坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

鳥海山を一廻り

2023-06-01 23:53:59 | 古文書、郷土史他
祓川登山口からの眺望(矢島・鳥海方面)

朝、古文書「温故の会」の大先輩Shimadaさんから「現在、黒瀬林道は通行止めで復旧の見込みはないとのことなので、秋田県側から行ってみないか?」的な内容の電話をいただいた。これは、Shimada家に残る戊辰の記録「慶応4年『他行其外日記并桝田詰中諸控』辰3月下旬ゟ」の解読で、旧八幡町升田地区と秋田県由利本荘市鳥海町百宅地区に繋がる山道での戊辰戦争の記録から、実際に訪れて見たいと思ったことに依る。
天気もよく、午前9時に庄内町狩川の道の駅「風車」で待ち合わせ、私の車で出発した。訪れた場所は、狩川→(R47-R13)→金山町→(R13-R108)→秋田県鳥海町→百宅→祓川→矢島町→(本荘IC)→酒田→狩川と、鳥海山をぐるっと一周した。
帰宅したのは午後6時半過ぎだったが、大変勉強になった楽しい一日だった。感想は「続編」に続く。


仙台藩士戊辰戦歿碑

「これは明治23年旧仙台藩士遺族有志によって建てられた追悼碑である。
慶応4年(戊辰・1868年・9月に明治と改元)3月、江戸城は天皇を奉ずる薩長土肥等の新政府軍に明け渡された。しかし徳川恩顧の大名の間に反感が強まり、東北諸藩は同年閏4月23日、宮城県白石で仙台藩を中心に、奥州同盟を結成し、奥州鎮撫総督九条道孝、副総督沢為量を主班とする薩長主力の新政府軍と方々で激しい戦いをまじえた。
この時、新庄藩は結局新政府軍(官軍)としての態度を貫いたが小藩のことであり、終始苦しい立場にあった。新政府軍の主力は秋田にあり、同盟軍の主力仙台勢500余名は5月末仙台を発し、交通の要路金山に軍を進めた。
7月11日、長州の桂太郎(後の総理大臣)を将とする新政府軍は北方森合峠から、一方薩摩兵を主とする一隊は役内から有屋に出て金山を攻めた。両面に敵をうけた仙台藩兵は大混乱におちいり、当日夕刻隊長梁川播磨は当町田屋四本松で壮絶な戦死をとげ、軍監五十嵐岱助ら戦死者合計33名を数え、仙台藩は潰滅した。
敵と言い、味方と言っても日本人同士の悲しい戦いであった。なお新庄城が同盟軍おもに庄内勢に攻められ、落城するのはこの3日後7月14日のことである。
この碑は戦死者の遺骸を葬った場所に建てられている。
 昭和54年8月 金山町」
(案内板より)



仙臺藩士戦死之墓    羽州街道中ノ森峠入口



西田羽長坊句碑「竹涼し 松には見へぬ 風ながら」



梁川播磨戦死の地


「慶応4戊辰(1868)年7月11日の夕刻、仙台藩将梁川播磨がこの地に戦士した。数え年37歳であったという。
この碑は、40余年後旧仙台藩有志により建立されたものである。
慶応4年3月(9月に明治と改元)徳川氏は江戸城を明け渡し、いわゆる明治維新の政府となるが、奥羽の大名には薩長を中心勢力とする新政府軍に強い反感をもち、閏4月これに対し仙台藩が中心になり奥羽同盟が結ばれた。
新政府軍は奥羽鎮撫総督九条道孝のひきいる薩長を主とする兵力が秋田に集まっていた。これに対し同盟軍の主力仙台藩兵500余名が5月仙台を発し、新庄を通り金山に陣していた。
7月11日、長州の桂太郎(後の総理大臣)一隊が森合峠から、一方薩摩軍を主力とする一隊が、役内から有屋峠の険を越え、相応じて仙台勢を攻めた。
仙台藩は総くずれになり、藩将梁川播磨も今の十日町あたりで重傷を負うた。彼は橋を渡り馬を降りたどり着いたこの地、森合峠の麓において薩長の兵に襲われ壮絶な戦死をとげた。
官軍と言い賊軍と言っても、時の勢と立場の相違からきた同胞相うつ悲しい戦であった。
金山の人々は、以来これらの霊に香華を手向け厚くその冥福を祈ってきた。
 平成7年8月 金山町」
(案内板より)


梁川播磨歌碑「積む雪に 通路たへて おのづから
うき世を へだつ 冬の山里」賴親


旧羽州街道 森合峠

「江戸初期以来、秋田領への通路は有屋峠越えの廃止により、本街道はこの山峡を通るようになった。諸大名が供揃えを従え上り下りし、明治11年英国婦人イザベラ・バードもここを通った。
明治13年、三島県令がこの街道に大改修を加え、翌年明治天皇の御幸があった。文人田山花袋がここの峠から月山の美しい姿をたたえている。
昭和33年、国道13号線が薬師山の西側を通るようになり、全くの廃道となった。
(一時荒廃していたが、昭和56年林道として現在のように整備された)
 平成6年9月 金山町」
(案内板より)

佐竹義和公歌碑

「秋田(久保田)9代藩主佐竹右京太夫義和公は、41年という短い生涯の中で、藩政の上では殖産興業、鉱山改革、藩校の創設等を推進し藩中興の祖と敬慕された。
また文人としても名高く、文化3年から同11年までの間、参勤道中の折々に詠まれた数多い歌の中に、本町を詠じた歌が9首も残されている。
この歌は、文化6年の春に詠まれたその中の一首である。
『岩ヶ根や また寂しさも 真清水の 音を聞きつヽ たどる山影』 義和
平成3年7月吉日建立 金山町」
(案内石碑文より)



田山花袋歌碑

「『日本一周』抄 金山の一夜 田山花袋
私は月山の姿を伴侶として歩いた。金山の宿に入ろうとする時、暮色の中にはっきりと大きく緩く靡いてゐる姿を見てから私の月山に對する憧憬は一層加った。何といふ好い山だろう。
群山の中から丁度滿月が三分の一位を現したやうな形である平凡な圓錐形ではなくて大きな大陸的な感じを与へる山の姿であった。それでゐて靜かな落附いた氣分であった。
 平成2年7月吉日建立 金山町」
(案内石碑文より)


道の駅「清水の里・鳥海郷」ほっといん鳥海


百宅法体そば


百宅方面から望む「秋田富士」


法体の滝

祓川登山口Parkingからの鳥海山山頂
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