ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

072. ルドンドの紙祭りは涼風に吹かれて

2018-12-31 | エッセイ

7月、8月は夏祭りの季節。

アレンテージョ地方では8月の第一週に恒例の「ルドンドの紙祭り」がある。
アレンテージョ地方の夏といえば、猛暑!
日中は40度を越える焼け付くような日差し、燃え上がるような空気。
無意識に身体は陰を求めて移動する。
町の人びとは窓のシャッターをきっちりと閉め、家の中に籠って昼寝中。
道を歩いているのは外人観光客だけで、それもちらほらと少ない…というのが、いつもの夏祭りだった。

ところが今年の8月は異様に涼しい。
このぶんでは内陸のルドンドも過しやすいに違いない~と出かけた。
途中のエヴォラも熱風の代りに涼風が吹き、ルドンドに着くと、これまた涼しい、快適だ!

平日のせいか、公園に特設された食堂もお客が少ない。
食券売り場で、仮設小屋の板塀に切り込まれた小さな窓に首を突っ込むように注文する。
いつものようにフランゴ(チキン)の炭火焼、ソッパ、サラダ、飲み物、パン、デザートはメロン。

別の窓口に行って紙のテーブルクロスとナイフ、フォークと取り皿をもらい、自分でテーブルセットをするのがここのオキテ。
それから列に並んで、食券と引き換えに飲み物と料理をもらって、自分で運ぶ。
そしてようやく食事ができる。
まるで昔の共産圏のようなシステムだけれど、なにしろ祭りの特設食堂で、たぶん農協などがみんなでやっている素人経営だから、しかたがない。
お客も協力しなくっちゃ。

 



大きな鉢に入った「ソッパ・デ・ペイシェ」

ところで受け取ったソッパがびっくりするほど大鉢だ。
ソッパ・デ・トマト(トマトスープ)を注文したつもりが、ソッパ・デ・ペイシェ(魚のスープ)が出てきた。
それもふた鉢も~。
そのうえ2センチ角に切ったパンが山盛りになった別皿も出て、「ソッパの中に入れて食べたら美味しい~」という。
これはもう完全に「ソッパ・デ・ペイシェ」
魚のぶつ切りが入ったトマト味のソッパ。
どうりで料金がちょっと高かった訳だ。

「ソッパ・デ・ペイシェ」はだいぶ前に、別の町で食べたことがある。
そのときは大鍋にどっさりの魚のぶつ切りとスライスした田舎パンも最初から一緒に入っていた。
スープの味をたっぷりと吸い込んでふにゃふにゃになった古いパンはまるで麩のようで美味。
「ソッパ・デ・ペイシェ」という名前だがふつうのスープのイメージではなく、立派なメイン料理として出されたのだ。

さてフランゴも焼き上がり、大鉢にたっぷり入ったソッパと並べると、食べきれるかな~と心配だったが、ひとくちソッパを食べると、スプーンを持つ手が止まらなくなった。
この美味さはどこからくるのだろう…。
ニンニクと玉ねぎとジャガイモ、トマト、ハーヴ、オリーヴ油、そして魚のぶつ切りから出た旨み。
それに、なんといっても決め手は大鍋で大量に作ること…ではないだろうか。
家でなんとか美味しいソッパを作ろうと挑戦するけれど、いつも満足できないのは、量にも問題がありそう。
田舎のレストランに入ると、料理を作っているのは近所のおばさんたちだから、もしその店で煮込みなどのメニューがあったなら、その地方の家庭料理が味わえる。
田舎の煮込み料理は美味しい!

昼食のあと、紙の祭りを見て歩いた。
通りや路地でそれぞれテーマを決めて飾りつけをしている。
毎年異なったいくつものテーマで作ってあるので、見るのが楽しいし、しかも去年のと同じものはひとつもなく、すべて一から新しく手作り。
今年のテーマは「熱帯の海」「アフリカ」「恐竜」「昆虫」「アルファベット」「子供の世界」そして「闘牛」など。
それ以外にもまだまだある。

ルドンドは民芸陶器の窯元がいくつかある。
今年はやっと紙祭りのテーマに取り上げて「陶器つくりの通り」ができていた。
土をこねるところから、足でロクロを蹴っているところ、窯で焼いているところ、
そして出来上がった製品を飾っているところ…など。
すべて紙を使って表現してある。
今まで知らなかった古い絵付けの陶器がたくさん再現されて、素朴だとばかり思っていたルドンドの陶器を改めて見直した。
実物をぜひ見たいものだ。

他にも各地の民族衣装を紙で表現した通りも見応えがあった。
地方によって伝統衣装が様々に異なるものだ。
それを布地から刺繍糸まですべて紙で再現してあるのは驚き。

ルドンドの紙の祭りはとにかく紙を使って、微にいり細にいり表現することにこだわっている。
この情熱と根性には、毎年あっけにとられてしまう!

 

各通りはテーマが決められ、入り口にはゲートが作られる。ここは「熱帯の海」

 

 「熱帯の海」の通り。天井の紙細工が涼しい陰を作り、風にゆれてしゃらしゃらと音を鳴らす。

 

ルドンドは民芸陶器の町。この通りは陶器作りがテーマ。テーブルも壷も皿も人形も全て紙。足で蹴ってロクロを回す様子。

 

窯で陶器を焼く様子。左の穴には紙で作った壷などが入っている。この焚き木だけが本物の枯れ枝。

 

ロバの背中に陶器をつんで売り歩く。犬をお供に連れて。

 

猛暑の中を売り歩く絵皿を紙で再現

 

紙製のお皿に絵を描き、紙製の棚に飾っている。

 

ウサギ狩りの絵皿を紙で再現

 

紙製のお皿に絵を描き、紙製の棚に飾っている。絵柄が楽しい。

 

ルドンドの城門前の広場。中央の井戸も街灯もすべて紙。

 

トーロス(闘牛)がテーマの通り。本物のトーロスと同じようにわざわざ道に砂を敷いてある。

 

紙で作られた牛の尻尾を引っ張ってはしゃぐスペイン人観光客

 

アルファベットがテーマの通り。ROSA(バラ)の絵が全て紙で刺繍、額縁も紙。

 

伝統民族衣装の通り

 

全国各地方の伝統衣装を飾った通り。全て紙で作ってある。

 

紙でできた生地に紙でできた刺繍糸で細かな刺繍をして伝統衣装をみごとに再現

MUZ
2009/08/28

 

©2009,Mutsuko Takemoto
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(この文は2009年9月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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K.085. 両手付き深皿 Furigideira

2018-12-31 | 飾り棚

直径24cm 高さ3.5cm

セトゥーバルの蚤の市でまた見つけた。
両手に紐が付いていたから、たぶんどこかの家の壁に長いこと掛けてあったらしい。
煤でかなり黒ずんでいたのが、ごしごし洗ったら見違えるようにきれいになった。
真ん中の鳥はバルセロスのガロ(雄鶏)かと思っていたが、ぴかぴかになったら、図柄がはっきり。
頭に冠飾りのあるヤツガシラではないだろうか。
牧場地帯などを走っていると、縞々の身体、冠を被った野鳥を見かけることがある。
大きさはハトぐらいだろうか。
ぴょんぴょんと草地を跳ねている姿は愛らしい。
MUZ 2008/02/16

 

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071. 穴場食堂

2018-12-30 | エッセイ

旅に出ると食事も楽しみの一つだ。

でも、昼食を取るのに「どこで食べようか」といつも迷う。
日本だったらよほど山奥でない限り、道路沿いに何軒もの食堂を見かける。
ラーメン屋だったりうどん屋だったり、ファミリーレストランだったり。
しかもどの店も朝から晩まで一日中営業しているから、自分の好きな時間に食事ができる。
とても便利でありがたい。

ポルトガルもこのごろ高速道路が充実して、だいたい20キロ間隔でガソリンスタンドとレストランがあり、そこではセルフサービスでいつでも食事ができる。でもはっきりいって美味しくない。

普通の国道沿いには店はほとんどないから、食事をしようと思うと、国道からそれて町の中に入って探すことになる。
しかも町なかは一方通行であっち行き、こっち行き。
駐車スペースを探してうろうろ。

レストランの昼食時間は11時過ぎから開店し、3時までと決まっているので、それまでに入店しないと、食べ逃してしまう。
どの店も公務員やビジネスマン風の常連客でごったがえしているし、みんな1時間以上、あるいは2時間程もかけてゆっくりと食事を楽しんでいて、コーヒーが出てからもまた長いので、なかなか空席ができない。
旅の途中で先を急ぐ私たちは、諦めて再び国道に戻る。
そんなことが今まで何回もあったので、移動中の昼食は簡単にすますようになった。

でもときどきラッキーなこともある。

以前、南のアルガルヴェの国道を走行中、前をのんびりと大型トラックが走っていた。
普通なら追い越すところだが、そろそろ昼食をと考えていた。
そのあたりに町の入り口でもあれば国道からそれるつもりだった。
その時、意外にも国道沿いに食堂が見えた。
そこに入ってみるつもりが、前を走るトラックも突然右折し、その店に入った。

そこはガソリンスタンドもやっていて、広い駐車場には大型トラックや商用車が何台も停まっている。
店内は食事をしている商人やトラック野郎たちでいっぱいだった。
みんなが食べているのは、マメと肉の煮込みか魚のフライ。
ふつうのレストランのメニューではあまり見かけないポルトガルの家庭料理。
私たちも思いがけない料理に堪能した。
しかも飲み物から料理、デザート、コーヒーまで全て含めて一人9ユーロの値段。
旨い、安い、早い、と三拍子揃った穴場食堂だ!

つい先日のこと。
ベイラ地方で田舎道を走っていると、町を出たところで、小さな店を見つけた。
駐車場には商用車やトラックなどクルマがいっぱい停っている。
なんとなくニオイがする。
安いぞ、旨いぞというニオイ!
ひょっとしたら穴場かも?

12
時を回って、日差しがきついのでクーラーの効きも悪いし、暑くてたまらない。
海岸地帯に比べて内陸は猛暑なのだ。
ようやく1台分のスペースを見つけて駐車。この店は期待できる。

外にクルマはたくさん停まっているが、入り口がどこか分からないほど地味な店。
でも店内はすでにほとんどの席が埋まっている。
どの客も屈強な身体付きの男たちばかり。
ビアジョッキを傾け、パンをほおばり、大声で喋っている。
ほとんどが常連客らしく、お互いに声をかけあっている。

ひとつだけ空いていた席に着くと、まるまるとしたお姐さんが注文を取りにきた。
にこにことして感じが良い。
メニューはちょうど席のまん前の黒板に書いてある。
定食が3種類だけ。

メイン料理はバカリャウ(たら)かビットーク(豚肉料理)の定食で6ユーロ。
それとレイタオンなら7,5ユーロ。
レイタオンというのは生れて間もない子豚を丸焼きにしたもの。

定食は、パン、オリーヴ、ソッパ(スープ)、メイン料理、飲み物、デザート、コーヒーまで全部付いている。
レイタオンなら7,5ユーロ。でも1000円もしない。
せっかく本場にきたので、名物料理のレイタオンを注文した。

普通のレストランだと、7,5ユーロというと、一品の値段、しかもいちばん安い料理の値段。
それにパン代、ソッパ、デザート、コーヒー、飲み物代など加算されるので、最終的に倍以上の値段になる。

この店はますます穴場のニオイがする。

まずアゼイトナス(オリーヴ)をつまみにしてキュッと冷えたインペリアル(生ビール)を流し込む。
ビトシは運転があるのでノンアルコールビール。
そのあとキンキンに冷たい大ボトルのアグアミネラル(ミネラルウォーター)を追加注文。
私たちがソッパを食べ終えたのを見て、いよいよメインのレイタオンが運ばれた。
一人前の大皿にサラダとバタータフリット(フライドポテト)と米飯まで添えてある。
私にはとても食べきれる量ではないが、ここは労働者相手の食堂。
値段は安いし、盛りも良い。
レイタオンはまだおっぱいを飲んでいる子豚。
だからとても柔らかくて、くせもなく、ほろりと口の中で溶けるよう。





隣の席が空くと、すぐに次のお客が座った。
年配の夫婦と若いカップルの4人連れ。
どう見ても労働者ではない。
偶然ふらっと入ってきたのではなく、ときどき来る常連客だ。
彼らもレイタオンを注文した。

デザートはいろいろある中からサラダ・デ・フルータ(フルーツミックス)を選び、そしてコーヒー。
お勘定は二人で合計15ユーロ。
「追加注文したアグアミネラルの料金を付け忘れていますよ。」と言うと、
「それも全部含まれていますよ~」

やっぱりここは「穴場食堂」だ!
田舎道を走ると、たま~にこういう穴場に出会う楽しみがある。

トラックや商用車がたくさん停まっている店でも、「ここは穴場かな?」と期待して入ってみると、なんの特徴もないメニューばかりで、がっかりした経験が何度もあったけれど今回は当り!

食事は旅の楽しみのひとつ。
何年経っても語り草になる「穴場食堂」が今回の旅でまた一つ加わった。

MUZ 2009/07/28

 

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070. シェラ・ダ・エストレラ(星の山)への旅

2018-12-29 | エッセイ

シェラ・ダ・エストレラ。
「星の山」
標高1993m。
ポルトガルの真ん中あたりに位置する、ポルトガルでいちばん高い山である。

例年なら人工雪を敷き詰めてようやくスキーができるのだが、今年の冬は自然の雪が余るほど積もったので、南のアルガルヴェやアレンテージョ地方に住む、雪を見たこともない人びとがどっと詰めかけて、大賑わいだった。

ニュースではよく耳にする場所だが、私たちは今まで一度もエストレラ山に登ったことがない。
旅をする時は、ビトシの画題になるような場所が最優先なので、有名な行楽地などはどうしても後回し。そのうえ、冬は雪道で危険そうだし、夏は諒を求めて避暑に行く人々で混雑していると聞いて、どうも出掛ける気にならなかった。

今年は6月始めに日本からポルトガルの家に戻ってきた。
リスボン空港の外は雨上がりの水溜りがあり、人びとも薄手のコートをきている。
もう6月だというのに、肌寒いのに驚いた。
ところが友人の話だと、ちょっと前まですごい猛暑だったという。
猛暑の後に冷気がやってきたようだ。
近くの野原に出かけたが、今の時期、まだ野草が咲き乱れているはずなのに、どこも枯れ草で覆われて、お花畑が見当たらないので不思議に思っていたのだ。
ルイサ・トディ公園のジャカランダもすでに青々と葉っぱが茂り、上のほうにかろうじて紫の花が残っている状態だ。

それから一週間ほどぐずついた日が続き、6月半ばになってようやく天気が回復した。
平地の野草はもうほとんど咲いていないのだが、でも高地に行けばきっとまだ花畑が見られるに違いない!
これはシェラ・ダ・エストレラに出かけるまたとないチャンス。
ポルトガルで一番高い山だから、頂上はかなり寒いかもしれない~。
念のため、セーターとウィンドブレーカーと傘をリュックに詰め込んで、出発した。

アライオロス、エストレモス、カステロ・ブランコと内陸に進むにつれ、どんどん気温が上昇。
特にカステロ・ブランコはエヴォラ、ベージャと並んで、夏の気温が最高になる場所。
その脇をすり抜けるように、無料の高速道路<IP2>を走る。

その日はシェラ・ダ・エストレラの麓の町フンダオで、一泊することになった。
ホテルでパンフレットを見ると、セレージャ(さくらんぼ)祭りが6月10日から14日まで催されていたらしい。
内容は、サクランボ狩りとホテル料金とレストランでの夕食付き。
でも3日前に終わったとのこと。残念!
そういえばフンダオの町の手前の山道にサクランボ畑があり、赤黒い実が鈴なりになっていて、初めて見る光景に感激した。
あれはまだ収穫が済んでいない畑だったのだ。
花の咲く時期はいつごろだろうか?きっと道の両脇が美しいことだろう。



そのホテルが経営しているレストランでは宿泊客は10%引きだというので、夕食はそこにした。
お勧めは「セレージャ定食」というのがあった。
「セレージャ祭り」の特別メニューらしい。
大きな皿にたっぷり盛られたパリパリのサラダには、セレージャの実を潰したドレッシングがかかっている。

 

セレージャのサラダ

 

 

メインは黒豚肉にセレージャを巻いて煮込んだもの。

 


ソブレメサ(デザート)はセレージャのプリン。
ちょっと高かったけど、美味でした。



翌朝はコビリャまで行って、いよいよ登り始める。
七曲がり八曲がりの急坂を上がり、しだいに潅木も姿を消し、巨大で奇妙な姿の岩山が次々に目の前に立ちはだかる。
岩肌には黄色やピンクの花がびっしりと張り付いて、遠目にも鮮やかだ。
はるか上の方に豆粒のように小さな車が走っている。
それがしばらくすると、そそり立った岩陰から突然姿を現わす。
そのクルマが下って来た道を私たちのクルマが上っていくのだ。


ひとつのカーブを曲がったとたん、奇妙な風景が飛び込んできた。
あたり一面、黒い巨大な石の塊がにょきにょきと立ち並び、そのひとつひとつがまるで彫刻のよう。
異様な光景が目の前に広がった。

 


展望台から下に降りる道があり、谷底には小さなせせらぎがちょろちょろと流れていて、水辺には、目に見えないほど小さな花を咲かせた野草が必死に生きている。
その種類の多さに驚いた。

ヘヤピンカーブを走っていると、遠くの岩山の斜面の一部が真っ白に光っている。
護岸工事で白いペンキを塗ったのだろうか?と一瞬、目を疑った。

今の時期、下界の村々では、夏祭りを迎えるために自分の家の外壁を白く塗り替えている最中だ。
でもまさか~。あんな岩山の目立つ場所に!

登って行くに従って、その白い部分はだんだん近づいてきた。
そしてとうとう真横に大きく現れた。

雪?だ!
それは雪に間違いなかった!
冬に大量に積もった雪がこんな斜面にまだ残っているのだ。
強い太陽光線に照らされて、ぎらぎらと白く光っている。
手に取ってみたい~衝撃にかられたが、それは不可能だ!
間に深い谷がある。

それからしばらく走ると、標高1930Mの立て看板。
道路は平坦な一本道になり、やがてT字型の分かれ道にぶつかった。
その正面にクルマが3台停まり、外に出た家族連れが騒いでいる。
何だろう?と私たちも降りてみた。
道路から少し下った傾斜地はあたり一面真っ白い。
雪だ~。
一歩足を下ろすと、ザクッとした感触が靴底に伝わった。
強い太陽にさらされて表面がシャーベット状になっている。
それでも下はまだかなり分厚そうだ。

 


大人も子供も顔を輝かせて、雪を踏んだり、雪を丸めて投げあったり、若いカップルは抱き合って雪の上に倒れ、キスをしながら、「写真をとってくれ~」と、同行の親にせかしている。
雪を触ると、みんな嬉しくなるのだ!

そこから左の道をちょっと登ると、そこがエストレラ山の頂上らしかった。
らしかった~というのも変だが、なんとなくポルトガルで一番高い山のてっぺんという感じがしない。
あたり一面が広い台地で、クルマはどこにでも止めてくれ~という広さ。
そこにTVのニュースで必ず出てくるエストレラ山の象徴、どでかい丸い塔がふたつ立っている。
わりと錆付いた古びた塔だ。

 

 

その後ろに大きな建物が横たわっている。
中はものすごく奥深く、地下、1階がすべて土産物屋。
数十軒以上もある。
しかも、どの店も同じものを売っている。
羊の皮製のスリッパ、牛皮の服やバッグ、ざっくり編んだセーターや手袋、そして地元名産のチーズや生ハムなど、山のように積み上げてある。

その一角に飲み物などを売るバルがあり、おいしそうなサンドウィッチが並んでいた。
エストレラ産の羊のチーズとプレスント(生ハム)の2種類を買って、外に出て、岩に腰掛けてほうばった。
どちらもたっぷりの中味で、とても美味しい。
頂上のそよ風に吹かれて食べる味は格別!
足元には見たこともない野草が地面にはいつくばるように、ピンクや白い小さな花をびっしりと咲かせている。

向こうに数頭の牛が突然姿を見せた。
まさか頂上に牛が放牧されているとは思いもしなかった~。

エストレラ山の頂上は高原のようになだらかで、のどか。
夜には満天の星が、手を伸ばせば届きそうな近いところに無数に輝くことだろう。

その日は山麓にある、カルダス・ダ・マンテイガスという町に泊った。
カルダスとは温泉地という意味。
そこの保養ホテルに飛び込みで部屋が見つかったのだ。
ホテル本館とは別棟で、カーザ・デ・パストール(羊飼いの家)。
名前からすると、もともとは羊飼いが住んでいた場所らしい。
もちろん建物は建て直してあるが、一番下の階はとても広い。
昔はそこに羊やヤギや牛などが寝ていたのだろう。
今はそこに洗濯機やアイロン設備がおかれた洗濯場になり、一階、二階が滞在客の部屋になっている。

夕食は本館で保養に来ていた2~3百人の元気な老人たちと一緒だった。
バイキング形式の夕食で、周りは見渡す限り滞在客ばかり。
どうも場違いな雰囲気だな~と戸惑っている私たちに、ボーイは明るい窓際のしかもバイキング・ボードに近い一番良い席を用意してくれた。
地元の旨いワインのサーヴィス付きでだ。
窓の外には淡いサーモンピンクの紫陽花が満開の花を付けていた。
バイキングにしては凝った美味しい夕食で、温泉病院に療養に来ている老人たちはびっくりするほど食欲旺盛。
彼らは数日ホテルに滞在して、温泉病院で指導を受けながらプールで泳いだり、運動したりなので元気はつらつ。
私たちも彼らに釣られてたっぷりのデザートまで済ませた。
もう夜の9時を過ぎていたが、外に出て羊飼いの家に戻る時にも未だ明るかった。
6月のポルトガルは、谷間の町とはいえ、いつまでも明るい。

美味しいワインを飲みすぎたのとドライブの疲れからか、
暗くなるのを待たずして、そのままベッドに倒れ込むように寝てしまった。
シェラ・ダ・エストレラ(星の山)の星空を見上げることもなく…。

MUZ
2009/06/29

 

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(この文は2009年7月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

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069. アーリョス・ヴェドロスのカルナバル

2018-12-29 | エッセイ

二ヶ月間も続いた雨と悪天候が2月の半ばにやっと終わった。
そして真っ青に晴れ渡った空にツバメがすいすい飛ぶ姿を目撃。
今年はツバメの来るのがとても遅くて気になっていたのだが、いつの間にか、近所の軒下にある、長雨で壊れた古巣を立派に修理して住んでいる。

2月22日から全国各地で春の祭典カルナバルが始まった。
いつもだとカルナバルの時期はかなり肌寒いのだが、今年は気温がぐんぐん上がり、汗ばむほどの陽気。

セトゥーバルのルイサ・トディ大通り公園は大々的な工事であっちもこっちもひっくり返っている。
そんな所で今年もカルナバルをするらしいが、私たちはどこか別のカルナバルを見に行くことにした。

22日は日曜日、モイタの露店市が開かれる。
ひょっとしたらモイタでもカルナバルをやっているかもしれない。
ところが、露店市はいつもどおりやっていたが、街なかを歩き回ってもカルナバルの雰囲気はない。
仮装した子供を写真に撮っている家族連れを広場で数組見かけただけ。

露店市の入り口に立っている警察官に、どこでやっているのか尋ねたところ、モイタではなく、2キロほど離れた町で4時から始まるとのこと。
その名はアーリョス・ヴェドロス。直訳すると、「ニンニク検査場」だろうか?
変な名前だ。

道はその町を目指す車で渋滞している。
でもそこがどんな町か聞いたことはないし、どこにあるのかも知らないけれど、たくさんのクルマの後を付いて行った。
やがて広大な空き地にびっしりと駐車している場所に着いた。
そこに次々とクルマが入って行く。
広大な空き地は広大な砂地で、うっかりするとはまりそう。
深い輪だちがあちこちにできている。
ネギやニンニク栽培はこうした砂地が適しているという。
この町は今は工場地帯の一部だが、昔はニンニクやネギの栽培農家がたくさんあって、町の名前はそこから付けられたのかもしれない。

やっと駐車スペースを確保して、さてどっちに行けばよいのだろう?
隣の車の人に尋ねると、その人も知らないと言う。
とにかく人の群れに付いて行った。

平屋建ての長屋が立ち並ぶ昔ながらの家並と錆付いた工場跡と倉庫、そして古びた低層のマンションが続く。
狭い道の電柱にはスピーカーが取り付けられ、ブラジルのサンバを大音響で四方にばら撒いている。
両脇にはもう人びとがびっしり立ち並び、いまかいまかと待っている。
小さな子供たちは仮装して、天使やピエロ、スパイダーマン、中には怪しげな日本風の着物を着せられた子もいる。
カルナバルの衣装はスーパーにも売っているが、ほとんどは中国人の雑貨屋などで買うのだろう。
女の子は背中に羽根を付けた天使やフラメンコ衣装で着飾ったのが人気で、あちこちで見かけた。
男の子は怪傑ゾロや忍者など。
父親に手を引かれた4歳ぐらいの男の子はすっかり忍者になりきって、自分より年上の見知らぬ男の子にすれ違いざまアクションをかけたが、軽くいなされてがっかり。
TVで日本の忍者アニメをいつも見ているに違いない。

1時間近く待っただろうか。
太陽は西に傾き、斜めの強い日差しがまぶしい。
逆光の中から一台のパトカーに先導されて、カルナバルの行列が現れた。
ほとんど半裸に近い若い女性が先頭で踊り、暴走族風の若者たちの太鼓隊が続く。
巨大な男が美しく女装して威風堂々と練り歩く。
これは只者ではない!
モイタの果物屋のドス親父が厚化粧して仮装しているのでは…?

天使の羽根を付けた小さな女の子は、目の前に来た女装の巨漢にあっけに取られて思わず口をポカ~ン。
この子ははしゃぎまわる他の子供たちに比べておとなしくて無表情だったのに、カルナバルが進むにつれてどんどん気分が解放されたのか、行列の中に入って一緒に踊りだしたり、季節はずれのサンタクロースの仮装一団がやってくると、プレゼントの箱をたくさん積んだソリに駆け寄ってサンタクロースにキスをしたり、とずいぶん積極的だった。
あと数年もしたらきっとカルナバルに出演しているのではないだろうか。

カルナバルは、小学生から中学生、高校生、そして青年、若い女性、中年女性、細い人、ぶっとい人、
誰でも参加している。

ポルトガルも世界同時不況の大波を受けて、工場閉鎖や銀行倒産、ひんぱんに起る強盗事件など、暗いニュースが多いが全国各地でカルナバルが開催され、沈んだ気分を吹き飛ばしている。

 

 

01.先頭バッターの女性。左はしの女の子は最初は無表情だった

02.

   

03.◇

04.

   

05.小学生たちの仮装グループ

06.双子の姉妹

   

07.

08.高い台の上から紙ふぶきを撒き散らす

   

09.◇

10.

   

11.ちょっとごつごつした女装男性

12.威風堂々と練り歩く女装の巨漢

   

13.

14.中学生たちも立派な身体

   

15.

16.無口な女の子は踊りの輪に入って絶好調



MUZ 2009/02/27

 

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K.083. 両手付き小どんぶり Tacho sem Tampa

2018-12-29 | 飾り棚



直径17cm 高さ6cm San Pedro Corval

蓋はないけれど、鍋焼きうどんを作るのにちょうどよい器。
でも最近、うどんだけは日本に帰った時の楽しみに取ってあるので、ポルトガルではあまり食べないことにしている。

以前は時々小麦粉からうどんを作った。
日本に帰った人から頂いた餅つき器でも巧く出来た。

でもこの頃はあまり作らない。
それどころか最近はリスボンの中華食品で真空パックうどんが売られている。
でもそれも買わない。

何故なのか?と考えてみると、以前ほど日本食品にこだわらなくてもポルトガル食品が美味しく感じるようになっているのかも知れない。

そう言えば自分でポルトガル料理をする機会が増えた。
この器は本来の使い方、ソッパ・フェイジョア(豆のスープ)が一番よく似合う。

MUZ 2007/12/15

 

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K.082. アルコバッサのオリーヴ入れ

2018-12-28 | 飾り棚

直径 14cm Alcobaça

ナザレからの帰り、久しぶりにアルコバッサに立ち寄った。
この町の中核は12世紀に建立されたサンタ・マリア修道院。
悲恋のカップル、ペドロ1世とお妃の侍女イネスの眠る石棺が今でも大切に安置されている。

修道院の右端の建物は陶器美術館になっている。
これは以前来た時はなかったと思う。町のどこかにあったものをこの場所に移動したのかもしれない。
館内のコレクションはそんなに多くはないが、古い陶器がいろいろ展示されている。

このオリーヴ入れは修道院の前にある陶器屋で買った。
陶器を売っている店は何軒も並んでいるが、この店は窯元直営で昔からここにある。
こんな感じの絵柄やもっと細かい絵付けで、小皿から大皿、大きな壷など多様な陶器を作っている。
一階の展示場もそうとう広いが、二階に上がると床から壁から天井までびっしりと飾ってあり、圧倒される。
MUZ 2007/11/20

 

©2018 MUZVIT

 

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K.081. 青絵付け大皿

2018-12-27 | 飾り棚

 

直径 33cm San Pedro do Corval

この大皿はとても思い出が深い。

ポルトガルに住み始めて間もないころに、エヴォラからローカルバスを乗り継いで小さな村を見て回り、夕方暗くなってレゲンゴスに着いた。
まだ7時前だからとあまり気にしていなかったのだが、町には宿が2軒しかなく、そのどちらもすでに満室。
カフェで店の人にどこか宿を知らないかと相談したら、店のお客たちも一緒になってあれこれと話し合った結果、モンサラシュには民宿が何軒かあるから、行ってみたらどうか…という。
ちょうどそこに居合わせたタクシーの運転手が10キロほど離れた山の上にあるモンサラシュ村に案内してくれて、ようやく一部屋だけ空いていた民宿に泊ることができた。それがモンサラシュ村との初めての出会いだった。

そして翌日、モウラオン行きのバスを待っていたら、同じ民宿に泊っていた若いカップルに声をかけられて、彼らの車に同乗させてもらった。
彼らは北部のポルトから新婚旅行でアレンテージョに来てあちこちを回っていて、モウラオンに行く前に、モンサラシュの麓にある陶器の村に寄って、記念の品を買うという。
それがサン・ペドロ・ド・コルヴァル村だ。

今では道路の両側に立派な店がどうどうと並んでいるが、そのころは道端に数軒の店しかなく、暗い土間でひっそりとロクロをまわし、絵付けをし、軒先に焼きあがった壷や皿を並べて売っていた。
新婚カップルはいくつかお土産の絵皿を買い、私たちは彼らにお祝いの絵皿を贈り、それと同じものを自分たち用にも買った。
そしてリュックに入れて大事に持ち帰ったのが、この大皿である。

レゲンゴスで宿が見つからずに心細い思いをした時に、みんなが心配してくれたことや、暗闇の中、タクシーで山道を上って行くと、霧に包まれた砦の村モンサラシュの大きな石門が突然現れた驚き、タクシーの運転手が民宿に掛け合ってくれて、やっと泊る部屋が見つかった時の嬉しさ…など、この大皿を見ると、鮮やかによみがえる。
MUZ 2007/10/15

 

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K.080. 素焼きオリーヴ入れ Azeitoneira

2018-12-26 | 飾り棚

直径 15cm


以前に我が家で2番目に素朴なオリーヴ入れというのをご紹介しましたが、お待たせしました、これが1番素朴なオリーヴ入れです。

ロクロ成型は完璧なのに、間仕切りを手捻りで入れる際に思いっきり歪んでしまっている。
この歪み具合がなんとなくユーモラス。
絵付けも大雑把。

筆をさっと握ってテンテンテン…。

露店市でこれを見つけた時は、思わず笑ってしまった。
でも気がついたら買っていた。
あまりにも素朴過ぎて笑ったのだけれど、その単純明快なところがいいのかもしれない。

いったいどんな人が絵付けをしたのだろうか~と眺めている。

MUZ 2007/09/15

 

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068. さぶ~い

2018-12-26 | エッセイ

北部で去年の12月半ばごろから降り始めた雪は1月26日だというのにまだ降っている。
ドウロ川からシャーベスへ行く山中の高速道路やヴィゼウあたりでも雪が降り積もり、道路が凍結してノロノロ運転。
スペインやフランスなどを行き来する長距離トラックも4時間余り渋滞の中で立ち往生だという。


雪は横殴りの激しい風を伴ない、TVのリポーターも毛糸の帽子を目深に被り、首にはマフラーをぐるぐる巻き、分厚いロングコートで完全防寒。
リポーター達に比べて気の毒なのは、山中で交通整理や警備にあたっている警察官。
彼らは決められた制服だけなので、とても寒そうだ。
しかもじっと立ったままなので、足元から凍えてしまうのではないかと、TVの画面を見ていて心配になる。
通行しているクルマも雪道を走ることなど考えもしなかっただろうから、チェーンをはめているのは見かけない。
だから重大事故も多発している。

大西洋に面した町やリスボンやセトゥーバルは雪は降らなかったが、その代りずっと雨が降り続き、しかも凍えるような低温。
この数日は強風と大雨でまるで日本の台風のようだった。
バターリャでは竜巻が起り、かなりの家の屋根に穴があくという被害が出た。

こういう悪天候はずっと続くわけではなく、一週間のうち1日は太陽が顔を出し、そうなると「それっ」とばかりにご近所中がいっせいに洗濯して、どの家の窓もカラフルな洗濯物がひらひら。
このぶんでは翌日も良い天気だろうか…とかすかに期待を持つと、必ず裏切られた。

こんなに長く続く悪天候…というと、ポルトガルに住みつく前、リュックを担いで一ヶ月間、南から北へと旅した時のことを思い出す。

たしか1988年だったと思うが、1月2日から2月2日までだった。
まずリスボンに2泊した後、汽車でエヴォラに向った。
その当時の汽車は座席が木製で、それだけでも私たちには珍しかったが、その木製のベンチに座っていたのは、毛皮のえりと肩掛けの付いた長いマントを羽織ったおじさんだった。
そのマントは、私が子供のころ、明治生まれの祖父が愛用していたものとほとんど同じなので、驚いたし、なんだか懐かしかった。
その後ポルトガルに住み始めて、それはアレンテージョ地方の伝統的なマントだと知った。

その汽車は途中で「ドーン」とすごい衝撃を受けて、急停車。
マントのおじさんを先頭に男たちが「それ~」とばかりに線路に降りて、それから30分ほどがやがや騒いでいた。
事故の原因は、子牛が汽車にぶつかってきてはねられたことだった。
そんなハプニングが起きたあと、汽車は無事にエヴォラに到着したのだが、ペンションに入った後、どしゃぶり、雷、稲妻、寒さとともに、震え上がった。

南に下ったら暖かいだろうということで、エヴォラからローカルバスに乗ってアルガルベ地方のファーロに行くことにした。
ところが途中のベージャあたりから雨が激しく降り始め、バスの窓の隙間から雨水が座席に吹き込んできたのにはびっくり。
あわてて窓のカーテンでふさぎ、それでも濡れそうなので他の座席に移動しなければならなかった。

ファーロに着いても雨はますます降った。
町を歩いていて、突然まるで滝の様に大量で大粒の雨が降り出し、何回も雨宿り。
南に行くほどスコールに出会った。

リスボンに戻って泊ったペンションで、私はとうとう風邪を引いてしまった。
そしてオビドスの民宿で熱が出て、地元のお医者さんに診てもらったら、一週間ほど安静にしたほうが良いということで、想定外のオビドス滞在となった。
私と同じように雨降りに逢ったというのに風邪も引かず元気なビトシは、毎日出かけてオビドスの風景を油絵に描いた。
雨が降る回数はかなり減り、私の風邪も少しは回復したが、完全ではない。
オビドスは城壁に囲まれた村なので、日当たりも悪く、部屋は底冷えがするのが原因かもしれない。

大西洋に面したナザレに移動した。
海辺にある宿はからりとして気持ち良く、安くて美味しいシーフードを毎日食べて、数日滞在するうちに、あれだけしつこかった咳や熱もどこかへ吹っ飛んでしまったようだ。
体力も回復して、それから北部の町を旅して回った。
ポルトやブラガンサなどでもかなり降られたが、だんだん雨の回数が少なくなり、1月の最後には晴れ間が続くようになった。
帰国の日まで後3日というころに、毎日晴天になり、帰国当日は真っ青な空に後ろ髪を引かれながら飛行機に乗り込んだ…。

2009年は元旦から嵐。
そして一ヶ月以上も続いた悪天候。
でも足元で春はどんどん進んでいる。
低温の中でも、いつのまにかアーモンド林はうっすらと色づき、日増しに濃いピンクに変化している。
寒さにちじこまっていた鉢植えのラヴェンダーも知らないうちに蕾が出て、ぐんぐん大きくなっている。
昨日は晴れたり曇ったり、時々ザーッと雨が降った。
今日は曇りだが、太陽が顔を出し、気温もかなり上がっている。
1988年と同じように、もうすぐ青空が戻ってくるだろう。

MUZ
2009/01/27

 

©2009,Mutsuko Takemoto
本ホームページ内に掲載の記事・画像・アニメ・イラスト・写真などは全てオリジナル作品です。一切の無断転載はご遠慮下さい
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No reproduction or republication without written permission.

 

(この文は2009年2月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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067. 唄う七面鳥

2018-12-25 | エッセイ

 七面鳥のことを英語では「ターキー」、ポルトガル語では「ペルー」と呼ぶ。
スーパーの肉売り場ではいつでもペルーのモモ肉や胸肉などを部分売りしている。
それがクリスマス前になると、ペルーは一羽まるごとで棚に並ぶ。
小さめのでも6キロほどもあるから大変な量だ。
クリスマス休暇には出稼ぎ先から息子や娘たちが孫を引き連れて親元に帰省するから、ふつうの鶏では小さすぎて間に合わないのだろう。

ポルトガルのクリスマスのご馳走といったら、なぜかノルウェー産のバカリャウ(塩漬けの鱈)とポルトガルキャベツの煮込みが代表的な料理だが、ペルーの丸焼きもその次ぐらいに好まれている。
どちらも一度に大量に料理できて、しかも簡単にできる。

田舎のほうでは庭先に植えてあるポルトガルキャベツを引っこ抜いて、おおまかにぶつ切りしたのを大鍋に入れ、その上に塩抜きした分厚いバカリャウの切り身をドサっと入れて、上から蓋をしてしばらくぐつぐつと煮て、出来上がり。
それを皿に取って、上からニンニク炒めのオリーヴ油と酢をかけて食べる。

ペルーの料理もとても簡単。
前日にペルー丸ごと一羽、全体に塩コショウ、ニンニクの擦りおろしたもの、
ハーヴ類を満遍なく擦り付けて、一晩冷蔵庫に入れておく。
翌日、食べる4時間ほど前に、ペルーを丸ごとオーヴンに入れて、
ときどきひっくり返しながら3時間余り焼くと、出来上がり。
こんがりキツネ色に焼きあがったパリパリの皮とふっくらジューシーな肉、
そしてお腹に詰めたサフランライスもペルーの旨みが浸みて美味。

 



こんがり焼けた七面鳥

クリスマスの前には店の棚にずらりと並んでいた丸ごと一羽のペルーは26日にはもう姿を消していた。
ほんのちょっとの間しか売っていないのだ。

大きなキンタ(大農場)を経営しているポルトガル人の知人がいる。
そこでは黒豚や羊、そしてペルーを飼育している。
広い土地にペルーを数百羽も放し飼いにしているのを、見に行ったことがあるが、春にペルーのヒナを仕入れて育て、クリスマス前にフランス向けに出荷するという話だった。
フランスではペルーの丸焼きがクリスマスのメイン料理なのだろう。

彼はまだ若いが、大学で有機農業の講師もしていて、自分のキンタでも実践しているという。
彼のおだやかな性格がキンタ全体に広がっているような雰囲気。
羊たちはのんびりと草を食み、黒豚の子供たちはのびのびと走り回り、
羽目をはずして遠くに行こうとすると、番犬に怒られてすごすごと引き返す。
その様子がなんとも可愛らしい。

ペルーたちも面白い特技を持っている。
彼がペルーの群れに近づき、とつぜん「オーリャ!」(こっち見ろ)と叫ぶと、それまでかってな方向を向いていたペルー軍団はいっせいに彼に振り向き、「ぴょろろ~、ぴょろろ~」と大合唱。
私たちはペルーの軍団を見たのも初めてだが、ペルーの歌声を聞いたのもそれが初めて。
そのうえ、彼が大真面目で「オーリャ」と叫ぶのと、それに応えるペルーの「ぴょろろ~」のなんとも絶妙なタイミングに、みんなで腹を抱えて笑い転げた。

国道から彼のキンタへと行く小道は、「ルア・デ・パライソ」という名前。
「楽園へ続く道」という意味だ。

MUZ
2008/12/28

©2008,Mutsuko Takemoto
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066. 水道タンクにソーラーパネル

2018-12-25 | エッセイ

我が家は部屋の向きによって寒暖の差がすごい。
北向きの部屋は冬はまるで冷蔵庫、南向きの居間は一日中ぽかぽかと日が当って気持ちが良い。
南向きのベランダに5リッター入りのペットボトルを並べておくと、太陽の熱でかなりのお湯になる。
夏の間はそれを15本ほどお風呂に入れると、ちょっとの追い炊きですんだ。
寒くなった今は、キッチンの窓辺に一本だけ置いて、お茶用や煮炊きに利用している。
我が家の密かなエコシステムだ。

南向きの窓のすぐ下には、水道局の丸く巨大なタンクがある。
住み始めたころはゴーゴーとひっきりなしに騒音が鳴り響き、かなりうるさかったのだが、そのうち耳が慣れたせいか、機械の性能が良くなったのか、このごろはほとんど気にならない。
以前は24時間、係員が交代で常駐していたのが、いつのまにかいなくなり、今は巨大な水道タンクと無人の事務所があるだけ。

ある日、タンクのあたりから、めずらしく人の声が聞こえてきた。
フェンスの鍵を開け、クルマが2台入ってきて、数人でなにかコンクリート製の細長い土台のようなものをいくつも降ろして、すぐに帰ってしまった。
いったい何が始まるのだろう。

数日経って、ショベルカーがやってきて、コンクリートの土台をひとつずつ水道タンクの平らな屋根に移動し、4人がかりでそれを同じ間隔で平行に並べ、それだけで帰ってしまった。

翌日は段ボール箱をいくつも運び込んでいる。
いったい何だろう?
2人で持ち上げているが、そんなに重たくはなさそう。
箱から出てきたのは小型のパネル。
それをコンクリートの土台に一枚ずつ取り付けた。
取り付けが終わって完成したのはソーラーパネル20枚をつないだ発電装置。
南向きにずらりと並んだ。

ずいぶん簡単にできるものだ…と思っていたら、数日後にショベルカーがまたやって来て今度はタンクの外に深さ1メーターほどの溝を掘り、ソーラーパネルから出ている細いコードをその中に埋めてしまった。
コードの先端は金網のフェンスの所に出たままなので、まだ工事は終わっていないようだ。
でもいったいどこで何のために使うソーラー発電なのか、さっぱり分らない。
水道タンクの設備に使うためなら、わざわざ溝を掘って埋めなくても、そのまますぐに繋げるだろうに…。






水道タンクの前には立派な建物が出来ている。
数年もかけてやっと出来上がったけど、まだ時々工事人が出入りしているところをみると、内装が完成していないようだ。
水道タンクのソーラー発電装置から延びているコードの先は、道路を挟んだ向かいの建物に向っているような感じだが、どうも分らない。

先日マルバオンという村に「栗と新酒の祭り」を見に行った時のこと。
あいにく村中のホテルは満室で、そこから10キロほど離れたカストロ・デ・ヴィデに泊った。
10数年前に泊ったことがあるが、そのころに比べて町はずいぶん変化している。
EUに加盟してからポルトガルは経済の流れが良くなり、どこの町も目をみはるほどぐんぐん変っている。
カストロ・デ・ヴィデにも大きなホテルが2軒も建っていて、その上、町のはずれに立派な屋内プールが出来ていた。
プールの隣の敷地にはかなり大掛かりなソーラー発電設備があり、プールの水を沸かすために稼動中だった。
まだ朝の10時だというのに、温水プールで一人でゆうゆうと泳いでいる姿が窓から見えた。

高速道路にもソーラー設備を見かける。
とても小さなパネルだが、ひとつの道路標識の照明のために電気を発電しているのだ。
さすが太陽の国だ!と感心する。

ポルトガルは各地に風力発電の巨大風車が立ち並び、太陽に向って方向を変える巨大ソーラーシステムや、中型、小型ソーラーシステムが普及し始めている。

ところで日本はどうなっているのだろう?
日本では個人住宅の屋根にソーラーパネルがあるが、それほど普及はしていない。
巨大風車はこのごろぼちぼち設置されているらしいが、まだ身近に見たことがない。

私たちがポルトガルで巨大風車群を初めて目にしたのは、南のアルガルヴェ地方で、数十基も並んでいた。
その風車は日本の三菱製で、設置したのも日本のトーメンという話だった。
10数年も前のことだ。
いまではポルトガル中に設置されているが、残念なことに日本製ではない。

MUZ
2008/11/27

追記
この文章を書いた翌日(11月28日)
大阪ポルトガル協会からポルトガル投資・貿易振興庁(AICEP)のニュースを添付したメールを送って頂いた。
その記事は偶然にも、ポルトガルのエコ政策の内容だったので、あまりにタイムリーで驚いたのだが、それによると、ポルトガルは2020年までに国内使用電力の60%を、風力、太陽光、波力などのクリーンエネルギーで生産する計画だという。

 

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K.079. おもちゃの笛と手編み闘牛帽子デザインカバー

2018-12-25 | 飾り棚



帽子の房までの長さ 10cm


闘牛の開催日。闘牛場の前でおばさんから売りつけられた笛とカバー。
何人かのおばさんが売っているが、おばさんたちの手作りでそれぞれ個性的。
その他にもペラペラの薄い座布団を大声を出して売る人もいる。
なにしろ観覧席はむき出しの硬いコンクリートの段々だから、座布団でも敷かないとお尻が痛くなる。

これは闘牛観戦の際、フォルカドスを応援する笛と、フォルカドスの帽子を真似たカバー。
本物の帽子は牛を押さえつけるフォルカドス(農民)の帽子で、頭を守るヘルメット代わりにもなる。
8人のフォルカドスの先頭に立つ男が、手負いの牡牛と対峙する時、「よし来い!」とこの帽子を目深に被り直し、気合を入れる。

このおもちゃの笛や座布団は闘牛運営の寄付金にもなっている。

MUZ 2007/08/16

 

©2018 MUZVIT

 

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K.078. 雄鶏型小皿

2018-12-24 | 飾り棚

横 17cm  縦 15cm

なんとたくましい表情。
これは雄鶏に違いない!
農家の庭先には、放し飼いの鶏たちがしきりに餌をつつきながら歩き回っている。
たいていは雌鳥が数羽と雄鶏が一羽。
雄鶏は身体も大きく、歩き方もどうどうと威厳がある。
雌鳥たちを後ろに従えてじつに威張っている。

この雄鶏は華やかな祭りの衣装で着飾って、パレードの先頭を歩いているのだろう。

食器として作られた焼き物だろうが、我が家では玄関の靴箱の上に置かれて、クルマの鍵入れとして使っている。
出掛ける時に鍵を持ち「行って来ます。」と呟き、帰ってきたら「ただいま」とこの皿に戻す。
何となく交通安全のお守りの様な役割で、道に迷うこともなさそうに思う。
又、出掛けている時も家を守っていてくれている様な気もする。

とにかく我が家の物は気持の持ちようでガラクタにもなり神にもなるのだ。
MUZ 2007/07/20

 

©2018 MUZVIT

 

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