旧満州で育った方の故郷訪問記のサイトを開き、何気なく見ていたら、次の写真に出会った。
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元の写真はピントがよく合っておらず、変り映えのしない写真でもあったが、満州の夕陽はこんなだろうかと、何か私の心に響くものがあった。
戦前、おそらく1939年当時、満鉄のアジア号でハルビンまで往復する旅行をしたことのある亡き母が、私にたびたび語ってくれた言葉を思い出した。
「満州の夕陽って、じっと見ているだけで泣けてきて...」
それとともに私には、若い頃、歌声喫茶などで皆と一緒に歌った「北帰行」のメロディーが浮かんできた。そういうさまざまな思い出のイメージを元にして描いたのが次の作品である。車窓の情景を表現するためアニメGIF動画技法を用いて制作した。
もちろん、作詞作曲の宇田博が、1941年5月のある日、満鉄の車中から見たであろう風景を想定している。旅順高等学校を放校処分となった宇田は、当時実家があった奉天(現、瀋陽)に帰ろうとしていた。
おそらく、宇田は進行方向左側の座席にひとり腰掛け、沈んでいく赤い夕陽を見ていただろう。これまで私は地平線に沈んでいく夕陽を想定していたが、上に掲げた写真では、潅木林が黒い影となって連なっている。
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宇田博は新京(現、長春)に設立された建国大学予科に入学したが、素行不良で放校となり、東京に帰って旧制第一高等学校に入った。だが、ここでも退学処分となった。そこで宇田は再び満州に戻り、設立されたばかりの旅順高等学校に入ったのであった。
旅順に腰を落ち着けた宇田は、早速、文具屋の娘サッチャンと親しくなり、1941年5月5日の開校記念の休日、サッチャンと映画を見に行った。その帰りに一緒に酒を飲み、したたか酔っ払って終バスで帰るところを教官に見つかった。翌日、「飲酒」、「異性交際」、「門限違反」という校則違反で即時放校となった。
学寮を追い出された宇田は一週間旅館に泊り続け、鬱々たる気持をこの「北帰行」に込めたという。歌詞にある「建大 一高 旅高」とは、建国大学(満州帝国国立)、第一高等学校、旅順高等学校のことで、いずれもいまは存在しない。
それにしても、この歌が「旅順高等学校寮歌」だったとは面白い。旅順高等学校は1940年~1945年の5年間しかなかった高校だから、あるいは卒業生の心の中だけに生きた幻の寮歌なのではあるまいか。
作詞作曲の宇田博は、戦後、東京大学を出て東京放送(TBS)に入り、常務となったそうである。私が歌っていた頃、この歌はまだ「作詞作曲;不詳」だったように思う。小林旭がこの歌を歌っているが、私たちとはかなり異なる歌い方だった。歌詞も一部手が加えられていたが、これは「建大 一高 旅高」では一般に通じないからやむを得ない。
元の写真はピントがよく合っておらず、変り映えのしない写真でもあったが、満州の夕陽はこんなだろうかと、何か私の心に響くものがあった。
戦前、おそらく1939年当時、満鉄のアジア号でハルビンまで往復する旅行をしたことのある亡き母が、私にたびたび語ってくれた言葉を思い出した。
「満州の夕陽って、じっと見ているだけで泣けてきて...」
それとともに私には、若い頃、歌声喫茶などで皆と一緒に歌った「北帰行」のメロディーが浮かんできた。そういうさまざまな思い出のイメージを元にして描いたのが次の作品である。車窓の情景を表現するためアニメGIF動画技法を用いて制作した。
もちろん、作詞作曲の宇田博が、1941年5月のある日、満鉄の車中から見たであろう風景を想定している。旅順高等学校を放校処分となった宇田は、当時実家があった奉天(現、瀋陽)に帰ろうとしていた。
おそらく、宇田は進行方向左側の座席にひとり腰掛け、沈んでいく赤い夕陽を見ていただろう。これまで私は地平線に沈んでいく夕陽を想定していたが、上に掲げた写真では、潅木林が黒い影となって連なっている。
作詞/作曲:宇田 博
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宇田博は新京(現、長春)に設立された建国大学予科に入学したが、素行不良で放校となり、東京に帰って旧制第一高等学校に入った。だが、ここでも退学処分となった。そこで宇田は再び満州に戻り、設立されたばかりの旅順高等学校に入ったのであった。
旅順に腰を落ち着けた宇田は、早速、文具屋の娘サッチャンと親しくなり、1941年5月5日の開校記念の休日、サッチャンと映画を見に行った。その帰りに一緒に酒を飲み、したたか酔っ払って終バスで帰るところを教官に見つかった。翌日、「飲酒」、「異性交際」、「門限違反」という校則違反で即時放校となった。
学寮を追い出された宇田は一週間旅館に泊り続け、鬱々たる気持をこの「北帰行」に込めたという。歌詞にある「建大 一高 旅高」とは、建国大学(満州帝国国立)、第一高等学校、旅順高等学校のことで、いずれもいまは存在しない。
それにしても、この歌が「旅順高等学校寮歌」だったとは面白い。旅順高等学校は1940年~1945年の5年間しかなかった高校だから、あるいは卒業生の心の中だけに生きた幻の寮歌なのではあるまいか。
作詞作曲の宇田博は、戦後、東京大学を出て東京放送(TBS)に入り、常務となったそうである。私が歌っていた頃、この歌はまだ「作詞作曲;不詳」だったように思う。小林旭がこの歌を歌っているが、私たちとはかなり異なる歌い方だった。歌詞も一部手が加えられていたが、これは「建大 一高 旅高」では一般に通じないからやむを得ない。