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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

阿波 徳島城をゆく

2020-04-29 10:13:45 | 名城をゆく
(2019.3.28~2019.10.31)




 本州から阿波国徳島へは淡路島に掛けられた明石と鳴門の大橋で陸続きになった。淡路の地名由来の一説に阿波国への路(道)からとあり、これがちょうどぴったり合うが、おそらく阿波国も淡路(島)も粟を産した地で表記の違いからだと思っている。

 その阿波・徳島へは過去何度も行っているが、徳島城に登るのは初めてだった。天守のあった東二ノ丸から見る城下を見て、この城を中心に近世以降政治・産業の中心地として町が発展したことを知ることになった。また、城跡とその周辺を歩き、博物館に入り、徳島の歴史や文化を垣間見ることができた。

 


▲本丸跡 
   

                      

▲本丸の虎口
 

                 
 
▲ 東二ノ丸(3層3階天守跡)
 



▲搦手方面の石垣 
 



▲堀と石垣(月見櫓跡)  
       
    
   

▲復元された数寄屋橋




徳島城のこと     徳島市城ノ内渭山
 

▲徳山城周辺の鳥瞰   (by google earth)



▲航空写真 昭和23年  (国土交通省)
 



 徳島城は吉野川の河口の三角州(デルタ地帯)にある渭山(標高61.9m)の山上に築かれている。

 伝承では南北朝時代の至徳2年(1385)に細川頼之がこの地に赴いたとき、小城を築き家臣の三島外記に守らしたという。この地が中国の渭水の風景に似ていることから渭津(いのつ)と名ずけたとも、城山が西からみると猪の姿に見えることから猪山(いのやま)ともいったことから、別名渭津城、猪山城とも呼ばれている。



▲徳島城古写真 明治初期に解体された徳島城の最期の写真
 


明治の解体を免れた唯一の鷲(わし)の門(左端)が昭和20年の空襲で焼失。中央に月見櫓、その屋根の左に白く見えるのが天守の屋根
 
 

▲平成元年に復元された鷲の門
   

▲徳島城絵図  江戸中期~後期 国立国会図書館蔵



 徳島城は山頂に本丸、その東側に東二の丸、西方には西二ノ丸、西三の丸が置かれ、天正13年から14年の築城のとき、石垣で固められている。東二ノ丸は本丸よりも一段下がった場所にあり、ここに三層三階の天守があった。西端には戦前午砲(正午をならす空砲)台跡が残る。
 




 城山の南側は山下(さんげ)と呼ばれ、城主の御殿が建っていた。現在公園になり、表御殿庭園などがある。

 戦国期には切幡(きりはた)城主森飛騨守高次の領有となり、家臣が守っていた。
天正10年(1582)、長宗我部元親が阿波を平定し、家臣吉田孫左衛門康俊を配した。

 天正13年(1585)に羽柴秀吉の四国征討で、吉田康俊は戦わず土佐に敗走した。蜂須賀小六正勝は四国征伐による功労として龍野城5万石から阿波国17万五千石に移封を命じられたが、嫡男家政に譲ることを懇願し、家政が阿波に天正13年移封となった。

 同年家政は、はじめ一宮城(徳島市一宮町)に入城したが、翌年の天正14年(1586)に渭津城を完成させ城に移った。徳島の地名は家政が城周辺を徳島と呼んだことによる。


蜂須賀氏のこと

 蜂須賀氏は、尾張国海東郡蜂須賀郷(現・愛知県あま市蜂須賀)を発祥地とする土豪であった。蜂須賀小六正勝は羽柴秀吉の最古参の家臣として仕えている。父に正利、嫡男に家政がいる。家政は父正勝とともに秀吉に仕え、播磨や毛利攻め、本能寺の変のあとの山崎の戦いに従軍している。


阿波徳島城主蜂須賀家政のこと

 家政は、慶長5年(1600年)の天下分け目の関ヶ原の戦いの立場に苦慮した結果、阿波の領地を豊臣秀頼に返納し、高野山に身を引いた。一方嫡子至鎮(よししげ)の正室が小笠原秀政の娘で徳川家康の養女(万姫)であったこともあり、東方徳川につくことを決め、徳川の上杉攻めに従軍していた至鎮は、そのまま関ヶ原の戦いに東軍として参加した。

 戦後改めて至鎮が旧領を安堵された。大坂の陣では大活躍し、元和元年(1615年)に淡路一国8万1千石を加増され25万7千石を領する太守となった。
 



徳島の江戸期の農業・産業などの特産物

 明治22年(1889)以前の徳島県の郡



 吉野川下流域(麻植郡・阿波郡・名西郡・名東郡・板野郡)は、藍栽培の一大生産地となり、徳島藩の重要な収入源として、藍方役所をおき統制を加え、のち葉藍の専売制をしいた。この藍の栽培は蜂須賀家政が播磨より種と染色技術を導入したと伝えられている。

鳴門最北部の海岸線には塩田が開け、赤穂に次ぐ有数の塩業地となった、南部の海部郡の海岸では漁業が盛んであった。西部の美馬・三好郡の山間地に煙草栽培が普及していった。


藍の生産にかかわる文化(人形浄瑠璃や阿波踊り)
 

▲阿波名所図会の藍づくり  文化9年(1812)



 藍商人によって諸国の民謡や踊りの芸能が徳島に伝えられ、城下は諸国からの商取引で阿波に訪れる人々で賑わい、三味線を用いた芸能が盛んになった。それが阿波独自の大衆芸能として進化し「阿波踊り」が生み出された。 また藍の生産にかかわる農民の娯楽に人形浄瑠璃が受け入れられ、阿波の各村々の神社境内の農村舞台で興行された。
 

徳島藩の領地淡路島が兵庫県に属した理由

 明治3年(1870)、新政府の武士の身分扱いと生活問題がからんだ庚午(こうご)事変(別名稲田騒動)が起きた。
 ことのおこりは、明治の版籍奉還に伴って、禄制改革により武士の身分階級を華族・士族・卒族に分け呼称することになった。
 元来、淡路洲本には徳島藩家老の稲田家(1万4千石)が城代家老として一国を任せられていた。稲田家は新政府の身分としては淡路藩の取り決めでは家老のため士族で、家臣は卒族扱いとなるため、蜂須賀家と同等の待遇を得ようとした徳島藩から独立・分藩を企て、知藩事・政府に要望した。その動きに対して蜂須賀家の家臣が稲田家や家臣の屋敷を襲撃(殺戮と住居破壊)したため稲田側に多くの死亡者やけが人が出た。

 政府の処分は徳島蜂須賀側の首謀者に対して厳罰の処分(切腹・流刑等)を下したが、藩の取り潰しはなかった。稲田側は士族として認められたが、北海道の移住が命じられ、荒野の開拓が求められた。この事件が淡路島が徳島県から引き離され、兵庫県に帰属させる要因になったとされる。



雑 感

 時代小説や物語に出てくる蜂須家小六正勝は盗賊の頭としてのイメージが定着している。これはあくまで作家の創作で生い立ちはよくわかっていないようだ。少なくても秀吉の片腕となって、天下取りを支えた重要人物であったことは間違いない。そして、息子家政は父の跡を受け継ぎ、関ヶ原の戦いで蜂須賀家の生き残りの妙案が功を奏し、息子至鎮は阿波一国の太守となった。秀吉に使えた初期の武将の多くは使い捨てであったが、蜂須賀家の子孫は首尾よく時代を切り抜けている。

 徳島の歴史をたずねると、淡路島が江戸期には徳島藩であったのが、廃藩置県のあと兵庫県に属した理由を知り、また阿波踊りや藍の生産など、阿波ならではの地形や風土で生まれた文化や産業があったことを知る。
 
 徳島城の大手にある家政の像の前で、一人の80過ぎの高齢者と出会った。戦前には、蜂須賀正勝公の鎧兜を着た勇ましい銅像があったという。この新しい家政像の着ている裃が芝居にでも出てくるような姿で不自然だと言われて帰られたのが印象的だった。
 



▲戦前の蜂須賀小六(正勝)銅像                  ▲現在(昭和40年築造)の藩祖蜂須賀家政の像
 

▲眉山  本丸より




讃岐 高松城をゆく

2020-04-28 10:34:59 | 名城をゆく
(2019.3.8~2019.10.31)




 


▲艮櫓(うしとらやぐら) 




▲城内部から見た艮櫓    




 ▲着見櫓(月見櫓) 城の向こうはすぐ海だった



▲天守台 広い堀の中 失った天守を待つかのよう    
 


▲天守台復元イメージ




 城近くの栗林(りつりん)公園には過去何回か行ったことがあるが、高松城跡へは今回が初めてだった。城域の北面はかなり埋め立てられ、琴電が中堀に沿って西から東をL字型に取り巻くように走っている。都市化の中で目立たない感があるが、大手門をくぐって中に入ってみると、意外と広く、本格的な日本庭園があり、広い内堀には観光客を乗せた城舟が天守台の周辺をゆっくりと進んでいた。その光景に一瞬タイムスリップした。
 



▲内堀をすすむ城舟「玉藻丸」
 

      
▲三の丸の庭園は純日本庭園
 



高松城のこと  香川県高松市玉藻町



 日本三大水城(みずき)※の一つといわれている。天正15年(1587)豊臣秀吉の命により生駒親正が讃岐一国の大名として入封し、先ず大内郡の引田(ひけた)城に入ったが、東に偏しているため宇多津の聖通寺城に移る。これまた手薄という理由で、幾つかの模索の結果、玉藻浦(たまもうら)に決定し、天正16年築城を開始し3年後に完成した。玉藻浦には美しい海草が生えていたからその名が付いたのであろう。高松城は玉藻城ともいう。
※三大水城の他の2つは、今治市の今治城、中津市の中津城

 中央北に三層五重の天守があり、その周りを内堀、中堀、外堀が三重に取り巻き、堀には海水を引き込んでいた。二の丸から廊下橋を渡ると天守曲輪がある。外堀の内側に重臣の屋敷、外側に侍屋敷、商人・職人町、寺町などがあった。




▲讃岐高松城図 国立国会図書館蔵
 



▲高松城および城下町絵屏風  松平公益会蔵
 
 

 かつては三層五重の天守とそれを取り囲む15の櫓とがあったが、現在は着見櫓(月見櫓)、艮(うしとら)櫓、続(つづき)櫓、水の手門等が残っている。三の丸のあった場所は被雲閣(松平氏の居館の移築)があり、松と枯山水による純日本庭園となっている。

 天守は明治17年に老朽化により取り壊されたが、その天守台には最近まで松平家歴代を祀る玉藻廟があった。外堀は埋め立てられ、街路や商店街となり、海岸部は高松港造営工事のため、旧城郭部の多くが埋め立てられた。昭和20年の高松空襲で多くの城郭建築物や所蔵の文化財が焼失している。

 東にある栗林公園は、江戸初期に生駒家の別荘があった場所で、生駒家・松平家と受け継がれ松平5代藩主頼恭のとき手を加え完成した回遊式の大庭園で、大名庭園とよばれている。これもまた日本三名園※2として広く知られている。
 ※日本三名園の他の2つは、金沢市の 兼六園、水戸市の偕楽園 
 





参考:「日本城郭大系」、「日本地名大辞典」他




雑 感

 生駒氏は讃岐に入り本拠の城をどこに置くかその選定に苦労したようで、最終的に浜手を選んだ。当時としては類例の少ない水城だった。その縄張りに関わったのは古くから、黒田官兵衛説、藤堂高虎説、細川忠興説等があるが、その記載資料からでは黒田官兵衛説が有力だという。官兵衛は同時期に豊前中津に同じ水城の建設を始めており、両者には何らかのつながりがあったのかも知れない。

 高松城の古写真を見ると、かつては瀬戸内に北面した優美な水城であったことがわかる。城の周りにはいくつもの櫓があり、その中心に天守が存在していた。

 「讃州さぬきの高松さまの城が見えます波の上」と詠われた水城の、海からの光景は今は望めない。ただ現存の着見櫓(月見櫓)がその面影を残すのみ。現在大手玄関の左に優美な姿を見せているのは、城の鬼門(北東)にあった艮櫓が昭和42年に移築されたものだという。




▲古写真 昭和初年 左が艮櫓、右が今はない鹿櫓
 


▲写真 天守の最期の勇姿 陳列館より
 

 とにかく、高松といえば松。三の丸にある被雲閣の庭園もそうであったが、近くの栗林公園も行くたびに手入れの行き届いた松に感心する。松を愛する伝統の結晶ともいえるだろう。この松の庭園が何故栗林公園と呼ばれているのかが、今回わかった。この場所は藩主生駒家の別荘地があった場所で栗林荘と呼ばれていたからだという。
 

栗林公園内の松 









讃岐 丸亀城をゆく

2020-04-27 09:06:48 | 名城をゆく
(2019.3.28~2019.10.31)




   今回は、讃岐富士の近くにある丸亀城にやってきた。四国を始めて訪れたのは小学校の修学旅行で金比羅さん行きであった。そのとき琴平に行く途中にお伽話に出てくるような山をいくつか見た記憶があり、きっと讃岐富士(飯野山)もそのとき見たのだろう。ご飯を盛ったような形のため、飯(いい)を使う山は全国に無数にある。讃岐には富士を称する均整の取れた山が七つあり、讃岐七富士として昔から親しまれている。これらは富士山のような火山ではなく、海の隆起によってできたのだという。




▲天守 三重三層


         




▲大手門と天守        
 



 




丸亀城のこと  香川県丸亀市一番丁

 丸亀平野の北端の亀山(標高66m)にあって、北側の大手門前の内堀周辺から山頂を望めば数段の高石垣群の上に天守が聳え立つのがよく見える。12の現存天守の中の三重三層では最も小さなものであるが、天守を取り巻く高石垣群の頂点にあって見ごたえがある。この城は螺旋状の築城法を用いて、扇勾配の石垣などに特色がある。北山麓には大手一の門、ニの門、長屋等が残る。外堀はほとんど埋め立てられているが、水をたたえた内堀(東西500m、南北約450mのほぼ方形)が城を取り巻いている。



 
▲丸亀城絵図 江戸中期~後期 国立国会図書館蔵 






香川県の12郡の時代

 丸亀市には明治7年(1874)より丸亀営所(兵所)が創設され、明治29年(1896)には城内に丸亀連隊区司令部が置かれるなど軍都として栄えてきたが、終戦は運良く戦災を免れている。



▲香川県の12の郡の時代



うちわと金比羅参り

 金比羅大権現の信仰が盛んになった江戸中期には、讃岐の象頭山(ぞうずさん)に全国から参詣者が訪れ,四国では金比羅道が整備された。天明年間(1781~89)にうちわが江戸屋敷の下級武士の内職として作られはじめ、金比羅みやげとして販売され参詣の活況の中で生産は急増した。安政年間(1854~60)の生産は年間80万本に達したとある。『西讃府志』


塩飽(しわく)水軍

 丸亀城の北方に位置する塩飽諸島は古くからの海賊(水軍)の島・拠点であった。9世紀には藤原純友の乱や源平の争乱では彼らの協力の有無が戦況を左右した。
 室町期には大内氏に属し勘合船に乗り込み、一方で倭寇として朝鮮や明沿岸に進出し、膨大な利益を得た。幕府の実権が細川氏から三好氏に移り、それを機に三好の水軍として戦列に加わり、三好氏が織田の軍門に下ると、塩飽水軍は織田の水軍として活躍している。豊臣・徳川時代を通じて塩飽の島民には塩飽七島等の所有と自治権が保障され、特権的地位が与えられた。

 


▲北からの鳥瞰  (by google earth)



アクセス


大手一の門、二の門をくぐり、左に登って行くと迷わず三の丸二の丸と続き、本丸に到る。
 


 
 

 南の搦め手から登ってみるとこれもりっぱなもので、それもそのはず山崎氏のときは大手道で、ここにあった大手門が京極氏のときに北側に移し替えられたという。




 ▲搦手道
 


 
▲讃岐富士が東方面に               
 



▲左上に瀬戸大橋が見える




▲天守の梁 
    

▲天守の瓦 京極氏の家紋 四つ目結び




雑 感

 曲線の整った美しい高石垣を見上げながら、天守に登るとその景色は360度のパノラマの世界で、北麓には瀬戸内、東に讃岐富士が見える格好の場所であった。
 城の東を流れる土器川の河口にある丸亀港は、江戸時代中期以降全国からの金比羅参りの詣客であふれていたというが、讃岐名勝図会に描かれている舟の多さでその繁栄ぶりがわかる。
 


▲讃岐名勝図会  丸亀城下 川口



 金毘羅船々追風(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュまわれば 四国は讃州 那珂の郡(なかのごおり)象頭山金毘羅大権現・・・と何時のころか唄っていたことを思い出した。

 藩主山崎氏が有名な生駒騒動によって改易されると、京極氏が播磨龍野藩から丸亀藩に入封した。そのとき飛領地として播磨国揖東郡の6村と揖西郡の22村で1万石をもらい受け、石高は龍野藩のときと同じ6万石であった。山崎氏が5万石であったので、不足分が旧領地内で補われたのだろう。

 播磨と讃岐については、『播磨国風土記』(奈良期)に讃岐国宇達(うえり)郡の飯神の妾(め)で飯盛の太刀自(いいもりのおおとじ)という神が、播磨の揖保の地に渡りきていたという。この神は丸亀市飯野町の飯神社の祭神イリヒヨリヒコ命であるといわれている。そんな古くから播磨と讃岐の繋がりがあったこともわかった。


 参考:『角川地名大辞典』
 

土佐 高知城をゆく

2020-04-26 10:08:26 | 名城をゆく
(2019.3.29~2019.10.31)



 土佐の高知城と四国を統一した長宗我部氏の居城をいつかは見てみたいと思っていたが、意外と早く実現した。

 高知へは二回目、とは言っても最初は高知自動車道はもちろん、本土と四国を結ぶ大橋もできていないずっと以前のことで、観光バスに乗りフェリーで四国に上陸し、大歩危・小歩危などの渓谷を縫うようにして高知まで行ったことを覚えている。
 今では、急峻な四国山地の横腹を多くのトンネルを貫通させ、ほぼ最短コースのアクセスとなっている。川之江JCT~南国IC間を50kmで結び、その半分以上の26kmがトンネル区間だという。本州と南国土佐の距離感は隔世の感がある。



 

▲追手門と天守








 




高知城のこと 高知県高知市丸ノ内1丁目
 



▲高知城の鳥瞰(天守内の展示模型より)
 



▲土佐高知之城図(国立国会図書館蔵)
 



▼昭和27年航空写真 (国土交通省)
           

▲現在の鳥瞰  by googl earth
 



 高知城(別名大高坂城:おおたかさかじょう)は、北の江の口川と南の鏡川に挟まれた中央部に位置する独立丘陵の大高坂山に建てられた。
  南北朝期に大高坂氏が入り、戦国期に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が天正16年(1588)岡豊(おこう)城(南国市)から移り、3~4年居城している。




     
▲長宗我部家紋(七つかたばみ) ▲長宗我部元親


    
▲山内家紋(丸三葉柏紋)     ▲山内一豊
  



  慶長6年(1601)に山内一豊(やまうちかつとよ)が入国し、本格的な城造りを始め、慶長8年(1603)本丸・二の丸等が完成し、浦戸城から移った。三の丸の造成は地盤が悪いうえに、川の氾濫もあり難航し、慶長16年(1611)の第二代藩主忠義のとき完成した。享保12年(1727)に城下の大火で城内の多くの建物が焼失し、天守は寛延2年(1749)に再建、すべての城郭建造物が再建されたのは、宝暦3年(1753)であった。昭和の解体修理のときの調査で創建当時の姿のまま引き継がれていることがわかった。

 明治の廃藩後多くの建物が破壊売却されはしたが、現存天守や本丸等の主要な建物が残されている。







◆城山の名称変更からうまれた高知

 山内一豊は、城山の名称を大高坂山から鏡川と江の口川にちなみ河中山(こうちやま)と改めた。次の藩主山内忠義のとき、たびかさなる河の氾濫に悩まされたため高智山と改め、これが現在の高知と表記され、市名・県名となったという。




アクセス


 高知県庁の前に外堀があり、左(東方)の追手門に向かった。
追手門の上部に天守が見え、門をくぐると左上に石段が続き、三の丸の鉄御門跡をぬけ、二の丸から詰門(廊下門)を渡ると本丸に入ることができ、天守が目の前である。
 天守の望楼からは高知市内を360度のパノラマで展望できる。



 
 ▲城南の外堀 
       

                     

▲杉の段の石樋(いしどい)
 

 
▲三の丸の石垣 
 


  
▲詰門(東西に通じる門、上部は二の丸と本丸を結ぶ廊下)
 



▲本丸の石落しと忍(しのび)返し 
 


▲西側からみた詰門(廊下門)
 



▲天守から見た三の丸跡
 



▲天守からの展望 東  
            
  


▲天守からの展望   西
 



▲天守からの展望 南                
 



▲天守からの展望   北 




▲黒鉄門(くろがねもん) 本丸からの搦め手道にある


 

雑 感

  高知城は山内一豊が築城した堅牢で優美な城だった。山内家(16代)のみで明治まで迎えたのはすごいことだと思った。明治には、二の丸、三の丸が撤去されたという。その三の丸は地盤の弱さゆえか石垣の修理の跡があることもわかった。近年三の丸の石垣の角のひび割れや孕みなどの改修工事が行われた。その石垣は穴太(あのう)積みによるもので、近江の継承者(穴太衆)によって修理されている。そういえば、竹田城(兵庫県朝来市)の石垣も最近修理されたと聞く。

 高知城のぐるりを足早に見て回った後、長宗我部元親が居城した岡豊城に向かった。
 その日は高知で一泊し、早朝一番桂浜に出かけた。早起きは三文の徳、駐車場が午前8時半まで無料で、しかも一番乗りであった。無人の浜でしきりにシャッターを切った。約1時間ほどいて、♪南国土佐を後にして・・・♪ 昭和の歌を口ずさみながら月の名所桂浜に別れを告げ、讃岐は丸亀城と高松城へと向かった。




▲桂浜を独り占め 

名勝地「桂浜」。古くは勝浦浜(かつらはま)といったが、江戸期になって訪れた歌人に桂浜と表記されるようになったという。



伊予 宇和島城をゆく

2020-04-25 10:41:05 | 名城をゆく
(2019.3.29~2019.10.31) 

 

▲二の丸からの天守 




▲天守 現存する12の天守の一つ 国史跡


 

▲天守の瓦には伊達家の家紋「九曜」が見える
 



 愛媛の松山道後より宇和島に向かった。松山自動車道を使うと、以外にも早く1時間半ほどで行くことができた。四国山地の急峻な山々に長いトンネルが通され、松山・宇和島間がぐっと近くなっている。

 その昔、松山から大洲そして、大洲からの宇和島街道には鳥坂(とさか)峠や法華津(ほけつ)峠などの難所があった。ゆえに宇和島藩の参勤交代の出発は海路を使い、播磨室津に向かったという。
 



宇和島城のこと  愛媛県宇和島市丸の内

 宇和島城は、宇和島市の中心部の標高約80mの独立丘陵上にある。宇和島は古くは板島と呼ばれ、戦国期には土豪の家藤監物が板島丸串城(のちの宇和島城)に在城し、『清良記』には板島の町とあり、すでに小城下町が形成されていたと考えられている。

 天正3年(1575)に、監物にかわって西園寺宣久(のぶひさ)がこの城に移り本城とした。その後、藤堂高虎が入部し本格的な城と町造りを行った。城の縄張りはほぼこのときにでき上がり、当初の天守は、のち伊達家により立て替えられ、白壁の3重3層、唐破風の変化に富む美しい天守が今に残る。城郭は不等辺5角形で北と西が海に面し、城下町は城東部に町人町・職人町、南部に武家屋敷が置かれた。

 江戸時代、徳川幕府の隠密が四国を探索した記録によると、「天守四重也」「四方の間、合十四町三反七間」と縄張りを四角と間違って報告している。藤堂高虎の計算ずくの設計であったのだろうか。





◆宇和島の地名由来:宇和島は宇和郡と板島の合成地名と思われる。
 





中世・戦国時代の宇和郡
 

 橘氏が平氏から転じて源頼朝に臣従し、橘公長とその子等は鎌倉御家人となり、治承4(1180)年宇和郡の地頭職を得た。しかし、嘉禎2年(1236)太政大臣西園寺公経(きんつね)の願いを幕府が容れて橘氏の所領は奪われた。以後大部分の宇和郡は西園寺氏の領する宇和荘となった。『吾妻鏡』、『西園寺家荘園目録』

 14世紀頃には当郡全域は西園寺氏の支配下におかれ、黒瀬城とともに宇和郡宇和町に居城を置いた。西園寺氏は宇和郡内の土豪層を支配化に置き、九州の大友氏、土佐の一条氏・長宗我部氏の軍としばしば交戦を交え、また道後の河野氏とともに中国毛利氏の援護に赴いた。

 天正12年(1584)に西園寺氏は長宗我部氏に降りたが、翌13年に豊臣秀吉の四国征伐を受け滅亡した。




参考:『日本城郭大系』、『角川日本地名大辞典』、他



アクセス


北登城口にある有料駐車場を利用し、家老桑折(こおり)氏の長屋門をくぐった。

 

▲北登城口 家老桑折氏の長屋門が移築 




▲堅牢な石段が続く
 

 歩き始めて早々、うっそうとした照葉樹林の中、苔むした石垣が見えた。近づくにつれ往時の石垣姿に胸踊るものがあった。
 



▲向うに石垣            




▲苔むす算木積みの石垣
 




▲この辺にも門があったのだろう   



 さらに進むと大きな井戸がある。深くて今でも水があるようだ。
そこから少し先に左右に道が分かれ、左は二の丸・本丸方面で、右は藤兵衛丸で今は山里倉庫が移築され民芸資料が数多く展示されている。
 
 


▲井戸丸跡 三つの井戸のうちの最も重要なもの





▲二の丸につづく石段 下部が三ノ門跡 



 二の丸中央に櫛形門(一の門)の石段があり、その石段を上がると正面に均整のとれた美しい天守が出迎えてくれた。
 ただ、広い本丸にぽつりと天守のみが寂しそうでもあった。つい最近まで天守前に門代わりに繁茂していたという大木の株が残っている。







 周りを、見渡すと海はかなり向うだ。城の北・西は海に接し、藩船が出入りしていたというが、城の周りは市街化して、かつての海城のイメージは湧かなかった。
 


▲本丸天守からの眺め(北西方向)海の向うは豊後大分
 




▲天守内部 




雑 感

 本丸に5~6人のボランティアガイドの方がおられ、城に興味をもっていると伝えると、城図や資料を頂いたり、天守内外でいろいろ説明をして頂いた。築城当時の藤堂氏や公爵伊達宗城氏の明治の活躍などのお話が印象に残っている。 
 
  駆け足の伊予巡りであったので、またじっくり訪れたい。いつか機会があれば、佐田岬から九州豊後を眺め、宿毛を抜け清流四万十川を渡り、土佐高知へ行ってみたく思っている。


【関連】
大洲城をゆく