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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

備後 福山城をゆく 

2020-05-04 09:03:03 | 名城をゆく
(2019.3.26~2019.10.31) 

 



 福山城跡に訪れて築城の歴史と規模などを知り、かつて西国の備後に築かれた大規模な城であったことを知る。

 明治以降、城を取り囲んでいた内堀・外堀はすべて埋められ、今ではJR福山駅が城域二の丸の南を東西に走り、侍屋敷跡にはビルが立ち並んでいる。

 それでも、小高い丘稜にそびえる復元天守に立てば、この場所が福山の繁栄を生み出した中心地であったことが理解できた。



 










福山城跡のこと      広島県福山市丸の内一丁目


 関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)福島正則が備後・安芸の領主として広島に入ったが、城改修の無届け等を問われ改易・転封されると、元和5年(1619)、水野勝成(かつなり)が大和郡山6万石から4万石加増され備後10万1千石で入封し、福山城を築いた。水野勝成は譜代大名として、西国の毛利・小早川等の外様大名を監視するために幕府より送り込まれた。築城には幕府の多大な援助を受け、野上村の常興寺山(丸の内)の丘稜に城郭、その麓に城下町を建設した。その城の名を久松城、城下を福山と改称した。



※歴代の藩主は、水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と続き、廃藩置県に至っている。 


 当時一国一城令により、元和8年(1622)に解体された京都伏見城から御殿・松の丸東櫓・月見櫓・筋鉄御門・大手門等を徳川秀忠が移築している。

 明治6年(1873)に廃城となり、民間に払い下げられたが、天守閣・伏見櫓・筋鉄御門などは取り壊されずに残され、国宝に指定されていた。しかし、昭和20年(1945)8月空襲により、天守閣と御湯殿を焼失した。
 昭和41年(1966)の市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓等が復原された。

※参考:『日本城郭体系』、『角川日本地名辞典』、他




 
▲外堀の位置(推定)     
 


▲備後国福山城図 江戸中期~後期(国立国会図書館蔵)




▲JR福山駅が二の丸の南を走る

 

     
▲伏見櫓                        
  


  
▲二の丸の石垣 
  
        


▲二の丸の狭間 
 

 

▲筋鉄(すじがね)御門       
 


▲伏見鐘櫓
 

 
▲伏見湯殿跡 (復元)


 

▲この家紋は水野家のものか     


▲一部の石垣に矢穴(鉄のくさびを打ち込む穴)の跡





 
▲古写真 消失前の天守閣  
     

▲本丸西側周辺の石垣
 

        

▲天守から北方面


 
▲天守から西方面


                            
 雑 感 

 この福山の城づくりには幕府が威信をかけ、多額の財源と京都の大工の派遣そして、伏見城の廃城に伴う解体・移築を行っている。伏見城の遺構は、江戸城(現在の皇居)や大阪城にあるが、確実に伏見城の遺構といえるのはこの城のものだけで、非常に貴重なものだという。さらにその建築には近くの神辺(かんなべ)城からも移築されたともいわれている。

 それでも何か物足りなさを感じる。それは堀が埋められた裸の城であるからだ。無い物ねだりになるが、堀の有無で城の存在感がずいぶん違ってくる。

 当時常興寺からは福山湾が望め、周辺一帯は葦原(あしはら)が広がっていたという。福山湾に向かって城下の拡大と干拓が推し進められていった。

 その福山湾には鞆の浦がある。古くからの港町で、海上交通の寄港として朝鮮通信使も訪れている。万葉の代より愛でられた風光明媚な地である。そこに毛利・足利ゆらいの鞆城跡がある。



備前 岡山城をゆく

2020-05-03 09:54:24 | 名城をゆく
(2019.3.26~2019.10.31)  


 
 
▲五重六階の岡山城天守閣  昭和41年に復元  



 
▲天守閣から南東を望む 古城絵図(下図)にはこの旭川の南の京橋町に橋が描かれている



    
▲大手の内堀から                 ▲内下馬門(うちげばもん)跡の石垣 



 
▲城門  不明門(あかずのもん)  



▲天守閣の礎石 礎石の移転保存
 



  
▲みごとな算木積みの石垣              ▲大納戸(おおなんど)櫓の石垣 
 


 
▲西側からみた天守            


▲狭間(さま)
                 

▲廊下門                 


▲月見櫓
 


                
 岡山城は、かつて後楽園の庭園から見たことがあったが、今回初めて天守に登った。
 同じ山陽路にある白の漆喰が美しい姫路城(白鷺城)とは対照的に天守は黒っぽく、それゆえ別名烏城(うじょう)と呼ばれてきた。また金烏城とも呼ばれたのは、築城時の天守には多くの瓦に金箔が使われていたからである。



岡山城のこと   岡山市丸の内
 
 

▲歴代城主一覧


 戦国時代に、宇喜多直家が岡山の石山城(現在の城郭二の丸付近)の国人領主金光氏を滅ぼし、石山城を大改修し、本格的な城下町を築いた。その跡を継いだ秀家は、備前・美作の二国と備中東部、播磨西部を領有し、現在の場所に築城を開始し、一大城郭を完成させた。しかし、築城まもなく関が原の戦いで西軍に組したため、八丈島に流罪となる。

 宇喜多滅亡後、小早川秀秋が入城し、天守閣や大手門を改修し、池田忠雄(ただかつ)が城全域を増改築し、近世城郭の完成をみている。光政以降は、幕府の城普請の統制が厳しくなり、軍事施設の増改築は一切行われず、明治維新を迎えている。
 


 
▲岡山城古城絵図(国立国会図書館蔵)    
   

▲京橋の渡りぞめの版画  

 
▲古写真 明治初期 (岡山市立図書館蔵) 
 
※上下の写真を見比べると、左端の大手門石垣は当時と同じであることがわかる


▲現在の写真



 第7代城主池田綱政のとき、大庭園(当時の名称「御後園」)を造営している。これは綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたものである。現在後楽園は国の特別名勝に指定され、金沢市の兼六園、水戸市の偕楽園とともに日本三名園のひとつに選ばれている。
 


主な城郭建築物の状況

▽昭和22年(1947)の航空写真(国土地理院)




●岡山城は明治15年までに、天守閣・月見櫓・西丸西手櫓・石山門を除く城郭建築物は破棄された。

●本丸、二の丸が学校・病院の用地となり、内堀や外堀も次第に埋められ、昭和初期には本丸沿いの内堀を残すのみとなる。(上写真参照)

●昭和20年の空襲により、天守閣と石山門が焼失したため、往時の建物は、月見櫓・西丸西手櫓を残すのみとなる。

●昭和39年から3年をかけ、天守閣・不明門・廊下門などが再建され現在に到っている。

※参考:日本城郭体系、角川日本地名辞典、他



雑 感


 昭和20年の空襲で当時国宝であった天守閣や石山門を焼失してしまったのは残念だ。しかし石垣は健在で、大手の入口の古写真に写っている石垣と現在のものとが一致していることがわかり、大手門向うに大手渡櫓、本丸表書院、大納戸櫓等の存在を知る。その石垣の工法にも時代の変化が見られるのが面白い。

 小早川秀家は、秀吉の寵愛をうけ「秀」の一字を与えられ、秀吉の養女(前田利家の娘)豪姫を正室とするなど、外様であっても秀吉の一門衆に加わっている。秀吉の末期には若くして五大老に抜擢されている。
 その秀家の築城の天守は漆黒を基調として、安土城天主さながらの金箔瓦をふんだんに使い、さらにいくつもの華麗な破風を設けて変化をつけている。そのつくりは秀吉の趣向にそったものと感じた。


 

▲古写真 岡山城天守閣(焼失前)
 

▽ 漆黒と金箔瓦、破風の並びと曲線が美しい


▲現在の城 



備中 松山城 をゆく(2) 

2020-05-02 09:06:42 | 名城をゆく
(2019.3.25~2019.10.31)
 

 


 






   竹田城(朝来市)の雲海は有名である。一方備中松山城の雲海も負けてはいないと、展望台からの雲海をテレビで紹介していた。

   以前秋紅葉が始まる11月上旬に行ったときに中太鼓の丸あたりから、その展望台を見つけることができた。そして、2カ月経った1月下旬好天気、備中松山城を思い立ち高梁に向かった。
 
 


▲高梁市観光案内地図(部分)
 

アクセス


 案内地図中央の東西に走る県道484号線を通り、案内板(⑫の下)から北へ4km。

 

 

展望台に至るまでの途中、左(西)に展望の開けたところがある。そこから城山がかろうじて確認できた。



▲パノラマ 中央やや右の林の上
 


▲ズーム  肉眼ではわかりづらい。
 

ここから展望台はすぐである。駐車スペースは4台ほどある。
 
 
 
▲雪が少し残っていた                   ▲展望台
 

 
▲備中松山城の中太鼓の丸からみた展望台

 

▲肉眼で見える風景 城と城下が遠望できる
 

▲城をズーム



▲さらに最高倍率20X


展望台から引き返し、県道を西に進むと大ループがあり、その途中にある大久保峠から城山が見える。
 

  
 
  

▲大久保峠からの城山


街中のJR高梁駅付近から城山を見上げた。
 
 




▲天守の上部が見える


 高梁川を渡って方谷林(ほうこくりん)公園の登り口から城山を撮る。城は見えないが峰々の連なりがよくわかる。

 この城山は古くは松山といい、江戸時代以降臥牛山(がぎゅうざん)と呼ばれ、手前から前山、小松山、天神の丸、大松山の四つの峰からなる。
 近世の城は小松山に、中世・戦国期の城跡は大松山、天神の丸にある。
 


▲方谷林公園登り口からみた城山 4つの峰が見える
 


▲城下のパノラマ  江戸時代高梁川は高瀬舟が活躍していた
 
 

~城下散策~
 
武家屋敷通り






 


頼久寺
 



▲小堀遠州作といわれる庭園は必見
 

 備中松山城は大河ドラマ『真田丸』のオープニングで使用されて以降、観光客が後を絶たない。


▼ 天守北側に以前はなかった中世・戦国期の城郭跡のある天神の丸跡・大松山城跡への案内板ができていた。 



【関連】
備中 松山城にゆく(1)

◆宍粟・播磨周辺の城郭 アドレス一覧


備中 松山城 をゆく (1)

2020-05-01 08:47:01 | 名城をゆく
(2019.3.25~2019.10.31)




 山城に興味を注いでくれた最初の城は、備中松山城だった。江戸時代の城のほとんどが山麓や平地に築かれているのに対し、この城はなぜか高い山頂に築かれ、今もなお美しい天守が備中高梁の地を見守っている。

  案内板の沿革をみると、昭和の初期高梁中学校の一教師の地道な城の調査結果がその保存の契機となり、有志による保存会が発足し、朽ち果て崩落寸前で食い止められたという。





▲天守                             



         ▲天守の後面




 ▲三ノ丸から二の丸への長塀 


             
        
▲天守の窓から              




▲大手櫓門跡から二の丸を望む



▲三の丸から二の丸方面を望む





▲崩壊寸前の本丸(昭和初期)     


▲二重櫓



備中松山城と城主のこと  岡山県高梁市内山下1 


  備中松山城は、高梁川を天然の堀とし、臥牛山(がぎゅうざん)の峰の一つ小松山(標高430m、比高350m)上に築かれた天守閣を現存する日本唯一の山城である。日本の三大山城の一つとしてあげられている。

  この城は、鎌倉時代に有漢郷(うかんのごう)(現高梁市有漢町)に地頭としてやってきた秋庭重信(あきば しげのぶ)が臥牛山の大松山に砦を築いたのを起源とし、天和3年(1683)に水谷勝宗(みずのや かつむね)によって3年がかりで修築され、今の天守となったという。


 
▲備中国松山城図 (国会図書館蔵)                  


  
▲城内の案内板より



  この地域は備中国の中心部、山陰と山陽を結ぶ主要地であるため、戦国時代に入り備中松山城争奪戦が目まぐるしく繰り広げられている。その動きをたどって見るとこの備中とその周辺の地(備前・美作・備後)の中世の歴史が面白い。

 戦国時代後期には備中の星田や成羽を地盤とする国人領主の三村氏が備中の半分を治めるほどの力をつけたが、宿敵備前の宇喜多氏が前に立ちふさがり備中国制覇の野望は打ち砕かれ滅びてしまう。その宇喜多氏は、織田と毛利の戦国の巨大勢力の狭間でしたたかに生き延びたのである。

 中世の世が去り、江戸時代に入ると、この地に小堀政次・政一父子が奉行代官としてやってきた。茶人で有名な小堀遠州とはこの小堀政次の長男政一であり、築城や造園などにも精通し、この松山城の設計にもかかわったといわれている。

 元禄7年(1694年)、備中松山藩水谷家が後継ぎがなく改易となった際、大石内蔵助が主君浅野内匠頭の代理として城の受け渡しのため、この地に滞在している。 しかし皮肉なことに、6年後刀傷事件による赤穂藩取りつぶしにより赤穂城を幕府に引き渡すという無念の役が待ち受けていた。
 


松山城下屋敷図 幕末頃 (案内板より)



 
▲往時の町並みを残す


 

 
▲武家屋敷(旧埴原家住宅) 市重文

 
 

※広報たかはしの「地名を歩く」を紹介します。気に入っています。

【関連】
→ 備中 松山城 をゆく (2)

◆宍粟・播磨周辺の城郭 アドレス一覧


美作 津山城をゆく

2020-04-30 11:38:50 | 名城をゆく
(2019.3.25~2019.10.31)


   





▲復元された備中櫓                                     




▲城の東方面


▲天守台から南方面               



▲天守台から西下                           
  



▲西方面を望む (粟積櫓台より)       



▲北東部を望む(粟積櫓台より) 
 
 


▲南北に流れる宮川から          




▲南東から
 


津山城のこと   岡山県津山市山下 

           
 津山城は別名鶴山(かくざん)城とも呼ばれている。城が建てられた小高い丘陵は鶴山と呼ばれ、鶴が羽を開いた姿に似ていることから名付けらたという。現在城跡は鶴山公園として整備され、5千本の桜が春を彩り「桜の名所百選」に選ばれ、訪れる人は多い。

 その昔津山は美作国の中心地にあり出雲往来の要衝にあった。美作の覇権で中世の英雄たちが合いまみれた戦いが繰り広げられた場所である。

 嘉吉年間(1441〜1444)山名教清(のりきよ)が嘉吉の乱で赤松満祐の討伐に功をあげ、美作の守護となり岩屋城(津山市)を築いた。その東の守りとして、津山鶴山に山名一族(叔父)の山名忠政を守護代として支城を築城させたのが、津山城の始まりである。 

 本格的な築城は、本能寺の変で信長とともに討死した※森蘭丸(成利)の弟の森忠政が、慶長8年(1603)に18万6500石で入封し、翌年から13年の歳月を費やして築き、合わせて城下の基盤をつくった。このとき鶴山を津山と改めたとされ、また津山の地名は、津を意味する吉井川の船着場の上の山の意ともいわれている。




       
▲森忠政像




 
▲津山城古城絵図 国立図書館蔵
        

 

▲津山城古城 説明板より



 城主は森家が四代(95年)、松平家九代(174年)の約270年の津山藩が明治維新を迎えている。

 城の建造物は、明治の廃藩置県後の明治6年に競売され、明治7年・8年に天守・櫓が取り壊された。昭和11年、地方博覧会で模擬天主が建設されたが、昭和20年に空襲の目標にされることを恐れ、終戦前に解体されたという。



 
▲在りし日の津山城(撮影:松平国忠)
  

       

▲北側から 城の北東の椿高下から




 古城絵図に描かれている城を取り巻く外堀跡が見当たらないのは、その堀のほとんどが埋め立てられ、宅地になっているからだ。ただ、当時の津山城南部の出雲街道の東西に広がる城下町には、商家や職業町の名称が今もなお住所に残され、城東の古い商家の町並みや点在する武家屋敷が昔を偲ばせてくれる。

 また、地域で大事に保存されているだんじりを見ると、江戸期からの伝統行事が町衆によって今に伝えられているのがよくわかる。





▲案内板                      


 

▲古い町屋(造り酒屋)