職員室で市民権のない講師はつらいよ

学校の講師をしています。様々な学校の様子を、まじかに見る私が、非常識な教育現場を実況中継。特定されると危険。

月見櫓ぶろぐより

2011-09-25 23:05:05 | 教員

先日月見チャットで、チャンネル桜が制作したフジテレビへの抗議デモについての討論番組を見るように勧められました。

個人的に、動画はテキストと比較すると、視聴に時間がかかるので見るのは面倒くさいというのが本音なのですが、良いから見ろと言われたので渋々見ました。

何しろ3部に分かれており、結構長いので討論全体については関心のある方各自で動画をご覧になっていただくということで特に論評するつもりはありませんが、その討論中において「マンガ嫌韓流」の作者としてネットでは一定の知名度のある山野車輪氏の発言が気になりました。

彼はこう言います。「フジテレビへの抗議デモ問題の肝は、フジテレビが偏向報道をしていること、一私企業が公共性の高い電波を私物化していることである。それに対して、まず愛国という主張は要らない。嫌韓も要らない。そういう要素が入ることによって、抗議の焦点がぼける。それが今回の一連のデモで一番の問題だった。そのせいで問題が正しく伝わっていない。(韓流の質が)低いという主張も要らない。こういった余計な要素が入ることで、フジテレビへの抗議デモを批判する人々にとって、都合の良い状況になっているのが残念である。」

何も考えずに聞き流せば、なるほどと思わなくもない主張です。

更に彼は言います。「マンガ嫌韓流にも、あえて愛国という要素は入れなかった。なぜなら、愛国という要素を入れることは、「愛国だから韓国を批判するのだ」と受け取られるからだ」と。

だらだらと何も考えずに聞き流していた私も、さすがにここで引っかかりました。愛国心から韓流押しに反対すること、韓国を批判することはおかしいことなのでしょうか?

「韓国は変だ。在日も変だ。その変だということを純粋に指摘し、糾弾するべきであって、そこに「愛国」という要素を入れると誤解されるもとになる」というのが、山野氏の主張です。

では愛国なき嫌韓とは、純粋で正当なものなのでしょうか。

日韓チャット常連日本人の間でよく言われることに、「韓国人並、あるいはそれ以上に人間としてのタガが外れてる人種や民族は、世界中にいくらでもある」ということがあります。

これを私は否定しません。犯罪万博と呼ばれるヨハネスブルグを擁する南アフリカ共和国は、その沿革をざらっと聞くだけでうへぁ('A`)になりますし、「アラビアのロレンス」を読めば、アラブ人に翻弄されるロレンスに激しく同情します。南米にも、人間社会なのに野生の王国のルールが適用される地域は多いと仄聞します。

欧州だって例外ではありません。ギリシャを指して、「欧州の朝鮮」とまで言う人がいるので、ギリシャ哲学やギリシャ神話のイメージしか持たない私が、「いくら何でもその言いようは、かのギリシャ文明を作った人々の末裔に対してあんまりではないか」と言うと、何故ギリシャがそう言われるのかを懇々と説明されて、結局私がごめんなさいと言わざるを得なかったことがあります。

移民と移民の末裔で成立している国アメリカも、州や人種・民族的コミュニティによっては、韓国並かそれ以下の民度のところが、当然あるでしょう。

純粋に韓国がおかしい、異常だと言いたいのであれば、これらの韓国並か、それ以下の国や地域やコミュニティも、韓国同様に指弾するべきですが、日本ではそんな動きはほとんどありません。少なくとも現在の嫌韓勢力には数的にも影響力的にも、遠く及ばないでしょう。私だって世界中のそういった国や地域やコミュニティ全てにそんなことを言う気にはなれません。

それは何故なのかと言うと、まずこれらの国や地域やコミュニティは、日本とは直接的な関係が薄いからではないでしょうか。だから日本人に知られることもないし、知っても関係がないからどうしようもありません。それに、日本人であればまず日本のことに注力するのは、当たり前です。世界中に、恵まれない人や可哀想な子供はたくさんいますが、自分の家族や子供を蔑ろにして、そういう人々を救うことに懸命になる人がいれば、私はそういう人を馬鹿だと思います。それと同じく、自国がある国に蔑ろにされようとしている時には、まず自国のことに注力すべきだと思うのです。

私たち日本人の原点は日本であり、これを貶めようとしたり壊そうとするものに嫌悪感や警戒心、危機感や恐怖感や反感を持つのは極めて自然なことです。むしろ、日本とほとんど関係ないよその国やコミュニティに対して、お前らおかしいとか異常だとか狂ってると言いたてる方が、よほどレイシズムの謗りを被るおそれが強いでしょう。もちろん、人道的地球市民的博愛に基づくリベラルでグローバルな主張というのはあっても構わないと思いますが、それでも日本人であるならば立脚点は日本であるべきです。

山野氏の過ちは、「日本人の愛国」を根拠なく悪いこと、恥ずべきこと、唾棄すべきことと思っていることでしょう。

「愛国」と言うと、街宣車で日の丸掲げて軍歌を大音響で流しながら、マイクのボリュームが大き過ぎて音が割れてるために何を言ってるかよくわからない演説をしている連中の主張というようなイメージがあります。それこそが日本を貶める者たちの印象操作です。

かつての日本では、「愛」という言葉をあまり用いなかったといいます。キリスト教が入って来た頃、聖書の「God is love」というフレーズを翻訳するのに、日本人は相当困ったようです。挙句、「Love」に「御大切」という訳語を当てたといいます。

「愛」と言えば、字面的に何か大げさで煌びやかで美しく激しく強く熱いものというイメージを抱きますが、実際は穏やかで地味で平凡で陳腐で曖昧で見栄えのしない「大切に思う気持ち」というのが、最も近いと私は思います。少なくとも、それが日本人の「愛」だと思います。

それを貶めたり壊したりするもの、しようとする者に対する義憤こそが、フジテレビの偏向報道に対する抗議の原動力であり、それは同時に、嫌韓になる動機でもあります。フジテレビの偏向報道に対する抗議に嫌韓主張が同居するのは、それらが愛国に根ざすものである以上、当然と言うべきででしょう。

むしろ、フジテレビの偏向報道に対する抗議と嫌韓、愛国を切り離すべきと言う方が、「愛国」という言葉に対する印象操作とみなすべきです。たとえ、本人がそれを意識していないとしても。

その元は「愛国」という言葉に悪いイメージを刷り込んだ人々の罪ではありますが、それを継承し再配布する者も、私は同罪だと思います。

日本を貶め、蔑ろにし、あわよくば乗っ取りたい韓国に、「愛国」という言葉にアレルギーを持ち、その反動で日本がどうなっても無関心でいる方がクールと思い、その意識を拡散したい人々が同調したからこその日本のメディアの偏向報道であり、韓流捏風であることを、私たち日本人は正しく理解しておかなければならないと思います。