夫に筆記用具を買ってきてもらい、3月26日から備忘録を付け始めたのだけど、当初の目的は、担当看護師にその日の、あるいは前日の、小用とお通じの回数を聞かれたときにできるだけ正確に伝えたくて、記録するためだった。
ということは、この頃にはもう初カテーテル(尿道の)から解放されていたのだろう。
「大体でいいのよ」と言われても、私はそれができない性格な上に、本当にろくに覚えていないのと、思い出すのがとても大変だったので、そんな面倒な思いをするくらいなら、と用を足すたびに正の字になるように線を書き足していた。思い出すことも脳のリハビリになっていただろうけど。
今ページを繰ると、備忘録なのに、自分でも呆れるほど大事な細かいことをあまり書いていなかったので(始めの頃はバイタルさえろくに記録していなかった)、ちゃんとした闘病記は書けそうになく、せめて鼻で笑ってもらえるようなものが書けたらましなほうだと思う。
そういうわけで、やたらめったら大きな字で書いてある今ではくだらなく思えるメモと、心もとない記憶の残滓から、入院時のエピソードを書ける範囲内で書いてみる。2、3日後には赤面して後悔するかもだけど、あの世界的に有名なイヴだって、イザ逃げようって時に頼りないイチジクの葉っぱしか手に入らなかったのだから、その子孫が今更羞恥について考えてもしょうがないよね?
退院直後の私は、雑多な情報や感情が溜まるばかりで入力過多になりすぎたために、ついにハイパーグラフィアを発症して、強制出力状態になっていたと思われる。あたかも「やっと娑婆に帰って来た~!」──関係各所の方々には申し訳ないけれど、やはりこう表現するのが気分的にはしっくり来る──とでもいうような興奮が多少収まってきた今なら、落ち着いて書けそうな気がする。
今回、私はあらためて命が惜しくなった。
それに、、相当のおごりがあったな~。
家族に限らず多くの人たちに育てられ助けられ支えられて生きてこられたのに、いつの間にやらそのことを忘れてしまっていたな~。
救急病院にお世話になっていた3月から4月上旬までの私は、乳幼児に戻ったような感じだった。全ての刺激が脳の再構築をしているのかと思うと、どんなことをしていても、結果的に無駄にはならないだろうと前向きな気持ちでいられた。
ただ、左腕の麻痺がひどかった頃は、万が一、ここに、半社会的で独善的な思考回路の危険人物が不条理な悪意を抱いて侵入してきたら、と思うと、身を守る術がない私は、夜眠るのが怖くなったことが何度かあった。それでも、脳は起きている間に得た情報を捌くのに精一杯で、すぐに眠ってしまったんだけど。
その頃、早朝に目が覚めてまず最初にすることといえば、麻痺側の手を探すことだった。
その時まで、麻痺している部位の現在地が自分でさえ分からなくなるなんて知らなかった私は、最初はおかしくて笑っちゃいそうになったけど、笑いごとでは済まされない。自力では動かせない左手が重い胴体にもしも巻き込まれたまま寝ていたら、左肩が脱臼する恐れがあるのだと、担当療法士のUさんから十分気を付けるようにと度々言われていた私は、入院までにもっとやせておけばよかったと後悔した。あるいはぐうたら教から筋肉教に宗旨替えしておけばな~。
でも、幸いなことに、そんな想像するだに恐ろしい朝を迎える前に左腕の麻痺は少しずつ解消されていき、左手探しはいつしか毎朝のルーチンから消えて行き、それとともに、毎晩最初の寝相に悩むことも減っていった。麻痺の代わりに筋肉痛らしき痛みを感じた時には嬉しかった。でも、左の肩回りの痛みとは、長い付き合いになってしまい、今日もまだ特定の動作をすると痛みが出る。特定の動作といっても、着替えや、ズボンや下着の上げ下ろしなど、日常のちょっとしたよくある動作に伴うので、痛みを宥めすかしながら、なるべく痛みが軽くなるように、動作の手順を見直して行動している。
怖いのは、無自覚に行う(何気なく始めてしまう)動作だ。例えば、食器洗いの場合、今までは、左手に食器、右手にスポンジ、というのが基本のスタイルで、すすいだ食器はそのまま左手で水切りかごに置いていたんだけど、それができなくなってしまった。まず、瀬戸物や磁器は重くて持ち続けられなくなった。それに、水切りかごの高さにまで左腕を上げると痛みが出るのでそれができなくなってしまった。つまり、一連の動作の効率性はそのままに、左右の役割を交代せざるを得なくなった。左手で重いものを持っている時間を減らすため、すすいだ食器はかごの前のスペースに敷いた布巾のうえに仮置きし、最後にまとめて右手でかごに入れることにした。
左腕の痛みは、なんだかんだQOLを下げるので、早く治したいんだけど、今のところは週1のプロのリハビリと毎日の地道な自主トレ(メニューはプロが見繕ってくれた)で改善していくよりほかに近道はなさそう。
リハビリは原則日祝以外の平日はいつもあり、脳トレと手足の運動をしていた。
正直なところ、手足の運動よりも、脳トレ(特に計算系)のほうがきつかった。
私はもともと計算が苦手なので、同年代平均との比較にはあまり意味がないかもしれない。
しかし、ここでリハビリを一通り体験できたおかげで、転院先の回復期リハビリ病院でのリハビリに過度の緊張や不安を持ち込まずに済んだのかな。
ということは、この頃にはもう初カテーテル(尿道の)から解放されていたのだろう。
「大体でいいのよ」と言われても、私はそれができない性格な上に、本当にろくに覚えていないのと、思い出すのがとても大変だったので、そんな面倒な思いをするくらいなら、と用を足すたびに正の字になるように線を書き足していた。思い出すことも脳のリハビリになっていただろうけど。
今ページを繰ると、備忘録なのに、自分でも呆れるほど大事な細かいことをあまり書いていなかったので(始めの頃はバイタルさえろくに記録していなかった)、ちゃんとした闘病記は書けそうになく、せめて鼻で笑ってもらえるようなものが書けたらましなほうだと思う。
そういうわけで、やたらめったら大きな字で書いてある今ではくだらなく思えるメモと、心もとない記憶の残滓から、入院時のエピソードを書ける範囲内で書いてみる。2、3日後には赤面して後悔するかもだけど、あの世界的に有名なイヴだって、イザ逃げようって時に頼りないイチジクの葉っぱしか手に入らなかったのだから、その子孫が今更羞恥について考えてもしょうがないよね?
退院直後の私は、雑多な情報や感情が溜まるばかりで入力過多になりすぎたために、ついにハイパーグラフィアを発症して、強制出力状態になっていたと思われる。あたかも「やっと娑婆に帰って来た~!」──関係各所の方々には申し訳ないけれど、やはりこう表現するのが気分的にはしっくり来る──とでもいうような興奮が多少収まってきた今なら、落ち着いて書けそうな気がする。
今回、私はあらためて命が惜しくなった。
それに、、相当のおごりがあったな~。
家族に限らず多くの人たちに育てられ助けられ支えられて生きてこられたのに、いつの間にやらそのことを忘れてしまっていたな~。
救急病院にお世話になっていた3月から4月上旬までの私は、乳幼児に戻ったような感じだった。全ての刺激が脳の再構築をしているのかと思うと、どんなことをしていても、結果的に無駄にはならないだろうと前向きな気持ちでいられた。
ただ、左腕の麻痺がひどかった頃は、万が一、ここに、半社会的で独善的な思考回路の危険人物が不条理な悪意を抱いて侵入してきたら、と思うと、身を守る術がない私は、夜眠るのが怖くなったことが何度かあった。それでも、脳は起きている間に得た情報を捌くのに精一杯で、すぐに眠ってしまったんだけど。
その頃、早朝に目が覚めてまず最初にすることといえば、麻痺側の手を探すことだった。
その時まで、麻痺している部位の現在地が自分でさえ分からなくなるなんて知らなかった私は、最初はおかしくて笑っちゃいそうになったけど、笑いごとでは済まされない。自力では動かせない左手が重い胴体にもしも巻き込まれたまま寝ていたら、左肩が脱臼する恐れがあるのだと、担当療法士のUさんから十分気を付けるようにと度々言われていた私は、入院までにもっとやせておけばよかったと後悔した。あるいはぐうたら教から筋肉教に宗旨替えしておけばな~。
でも、幸いなことに、そんな想像するだに恐ろしい朝を迎える前に左腕の麻痺は少しずつ解消されていき、左手探しはいつしか毎朝のルーチンから消えて行き、それとともに、毎晩最初の寝相に悩むことも減っていった。麻痺の代わりに筋肉痛らしき痛みを感じた時には嬉しかった。でも、左の肩回りの痛みとは、長い付き合いになってしまい、今日もまだ特定の動作をすると痛みが出る。特定の動作といっても、着替えや、ズボンや下着の上げ下ろしなど、日常のちょっとしたよくある動作に伴うので、痛みを宥めすかしながら、なるべく痛みが軽くなるように、動作の手順を見直して行動している。
怖いのは、無自覚に行う(何気なく始めてしまう)動作だ。例えば、食器洗いの場合、今までは、左手に食器、右手にスポンジ、というのが基本のスタイルで、すすいだ食器はそのまま左手で水切りかごに置いていたんだけど、それができなくなってしまった。まず、瀬戸物や磁器は重くて持ち続けられなくなった。それに、水切りかごの高さにまで左腕を上げると痛みが出るのでそれができなくなってしまった。つまり、一連の動作の効率性はそのままに、左右の役割を交代せざるを得なくなった。左手で重いものを持っている時間を減らすため、すすいだ食器はかごの前のスペースに敷いた布巾のうえに仮置きし、最後にまとめて右手でかごに入れることにした。
左腕の痛みは、なんだかんだQOLを下げるので、早く治したいんだけど、今のところは週1のプロのリハビリと毎日の地道な自主トレ(メニューはプロが見繕ってくれた)で改善していくよりほかに近道はなさそう。
リハビリは原則日祝以外の平日はいつもあり、脳トレと手足の運動をしていた。
正直なところ、手足の運動よりも、脳トレ(特に計算系)のほうがきつかった。
私はもともと計算が苦手なので、同年代平均との比較にはあまり意味がないかもしれない。
しかし、ここでリハビリを一通り体験できたおかげで、転院先の回復期リハビリ病院でのリハビリに過度の緊張や不安を持ち込まずに済んだのかな。
その後、どうしていらっしゃるかなぁと、
仕事をしながらとか、家事をしながらとか
時おり、燈子さんのことを思い出したりしています。
燈子さんのこの日の日記を読ませていただいて・・
驚くような内容が幾つかありました。
こういった病気の場合のこと、日々の生活のなかで
時々、耳にしていた程度で、それなりにわかったようなつもりになっていたことを
反省しました。
そして、燈子さんが戻ってきてくれたことが
奇跡のように思えてきて、先般感じたうれしさよりも
もっと、うれしい気持ちになりました。
あぁ・・本当に良かった。。って。
そして、「今回、私はあらためて命が惜しくなった。」という一言を
重く受け止めました。
私もね。。最近、命が惜しい。
もちろん、私のその気持ちは、燈子さんの大変な闘病とのことに比べたら
ぜんぜん、、うすっぺらみたいな感じだと思うのだけれど・・
命っていうか・・
なんていうのでしょうか?
もっと 今までの時間。。みたいなもの
大切にして来ればよかったなぁとか・・
うまく言葉にできませんが、そんな、感じ、です。
* * *
まだ、きっと、「闘病」 という言葉が合うくらいに
大変な毎日だと思います。
梅雨に入ってきて、季節の変わり目だし。
引続き、お身体、大切にしてください・・
そして、このコメントのお返事は、既読スルーでもちろん構いませんので
やりたいな♪ これ、したいな♪っていうような。。
そういう。。なんていうのでしょうか、自分の気持ちも大切にしながら
やりたいことだけを やってみる、とか・・
大事に、お過ごしください♪
ずっと、静かに、応援しています(^○^)~☆
そして、また、来ます☆
Ray
11月に入りました。
日の入りが少しずつ早くなってきていて、
もう、4時半ともなると、真っ暗ですネ☆
順調に、回復されていると、信じています。
お返事は、もちろん、お気遣いなく・・☆
ずっと、待っています。
ずっと、だよ☆
↑ ↑
あ、急かしているんじゃなくて、ただ、待っているっていうことを
伝えたかったのでした・・☆
たびたびに、長文もどうかと思い、少しだけ・・ Ray