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「高桑氏族」 覚書(53)

2013-01-21 10:03:16 | 歴史

Comment

 

覚書拝見しました。私も高桑の姓を名乗る一人です。私の父親は富山の利賀村出身です。(10年前他界)父親からは、先祖は有名ではないが武士だったらしいと聞いています。私はこの覚書で、高桑一族の存在や、高桑城のことを知り、我が家は末裔では?と思っています。高桑城址や承久の乱古戦場、慈恩寺には何度も足を運び、ご住職の方とお会いすることもでき、高桑次郎氏を祀ってある事も知りました。これからも岐阜県柳津町を探索していきたいと思います。どうぞお元気で高桑氏族の研究をお続けください。更新楽しみにしています。
名古屋市在住  高桑  年齢45歳
投稿 高桑|2013/01/19  00:49

 

コメント有難う御座居ました。慈恩寺に高桑次郎を祀ってある事は、寡聞にして存じませんで、貴重な新情報でした。

高桑一族が本貫美濃を追われ、新天地の北陸に達しても、武士団体制を維持し、現地で土豪化して、小なりと雖も城塞を構えたりしたようです。例えば越中国砺波郡に「漆谷城」を築き、高桑勘解由左衛門(かげゆ)居城、という記録があります。又加賀国石川郡の「舘山城」に高桑備後住めり、という記録も見えます。百万石加賀藩の藩士の中に、上・中・下級の何人もの高桑姓藩士名を挙げる事が出来ます(後述)。

尚上記の北陸の国名で、蛇足になりますが、飛鳥時代に広大な「越国」一国が、越前・越中・越後と三国に分立し、更に平安時代に、越前国から加賀国が分立しました。それで越前と越中の間に加賀が入り込み、越前と越中とは国境を接しなくなってしまいました。主力の高桑一族がその越前には留まらず、加賀・越中、小生の高桑姓父母の出身地・越後の北陸三国に定着した事情については、後述を予定しています。