月初に母を訪ねた時、通院の話を切り出した。
整形外科の予約については問題なくできたけれど、精神科については母の抵抗があった。
それでも、往診医に切り替えるから、最後にK1先生にご挨拶して、紹介状を書いていただこう、と話して、母も納得してくれた──はずだった。
今思うと、私が土曜に体調を崩したのは、来るべき嵐の前触れだったのかもしれない。
起床後、いつまでも食欲が湧かないばかりか、胃の辺りがムカムカ……。
いったい何事かと思っていると、二度ほど戻してしまった。
それ自体、滅多にないことだけど、胃が空っぽの状態でというのは、今までになかった気がする。
平熱で、関節痛もないので、風邪ではなくストレスによるものだろう、と自己診断をつけ、時々起き出して水を飲む以外は、ひたすら寝ていた。
夫は一人でブランチを用意して食べてくれたので、大いに助かった。
結局、夜には無事に食欲が戻り、外食してビールをちびちびと飲めるほどに回復した。
翌日、体重を量ると、1.5キロほど減っていて、ちょっぴり嬉しかったり。
そんな週末だったので、ストレスには気をつけようと心して迎えた雨の月曜日──。
精神科の玄関先で待っていると、予定時刻を5分ほど過ぎて送迎車が到着した。
降りてきたホーム長は、挨拶もそこそこに「ご立腹ですよ」と警告をくれてから後部ドアを開けた。
母は、とっても、とっても怒っていた。
それからK1先生に呼ばれるまで、おそらく10分程だったと思うけれど、非常に長く感じた。
その日の待合室は、どちらかというと空いているほうで、静かだった。
ただ、母だけが周りを憚ることなく、いつまでも怒り続けていた。
「みんなアンタが悪いんだ」
「私はN医院に行きたいんだ」
昨日のことなのに、母があと何を言ったのか、私はもう思い出せない。
静かにしてくれるように頼んでも、母は語気を強めて怒るばかりで、しまいには「ハイハイ」と言うしかなかった。
せめてもの救いは、精神科では珍しくない光景だからか、周囲が知らぬふりをしてくれたことだった。
私は胃の辺りがシクシクしたけど、戻さずに済んだ。
先生に呼ばれ、母の腕を支えて歩こうとしたら、乱暴に振りほどかれてしまった。
診察室に入ってからも母はまだ怒っていて、しばらくの間、ぶっきらぼうな返答を続けた。
先生の名前や当日日付を聞かれても「サア」「ワカリマセン」
骨折でどのぐらい入院したかと聞かれると「入院シテマセン」「手術シテマセン」
そして、ようやくスイッチが切り替わったのか、思い出したように手術痕の長さを指で示した。
診察中、私は、いつものように要点をメモろうと思ったけれど、本来カタカナで書く言葉をひらがなで書いていることに気づく始末で、しかも手が震えてままならず、諦めて手帳を閉じた。
何事にも動じない先生が淡々と質問や応答を続けているうちに、母の興奮は次第に収まった。
私は、往診医に切り替えることを話し、先生はその場でカタカタと紹介状を入力した。
これで、とりあえず通院終了となった。
診察が終わると、母は、あれほどお世話になったにも関わらず、ロクに礼も言わずに席を立つと、一刻も早く離れたいのか、さっさとドアを開けた。
私は、挨拶もそこそこに母の後に続くしかなかった。
会計を待つ間、母と普通の会話ができた。
帰りの車中では、いつもの朗らかな母に戻っていて、ホッとした。
まるで多重人格みたいだが、そうではないのだからややこしい。
和やかな雰囲気でグループホームに着くと、ホーム長が「やっぱり娘さんだと違いますね」と言うので、待合室では散々だったことを明かした。
母が落ち着いたのは、体内時計が一巡りしただけのように思える。
母は、私を悪く言ったことなど、じきに忘れてしまうに違いない。
私も、イヤなことは忘れてしまうに限る、と思う。
でも、それが習慣になると、かえって認知症を呼び込むような気がして怖い。
だから、向き合い続けるのだけど、ストレスの受容は、ほどほどにしておかないと身体的によくない症状が出る。
心身ともにバランスよくストレス耐性を付けるのって、本当に難しいなあ……。
整形外科の予約については問題なくできたけれど、精神科については母の抵抗があった。
それでも、往診医に切り替えるから、最後にK1先生にご挨拶して、紹介状を書いていただこう、と話して、母も納得してくれた──はずだった。
今思うと、私が土曜に体調を崩したのは、来るべき嵐の前触れだったのかもしれない。
起床後、いつまでも食欲が湧かないばかりか、胃の辺りがムカムカ……。
いったい何事かと思っていると、二度ほど戻してしまった。
それ自体、滅多にないことだけど、胃が空っぽの状態でというのは、今までになかった気がする。
平熱で、関節痛もないので、風邪ではなくストレスによるものだろう、と自己診断をつけ、時々起き出して水を飲む以外は、ひたすら寝ていた。
夫は一人でブランチを用意して食べてくれたので、大いに助かった。
結局、夜には無事に食欲が戻り、外食してビールをちびちびと飲めるほどに回復した。
翌日、体重を量ると、1.5キロほど減っていて、ちょっぴり嬉しかったり。
そんな週末だったので、ストレスには気をつけようと心して迎えた雨の月曜日──。
精神科の玄関先で待っていると、予定時刻を5分ほど過ぎて送迎車が到着した。
降りてきたホーム長は、挨拶もそこそこに「ご立腹ですよ」と警告をくれてから後部ドアを開けた。
母は、とっても、とっても怒っていた。
それからK1先生に呼ばれるまで、おそらく10分程だったと思うけれど、非常に長く感じた。
その日の待合室は、どちらかというと空いているほうで、静かだった。
ただ、母だけが周りを憚ることなく、いつまでも怒り続けていた。
「みんなアンタが悪いんだ」
「私はN医院に行きたいんだ」
昨日のことなのに、母があと何を言ったのか、私はもう思い出せない。
静かにしてくれるように頼んでも、母は語気を強めて怒るばかりで、しまいには「ハイハイ」と言うしかなかった。
せめてもの救いは、精神科では珍しくない光景だからか、周囲が知らぬふりをしてくれたことだった。
私は胃の辺りがシクシクしたけど、戻さずに済んだ。
先生に呼ばれ、母の腕を支えて歩こうとしたら、乱暴に振りほどかれてしまった。
診察室に入ってからも母はまだ怒っていて、しばらくの間、ぶっきらぼうな返答を続けた。
先生の名前や当日日付を聞かれても「サア」「ワカリマセン」
骨折でどのぐらい入院したかと聞かれると「入院シテマセン」「手術シテマセン」
そして、ようやくスイッチが切り替わったのか、思い出したように手術痕の長さを指で示した。
診察中、私は、いつものように要点をメモろうと思ったけれど、本来カタカナで書く言葉をひらがなで書いていることに気づく始末で、しかも手が震えてままならず、諦めて手帳を閉じた。
何事にも動じない先生が淡々と質問や応答を続けているうちに、母の興奮は次第に収まった。
私は、往診医に切り替えることを話し、先生はその場でカタカタと紹介状を入力した。
これで、とりあえず通院終了となった。
診察が終わると、母は、あれほどお世話になったにも関わらず、ロクに礼も言わずに席を立つと、一刻も早く離れたいのか、さっさとドアを開けた。
私は、挨拶もそこそこに母の後に続くしかなかった。
会計を待つ間、母と普通の会話ができた。
帰りの車中では、いつもの朗らかな母に戻っていて、ホッとした。
まるで多重人格みたいだが、そうではないのだからややこしい。
和やかな雰囲気でグループホームに着くと、ホーム長が「やっぱり娘さんだと違いますね」と言うので、待合室では散々だったことを明かした。
母が落ち着いたのは、体内時計が一巡りしただけのように思える。
母は、私を悪く言ったことなど、じきに忘れてしまうに違いない。
私も、イヤなことは忘れてしまうに限る、と思う。
でも、それが習慣になると、かえって認知症を呼び込むような気がして怖い。
だから、向き合い続けるのだけど、ストレスの受容は、ほどほどにしておかないと身体的によくない症状が出る。
心身ともにバランスよくストレス耐性を付けるのって、本当に難しいなあ……。
そこまで手が回らず、抱えたままの日常になりますよねぇ。
なかなか時間が取れないとは思いますが、胃腸の検診に行かれてはいかがですか?
自分なりに発散できているつもりだったのですが(やっぱり年のせい?)
検診のこと、お気遣いありがとうございます(汗)
長年、母が病院にお世話になっているので、私自身は病院に行くのが億劫で……。
でも、脳ドックは受けてみたい(苦笑)