地名由来 「塩野・狭戸」 安富町(現姫路市)
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■塩野(しおの)
林田川上流域。長野村の南西に位置する。集落は林田川の西岸に東西に分かれて立地し、東塩野・西塩野と通称される。地名は、シボ(撓)ノ(野)に由来。進藤岡右衛門とお万の悲恋の伝承地「お万淵」がある。地内字末房は名田、札場は高札を立てた場所、紙屋垣内は紙漉きを生業とする家があったところに由来する地名。林田川沿いにある貧田川原・東河原・前河原・下河原・向河原は開拓が新しいことを示し、貧田は新しい地味のよくないことをいう地名である。
江戸時代中期ころには当村は東塩野村と改称していた。これは土万谷の塩野村(現山崎町塩山)との混同を避けるためと考えられるが、改称の年次は不詳。なお、明治7年の内務省地理局布達には塩野村となっている。
室町期成立の「峯相記」に文永年間(1264~75)頃に富貴の輩が五ヶ所の「奇麗ノ念仏堂」を建立し、そのうちの一つとして安志田所兼信が塩野に造立した塩野寺がある。同寺は朝日山顕実の死去とともに廃れ、のちに禅宗に転じた。塩野寺の所在地は、これまでの現安富町塩野と現山崎町宇原との境界の屋根上にある禅寺山(ぜんじやま)廃寺や五万五千枚余りの古銭(唐代・宋代の中国の古銭)が出土した塩野の浄土真宗本願寺派了円(りょうえん)寺境内から一枚作りの布目瓦が採取され、塩野寺ではないかと注目を浴びている。
塩野出土の古銭(安富町史より)
寛永7年(1854)11月5日の南海大地震の際には大きな被害を受けた(土居家文書)。大歳神社がある。了円寺は大永2年(1522)の建立、開基は意安。寛政6年(1794)同寺は近隣の出火で類焼した。(同文書)。ほかに薬師堂がある。
尼崎藩では、菜種油の専売制を実施、寛政年間(1789~1801)領内村で菜種栽培を勧め藩に収納させた。天明飢饉には天明3年(1783)凶作御手当米12石、御同年救銀352匁(171人分)支給。明治6年了円寺に感化小学校設置、翌7年植木野に移転。
■狭戸(せばと)
安志谷の南端、南流する林田川の西岸に位置し、北は塩野村。南は揖東郡松山村(現姫路市)。西の山麓の低い河岸段丘上の集落が古い集落とみられる。地名の源義が狭処で、集落が立地する山麓の細長く幅の狭い大地に由来する。羽柴秀吉の長水城攻略戦の際、当地で激しい前哨戦があったという(長水軍記)。大歳(おおとし)神社境内に※「お万淵」の悲恋の進藤岡右衛門の墓がある。
元禄6年(1693)宍粟郡村々反別郡玉帳によれば、観音堂(現大歳神社境内に所在)・薬師堂(廃絶、仏像は観音堂に現存)・地蔵堂・歳大明神(現大歳神社)・妙見・山神2・荒神・道祖神があった。寛政年間(1789~1801)尼崎藩は菜種栽培を奨励、藩が収納。天明飢饉に際し、藩は天明3年(1783)凶作御手当米17石、同4年御救銀96匁余(47人分)支給。嘉永7年(1854)11月5日の南海大地震で大きな被害を受けた。
◇今回の発見
・尼崎藩の採種油の奨励。天明の飢饉に藩の救済措置などが目を引く。安富の狭戸・塩野・植木野・三坂は安永6年(1777)より幕末まで尼崎藩領であった。
・飢饉や大火の記録とともに、この塩野・狭戸の両村は寛永7年(1854年)の南海大地震の大被害の記録が残る。その歴史に無関心であってはならない。災害は忘れた頃に必ず起きるのだから。