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坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

四所之宮(春日神社)之事

2018-04-22 10:00:00 | 古文書、郷土史他

    四所之宮之事
一、志田筆記云 御入部之節者(は) 今の西の御丸南の方 近年堀氏、伴氏
  此二軒宝暦六子年(1756)替地被下 跡松原二奈(な)る奈里(り)の屋敷奈りし所ハ 四所春日明神の社ありし也 … … …

『温故の会』の例会が行われ、今回は小池氏による「鶴岡 春日神社」の解読と解説でした。
四つの祭神(武甕槌神[タケミカヅチノカミ]・経津主神[フツヌシノカミ]・天兒屋根命[アメノコヤネノミコト]・比売神[ヒメカミ])を祀っているため、四所(之)宮と呼ばれている。
例祭は5月9日。など、神社の由緒や変遷などが解説された。
いっやぁ〜、神話の世界…、奥が深すぎて(知識が無さ過ぎて…)難しいぃ。でも面白い!!

ただ今回の解説で腑に落ちたことは、やはり「金井国之助日記」に繋がる箇所であった。
「金井国之助」の安政5年3月10日付の日記に「四所祭礼」と記されていたが、物知らずの私は、天満宮や上・下山王、それに春日神社の4つの神社の合同祭礼みたいなものかねぇ? などと勝手に解釈(想像)していた。はぁ、四所(之)宮=春日神社なんだねぇ。


○安政6年3月10日の記事

(3月)十日 四所(春日神社)祭礼 天気能(よく)仕合(しあわせ)也 姉様、きよ、お熊、竹よ抔(など)(きたる)。… …

そして、今回の古文書テキストに、


按 昔より三月三日祭礼ありし尓(に) 節句尓天(にて)当屋を始 町方一統
迷惑之趣を以奉願 安政三辰年ゟ(より) 三月十日之祭礼相成候 是
三月十日となるの始也

と、安政3年以前の祭礼は3月3日に行われており、桃の節句とダブっていたため町方集から迷惑だと不満が噴出したため、安政3年から3月10日を祭礼とした。と書かれている。
なので、国之助の安政5年・6年の日記では当然ながら3月10日が祭礼と記されている。

古文書を通して歴史や地域を識るって、実に面白い!!

H29度 定例総会・懇親会 in 新茶屋

2018-03-25 14:00:00 | 古文書、郷土史他
新茶屋のお雛様 古今雛(天保4年[1833]作)
仏師:菅原九右衛門作 箱:惣吉作
◯お内裏様 ◯お内裏様
◯右大臣 ◯三人官女 ◯左大臣
◯楽囃子(宮中)
◯五人囃子(庶民)

古文書サークル「温故の会」の定期総会・懇親会が行われました。
総会は例年「長山亭」を会場に行われていたのですが昨年3月に閉店したため、今年から「新茶屋」になったようです。
老舗料亭だけあって我々「温故の会」の総会会場としては打って付けのようです。幹事さんは経費を心配されていた……ようですがね。


懇親会場の欄間額は、後藤新平から常盤楼主人(前田又吉)に贈られた「桂冷松香」。
ここで物知らずな私は『為書』という言葉と意味を知る。なるほど、なるほど。





江戸時代前期における庄内藩の廻米をめぐって

2018-03-05 15:22:24 | 古文書、郷土史他
先日(3/3)に、鶴岡市郷土資料館主催で行われた、平成29年度郷土史講座。
タイトルは、『江戸時代前期における庄内藩の廻米をめぐって』。本間勝喜氏を講師に迎えての講義でした。

本間先生が、通説への疑問として以下の5つを挙げ、古文書の中から読み解き、解説してゆくものでした。
1.藩政初期から主として蔵米知行だったか。
2.米札の開始年代は、寛永元年(1624)だったか。→庄内藩が誕生して僅か3年目だが?
3.「江戸廻米」について触れられていない。
4.手船(てせん)がいつ建造(あるいは購入)されたか。手船の役割についても触れられていない。
5.大坂廻米は、郡代高力忠兵衛が主導して開始されたのか。

講義は、とても興味深い内容でした。
しかし、ボイスレコーダーでもう一度聴き直さないと、私の歴史初心者では付いていけない。はぁ。

西岡周碩ゟ依頼差し出候覚

2018-02-18 10:00:00 | 古文書、郷土史他

月例の「温故の会」が行われました。
今回、島Dさんが解読したのは、氏が所有する『西岡周碩ゟ依頼差し出候覚(仮称)』でした。古文書名を仮称としたのは、表紙が無いため島Dさんが仮に名付けたもの。
古文書の内容から、明治2年当時の酒田民政局長官(同年7月より第一次酒田縣大参事)の西岡周碩(しゅうせき)の依頼覚書との解釈でした。
内容は複雑で難しく、浅学甚だしい私には、ただついて行くのが精一杯って感じでした。
しかし面白い!! あっという間に2時間が過ぎてしまった。う〜むぅ…。

   覚    荒瀬
一、窮民夫食籾之事
   但、田打・田植・草引・鎌止四度千五百表(俵)宛、
   盆前二千表(俵) 都合八千表(俵)宛、年々拝借
   仕 七歩之利息を加へ 上納仕候、本間籾ハ永
   久籾と唱 此分三歩利ニ御座候、旧来拝
   借仕来候ニ付 今度御廃止ニ相成り候
   農事手薄ニも可相成哉と考察仕候、
   尤、是迄火災等ニ逢候者 株式ニ応拝借
   仕 無利拾年賦ニ上納仕候、其外 小屋掛
   又ハ材木等被下候処も御座候、
一、田畑請返之節拝借金之事
   但、困窮之百姓 田畑質入仕置、年季明
   之節請返兼候得 … … … … … …

古文書解読講座「自娯抄」つづき

2018-01-27 10:00:00 | 古文書、郷土史他

今年の古文書解読講座の講師は、鶴岡市史編纂委員の本間勝喜先生。ワッパ騒動義民顕彰会でもお世話になっております。
テキストは「自娯抄(じごしょう)」(「二天間記」下)で、一昨年の講義のつづきからだそうですが、私は今回からの受講でした。
『大泉叢誌』第3巻に、「自娯抄」の内「庄内雑説書」が載っているとのことで開いてみる。
叢誌の解題によると、「御家中の富田甚右衛門利隆が著した『自娯抄』170巻は大火で焼失したが、その内、阪尾宗吾が抄録して現存するのが『庄内雑説書』5巻である。明和7年(1770)から天保6年(1835)までの主要な出来事や諸事件(主に御家中関係)を詳細に記したもので、その項目数は500に上る。尚、刑罰関係は『秋官志』(『閑散文庫』の内)に判決文が載っているものもある。」と書かれている。

文化元年(1804)9月10日からの出来事や事件の古文書を解説を交えながら講義が進んでゆく。ワクワクしながら聴いている。
文化3年寅(1806)5月16日には、赤川の中川原で土屋万次郎が丑蔵・三蔵から殺害された記事があり、独り静かに興奮してしまった。面白い!!


筆の寿佐美 壱 より

2017-11-14 06:58:44 | 古文書、郷土史他

一、明治元年辰年軍始まれり 如何成故に戦となりしにや 下々
  にてはしるよしなし、降伏謝罪といふ事に成て治まれり 巳
  年になりて 会津江御処替となる 色々御嘆き申せしか
  追て替地被仰出の事ニなる 我々御すわり〃〃と悦びしを
  其後岩城平江御処替被仰出たり 追々日限も被仰出
  追々引移りし家々も多くなり 御家中鼎(かなえ)のわくか如し
  … … … … …


先日の育成部主催歴史講演会で、石原氏の講演を聴き「どうなんだろう?」と疑問に感じたことが、今年4月の古文書サークルの例会で渡部先生が読解して下さった『筆の寿佐美』にヒントがありそうです。『筆の寿佐美』とは、慶応元丑年(1865)ころからの出来事の感想を御家中(士族出身)の方が書き綴った古文書のようです。

まず上段、「明治元年辰年軍(いくさ)始まれり」は戊辰戦争のこと。そして「如何成故(いかなるゆえ)に戦となりしにや下々にてはし(識)るよしなし」と、なぜ戦争(戊辰)が起こったのか下々の者は知らない。士族でさえこうなんだから農民・町民なんかは、何がなんだか分かんないけど戦争に駆り出さたんだろうね。はたして藩主を慕い志願して農民兵・町民兵となったのだろうか? 関川口の戦い後の農民の悲惨さは史実である。


一、庄内復帰といへは是迄之御領地不残の事と思へる人多し
  是等ハ皆愚者也 十二万石と被仰出たる上ハ庄内にて十二万石なる
  へしと思へる人もあり 七拾万両とかの献金にて周旋出来 漸
  庄内復帰となれりといふ也 今度御家中・町・在不残献金を被
  仰出 其勢ひ七拾万も可集模様に成 庄内の富国可悦事成
  御家中四百名位なれハ 弐百両位の献金通例也 高下色々無
  定 此時親友君三百両、予四百両献金せり … … … …

温故の会 研修旅行 肘折を訪ねて【2日目】

2017-10-15 09:00:00 | 古文書、郷土史他
身心脱落
「身心脱落」とは身も心も一切の執着を離れて、自由で清々しい境地への解脱である。


◯朝市・朝食など…

朝5時過ぎ起床し、朝風呂…。今回、三度この旅館の湯船に浸かった。きず湯(適温)とあったまり湯(少々熱温)があり、それぞれ源泉が異なるとは知らずに入浴したが、気持ちいいのである。満足、実に満足!!
風呂上がり、生憎の小雨の中、朝市を散策した。なかなかイイもんですなぁ。
朝市では、原木舞茸と白菜漬、青菜漬、そして酒屋から小屋酒造「とろり」を購入した。
ふぅ〜む…旅ってイイよね。


朝8時の朝食、全て美味しい!! ご飯も3膳おかわりしてしまった。満足!


◯温泉の縁起 全 〈旅館所蔵〉


ここの旅館に残る古文書『温泉の縁起』。昨年の例会でK池さんが取り上げ、解読した古文書の原本でした。版木等貴重なものを拝見できました。感謝。
午前9時過ぎに旅館を出発し肘折温泉を後にした。
古文書サークル『温故の会』の研修旅行は、非常に中身が濃い!!って感じで充実しているし、何より居心地がとてもイイのである。
旅行二日目がスタートした。ワクワク…。


正源寺山門 (真室川)

◯正源寺山門 (真室川町指定文化財)
この山門は、もと朝日村大網の湯殿山大日坊の総門で、江戸時代末期の作といわれ、昭和36年、正源寺二十三世閑雲旭処大和尚の代に正源寺に移され、茅葺屋根を銅板葺きに改め復元されたものであり、歴史を知るうえで極めて貴重なものである。
真室川町教育委員会



鮭延越前守秀綱公墓 (正源寺)


旧矢作家住宅(国指定重要文化財)


江戸時代中期の一般的な農家住宅と説明されているが、お上からの華美(贅沢)禁止の御触れの中、質素で機能的でありながら、大切なお客をもてなす「下のでん」と呼ばれる客室も備えられ、豪雪地帯で暮らす工夫もされている。貧しい農家ではないな…? と感じた。
移築後の植栽なのか様々な薬草類が庭に植えられている。生活の智恵も素晴らしい。学ぶことが多いねぇ。
ガイドの女性は朗らかで、新庄弁が素敵でした。ありがとうございます。


新庄藩主戸沢家墓所(国指定史跡)


新庄市内を走行中、助手席の島Dさんが「(新庄)市内さ、高い木など無いろぉ?」と訊く。
「(そう言われればそうかな…)」と車窓から改めて眺めてみる。
「戊辰戦争で庄内藩が、みな焼いでしまたぁんや」とポツリと言った。
以前から詳しく知りたかった戊辰戦争と庄内…、好奇心がまた復活してしまったようです。


新庄ふるさと歴史センター

『新庄ふるさと歴史センター』2Fの史料展示室で、新庄市史の戊辰戦争の項(第4巻)に目を通していると、若いカップル(う〜ん、死語かね?)が、展示された写真を見ながら、「(戊辰戦争で)庄内が新庄に攻めてきて、こうなったんだよ」、「えぇ…」、「だから庄内と内陸はあまり仲が良くないんだよ」的なことを小さな声で話していた。
「う〜む、新庄市をもっと知らねば…」、1Fの喫茶コーナーで新庄東山焼のカップでコーヒーを飲みながら、先程の朗らかな旧矢作邸ガイドの女性を思いだし、そんなことを考えていた。


とても有意義な楽しい旅行でした。
資料を作成していただいた諸先生方、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

温故の会 研修旅行 肘折を訪ねて【1日目】

2017-10-14 08:00:00 | 古文書、郷土史他


殉難の碑 (戸沢村)


◯殉難之碑 (碑文)
戸沢村立古口小学校柏沢分校教諭、伊藤 弘・小関正芳両名の霊ここに眠る。
両教諭は昭和45年4月24日、運動会練習のため児童8名を白糸分校に引率しての帰途、渡し船転覆す。投げ出された子らに手をつながせ、円陣を組ませるなど適切な指示を与え、全員救助されるを見届け、自らは力尽き、増水した春の最上川に没し去った。 
ここに前途有為の青年教師の殉職をいたみ、その遺徳顕彰と慰霊のため、そして悲劇を繰り返さない誓いをこめて、この碑を建立する。
昭和46年4月28日  



◯湯殿山大日坊大蔵出張所


◯湯殿山大日坊大蔵出張所(松高山大蔵院)
作の巻の山裾にある大日坊大蔵出張所は、大日如来をご本尊とする朝日村大網にある大日坊(真言宗・豊山派)の出張所として明治期から現在に至る。
それ以前は、一説に宝暦年間の頃(1751〜1763)には、直接大網より僧が出張し教義を解き、三山信仰の中心であった湯殿山参詣の先達を務めていたといわれる。最上川の対岸にある夏山塚の近くに、湯殿山山籠行者、峯元海上人供養塔、文政10年(1827)12月20日、天保14年(1843)建立と読める石塔があるが、それらに関わると思われるが資料が少なく詳細は不明である。
明治に至ると宿坊も建立されて自ら即身仏となり、病や凶作に打ちひしがれる民衆を救わんとした初代弘信海上人、二代大谷(寺嶋)白龍、三代大谷隆海、四代大谷勝之助と続き、最上地方総祈願所となり、信徒数2,500人を数えた。大蔵出張所の繁栄振りは所蔵する大絵馬「湯殿山登拝図」(菊川渕斉筆)には、作の巻を出発し、最上川を舟に乗って湯殿山へ参詣にでる大勢の道者達の様子が描かれている事などからも伺える。また、年間の多くの信仰行事の中でも12月7日〜8日は、湯殿山大権現の年越しということで、近郊近在から多くの人達が当出張所に集まり、大きな蝋燭が灯され太鼓を打ち鳴らし行われる「さんげさんげ」等も永く行われていた。また、境内から松山の山頂にかけ三十三観音が配置され、寺の脇側には東洋大学の創始者で哲学者の井上円了の書による「最上三十三観音」の碑と「弘信海上人」の大きな碑が建立されている。

 南無帰命頂礼湯殿山大権現慚愧
  懺悔六根罪障滅除煩悩滅除業障
大蔵村教育委員会  



◯清水城跡


◯山形県指定史跡「清水城跡」
文明8年(1476)山形城主最上氏二代直家は、北進策と最上川舟運の統制の一環として六男兼義(成沢城主)の子満久を清水に配した。満久は、清水氏を名乗り、はじめ白須賀に居館を構えたが、二年後文明10年(1478)当地に築城した。以後清水氏代々の居城となった。
清水城は、最上川左岸に突き出た段丘とその周りの深い谷とからなる自然の要害にあたり、地の利を生かした本丸東西三十六間・南北四十六間、二の丸東西五十二間、南北四十三間の連郭式であった。当城は、仙北の小野寺氏と庄内の武藤氏に対抗する最上氏の拠点の役割を果たした。
清水氏が当地に城を構えたのは、戦略上の拠点としてばかりでなく、この地で最上川の舟運を統制し、内陸地方の経済を掌中に収めようとしたことにあったともされる。戦国期には城下に町場も形成され、商業活動も盛んに行われていたと思われる。
清水氏六代義氏には嫡男がなく、最上義光の三男義親(大蔵大輔)が七代目を継いだ。しかし、かつて徳川家康の近習で宗家を継いだ異母兄家親に代って幼少期に豊臣秀頼に仕えていた義親を山形城主に擁立しようという動きもあり、慶長19年(1614)家親派軍勢の急襲により落城、義親は稲沢で自刃した。一般には、義親が大坂方に通じたことがその理由と伝えられるが、つまびらかでない。
清水城は、元和8年(1622)の最上氏改易に伴って破却されたが、本丸、二の丸、内堀、外堀、土塁跡、曲輪などが残っており、平成23年12月27日山形県指定史跡に指定された。
平成24年10月  大蔵村教育委員会  



◯興源院 (清水氏菩提寺)


◯清水城の由来
清和源氏源義家の末裔、出羽按察使[あぜち]将軍斯波修理大夫兼頼公の孫、成沢城主兼義の子、満久公、文明8年(1476)大蔵村の地に入部し、文明10年(1478)この地に城を築き、清水城という。
以来七代138年にわたり、北は新庄市萩野、東は舟形町長沢、西は鮭川村曲川、羽根沢に至る最上郡の大半の地に、知行35,600石を領し、領内に11ヶ所の館を築き治民施政に当った。
 初代 満久[みつひさ](孫次郎)
 二代 義久[よしひさ](隼人助[はやとのすけ])
 三代 義標[よしすえ](孫市郎)
 四代 義令[よしもり](式部)
 五代 義高[よしたか](孫次郎)
 六代 義氏[よしうじ](孫三郎)
 七代 義親[よしちか](大蔵大輔[おおくらのたいふ])
    最上義光の三子、養子となり清水家を継ぐ、33歳にて自害。
    義親の嫡男義継、慶長19年11月11日、13歳にて切腹。
七代義親公は、豊臣秀頼公の近習として仕えたことにより、豊臣家に心を寄せるものとして慶長19年(1614)10月13日、兄の最上家親に攻められ清水城は滅亡したのである。
平成26年7月設置 大蔵村教育委員会  


◯元館と白須賀遺跡

文明8年(1476)に山形城主最上家の一族、鳴沢城主兼義の子、孫次郎満久がこの地に入部し、最上氏の北の拠点とした。以後、慶長19年(1614)までの138年間にわたって、最上地方南部で武威をふるった。入部二年後の文明10年(1478)に急流最上川沿岸で風光明媚で要害険阻である比良台をえらんで築城した。そこで初めて入部したこの地を「元館」又は「古館」という。いまでも八幡神社の裏には、土塁と空堀が現存している。
またこの地は、南から北に舌状に突き出ている少段丘で、低平地との比高20m、幅(東西)30m、長さ(南北)500m程の一帯に、今から4,000年から5,000年前の縄文中期の特色を持つ白須賀遺跡がある。昭和29年、山形大学教育学部柏倉教授や鶴岡市致道博物館によって調査が行われた。この折、石槍・石鏃[せきそく=やじり]・石錐[せきすい=きり]など大量の石器とともに、大型の浅鉢形土器・深鉢形土器、中期には珍しい注口土器などが多数発見された。この他、土偶(部品)や人間の右足を
粘土片に押しつけた「足型土製品」ともいうべき遺物が出土している。
平成28年11月  大蔵村教育委員会  



◯阿吽院 [あういん]

◯阿吽院(片見家)と地蔵尊
烏川の阿吽院は中世以来、代々羽黒山、湯殿山の肘折口の別当を務めた家である。同家に伝来する文書に、先祖は大分県の片見源右ェ門という修験者で、諸国巡礼の折、当地に至り道に迷い、今の銅山川に紵麻[からそ=あさ]の流れ来るを見て(烏川の地名由来)、川上に人家有りやと川をさかのぼり、今の肘折で地蔵様に会い温泉を発見、さらに地蔵様の頼みから、肘折に居を構え、三山信仰の行者のため峻嶮を切り開き湯殿山への登拝道を開いたのは明徳元年(1390)の事とある。
その後、源右ェ門の子孫は肘折で別当を務めていたが、肘折は山奥のため肘折を通る行者も少なく、そのため七代目の頃烏川に移住し、その時地蔵様の社殿も建立されたという。
それ以後、村山、仙台方面からの舟で下り来る多くの出羽三山への参詣者を、烏川から肘折口に誘導するようになった。
小屋家(清水)の史料に、宝永6年(1709)6月中の二週間で当地から12,000人の行者が通った、とある。
その頃の御山は女人禁制であり、一般庶民は男子も15歳になると「初山がけ」と称し御山に登るのが常であった。その時は、行屋に籠り精進潔斎をし、白装束に身をまとい、触頭[ふれがしら]から通行手形を受けるなど厳しい作法・掟があった。
最上川を下る行者達は、阿吽院の近くの船着場で舟を降りると、今も残る「おみ坂」を登り、途中の「おすず」で口をすすぎ、阿吽院でお祓いを受け、さらに地蔵様に礼拝し、阿吽院配下の松の坊、竹の坊、梅の坊の先達で、肘折を経て十里二十三丁(約41km)を御山に登った。
阿吽院には、慶長17年(1612)の清水氏からの月山灯明料として二千刈の寄進状を始め多くの三山関係の史料を所蔵するが、それらには、阿吽院は一方に宿坊をかね、他方では肘折口の「改役[あらためやく]」、新庄領内の多くの未派修験を取り締まる「触頭[ふれがしら]」を任じられているなど、かなり宗教的な権威を有していたことが窺える。


◯烏川渡船場跡を眺める

森家(清水)が所蔵する、延享4年(1747)の「境内改書上帳」に阿吽院について、次のように記している。

  出羽国羽黒山末流
    同国最上郡新庄
    戸沢上総介領内赤松村枝郷烏川村
            湯殿山地蔵寺
                阿吽院
 一、知行拾石従地頭拝領
 一、居屋敷壱反弐畝拾四歩
    分米壱石弐斗四升六合七勺
 一、地蔵堂境内  竪百三拾間
          横七拾弐間
    内 薬師堂有り
 一、地蔵堂     上者峯切
           下者川切
    南山村枝郷肘折村二有
           横三百間
   右何茂領主之地御物成者御用捨

 祈願
  一 旦那家数弐拾弐間
   右の通吟味仕書上候通少茂相違
   無御座候為其如件
         延享四卯年
           湯殿山地蔵寺別当
                 阿吽院
        羽黒山御別当
            御役所

とあり、阿吽院はこの時代に知行10石を拝領、また地蔵尊境内にすでに薬師堂が有ったこと、また肘折の地蔵倉も管理下にあることがわかる。


◯舟着場から阿吽院に向かう坂道

地蔵尊の社殿は、過去に何回か再建されたと思われるが、現在の社殿には、竜や唐獅子などの彫刻が施され、堂内の御神体は、45cmの木像で、両脇の二体が少し低く、その他に不動明王も一緒に祀られている。
毎年8月16日が祭日で、地蔵様は、片見家の守り神であるばかりでなく、現在は烏川集落の氏神として崇拝され、昔から烏川で生まれ育った人は、地蔵様のお陰で川での災難にあわないという。それで戦後まで烏川の男の子どもは散髪の時、髪の一部を残す風習があった。それは川で溺れた時、地蔵様が現れ髪をつまみ救ってくれるという。
また新庄地廻り二十四ヶ所地蔵巡礼の七番札所として多くの参詣者が訪れる。
    御詠歌
  さすさおも われとはさして からす川
  のりのみふねは きしにこそつけ
平成14年4月  大蔵村教育委員会



◯豊牧の棚田


◯ふるさと味来館と板蕎麦


◯地蔵倉への登坂道から


◯地蔵倉

地蔵倉(じぞうくら)は、山形県最上郡大蔵村肘折温泉近郊にある仏教遺跡・説話伝承地。凝灰岩の断崖の岩陰に地蔵菩薩の石像が安置されている。
肘折温泉は、大同2年(807年)に、豊後国の出身の行者・源翁によって発見されたとされる。
伝承によれば、出羽三山への道を探していた源翁は、迷い込んだ肘折の山中で地蔵倉に住む、地蔵の化身である老僧(一説には小僧)に遭遇した。地蔵は、「岩山から落ちて肘が折れても、ここの湯に浸かるとたちどころに直る」と肘折温泉の存在を源翁に教えるとともに、「湯殿山参拝の後、この地に留まってこの地を守るように」と言って、湯殿山へ至る道へと導いたのだという。
源翁は、この地にとどまって地蔵倉に住みついたとされ、これが肘折温泉の興りとされる。



◯肘折源泉公園

◯肘折温泉 源泉景観(碑文)
山形県は日本独特の宗教・修験道の拠点であった。その中心は出羽三山で、原型は葉山・月山・羽黒山であり、その総奥の院が「湯殿」であった。  
肘折温泉の源泉は、出羽三山の一山で薬師如来を祠る葉山を源とする稜川鳥川が合流する河畔に湧き出ている。この源泉には、「葉山の薬師如来が賜った神湯で大地の恵みを蔵する地蔵菩薩により地蔵盛山を経て導かれた」 との伝説がある。 
源泉景観の中核は、出羽三山の湯殿の巨岩を原型とし、下部を両手合掌の十本の指で支える形とした。その廻りは、縄文時代の信仰遺跡であった環状 列石を配した。湯殿と環状列石とは密教世界の陰と陽を表現し、豊饒を願うものである。 
更に外周には八本の丸太柱を建て巡らし、空間の広がりと共に、湯殿空間の凝縮を図った。この柱は、日本人が原始より考えていた天上界と地上界を担ぎ結ぶ橋であり、魂の永遠の回櫓を願うものである。 
飲泉所の球体は地球を表し、裂目より温泉が湧出し、背景には宇宙を表現する曲面をもつ石塊を配した。 
源泉景観は、先人が天与の神湯に寄せた篤い信仰心を形にすることを基本 とした。これを鑑賞・礼拝される現世の方々に、温泉が生理的に人間の生命を癒してくれることへの感謝と、失われつつある日本人の豊かな精神世界への誘いを願って創られたものである。                             
大蔵村




◯亀屋旅館

◯開湯千二百年余 悠久の霊湯
昔ながらの湯地場を今に残し、きず湯、あったまり湯を湛えて、ゆっくりと、のんびりとした、ひと時を豊かな自然の中で滞在されてみませんか
貴方の心と体を癒す2種類の源泉、他にはない良質の源泉が自慢の宿です。
◯泉質・効能
ナトリウム塩化物・炭酸水素塩
きず湯(骨折・胃腸病・打撲)、あったまり湯(リューマチ・神経痛・腰痛)


◯右 アケビの若芽

◯料理
山菜中心の地元ならではの湯治食、季節ごとの山菜料理をご満喫ください。
亀屋旅館リーフレットより

清海上人からモリ供養まで

2017-08-20 21:10:14 | 古文書、郷土史他

古文書「温故の会」の例会。
今回は小池氏による「清海上人ゆかりの地を訪ねて」という講義でした。
小池氏の地元にある2つの「湯殿山碑(供養塔)」。五十川俣の碑は鉄門(海)上人、東目口の碑は清海(上人)とあり、清海について調べた講義でした。
清海が、カミさんの実家のある集落出身だったということに驚き、俄然興味がわいた。
今度ゆくときは、気を付けて見入ることにしようと改めて感じた。なかなか素晴らしい内容でした。


そして講義は、「モリ供養」の話まで広がった。
ちょうど本日、菩提寺で森供養の法要が行われている。
その案内文を参考までに載せます。

森供養について
 皆さんは、亡くなった方の「お骨」を、骨箱とは別に「歯骨箱」が用意され、他の骨とは別に葉を分けて入れられているのを見たことはないでしょうか。見たことがある方は庄内のお葬式に参列されたことがある方です。通常、お骨は全て一緒に入れます。「歯骨箱」として分けるのは庄内だけなのです。(ちなみに骨箱も通常ではお墓が合祀では無いため骨壷になります) それは庄内の習俗である「森供養」に関連しているからです。
 現在、庄内地方各地でモリ供養は行われれているようですが、古来からの形態で行われている「モリ供養」は鶴岡市の清水の森や庄内町三ケ沢の森であり、鶴岡市清水の三森山を「西の森」、庄内町三ケ沢白狐山の森の山を「東の森」といわれています。庄内では「歯骨箱」をモリ供養の際に森山に収めるという風習があります。
 「森供養」は、2000年12月に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定されました。庄内地方に伝わる送り盆の独特の習俗です。庄内地方では盆で送られた霊や、未だ清まらない霊は「森」と呼ばれる里山などに一定期間とどまり、そこで供養され、やがては月山や鳥海山などさらに高い山々に行き昇天するといわれています。「お盆」が終わった数日前の8月20日頃から、人々が「森」に花や供物などを持って訪れ、有縁無縁の死者の供養を行うことを「森供養」、「森詣り」といいます。私達子孫が「森詣り」することで先祖や亡くなった人たちの徳を積むこととなり、あの世で更に良いところに行けるために行う古来からの習俗です。
 「モリ供養」は一説には1000年以上も前から行われてきたとされます。この行事が仏教伝来以前から存在していたのではないかという見方がなされています。つまり古の時代、この庄内に暮らす人に育まれてきた死生観が「森供養」を生んだとされます。
 「モリ」は小高い丘や山中で行うもの「森供養」、平地で行うものを「モリ供養」または「亡利供養」と表記するという説もあり、一方では「亡霊」がなまって「モリ」になったという説もあります。(諸説あります)
 ちなみに泉流院では「森供養」となります。昭和55年以前、二才山(標高112m)にて森供養をしていたためです。大山町内の五ヶ寺(泉流寺・慶雲寺・耕田院・祐性院・宝昌寺)で行っていました。しかし、山頂付近で山崩れが起こって危険な状態になったため、それ以降は各寺院で行われるようになりました。檀家さんの中には森供養で、二才山参道に並び施餓鬼供養のため参詣人達から米・お菓子などの施しを受ける「やっこ」を子どもの頃にしたことがある方もいるのではないでしょうか。二才山で森供養をはじめた由来として伝えられているのが、明治15年と同19年の夏に庄内全域にわたり、コレラが大流行し、その時大山で亡くなった人たちを供養するために、はじめたともいわれています。旧地にあった萬霊塔と地蔵様が、現在は泉流院本堂前にあります。皆様是非、森供養に参列し、一緒にご先祖様をお祈りしましょう。

鳥海山あれこれ

2017-08-03 20:21:46 | 古文書、郷土史他

7月30日に行われた「温故の会」の定例会。
発表は、トレッキングがご趣味の鈴木氏による『鳥海山あれこれ(原風景や火山活動等)』でした。
鳥海山登山の近況から、寛政12年(1800)〜文化元年(1804)の噴火・新山形成の模様を記した古文書(「遊佐大庄屋阿部氏御用留 鳥海山上噴火届書」より)の読解まで、素晴らしいテキストもあり、楽しく興味深く聞くことができました。感謝。


  乍恐口上書を以申上候
今度 鳥海山山上自願と申候 毎年虫除(むしよけ)
御札(おふだ)御祈祷 惣衆徒参詣仕候 仍(よって)当月六日 山登
仕候所 瑠璃之壷と申所 其外右之近所(ちかきところ) 不動石と
申方 硫黄谷と申所方 右 石焼煙立上り申候 尤(もっとも)
(よ)り茂(も)相見へ申候 殊之外焼申候 殊焼候近所へ参候ヘハ
殊之外鳴り申候 右之場所東西三百間程 南北八拾
間程御座候 山の上ハ皆石山御座候 古之場所荒神
ヶ嶽御本社九拾間程御座候 就夫(それにつき)当九日に又〃
… … … … …

2017ワッパ騒動ゆかりの地めぐり 温海編

2017-05-13 08:45:00 | 古文書、郷土史他

今年も「ワッパ騒動ゆかりの地めぐり」(主催:ワッパ騒動義民顕彰会)に参加した。今回は温海方面!! しかし案内を受け取ったときから微妙に迷ったのも事実、なにしろコースには生まれ育った小国が含まれているではないか。少々気恥ずかしさ的なものがあったが、それでも深く故郷を識る魅力を感じ…参加を決めた。
参加者は19名で殆ど教職員OBの方々のようで、赴任した福栄中学校や温海川小学校、菅野代小学校の廃校舎をながめ感慨深く、また楽しく思い出話を披露していただいたのはとても良かった。結果、有意義な小旅行となりなかなか楽しかった。満足。


◯峠ノ山集会センター

前にこの集落を訪れたのはいつ頃だったろうか…? 分校跡に建つ鉄筋の集会センターなんかより、集落の坂道や小雨に煙る山々、段々田んぼのほうに惹かれた。此処には居ない三人の同級生は何してんのかな?などと顔を思い浮かべていたら和助さんとお会いした。88歳ですか、達者で何よりです!!
バスの中では「高館山(標高273.2m)より高っげあんだのォ!(峠ノ山:海抜272m)」と景色を眺め盛り上がっていた。


【田川組 峠ノ山(小国の枝村)】
元村の制止を振り切りワッパ騒動に参加するも一旦詫び状を入れる。
明治8年2月:小国の村民を石代会社に誘う。以後地租改正をめぐっても元村と対立。
同年9月:神道に改宗。
明治15年:小国からの分離独立を求めるも実現せず。



◯小国山村振興センター

小国に到着。茶屋の父ちゃんが店先で何か洗い物をしていた以外、う〜む人影が見えない…。田植えで忙しいんだろうね。
広報では知っていたが初めて見る各家々の玄関先のでっかい表札。いいんじゃないでしょうか。
皆さん山村振興センターから歩きはじめ、永淳寺への寺道をながめ(私は自分家跡地をながめ)、家並みをながめ、城跡登り口に立寄り、関所跡まで興味深く見学したようです。


田川組 小国村】
峠ノ山がワッパ騒動に参加すると聞き村役人と共に永淳寺(ようじゅんじ)住職が説得に当たる。
小国村は騒動に参加せず吉田清英巡村の折褒められる。

「明治8年10月ワッパ一件説諭として酒田県七等出仕吉田清央(ママ)殿外吏正一名御泊り、これに至って平定」と、小国年代記には書かれている。ちなみに小国年代記は上写真右の表札に「お殿様が泊まった宿」と書いてある理助さん家の古文書で、五十嵐善四郎さんが解読したもの。


◯小名部 小国街道

小学生の頃、遠足(?)で角間台峠(子供の頃は小名部峠と呼んでいたし、車が通れるような道ではなかった…)を越え、小名部集落の煙突から昇る煙を見てホッとした記憶を思い出した。まだまだ村々には子供が多くて賑やかだった。小名部小学校の記憶はもうすっかり無いけれど…。
県境のこの集落にも番所があり、ここと小国関所で二重に通行チェックをしていたようです。


【小名部組 小名部村】
ワッパ騒動に参加したかは不明だが顕官が説諭に回った記録あり。
明治12年の村費課出をめぐる裁判を不服として村役人が農民を訴えるも敗訴。


◯関川集落

なんと平沢-関川間が通行止めのため、再び小国に戻り木野俣経由で関川まで移動した。
山々の新緑で清々しい景色を見て「白っぽい緑はナラで、ちょっと緑が濃いのがブナだよ」と教えて頂いた。昨年は、"ニセアカシア"の話をされた先生で植物に詳しいようです。

戊辰戦争戦場跡に立ち、顕彰会会長の本間先生の説明を聞いた。ワッパ騒動同様、戊辰戦争も知りたいと願っている私としては興味深く聞かせて頂いた。この集落にも同級生が数人いるが、ご先祖さん達は大変だったんだねぇ。


【田川組 関川村】戊辰戦争激戦地
ワッパ騒動に関わったが詳細は不明。
吉田清英巡村の折、毎戸残らず呼び出される。

【田川組 越沢村】
明治7年10月:組村入用をめぐって騒動が起こる。
明治8年5月:吉田清英の巡村に毎戸残らず呼び出されるも遅刻し酒田県庁に呼び出しを受ける。

【田川組 木野俣村】
明治13年10月:国会開設の建白書を元老院に提出。佐藤重幸21歳、地元の学校の訓導であった。後に福栄村の村長になる。


◯温海川小学校跡

温海川集落の「わらび庵」で昼食タイム、定番田舎蕎麦をいただく。ただ今回の案内に昼食は実費と書かれていなかったので少々戸惑ってしまったのも事実。来年は財布にたっぷり入れてから参加することにしようと決めた。ふぅ〜。
温海川小学校跡地に『孝 百行之本』と書かれた石碑があった。教養の足りない私は側にいた先生に「こう ひゃくぎょうのほん」って何でしょうね?と訊いた。すかさずこれはね「こうはひゃっこうのもと」と読むのだと教えていただいた。そして「教育勅語でも言っている」と。さすが先生!! 


【田川組 温海川村】
指導者、縫藤次郎・金右衛門ら峠ノ山の主だったものと連絡をとり石代会社に誘う。

旧菅野代小学校が見えた時、菅野代小学校の校歌を作曲した先生が同乗して居られ、バスの中で斉唱した。とてもイイ校歌だど感じた。歌声も素晴らしかった。
僻地一級から五級までの地域の話や、8%から20%までの僻地手当の話など先生OBの方々、話が上手い。

【田川組 菅野代村】
指導者、佐藤甚右衛門。湯田川の大滝七兵衛らと、戸長・肝煎を激しく追及する。
戸沢の市郎右衛門ともつながりを持つ。


◯戸沢 強竜寺

伊藤市郎右衛門のご子孫の案内で強竜寺境内の墓をお参りした。みなさん一本ずつ線香を墓にあげ手を合わせた。
ご子孫の話では、三島県令から呼ばれた時「頭が高い!」と言われ、監舎に入れられ百叩き受けたと聞いているとのこと。ミチツネさん余程憎かったんだろうね。

何気に境内を見渡すと、「◯◯家奥津城」と書かれた墓石が何件かあった。ここでも教養の無い私は「おくつじょう」ってなんでしょう?と訊いた。すかさず、あれは「おくつき」と読み、神道の家の墓ですよと教えてくれた。さすが元校長!! この歳で物知らずな私も少しずつ成長しているか…(ってそれじゃダメじゃん)。

【温海組 戸沢村】
伊藤市郎右衛門、温海方面のワッパ騒動の指導者。
明治7年9月5日:温海組戸長を追及。12日頃:馬場山の寄り合いを知る。
同年10月:清水村作右衛門同道で内務省へ嘆願のため上京。後、三島県令の叱責にあい酒田の監舎入りを命ぜられる。


◯山五十川 玉杉

237段の石段を登り玉杉を見学。
『枝張りは東西35m、南北36mで樹冠は均整のとれた半球状であるために「玉杉」と呼ばれ親しまれています。樹勢はすこぶる盛んで、今なお新緑生々、雄大な太根は、移転前の社殿を著しく傾けるほどでした。神社創建(706年)よりのご神木で当時すでに樹齢300年と推定されることから、平成18年(2006年)「玉杉1500歳」を村中でお祝いしました』と紹介されている。
明治7〜8年頃なんか玉杉にとっちゃ最近のことだろうね。農民を見守り、拠り所となったに違いない!


【温海組 蕨野村(後に山五十川)】
指導者、本間佐左エ門ら、戸沢・実俣・蕨野三ヶ村で戸長追及に動き出す。
明治7年10月9日:本間佐左エ門捕縛される。

【温海組 実俣村(後に山五十川)】
指導者、藤原松右衛門ら、戸沢の市郎右衛門と共に早い時期から活動する。
明治7年10月9日:藤原松右衛門捕縛される。

【温海組 五十川村】
戸沢村などと共に行動し、温海組本間和順戸長追及後も、安土・鈴の者らと寺に集まり不穏な動きをする。
明治7年10月9日:本間榊捕縛される。

※本間和順:温海組戸長。代々の大庄屋。明治7年9月5日、1,000人余の組内農民が屋敷を囲み、組遣金などの返還を迫り認めさせる。


◯堅苔沢 天保大津波記念碑


◯解説する志田孝士氏と寺坂


◯堅苔沢 鬼かけ橋碑



【温海組 小波渡村】
指導者、佐藤三郎左衛門ら、温海戸長の追及に組村と共に行動する。

【笠取峠】
明治7年9月14日:温海方面の1,000人余が鳥塚山参集を目指し県官らと対峙する。

【三瀬組 三瀬村】
明治8年9月:三島県令が騒動参加の淀川・三瀬・温海各組の主だった者を三瀬村了願寺に集めて叱責する。

【鳥塚山(水沢地内)】
明治7年9月14日:温海組・三瀬組などの農民が参集を目指した所。

【馬場山(中清水地内)】
明治7年9月13日:農民参集、解散。
 同年 9月16日:夜、数百人参集。17日朝、数千人で平京田に進む。

御倹約被仰渡書 (平田郷田沢組)肝煎儀平控より

2017-03-09 07:15:57 | 古文書、郷土史他

先月2月18日(土)・25日(土)の二日間、阿部久書店主催の古文書入門教室(講師:杉原丈夫氏)に出席してみた。
杉原先生といえば以前「方寸」の仕事で大変お世話になった方であり、私のことも「前にどこかで会いましたよね?」と微かに記憶にあるようでした。感謝。

ということで、平田郷田沢村(酒田市・旧平田町田沢地区)で肝煎を務めている儀平さんの控(古文書)の復習をやっている。

『御倹約被仰渡書』

   覚
一、惣百姓衣類之儀 絹類相用ひ候事
  男女とも堅停止候
   附、大組頭之外 木綿合羽着用申間敷候
一、身上宜候共 萬(万)端百姓ニ不似奢ヶ間敷
  儀堅仕間敷候
一、平日者(は)不及申 近き親類會(会)合之節茂(も)
  酒飯を始 無用之費(ツイエ)無之様 質素可致候事
一、… … …


文政13年閏3月16日ノ写とあるので、1830年(文政13年は12月9日まで、12月10日から天保元年)のこと。庄内藩主は酒井忠器(ただかた)の時代で武士も農民も質素倹約推進中の時代なんだろうね。
しかし農民は、お上から着る衣類はもちろん、祝言や葬儀の費用、下駄の鼻緒の材質まで倹約するように指図されていた。はたしてこの時代は幸せだったんだろうか?

太政官布告 第779(布)太政官 明治3年閏10月28日 [御用留帳より]

2017-03-07 07:11:29 | 古文書、郷土史他

古文書サークルの例会で解読を一度聞いただけでは、私の稚拙な理解力では「?????」が一杯!! ってことになる。
なので、1月15日の例会での島田さんの資料を再読している。

今般 国内大小神社之規則 御定ニ相成
候間 於府藩縣 左之箇条委詳取調
當(当)十二月限 可指出事
  庚午十二月
           太政官
 某国 某郡 某村鎮座
某社 但、式内 式外 或ハ府藩縣 別段崇家之社
   等之別
一、宮社間数并大小之建物
一、… … …


これが酒田で布告されたのは庚午[かのえ-うま]十二月と書かれているから明治3年(1870)12月のこと。実際に太政官布告として政府から発せられたのは同年閏10月28日だから、酒田[山形縣]は約2ヶ月遅れている。しかも詳細に調べて、提出期限は同じ12月だから大変だねぇ。因みにこの年の9月に『天狗騒動の不手際から大原知事免官となり酒田県が廃止され、山形県(坊城知事)の管理下に置かれる』などと維新直後の時代、行政サービスもゴタゴタしているようです。
こんな感じで、清書しながら意味や繋がりを調べつつ読み進んで、やっと何のことなのかを理解する…。時間は掛かるが「急いでるわけじゃないし」と楽しみながらやってるんだけど、月に一度の次の例会がアッという間にやってくる。あぁぁ…。

この神仏分離令(神仏判然令)に関する古文書を読みながら廃仏毀釈を思った。


以前家族で奈良を訪れ、興福寺(明治5年廃寺、現在国宝)で阿修羅像を拝顔した時、同時に廃仏毀釈という悲惨な行為があったことも知った。
人は偏った酷い行動を平気でするものだと、政治・マスコミから洗脳され煽動する怖さを改めて考えてしまった。

2017-02-19 10:00:00 | 古文書、郷土史他

     盗
一、御城内并江戸御屋敷御殿或ハ役所向ニ而盗いたし
  御吟味之上御仕置申付候事
  一、寶歴十二年午閏四月十五日 御定番 高橋喜
    惣治 … … … …

古文書サークルの例会。
今回は加藤氏による解読でした。下級士族の役職『御定番』とは? について解説は、なかなか難しかったですね。結局よくわからなかった。奥が深いねぇ。
古文書の内容は…、面白そうである。

古文書解読講座 その四「長寿者へ下され米の達書」より

2017-02-04 13:00:00 | 古文書、郷土史他

当巳、九拾歳以上長寿之者、御成箇米(おなりかまい=年貢米)御米壱表(=俵)ヅツ被下置候段被仰達候間、其段可被申達候、尤(もっとも)各(おのおの)先格(=案内)之通、御礼可被申上候、右可申達、早ヽ(はやばや)如斯(かくのごとく-に)候、已上(=以上)
 正月九日(=安政4年[1857]1月9日)
        順助(=代官・荒賀順助[在任:1846-1863])
      仁右衛門(=代官・天野仁右衛門[在任:1851-1860])
 吉兵衛殿(=大庄屋・本間吉兵衛)


御米被下置請取申事では、山浜通温海村で上記に該当し、お米をいただいた家主9名の名前が載っている。
この時代も長生きは女性のようですな、なにしろ男性は9人中2人しかいない。
元気の良い「ハマ言葉」の小岩川から堅苔沢までの長老達を勝手に想像してみた。
面白い。