goo blog サービス終了のお知らせ 

郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

伊予 大洲城をゆく

2020-04-24 06:10:24 | 名城をゆく
(2019.3.18~2019.10.31)



  伊予の大洲(おおず)城は予定外の立ち寄りのため、滞在時間が短く、新しい天守と周辺を駆け足で見て回るだけとなった。後日購入したパンフ等を目を通してみると意外な歴史を知ることになった



▲復元された天守・多聞櫓  戦後復元の木造天守では日本一の高さ(19.15m)





▲天守と高欄櫓(右)




▲天守から東を見下ろす  よく見ると肱川には多くの屋形船が接岸



▼戦後間もない昭和23年の城周辺の航空写真(国土交通省)




▼北東面に肱川を天然の堀とし、外堀・内堀を配した

▲大洲城絵図 江戸時代(国立国会図書館蔵 ) 


 
▲内堀、外堀、道路の位置を現在の地図に重ねる




▲明治の古写真 (説明板より)
 



大洲城(別名大津城)のこと  愛媛県大洲市大洲


大洲城の始まりと伊予の勢力争い

 大洲城のはじまりは、鎌倉末期の元徳2年(1330)、宇都宮豊房が北条氏から伊予国の守護に任ぜられ喜多郡を領し、地蔵嶽城を築いたことによる。

 戦国期の宇都宮氏は北隣に中予から東予に勢力をもっていた中世初頭の豪族河野氏、南隣には、南予一円を支配していた西園寺氏、予土国境を越えた土佐国(高知県)には、四国統一の野望をもつ長宗我部氏一条氏が勢力を伸ばしていた。次第に宇都宮氏は河野・西園寺氏に挟撃されて勢力を失い天正年代には宇都宮豊綱は娘婿ともいう大野直之にかわられている。







 秀吉の命により小早川隆景の伊予平定後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と三代続き、城は逐次近世城郭として整備されていった。

 慶長14年(1609)脇坂安治が淡路洲本3万石より伊予大洲5万3千石へ入封する。
 元和3年(1617)、伯耆米子から加藤貞安泰が6万石で入り、加藤家は明治の廃藩置県まで13代250年続いた。





 大洲城は、伊予松山を南下する大洲街道とさらに宇和島街道の中間地にあり、西の八幡浜は外港となる交通の要衝といえる場所に位置し、大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄した。

 明治以降、本丸天守や櫓の一部は保存されたが、天守は明治中期に老朽化のため取り壊された。



◆天守再興の市民の思いと、現代の工匠たちの技術の証明

 天守は廃藩置県後も、しばらく存在していた。明治21年(1888)老朽化のために惜しまれながら解体された。以来市民の復元の思いは昭和の終わりに高まり、平成になって本格的な木造建築の普請への動きとなった。戦後復元天守のほとんどはコンクリート製だが、発掘調査の礎石等の発見や廃城前の多くの写真そして、天守の木組み模型(江戸時代)などにより設計のための材料がそろっていたため、同じ手法・技術で木造建築にこだわった。しかし木造4層というのは現在の建築基準法では許可されない。そのハードルを粘り強い交渉によって、特別に許可を受けることができた。それは、市民の熱意が国県を動かしたともいえる。

 そして、慶長期の天守再現にいどんだ現代の工匠たち(宮大工・大工)によって、限りなく本物に近い天守が平成16年(2004)によみがえった。木材建築の傑作、日本の城建築の粋の技術の伝承を確かなものとした。
 

 
 ▲天守内にある昔の城造りの模型

 
 


▲近江聖人・中江藤樹像と説明板

中江藤樹のこと

 近江国(滋賀県)出身、江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩に国替えとなり祖父母とともに移住する




雑 感

 初めて天守に上がったとき、まだ新しい木のにおいのする柱と階段にただ木の温かみを感じるだけで、それ以上の感覚はなかった。しかし、後日知ったことだが、大洲の天守の完全復元には、市民の熱い復元の思いやそれに応えようとした現代の大工職人の知恵と努力があったという。次回機会があれば、見落とした天守に残された匠の技術そして、内堀・外堀跡や武家屋敷・町屋の名残りも見てみたいと思っている。

 参考:「日本城郭大系」、「日本地名大辞典」他


【関連】
・米子城をいく https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/f1ff434ef9ee20ffccb985989b801a2d 

伊予 松山城をゆく

2020-04-23 10:03:03 | 名城をゆく
(2019.3.28~2019.10.31)



 四国にやってきました。最初は伊予松山城です。 城跡を通じて四国の歴史を探っていきたいと思います。松山市といえば道後温泉。過去何度か観光で訪れたことはありますが、松山城跡に登城するのは初めてです。

 松山城は勝山の山頂に現存天守をもつ平山城で日本三大平山城(伊予松山城・姫路城・津山城)の一つと数えられています。

 ただ初めて山麓から見上げたとき、天守が山頂に並ぶ城郭のどれだかわからなかった。その理由は後から知ることになりました。
 


 
▲中央が大天守



▲二の丸から本丸郭を望む
 

             
 
  ▲戸無門(となしもん)                 


 ▲紫竹門東塀に沿って右に曲がると大天守 
 
 
 
 
▲左:小天守、右:大天守(南面)
 



 
▲筒井門と東続櫓(復元)                 ▲焼失前(昭和13年撮影)説明板より




 ▲天守台から南を見下ろす
 



▲天守最上階から東方面の展望 道後温泉方面





 ようおいでたなもし
    
▲初代城主「よしあきくん」がお出迎え 




松山城のこと       愛媛県松山市丸の内1

 松山城は関ヶ原の戦いで戦功をあげた加藤嘉明(よしあき、よしあきら)(家康の家臣加藤教明の長男、賤ヶ岳七本槍の一人)が伊予20万石で入封し、手狭な正木(まさき)城(愛媛県松前町)にかわる新しい城郭と城下町の建設地として勝山の地を選び、松山と名づけた。

 勝山(標高132m)は松山(道後)平野の中央部にあり石手川に面した単独丘陵で、その山頂部に本丸を築いた。西南の中腹に二の丸、山麓に西南郭(三ノ丸)、東郭、北郭があった。




 蒲生忠知の時代に二の丸に藩邸が完成した。
 松平定行のとき、寛永16年(1639)幕府に許可をとり、天守や門塀や石垣の修理・改修工事を行い、そのとき従来の五層の天守が三層に改築された。
 松平定国のとき、天明4年(1784)に天守が落雷により焼失した。
 松平勝善のとき、嘉永5年(1852)6年がかりで天守閣と楼櫓の復元した。

 大天守はもともと五層建ての天守台に三層天守を築いたため、城郭群の中にあって目立たないものとなっている。しかし天守、櫓等の建造物の連結のまとまりは、姫路城につぐ優美な姿を今にとどめている。

  松平定直が藩主であった47年間、学問を愛好し俳諧になじんだため、そのことが藩士の間でも広がり、松山の文化の土壌が育まれたことが知られている。
 



戦後まもない昭和22年(1947年)の航空写真(国土交通省開示)



伊予松山城古城絵図  (江戸中期~後期 国立国会図書館蔵)



◇松山郷土菓子タルトのおこり
 
 松平定行は長崎探題として長崎に赴いた時に持ち帰ったタルトが松山の郷土菓子のおこりという。
 
 

松山城周辺
 
by Google earth



中世の城 湯築(ゆづき)城跡のこと (上の写真右上)

 建武年間(1334~36)に河野通盛(こうの・みちもり)が築城と伝える。天正13年(1585)秀吉の四国征討軍の小早川隆景により開城。そのあと、隆景が伊予国35万石の大名となり、この城を本拠とするが、そのあとを継いだ福島正則がほどなく越智郡国分(今治)に移り、河野氏時代から栄えた湯築城は廃城となる。

 城跡には二重濠と土塁が昔の面影を残している。現在城跡は道後公園となり、松山随一の桜の名所で季節には多くの人が訪れる。





▲黒門口登山道(大手道)       



▲登りやすい大手道
 

 
▲松山城天守内の展示物
 


松山城跡の二つの大井戸



▲左:山頂の大井戸  右:山麓の二の丸庭園内の大井戸



◆市内周辺散策
 
 

 伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ) 
 
 

  
石手寺(いしてじ)




雑 感

 この松山城は、二の丸の庭園からはじまり、黒門口登山道(大手道)から本丸へ、帰りは県庁裏登城道(公園道)を降りた。
 そんなに汗をかくこともないゆったりとした登山道がよかったことと、本丸を支えるみごとな高石垣、天守からの眺めは格別だった。 
 城山(勝山)の平城安易な距離・勾配で城下展望の本丸天守をもつ、藩政の中心の城として最適な場所に位置している。

 次回来るときには湯築城跡や城下の屋敷・町家の名残りを見てみたいと思っている。


※参考:「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」他







伯耆 米子城をゆく

2020-04-22 10:12:45 | 名城をゆく
(2019.3.24~2019.10.31)  


 

▲内膳丸より天守を望む
                       


▲天守台から見た大山 ややかすんでいた



 3月の下旬、米子市にある米子城跡に向かった。途中、中国自動車道米子道から中国山地の最高峰「大山(1729m)」を道すがら見るのも楽しみの一つであった。




米子城のこと     鳥取県米子市久米町
 

▲伯耆米子之城図 国立国会図書館蔵(江戸中期-後期)



 米子城は西伯耆(鳥取県の西部)に位置し、出雲(島根県)との県境に近接した米子市の中心地の湊山(みなとやま) (標高90m)に築かれた。城の別名は「湊山城」「久米城」。米子城は、泰山を中心に北の丸山、東の飯山(いいのやま)を城域としている。
城は中海に面し、城山の周囲に内堀を配し、さらに武家屋敷を置き外堀を巡らせている。
 


▲米子城の鳥瞰、内堀・外堀の位置 (「米子城跡 しおり」より)
内膳丸から出山付近は海であったが、現在は埋め立てられ泰山公園と駐車場になっている。
 

 かつて湊山頂上には大天守(四層五重)と小天守(四重櫓)が並立していた。江戸時代初頭「一国一城令」が発布されたが、例外的に存続を許され、明治まで存続した。
 今は、天守等の建物はないが、天守を取り巻く堅牢な石塁や礎石が残され、昔日の勇姿が偲ばれる。登城の所要時間は15分程度。城の周辺は市民の公園・ハイキングコースとして親しまれている。駐車場周辺では桜まつりの準備がされていた。



米子城の歴史と城主

 応仁元年(1467)に、山名教之(のりゆき)の家臣山名宗之(宗幸)が米子飯山砦を築いたのが始まりと伝えている。『出雲私史』に文明2年(1470)に初めて記述が見られる。

 永禄5年(1566)のころ毛利氏が米子城を制圧している。

 永禄9年(1570)には、尼子義久居城月山富田城(島根県安来市)が毛利元就によって落城し、天正15年(1587)吉川広家(きっかわひろいえ)が出雲3郡・伯耆3郡等の所領を手にし月山富田城を居城としていたが、天正19年(1591)新たな城を泰山に求めた。築城中、秀吉の朝鮮の役に出陣した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、周防岩国に移封となり、未完成の城をあとにした。

 
 

 
 そのあと中村一忠(かずただ)が尾高城(米子市尾高)に入り、工事を引き継いだ。一忠は若干11歳であったので、米子藩執政家老横田内膳村詮(むらすけ)が補佐し、翌年慶長7年(1602)城は完成したといわれている。しかし、慶長14年(1609)一忠が二十歳で若死にし、中村氏は断絶となった。

 次に慶長15年(1610)加藤貞泰(さだやす)が会見・汗入(あいみ・あせり)の2郡6万石の領主として入封するも、元和3年(1617)池田光政が鳥取城に入ると米子城は鳥取の支城となり藩は廃止された。加藤貞泰は伊予国(愛媛県)大洲に移り、光政の一族の池田由之が3万2千石の米子城預かりとなった。

 寛永9年(1632)に池田光政の岡山国替えにより鳥取城主に池田光仲が因伯領主となり、家老の荒尾成利が米子城主となり、荒尾家が代々城を預かり自分手政治を幕末まで行った。
 米子城の天守等建物は、明治10年代に古物商に売却され、解体された。


 

ありしひの米子城・古写真(説明板より)



▲米子城の山麓と内堀(推定)  昭和23年航空写真(国土地理院より)



アクセス

 泰山公園に広い駐車場がある。登り口は4か所程はあるようだが、駐車場から案内板があり、頂上・内膳丸跡とある。テニスコート方面から登ることもでき、どちらも内膳丸跡前に繋がっている。

 今回は、テニスコートの近くの裏御門から登り、内膳丸を見たあと、天守に登り、水手御門跡から下山した。
 



▲米子城の鳥瞰    by Google Earth
 



▲城周辺の案内マップ(現地案内板に少し書き込み)


  

▲左の石垣の先は裏御門跡                   ▲野球場は三の丸跡
  


 
▲テニスコートは二の丸跡                         ▲ここから石段を登っていく




 
▲この奥は内膳丸 、右に下れば湊山公園              ▲内膳丸の入口
   
     


▲天守台をとりまく堅牢な石垣                   




▲天守台の北下の石段 
              



▲天守閣の礎石                                    
 



       
▲天守からのパノラマ (北西~東) 右の丸い山が飯山(いいのやま)
 




 
▲水手御門跡を下る          




▲下山途中の石仏 




雑 感

 米子は過去何回かは来ているが、城に登るのは初めてだった。米子城の天守台に立ちここちよい風を受け、北にきらきら輝く日本海、西に弓ヶ浜や穏やかな中海、東には白雪の伯耆大山、360度のパノラマの景観にしばし釘付けになった。弓ヶ浜に目を向けると、防風林(松)の土手が三保湾を縁取りし、その地形は名称どおりだ。
 その弓ヶ浜は、出雲国風土記(奈良時代)には、「夜見島」とあり、その地名由来は古代の埋葬の地として黄泉津島(よもつがしま)から夜見島となり、それが平安期に砂が運ばれ陸続きになった。そうして現在弓のように湾曲した地形になり、夜見ヶ浜あるいは弓ヶ浜と呼ばれるようになったといわれている。

 下山途中生い茂った木々の中に石仏が一定間隔に数多く置かれている。よく見ると四国八十八ヶ所を模したもので、それも伊予国に限られている。何か伊予と関連があるのかなと、思っていたところ、米子城主加藤貞泰が愛媛の大洲に転封していることがわかったが、そのことと関係があるのだろうか。
 また、近江聖人・中江藤樹が9歳のとき米子城主加藤家に仕える武士の養子となり米子に来て、城主とともに四国に移ったことを知った。

 次回来る機会があれば、飯山周辺と尾高城跡を見てみたいと思っている。






▲途中で見た「大山(だいせん) 南から見ると台形だが、 冠雪のとき、西から見ると伯耆富士といわれる雄姿がすばらしい。






播磨 洲本城をゆく

2020-04-21 06:11:51 | 名城をゆく
(2019.3.23~2019.10.31)
 

 
▲大浜からの展望



 
 ▲下の城と上の城                                               ▲模擬天守
 


 
 実は洲本城は城山に登るまで、島の小さな城だと思っていた。三熊山東麓の歩道を少しばかり歩くと、苔むした堅牢な石垣が現れ、本丸に近づくとそれを取り巻く石垣群にわくわくした。南北600m、東西800mに及ぶ石垣に囲まれた城域の東西を歩くほどに大きな城跡だと実感するには時間はかからなかった。。


 
  淡路島の主な城跡の位置
 
 



洲本城のこと     兵庫県洲本市小路谷
 
 洲本城は、三熊山(標高133m)の山上とその山麓北側に築かれた。山上にはじめて城を築いたのは、大永年間(1521~1527)、紀伊水軍の一派の安宅(あたぎ)が淡路に進出し由良城(古城)を築き周辺にいくつもの水軍基地として支城を築いたのが始まりで、その一つが洲本城であったという。

 天正9年(1581)に羽柴秀吉の淡路攻めにより古参の仙石秀久が5万石で淡路に入封する。秀久が四国攻めで軍功をあげ、四国讃岐に加増され移封する。次に脇坂安冶が3万石で入り、洲本城の大改修を行った。安治は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で水軍の将として活躍。関ヶ原の戦いでは西軍で出陣していたが、藤堂高虎と内通し、小早川秀秋が寝返ったのをみて、東軍に寝返り西軍の大谷吉継隊を襲撃し、その戦功により本領安堵されている。

 その後藤堂高虎が城代を置いた。次に、姫路城主池田輝政に淡路1国が加増され、淡路は姫路藩に属した。慶長5年(1610)輝政の三男の忠雄(ただかつ)が淡路岩屋城を改築し、由良の成山に由良城を築き、大阪城の包囲の態勢を整えた。
 元和元年(1615年)蜂須賀家政の子至鎮(よししげ)大阪の陣の功労により徳島に加えて淡路一国を領した。蜂須賀氏の筆頭家老稲田氏が由良城を本拠に淡路を治めていたが、寛永7年(1630)由良から政治の中心を洲本に移し(「由良引け」という。)、三熊山の旧洲本城の北麓の真下に下の城を築いた。この城は須本御殿・御屋敷とよばれている。







庚牛(こうご)事変(稲田騒動)のこと

 明治3年(1870年)、稲田家家臣が明治政府の禄制改革で、このままでは不利な処遇となるため徳島藩から独立・分藩を企てたことに対して、洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件
 →詳しくは最下部の「徳島城をゆく」を参照ください。




▲淡路国本城下之絵図 江戸中期~後期 国立国会図書館蔵 
 


洲本城要図
 

『日本城郭大系』より
 



アクセス

 
 

▲案内板図に歩いた道を黄・・・で示した



 大浜の三熊山登山口の案内板に従ってホテルの横から入り、突き当りを右折れに登っていく。距離700mのなだらかな自然歩道で20分程で登れる。
 


 
 ▲大浜の三熊山登山口の案内板                ▲ホテルの横から入り、突き当たりを右



 
 ▲石垣の連なり                  




▲この上が本丸天守台
 


 木漏れ日の落ちる木々の中で、苔むした長い石垣に圧倒される。本丸に入り天守台に登ると洲本八景の大浜大観の絶景にしばし見とれる。
 


 


▲絶好の日和 眼下には大浜の松と青く広がる海が美しい
 



▲北麓のパノラマ風景  
 
 

本丸天守台からの展望のあと、本丸東下の段から天守台を見ると荒々しい自然石の上部に高石垣が400年以上も崩れずに頑張っているのは穴太積みという先人の知恵の実証なのだろう。
 



 ▲本丸の東下の段から
 



 ▲本丸と東の丸の間にある日月の池 今でも水をたたえている
 



▲本丸の大石段 


 
 
 ▲南向きにある広い馬屋(月見台)       



▲馬屋から 紀淡海峡と左向うに紀州の島が見える



 

 ▲南の丸隅櫓跡 
 

 
 ▲東二ノ門                  




▲東端にある最大の曲輪跡 武者溜
 


 
 西の門                    




▲西の丸 洋風庭園風 
 

 東の武者溜まで行ったあと、またもや引き返して、西の丸まで800mを歩いた。西の門を抜けると途中階段を登りきると西の丸にやってきた。ここは人気が少ない。
 

 

 ▲西の丸周辺の石垣
 


雑  感
 

西日本屈指の要塞
 淡路島は水軍との関わりが深い。安宅氏や脇坂氏は水軍拠点として、大阪湾や紀淡海峡の海上を見張る絶好の場所に築城し、城下に良港を配置した。 最初の登城時に途方もない規模の城と感じたが、あとで西日本屈指の要塞だといわれていることを知りなるほどと思った。脇坂氏が城主であった24年の間に三熊山山頂を大要塞に仕立て上げたが、大阪の陣のあと廃城になったことを知ったときはさぞかし残念に思ったに違いない。
 
模擬天守(展望台)を見て 
 本丸の北側の天守台に天守に模したコンクリート製天守閣(展望台)が昭和3年に築かれた。もともとこの天守台には天守は築かれなかったという。本来天守が存在しなかった場所に模擬天守を建設したのはどうなのかなと思ったが、それでも90年の時を経た今では模擬天守は天守台と本丸の石垣にマッチし、なかなかの風格がある。ただ最近の修理の後、展望台に上がれなくなったのは残念だ。

参考:『日本城郭大系』、『日本地名大辞典』、他

播磨 明石城をゆく

2020-04-19 10:44:11 | 名城をゆく
(2019.3.22~2019.10.31)


明石公園内
 

▲大手前を入った正面から  左が坤櫓(ひつじさるやぐら)、右が巽櫓(たつみやぐら)
 


 明石城跡(明石公園)は、JRの電車の車窓から何度も見ながら、いままで一度も立ち寄ることは無かった。そんな明石城を、城跡めぐりの楽しみにとりつかれて、遅ればせながら訪れた。
 


▲鳥瞰 by google earth
 



 ▲播磨国 明石城図  国立国会図書館蔵
 


・城域には西に野球場・陸上競技場、北東に球技場がある。
・外堀はすべて埋められ、城図の本丸右(二の丸)東部に台地が延びていたが宅地化されている
 

 
明石城の築城
 


▲大手前
 



▲天守の代わりの坤櫓
 


 明石城跡のある明石市は播磨の東、摂津との国境に位置し、京都と大宰府(福岡県太宰府市)を結ぶ官道がしかれ、淡路、四国への海路をもつ古代からの交通の要衝であった。

 近世の徳川幕府の初期、元和3年(1617)信濃国(長野県)松本城の城主の小笠原忠政(のちの忠真)が10万石に加増され明石に入った。明石川の河口の北西の船上(ふなげ)の船上城に入り、2年後の元和5年(1619)徳川秀忠の命により人丸山の台地に新城の建設が始まった。

 明石城は、西国の守りとしての幕府の普請奉行の派遣や築城費※を幕府が支出し、本丸・二の丸の主な部分は幕府直轄の工事で、他の工事は共同で行われた。
 



▲大手正面の内堀
 



▲内堀の土塁
 



▲大手の石段
 



▲正面右(東詰) 二ノ丸への石段
 


 この築城の時期は、池田氏の播磨一国の支配が終わり、姫路城の城主は本多忠政に替わっていた。幕府は小笠原忠政が家康の曾孫にあたり、また正室は姫路城主本多忠政の娘という徳川のゆかりの本多氏と小笠原氏の二人を譜代大名として西国の重要拠点に配したのである。

 明石城の天守台は造られたが、天守は見送られた。代わりに櫓は数多く造られ、本丸の四隅に三層の櫓(やぐら)が西南を表す坤(ひつじさる)櫓、東南の巽(たつみ)櫓、東北の艮(うしとら)櫓、北西の乾(いぬい)櫓が建てられた。資材には廃城となった三木城・高砂城・船上城・枝吉城などが解体使用され、現存の坤櫓は伏見城の遺構、巽櫓は船上城の遺構と伝えている
 

 

 ▲広い天守台 ここに天守は建てられなかった
 


 町割りは、人丸山の麓にあった西国街道が少し南に移され、外堀で武家と町家を分離させた。街道の東西の出入り口に大木戸と番所が置かれ東入口を京口門、西入口姫路口門と呼んだ。有事に備え、門の出入り口や海岸線防備に寺と神社を配置し、城下町は職業別の区割りを設けた。このような城造りは後の城造りのモデルになったという。




船上城(明石市船上)と高山右近

 船上(ふなげ)は古代平安期には船木(ふなぎ)と呼ばれ、造船の用木を調達する職掌の船木連が居住し、この船木が船上に転訛したともいわれる。中世の室町期には、京都の大山崎の油座に納入する胡麻の運送にかかわっていた記録があり、また秀吉のもとで水軍の大将として活動していた石井(明石)与次兵衛がいたことなど、当時船上は明石地方の海上交通の中心であったと考えられている。

 船上城は、秀吉の天下統一後、高槻城の城主の高山右近が2万石を加増され明石6万石の国替えとなり、この地に本格的な城や城下町を築いたとされている。明石城が出来てからは廃城となり城下の町は元の農漁村に戻ったという。そして現在は宅地化され、主郭部の台地の一部だけが残されているだけで城跡の面影はなくなってしまった。

 高山右近は熱心なキリシタン大名であったが、天正15年(1587)の秀吉は突如バテレン追放令を発し、左近にはキリシタンを捨てるか大名職を失うかが問われ、信仰を選択したため明石を追放されてしまった。このため、家臣や宣教師、キリシタンは道に迷ったように旅路につき、女、子ども老人、病人が明石の道にあふれていたことが、宣教師フロイスが『日本史』に書き残している。ちなみに高山右近は徳川家康の禁教令により国外追放され異国フィリピン・マニラで没している。

 参考文献:『日本城郭体系』、『兵庫の城紀行』、『角川日本地名大辞典』、他


小笠原氏のこと
  


 明石城の城主小笠原忠政の父忠政は兄忠脩(ただなか)とともに大阪の陣で戦死し、忠脩の死後長次が生まれている。忠政が家督を継ぎ、長次を養育した。長次は、龍野藩主となりのち中津藩主となった。中津藩の小笠原は5代つづくが、長邕(ながさと)が早死にしたため一旦は無嗣改易となったが、許されて長興(ながおき)が享保元年(1716)に宍粟郡安志にはいり安志藩主となっている。
  ちなみに中津藩といえば、豊臣時代、播磨で活躍した黒田官兵衛が中津に移ったことで知られているが、黒田氏の後は、細川氏・小笠原氏・奥平氏と続いた。


 
 ▼明石城概要 城主説明(公園内)

 


 ▼南の外堀にある家老屋敷跡 織田家長屋門 門は船上城から移築されたという
 
 



雑 感
 
 本丸・天守台からの明石海峡の景色はすばらしく、大橋と淡路がすぐそこに見える。明石城築城400年後の光景だ。おそらく築城当時は、城下の街道の人の動き、海上の船の動きが手に取るように監視できただろう。城が完成し、天守代わりの坤櫓からこの美しい景観を最も早く手中にしたのは小笠原忠政であった。しかし、わずか13年の在城で寛永10年(1633)北九州小倉の地へ移っていった。

 この明石城の建設に忠政の客分であった宮本武蔵が指導に入ったという伝承が残っている。武蔵は巌流島で中津藩細川氏に仕えていた佐々木小次郎と果し合いをしているが、この事の経緯や次第にも多くの伝承があり真相が不明で、有名人ならではのもののようだ。

   地域の様々な歴史は人を通じて興味をもち、それを手繰り寄せてみると、当時の出来事や関わった人物の足跡が少しずつ見えてくる。最近その面白みを感じている。
 
 
 

 ▲海岸からみた明石海峡大橋 (パノラマ撮影) 
平成10年(1998)4月に完成 橋長3,911m、中央支間長1,991mの世界最大の吊橋
 

【関連】 
・安志藩(2)小笠原氏について