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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

土佐 高知城をゆく

2020-04-26 10:08:26 | 名城をゆく
(2019.3.29~2019.10.31)



 土佐の高知城と四国を統一した長宗我部氏の居城をいつかは見てみたいと思っていたが、意外と早く実現した。

 高知へは二回目、とは言っても最初は高知自動車道はもちろん、本土と四国を結ぶ大橋もできていないずっと以前のことで、観光バスに乗りフェリーで四国に上陸し、大歩危・小歩危などの渓谷を縫うようにして高知まで行ったことを覚えている。
 今では、急峻な四国山地の横腹を多くのトンネルを貫通させ、ほぼ最短コースのアクセスとなっている。川之江JCT~南国IC間を50kmで結び、その半分以上の26kmがトンネル区間だという。本州と南国土佐の距離感は隔世の感がある。



 

▲追手門と天守








 




高知城のこと 高知県高知市丸ノ内1丁目
 



▲高知城の鳥瞰(天守内の展示模型より)
 



▲土佐高知之城図(国立国会図書館蔵)
 



▼昭和27年航空写真 (国土交通省)
           

▲現在の鳥瞰  by googl earth
 



 高知城(別名大高坂城:おおたかさかじょう)は、北の江の口川と南の鏡川に挟まれた中央部に位置する独立丘陵の大高坂山に建てられた。
  南北朝期に大高坂氏が入り、戦国期に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が天正16年(1588)岡豊(おこう)城(南国市)から移り、3~4年居城している。




     
▲長宗我部家紋(七つかたばみ) ▲長宗我部元親


    
▲山内家紋(丸三葉柏紋)     ▲山内一豊
  



  慶長6年(1601)に山内一豊(やまうちかつとよ)が入国し、本格的な城造りを始め、慶長8年(1603)本丸・二の丸等が完成し、浦戸城から移った。三の丸の造成は地盤が悪いうえに、川の氾濫もあり難航し、慶長16年(1611)の第二代藩主忠義のとき完成した。享保12年(1727)に城下の大火で城内の多くの建物が焼失し、天守は寛延2年(1749)に再建、すべての城郭建造物が再建されたのは、宝暦3年(1753)であった。昭和の解体修理のときの調査で創建当時の姿のまま引き継がれていることがわかった。

 明治の廃藩後多くの建物が破壊売却されはしたが、現存天守や本丸等の主要な建物が残されている。







◆城山の名称変更からうまれた高知

 山内一豊は、城山の名称を大高坂山から鏡川と江の口川にちなみ河中山(こうちやま)と改めた。次の藩主山内忠義のとき、たびかさなる河の氾濫に悩まされたため高智山と改め、これが現在の高知と表記され、市名・県名となったという。




アクセス


 高知県庁の前に外堀があり、左(東方)の追手門に向かった。
追手門の上部に天守が見え、門をくぐると左上に石段が続き、三の丸の鉄御門跡をぬけ、二の丸から詰門(廊下門)を渡ると本丸に入ることができ、天守が目の前である。
 天守の望楼からは高知市内を360度のパノラマで展望できる。



 
 ▲城南の外堀 
       

                     

▲杉の段の石樋(いしどい)
 

 
▲三の丸の石垣 
 


  
▲詰門(東西に通じる門、上部は二の丸と本丸を結ぶ廊下)
 



▲本丸の石落しと忍(しのび)返し 
 


▲西側からみた詰門(廊下門)
 



▲天守から見た三の丸跡
 



▲天守からの展望 東  
            
  


▲天守からの展望   西
 



▲天守からの展望 南                
 



▲天守からの展望   北 




▲黒鉄門(くろがねもん) 本丸からの搦め手道にある


 

雑 感

  高知城は山内一豊が築城した堅牢で優美な城だった。山内家(16代)のみで明治まで迎えたのはすごいことだと思った。明治には、二の丸、三の丸が撤去されたという。その三の丸は地盤の弱さゆえか石垣の修理の跡があることもわかった。近年三の丸の石垣の角のひび割れや孕みなどの改修工事が行われた。その石垣は穴太(あのう)積みによるもので、近江の継承者(穴太衆)によって修理されている。そういえば、竹田城(兵庫県朝来市)の石垣も最近修理されたと聞く。

 高知城のぐるりを足早に見て回った後、長宗我部元親が居城した岡豊城に向かった。
 その日は高知で一泊し、早朝一番桂浜に出かけた。早起きは三文の徳、駐車場が午前8時半まで無料で、しかも一番乗りであった。無人の浜でしきりにシャッターを切った。約1時間ほどいて、♪南国土佐を後にして・・・♪ 昭和の歌を口ずさみながら月の名所桂浜に別れを告げ、讃岐は丸亀城と高松城へと向かった。




▲桂浜を独り占め 

名勝地「桂浜」。古くは勝浦浜(かつらはま)といったが、江戸期になって訪れた歌人に桂浜と表記されるようになったという。



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