)


昭和20年代 波賀飯見青年団歌舞伎



戦後早々、青年団の素人演芸会が生まれ、人々は心を癒された。


写真・説明「追憶ふるさと宍粟写真集」より

地名由来 「栃原・末広」

2019-12-16 07:08:14 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来  「栃原・末広」       安富町(現姫路市)


【閲覧数】1,704件(2010.3.15~2019.10.31)



■栃原(とちわら)
 揖保川の支流林田川の上流域に位置し、安志川(現林田川)の両岸にあり、南は名坂村。東岸に角屋(かどや)・上垣内(うえがいち)、西岸に小林・渡辺、西流して、安志川に合流する中ノ谷、川沿いに中ノ谷の集落がある。

 古くは橡原とも書いた。地名は、トチノキの自生に由来する。室町初期の五輪塔がある。北方山頂の大岩壁を鎌倉岳という。

 神社は天満宮(現天満神社)・水尾明神・建速社。寺院は大永3年(1523)開基の浄土宗本願寺派正源寺。同寺は板倉三郎太夫が頂戴した蓮如上人筆六字名号を安置した道場に始まり、2回の火災に水を噴き焼けず「火除けの名号」と呼んで今に伝える。地蔵堂は江戸中期の立像石仏を祀る。

 「播州宍粟郡誌」には枝村平岩・上垣内・杉垣内・きしをあげる。村内北部は平岩・上垣内・杉垣内、南部は道場垣内(現寺垣内)・殿垣内・走尾(はしお)に分かれる。
 
 昭和4年富栖尋常高等小学校が末広から字走尾に移転。



■末広(すえひろ)
 林田川上流域。地名は、中世の名田百姓村で佳名として用いられたものというが、単なる佳名として選ばれたものと思われる。中谷川の河谷の字今念(こんねん)は名坂今念寺の故地と伝え、大正中期に南北朝期を下らぬ石灯篭基礎を出土。当地へ来た弁慶の足形が残るという巨石があり、安富北小学校に保存される。

 神社は渡辺天満宮・行成(ゆきなり)建速社・田畑建速社。寺院は真宗西派の西岸(さいがん)寺は大永3年(1523)建立、開基は法徳という。「播州宍粟郡誌」に枝村小林・渡辺・上垣内・中ノ谷をあげている。

 明治6年西岸寺に従化小学校開設、同8年渡辺小七宅へ移転。同9年順化小学校(皆河村)・従化小学校を統合して字かわらけ畑(ばた)に時習小学校開校、同11年字片添に移転。


整備された人工林(末広)





◇今回の発見
町史によると、安富は美林に覆われた地で、山林が88%。明治中期以降、造林に力を入れてきた。その中で富栖杉が有名。病害(赤枯病)に強い杉が求められ、宮崎から手に入れた苗が大正期に植林されて試行錯誤の上、見事に育てられた。

地名由来「皆河」

2019-12-16 07:00:08 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「皆河」  安富町(現姫路市)


【閲覧数】1,795件)2010.3.12~2019.10.31)



■皆河(みなご)

 林田川最上流域の河谷。安志谷の最北部に位置し、南は栃原村。南流する安志川(現林田川)の両岸を占め、南から早柏(はやかし)・一の谷・梅ケ岡(現在の梅中)・行友(ゆきとも)・中皆河・重光(しげみつ)・新田(しんで)の集落があり、その北方に枝村関がある。慶長国絵図に「行友村」がある。安志川の最上流に見える「関田村」は枝村関をさすか。関は、皆河の一部。地名の由来は、盆地への入り口が狭隘(きょうあい)であることによる。平家落人の伝承地で、平家馬場の地名もある。

 古くは皆川とも書く。地名はニナガワ(蜷川)の転嫁というが、ミナ(水)ゴウチ(河内)が原義で、水の豊富な河谷を意味する。字湯の山には汲んで風呂場にした鉱泉の湧出池がある。古井家住宅は約400年前の民家で、亀石にまつわる伝承がある。

 本村に矢倉大明神(現矢倉神社)、枝村関に水尾神社、ほかに小社10があり、亀山本徳寺(現姫路市)と福円林田寺(現同上)の各支配下の一向宗道場・薬師堂・不動堂があった。水尾神社社殿は飛騨匠の作と伝承(播磨鑑)。

 国指定重要文化財の古井家住宅は皆河の千年家と通称される。様式は木造平屋の入母屋造で、茅葺。建築年代は室町と推測される。口碑では羽柴秀吉による姫路城天守閣築造の際、住宅の古材の一部を提供したと伝える。






 水尾神社は社殿の暦応元年(1338)10月13日銘をもつ本殿棟札から、同年の建立とされる。水尾神社の大スギは県指定天然記念物。関地内の鹿ケ壺は県指定名勝で、林田川の最源流部に近い小支流の川底に形成された甌穴群である。






◇今回の発見
・皆河にある千年家は、日本家屋の原点。木造で400年以上大事に残された貴重なもの。全国で一、二を争う古建築。
・関が皆河の一部(枝村)だったこと。関の鹿ケ壺は悠久の自然が作り出した芸術品。
・皆河の早柏・梅岡などの姓名は、地名(小字)に由来している。


地名由来 「塩野・狭戸」  

2019-12-16 06:33:28 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「塩野・狭戸」   安富町(現姫路市)


【閲覧数】3,178件(2010.3.8~2019.10.31)


■塩野(しおの)
 林田川上流域。長野村の南西に位置する。集落は林田川の西岸に東西に分かれて立地し、東塩野・西塩野と通称される。地名は、シボ(撓)ノ(野)に由来。進藤岡右衛門とお万の悲恋の伝承地「お万淵」がある。地内字末房は名田、札場は高札を立てた場所、紙屋垣内は紙漉きを生業とする家があったところに由来する地名。林田川沿いにある貧田川原・東河原・前河原・下河原・向河原は開拓が新しいことを示し、貧田は新しい地味のよくないことをいう地名である。

 江戸時代中期ころには当村は東塩野村と改称していた。これは土万谷の塩野村(現山崎町塩山)との混同を避けるためと考えられるが、改称の年次は不詳。なお、明治7年の内務省地理局布達には塩野村となっている。

 室町期成立の「峯相記」に文永年間(1264~75)頃に富貴の輩が五ヶ所の「奇麗ノ念仏堂」を建立し、そのうちの一つとして安志田所兼信が塩野に造立した塩野寺がある。同寺は朝日山顕実の死去とともに廃れ、のちに禅宗に転じた。塩野寺の所在地は、これまでの現安富町塩野と現山崎町宇原との境界の屋根上にある禅寺山(ぜんじやま)廃寺や五万五千枚余りの古銭(唐代・宋代の中国の古銭)が出土した塩野の浄土真宗本願寺派了円(りょうえん)寺境内から一枚作りの布目瓦が採取され、塩野寺ではないかと注目を浴びている。

塩野出土の古銭(安富町史より)



 寛永7年(1854)11月5日の南海大地震の際には大きな被害を受けた(土居家文書)。大歳神社がある。了円寺は大永2年(1522)の建立、開基は意安。寛政6年(1794)同寺は近隣の出火で類焼した。(同文書)。ほかに薬師堂がある。

 尼崎藩では、菜種油の専売制を実施、寛政年間(1789~1801)領内村で菜種栽培を勧め藩に収納させた。天明飢饉には天明3年(1783)凶作御手当米12石、御同年救銀352匁(171人分)支給。明治6年了円寺に感化小学校設置、翌7年植木野に移転。






■狭戸(せばと)
 安志谷の南端、南流する林田川の西岸に位置し、北は塩野村。南は揖東郡松山村(現姫路市)。西の山麓の低い河岸段丘上の集落が古い集落とみられる。地名の源義が狭処で、集落が立地する山麓の細長く幅の狭い大地に由来する。羽柴秀吉の長水城攻略戦の際、当地で激しい前哨戦があったという(長水軍記)。大歳(おおとし)神社境内に※「お万淵」の悲恋の進藤岡右衛門の墓がある。

 元禄6年(1693)宍粟郡村々反別郡玉帳によれば、観音堂(現大歳神社境内に所在)・薬師堂(廃絶、仏像は観音堂に現存)・地蔵堂・歳大明神(現大歳神社)・妙見・山神2・荒神・道祖神があった。寛政年間(1789~1801)尼崎藩は菜種栽培を奨励、藩が収納。天明飢饉に際し、藩は天明3年(1783)凶作御手当米17石、同4年御救銀96匁余(47人分)支給。嘉永7年(1854)11月5日の南海大地震で大きな被害を受けた。




◇今回の発見
・尼崎藩の採種油の奨励。天明の飢饉に藩の救済措置などが目を引く。安富の狭戸・塩野・植木野・三坂は安永6年(1777)より幕末まで尼崎藩領であった。
・飢饉や大火の記録とともに、この塩野・狭戸の両村は寛永7年(1854年)の南海大地震の大被害の記録が残る。その歴史に無関心であってはならない。災害は忘れた頃に必ず起きるのだから。