ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

137. ペンション・デスティーノ Pensão Destino

2017-07-31 | エッセイ

廃駅になった駅舎を改造したペンションがあるという。

場所はアルトアレンテージョ、カステロ・デ・ヴィデの駅らしい。

カステロ・デ・ヴィデの町は何度も訪れているが、駅があるとは知らなかった。その駅舎に泊まれるというのも、すごく魅力的だ。さっそく予約した。

山に行った帰りに、一泊余分にそこに泊まることにした。駅舎に泊まれることはめったにないチャンスだ。それはペンション・デスティーニョ。

(ペンション行先)と言う意味だろうか?

でもどこにあるのかすぐに判るのだろうか、なにしろ駅は町からとんでもない場所にあるのが、このごろ「駅はどこだ~」の取材をしてだんだん分かってきたのだ。

カステロ・デ・ヴィデの町に着くと、ツーリスモ(ツーリスト・インフォメーション)に行ったが、昼休みで閉まっている。3時から開くはずなのだが、3時10分過ぎにようやく係の女性がやってきた。先客の女性が一人いて、ながながとシナゴーグのことを聞いている。この町はユダヤ人の多く住む町で、街中にユダヤ教会シナゴーグがある。以前、その前を通ったことがあるが、中に入ったことはない。

私たちはクルマなので広場の周りに止めるつもりなのだが、空きスペースが一台もなく、仕方がないのでビトシが車に乗ったままで路上駐車している。警察が来て罰金を請求されたらどうしようと、私は気が気じゃなくイライラしていたのだろう。係の人がその様子を見て、先客がまだ話を続けようとするのを制して、私にうながした。これでやっと目指すペンションがどこにあるのか尋ねることができた。そこで町の地図をもらって出発した。今やってきた道を少し引返すのだが、街中で大規模な道路工事をやっていて町からの出口が判らない。一方通行なので道路工事をしているときにぶつかると、時々困惑する。道路標識がどっちを向いているのか判断に苦しむのだ。結局、町の中をぐるぐる走らされて、ようやく町を抜けた。ツーリスモが教えてくれた道はすぐ分かったが、そこから入る道が判らない。どうも変だと思ってUターンして、別の道を進んだ。やがて踏切があり、そこから少し行った所に目指すペンションがあった。

 

 

ペンション・デスティーノの道路側

 

しかしペンションには誰もいない。入り口のドアに張り紙があって、「3時まで用事があるのでそれ以前に着いたら携帯に連絡をしてください」とのこと。すぐに留守番電話にメッセージを入れたが、入れ違いに女性が自転車に乗ってやってきた。

ヘルメットを被って、サイクリング用の服を着た30代の若い女性だった。

私はペンションの経営者は年配の女性ではないかとなんとなく思っていたので、案外な出会いだった。彼女の名前はアナベラといって、カステロ・デ・ヴィデに住んでいるという。そうするとこのペンションは夜は私たちだけかと聞くと、もう一組カップルが2日まえから滞在しているが、彼らは今、町のプールに泳ぎに行っていると言った。

 

 

プラットホーム側

 

ペンションには部屋が4部屋しかなく、道路側と線路側の部屋を見せてくれた。もちろん線路側、つまりプラットホームに面した部屋に決めた。たぶん元の駅長室だ。駅舎の外観は元の形だが、部屋はリメイクしてとてもモダンだ。専用のシャワーとトイレも付いている。元待合室の共用のキッチンを案内してくれたが、洗濯機や冷蔵庫や食器なども完備して、自由に使ってくれとのこと。長期滞在も可能だ。私たちは昼食をたっぷり取ったので、夕食はワインとつまみ程度で充分。冷蔵庫を一段空けてくれたので、そこにワインとハムやチーズを入れた。

アナベラは洗濯物のシーツを干してから、また自転車に乗って帰って行った。

 

 

ペンションの入口。入り口のガラスには私たちへのメモが張り紙してある。

 

 

プラットホーム側にはカステロ・デ・ヴィデの見どころを描いたアズレージョがある。

 

 

正面入り口

 

プラットホームにはイスとテーブルセットが3組出してある。そこに座るとゆったりとして気持ちがいい。でもプラットホームにも線路にも雑草が生い茂っている。それを見ているとつい草取りがしたくなる。でもここまで来て、それはないなと思いとどまった。

 

 

線路は草ぼうぼう

 

元駅舎の周りを少し探検。貨物駅舎の扉には文字が一面に書き込まれている。それはなんとなくセンスの良さを感じる落書きだ。何かの詩を書いたものらしい。この駅舎の向かいには大きな豪邸があり、その壁にはこの家はかっての詩人が住んでいたというプレートがはめ込んである。今は市役所が管理しているらしい。こんな立派な豪邸が空き家とはもったいない。私には解らないが、貨物駅舎の扉の落書きはその詩人の詩かもしれない。

 

 

石壁に埋められた道路標識

 

夕方になって再びカステロ・デ・ヴィデの町に出かけた。

城跡に上ると町全体が見晴らせて良い景色だ。5時を過ぎているので、城の塔へ上る入り口は閉まっていた。以前は一番上まで登ったものだ。

城から降りて、広場のカフェでノンアルコールビールとタラのコロッケで休憩。広場には10軒ほどのカフェがあるが、どこの店もほとんど満席に近い。今日の仕事を終えた人々がカフェにやって来て、カラコイス(カタツムリ)をつまみにビールを飲んでいる。通りかかった車に声をかけたり、知り合いがやってきて合流したりする。

しばらく人々を眺めていると、ツーリスモの女性が前を通りかった。手を挙げてあいさつすると、彼女も私たちに気づいて、「ペンションは見つかりましたか?」と声をかけてきた。「いや、なかなか見つけにくかったけど、どうにかたどり着きました、ありがとう」とお礼を言って別れた。道の曲がり角に小さな看板でも付けてくれたら、すぐに見つかったのだが、最初に道が判らなくなってUターンした場所、そこに小さな看板があったら引き返すことはいらなかったのに。そこの場所から右折したら、ペンションはすぐそこだったのだから。

 

 

部屋からの景色

 

ペンションに帰って、プラットホームの椅子に座ってワインを飲んだ。周りから様々な小鳥のさえずりが聞こえ、無数の燕が飛び交う。さわやかな風が吹き渡り、とても気持ちが良い。

少し暗くなり始めたころ、同宿のカップルが町に出かけて行った。夕食時間は7時から始まる。私たちはハムとナッツでワインをもう一杯。MUZ

 

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136. トロイアのローマの遺跡

2017-07-01 | エッセイ

 

セトゥーバルは古代ローマ時代の遺跡があちこちに残っている。我が家から車で5分ほどの所に丸石で敷き詰められた石畳のローマの道があるし、アラビダ山の登り口にはビーチを見下ろす丘の上にローマの遺跡があり、古代ローマ時代にイワシの塩漬けを作っていた跡が残っている。そこよりも規模の大きいのがサド湾を渡ったトロイア半島にある。でもここ数年訪れたことがない。以前に遺跡の入り口が閉鎖されていたので、それ以来なんとなく疎遠になっていたのだ。

野の花を観察するついでに久しぶりにトロイア半島に渡った。リゾート開発が進み、リスボンあたりの人達が別荘を買い求め、しかも夏だから近郊の町から海水浴客も詰めかけて、コンポルタのビーチは広大な駐車場があるのにもかかわらず、道路沿いまで車があふれていた。

ローマの遺跡の入り口はゲートができて、門番小屋があるので、中に入れるようだ。久しぶりに訪れてみよう。門番はクルマのナンバーを控えていた。こういうことは以前にはなかったことだ。

ゲートから山道をずいぶん走って、行き止まりに教会と遺跡があった。遺跡は周りを金網のフェンスで囲まれている。その中で10人ほどの若者たちが発掘調査をしていた。彼らは英語を話していたので、たぶんイギリスかアメリカの学生達だろう。このところアフリカのサハラ砂漠から熱い熱を含んだ黄砂がポルトガルの上空に覆いかぶさっているので、毎日40度近くの猛暑が続いている。そんな炎天下で遺跡の測量は大変な体力がいると思うが、若者たちはそんなことは気にならないのか元気に声を掛け合っていた。周りをビーチに囲まれているので、暑くなったらすぐに泳げるから発掘調査としては良い環境だ。

発掘調査をしている隣に遺跡の入口があり、チケット小屋には若い女性がいた。私たちの前に老夫婦の先客があり、彼らは自転車で来ていた。売り場の女性と英語で話していて、女性は「トロイアのホテルに泊まっているのですか」と尋ねていたが、老夫婦はセトゥーバルのホテルだと言っていた。もしトロイアの高級ホテルに泊まっていたら、入場券が割引になるらしい。といってもチケットが一人5ユーロだから割引もたいした金額ではない。

遺跡は遊歩道が設置され、案内板に沿って見て歩くようになっている。途中には屋根付きのベンチが数か所設置されていて、休憩がてら遺跡を眺めることができる。

トロイアの遺跡は1世紀から3世紀にかけて魚の塩漬け工場として使われていた。その規模はこのあたりで一番大きく、ローマ帝国の中でも大規模な中のひとつだったという。

 

魚の塩漬け用のプール。

 

魚の塩漬け作業工場の説明パネル

 

塩漬けにされた魚は船でローマまで運んだり、またはサド湾を渡り、そこから馬車でローマ帝国の各地に運ばれた。

塩漬け工場を中心に、そこで働く人たちの住居地域やローマ式風呂があり、その当時のサウナの設備あとが残っている。古代ローマ人は日本人と良く似ていて、風呂が必需品だったようだ。特に魚の塩漬け作業のあとは風呂が欠かせなかっただろう。

 

 

 

古代ローマ風呂の説明パネル

 

第2塩漬け工場とその後ろにはネクロポリスと墓地があった。

 

第2塩漬け工場の説明パネル

 

 ヴェルバスクム・リティギオスム Verbascum litigiosum

 

遺跡の奥は森があり、そこにベルバスクムが立っていた。2メーター以上もある巨大な野草は初めて見た。遺跡の森は何があるか興味深い。MUZ

 

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