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「高桑氏族」 覚書(56)

2013-01-25 10:27:17 | 歴史

土岐氏と高桑氏(3)

室町時代(3)


第3代将軍・足利義満は、有力守護大名の勢力削減を図った(覚書54)。土岐氏の場合も、土岐氏の内紛を挑発して、これを成功させた。これが「土岐氏の乱」である(明徳3年・1390年)。

土岐氏第6代・3ヶ国守護職第3代の土岐頼康の死後、義満は3ヶ国の中、美濃・伊勢の守護職を頼康の甥で、養嗣子として迎えた土岐氏第7代・土岐康行に与え、分割した尾張を康行の実弟の満貞に与えて、土岐氏の分裂を計った。それで実兄弟の争いとなり、「土岐氏の乱」に発展してしまった。

3ヶ国守護を継ぐ積りであった康行は、これを不満として、実弟・満貞の尾張守護を阻止しようとして、土岐氏の内輪揉めとなった。老獪な義満はこれ幸いと、これに介入し、康行討伐軍を派遣して康行を没落させてしまった。

これで土岐氏嫡流は、上記頼康の弟・頼忠(土岐氏第8代)に移り、以降この流れは、斎藤道三による土岐氏滅亡まで続いた。

上の頼忠の子が第9代・土岐頼益であり、高桑城を攻撃・陥落させている(覚書55)。高桑氏の土岐氏従属は、当然土岐氏嫡流家に対してであり、上記の第7代・土岐康行であった。それが突然義満の討伐軍に襲われた。その討伐軍の主力が頼益隊であったと思われる。それで高桑城も攻撃されたのであろう。そうであるならば、義満は土岐氏を制圧するのに、土岐氏同志を争わせ、更に頼益と言う股肱の臣である土岐氏を向かわせている。土岐氏の制圧に土岐氏を二重に使っている事になる。

頼益の高桑城攻撃前後の高桑城主に「高桑大学」の名が記録に見える。

画像は、「足利義満」

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