今年も「ワッパ騒動ゆかりの地めぐり」(主催:ワッパ騒動義民顕彰会)に参加した。今回は温海方面!! しかし案内を受け取ったときから微妙に迷ったのも事実、なにしろコースには生まれ育った小国が含まれているではないか。少々気恥ずかしさ的なものがあったが、それでも深く故郷を識る魅力を感じ…参加を決めた。
参加者は19名で殆ど教職員OBの方々のようで、赴任した福栄中学校や温海川小学校、菅野代小学校の廃校舎をながめ感慨深く、また楽しく思い出話を披露していただいたのはとても良かった。結果、有意義な小旅行となりなかなか楽しかった。満足。
◯峠ノ山集会センター
前にこの集落を訪れたのはいつ頃だったろうか…? 分校跡に建つ鉄筋の集会センターなんかより、集落の坂道や小雨に煙る山々、段々田んぼのほうに惹かれた。此処には居ない三人の同級生は何してんのかな?などと顔を思い浮かべていたら和助さんとお会いした。88歳ですか、達者で何よりです!!
バスの中では「高館山(標高273.2m)より高っげあんだのォ!(峠ノ山:海抜272m)」と景色を眺め盛り上がっていた。
【田川組 峠ノ山(小国の枝村)】
元村の制止を振り切りワッパ騒動に参加するも一旦詫び状を入れる。
明治8年2月:小国の村民を石代会社に誘う。以後地租改正をめぐっても元村と対立。
同年9月:神道に改宗。
明治15年:小国からの分離独立を求めるも実現せず。
◯小国山村振興センター
小国に到着。茶屋の父ちゃんが店先で何か洗い物をしていた以外、う〜む人影が見えない…。田植えで忙しいんだろうね。
広報では知っていたが初めて見る各家々の玄関先のでっかい表札。いいんじゃないでしょうか。
皆さん山村振興センターから歩きはじめ、永淳寺への寺道をながめ(私は自分家跡地をながめ)、家並みをながめ、城跡登り口に立寄り、関所跡まで興味深く見学したようです。
【田川組 小国村】
峠ノ山がワッパ騒動に参加すると聞き村役人と共に永淳寺(ようじゅんじ)住職が説得に当たる。
小国村は騒動に参加せず吉田清英巡村の折褒められる。
「明治8年10月ワッパ一件説諭として酒田県七等出仕吉田清央(ママ)殿外吏正一名御泊り、これに至って平定」と、小国年代記には書かれている。ちなみに小国年代記は上写真右の表札に「お殿様が泊まった宿」と書いてある理助さん家の古文書で、五十嵐善四郎さんが解読したもの。
◯小名部 小国街道
小学生の頃、遠足(?)で角間台峠(子供の頃は小名部峠と呼んでいたし、車が通れるような道ではなかった…)を越え、小名部集落の煙突から昇る煙を見てホッとした記憶を思い出した。まだまだ村々には子供が多くて賑やかだった。小名部小学校の記憶はもうすっかり無いけれど…。
県境のこの集落にも番所があり、ここと小国関所で二重に通行チェックをしていたようです。
【小名部組 小名部村】
ワッパ騒動に参加したかは不明だが顕官が説諭に回った記録あり。
明治12年の村費課出をめぐる裁判を不服として村役人が農民を訴えるも敗訴。
◯関川集落
なんと平沢-関川間が通行止めのため、再び小国に戻り木野俣経由で関川まで移動した。
山々の新緑で清々しい景色を見て「白っぽい緑はナラで、ちょっと緑が濃いのがブナだよ」と教えて頂いた。昨年は、"ニセアカシア"の話をされた先生で植物に詳しいようです。
戊辰戦争戦場跡に立ち、顕彰会会長の本間先生の説明を聞いた。ワッパ騒動同様、戊辰戦争も知りたいと願っている私としては興味深く聞かせて頂いた。この集落にも同級生が数人いるが、ご先祖さん達は大変だったんだねぇ。
【田川組 関川村】戊辰戦争激戦地
ワッパ騒動に関わったが詳細は不明。
吉田清英巡村の折、毎戸残らず呼び出される。
【田川組 越沢村】
明治7年10月:組村入用をめぐって騒動が起こる。
明治8年5月:吉田清英の巡村に毎戸残らず呼び出されるも遅刻し酒田県庁に呼び出しを受ける。
【田川組 木野俣村】
明治13年10月:国会開設の建白書を元老院に提出。佐藤重幸21歳、地元の学校の訓導であった。後に福栄村の村長になる。
◯温海川小学校跡
温海川集落の「わらび庵」で昼食タイム、定番田舎蕎麦をいただく。ただ今回の案内に昼食は実費と書かれていなかったので少々戸惑ってしまったのも事実。来年は財布にたっぷり入れてから参加することにしようと決めた。ふぅ〜。
温海川小学校跡地に『孝 百行之本』と書かれた石碑があった。教養の足りない私は側にいた先生に「こう ひゃくぎょうのほん」って何でしょうね?と訊いた。すかさずこれはね「こうはひゃっこうのもと」と読むのだと教えていただいた。そして「教育勅語でも言っている」と。さすが先生!!
【田川組 温海川村】
指導者、縫藤次郎・金右衛門ら峠ノ山の主だったものと連絡をとり石代会社に誘う。
旧菅野代小学校が見えた時、菅野代小学校の校歌を作曲した先生が同乗して居られ、バスの中で斉唱した。とてもイイ校歌だど感じた。歌声も素晴らしかった。
僻地一級から五級までの地域の話や、8%から20%までの僻地手当の話など先生OBの方々、話が上手い。
【田川組 菅野代村】
指導者、佐藤甚右衛門。湯田川の大滝七兵衛らと、戸長・肝煎を激しく追及する。
戸沢の市郎右衛門ともつながりを持つ。
◯戸沢 強竜寺
伊藤市郎右衛門のご子孫の案内で強竜寺境内の墓をお参りした。みなさん一本ずつ線香を墓にあげ手を合わせた。
ご子孫の話では、三島県令から呼ばれた時「頭が高い!」と言われ、監舎に入れられ百叩き受けたと聞いているとのこと。ミチツネさん余程憎かったんだろうね。
何気に境内を見渡すと、「◯◯家奥津城」と書かれた墓石が何件かあった。ここでも教養の無い私は「おくつじょう」ってなんでしょう?と訊いた。すかさず、あれは「おくつき」と読み、神道の家の墓ですよと教えてくれた。さすが元校長!! この歳で物知らずな私も少しずつ成長しているか…(ってそれじゃダメじゃん)。
【温海組 戸沢村】
伊藤市郎右衛門、温海方面のワッパ騒動の指導者。
明治7年9月5日:温海組戸長を追及。12日頃:馬場山の寄り合いを知る。
同年10月:清水村作右衛門同道で内務省へ嘆願のため上京。後、三島県令の叱責にあい酒田の監舎入りを命ぜられる。
◯山五十川 玉杉
237段の石段を登り玉杉を見学。
『枝張りは東西35m、南北36mで樹冠は均整のとれた半球状であるために「玉杉」と呼ばれ親しまれています。樹勢はすこぶる盛んで、今なお新緑生々、雄大な太根は、移転前の社殿を著しく傾けるほどでした。神社創建(706年)よりのご神木で当時すでに樹齢300年と推定されることから、平成18年(2006年)「玉杉1500歳」を村中でお祝いしました』と紹介されている。
明治7〜8年頃なんか玉杉にとっちゃ最近のことだろうね。農民を見守り、拠り所となったに違いない!
【温海組 蕨野村(後に山五十川)】
指導者、本間佐左エ門ら、戸沢・実俣・蕨野三ヶ村で戸長追及に動き出す。
明治7年10月9日:本間佐左エ門捕縛される。
【温海組 実俣村(後に山五十川)】
指導者、藤原松右衛門ら、戸沢の市郎右衛門と共に早い時期から活動する。
明治7年10月9日:藤原松右衛門捕縛される。
【温海組 五十川村】
戸沢村などと共に行動し、温海組本間和順戸長追及後も、安土・鈴の者らと寺に集まり不穏な動きをする。
明治7年10月9日:本間榊捕縛される。
※本間和順:温海組戸長。代々の大庄屋。明治7年9月5日、1,000人余の組内農民が屋敷を囲み、組遣金などの返還を迫り認めさせる。
◯堅苔沢 天保大津波記念碑
◯解説する志田孝士氏と寺坂
◯堅苔沢 鬼かけ橋碑
【温海組 小波渡村】
指導者、佐藤三郎左衛門ら、温海戸長の追及に組村と共に行動する。
【笠取峠】
明治7年9月14日:温海方面の1,000人余が鳥塚山参集を目指し県官らと対峙する。
【三瀬組 三瀬村】
明治8年9月:三島県令が騒動参加の淀川・三瀬・温海各組の主だった者を三瀬村了願寺に集めて叱責する。
【鳥塚山(水沢地内)】
明治7年9月14日:温海組・三瀬組などの農民が参集を目指した所。
【馬場山(中清水地内)】
明治7年9月13日:農民参集、解散。
同年 9月16日:夜、数百人参集。17日朝、数千人で平京田に進む。
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