郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来 「飯見・野尻・原」

2019-12-03 16:04:41 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「飯見・野尻・原」  宍粟市波賀町


【閲覧数】2,122 件20102.22~2019.10.31)



奥谷地区内

■飯見(いいみ)
揖保川の支流引原川下流域。地名の由来は、「風土記」敷草村の中に飯戸阜が見え、伊和大神が国占めの争いをした時、ここで飯を炊いたため、飯戸の阜(岡)といい、阜の形も竈(かまど)に似ている、と記されていることから転じて飯を見る、飯見となったという。説に、稲がよく実るところで、昔「ヒミ(冷水)」の音転といわれ、引原川の冷水のながれる所でよく実る地域からといわれる。

【近世】飯見村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。幕府領。加茂神明神社。同社は京都の賀茂神社から勧請。なお、当村民安賀村八幡神社の氏子でもある。

【近代】飯見 明治22年~現在の大字。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。




■野尻(のじり)
揖保川の支流引原川中流域。地名は、南から北上してくると、ここで山が両方から川にせまり、野原(平地)がとだえ、わずかな広がりしかない平地の終わりという意味から、野尻と名付けられた。

【近世】野尻村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。幕府領。引原川支流の広路(ひろじ)川流域に広路川蹈鞴跡がある。元文2年(1737)の鉄砂流し見積改書(平瀬家文書)によると、「広次」の真砂一升には鉄砂三匁五分が含まれていたとあるが、これは広路山のことであろう。 
神社は、八幡神社。明治22年奥谷村の大字となる。

【近代】野尻 明治22年~現在の大字。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。




■原(はら)
揖保川の支流引原川中流域。地名は、山間部の中で野原の広い集落であることによる。「川すそさん」の祭りが行われ、また名勝不動滝がある。

【近世】原村 江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。幕府領。延宝3年からは同7年には千草屋源右衛門が、四カ年の運上銀600枚で「原村之内鍵掛鉄山」を請け負っていた(山崎藩領鉄山請負所につき覚書)。元文2年(1737)の鉄砂流し見積り改書(平瀬家文書)によると、鍵掛(かんかけ)山の真砂一升には鉄砂一匁九分が含まれている。安政3年(1856)から五年間は山崎城下の徳久屋兵平九郎が「原村之内字赤西山」の鉄山を1カ年三貫110 匁の運上銀で請け負うことになっていた。赤西鉄山は引原川支流の赤西川流域にあり、蹈鞴製鉄を行っていた。
 神社は八幡神社。

【近代】原 明治22年奥谷村の大字となる。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。奥谷村役場が置かれた。



今回の発見
・飯見は、難解な読みの地名の一つ。「いいみ」というが、「いんび」とも呼ばれている。
・奥谷地区では、古くから鉄砂が採れ、蹈鞴(たたら)製鉄跡が数多く見られる。鉄砂流しの記録に「真砂一升に○匁○分の鉄砂」という記述がよく出てくるが、どのくらいの含有量で採算が合ったのだろうか。

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