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坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

平成30年度 郷土史講座

2019-03-10 10:00:00 | 古文書、郷土史他

毎年開催されているという「郷土史講座」。市の広報で知り、ワクワクと初めて受講した。
初日は、本間勝喜先生(鶴岡市史編纂委員)による「庄内藩の知行制度と周辺」について。本間先生の研究や、鶴岡市史完成後に発見された新史料などから、これまでに史実として述べられて来たことへの疑問や誤りなどを解説する内容であった。

1.庄内藩初期の知行制において、地方[ジカタ]知行と蔵米知行について。
2.地方渡[ジカタワタシ]の藩士。
3.米札[コメフダ]の発行年について。
4.歩座[ブザ](米相場所)と御米宿。
5.家中の田地保有と手作。
 以上の講義でした。面白い‼

講義の終わりに出席者から「当時(庄内藩政)の生活とは、どんなものだったのだろうか?」との質問に、「農民も武士も生きることに精一杯の時代だったんじゃないでしょうか」と応えられた。稚拙な知識ながら朧げに景色が思い浮かんだ。

次回は、「酒井長門守忠重一件」。
これも楽しみだ。

致道博物館企画展「歴史の扉 江戸時代の訴訟」

2019-02-17 19:36:03 | 古文書、郷土史他

午前の「温故の会」例会の後、致道博物館で行なわれた、同館企画展『歴史の扉 江戸時代の訴訟』のトークギャラリーに行ってきた。
展示されている古文書や絵地図などの解説をしてくれるのだが、これがなかなか詳しく分かりやすくて良かったと思う。解説者は同館学芸員の菅原義勝氏。予定時間を30分以上もオーバーしながらも一生懸命解説してくれた。イイねぇ、随分得した気分にもなったしネ。


◯鳥海山峰境争論
鳥海山をめぐる争論は江戸時代の初め頃から論点を変えながら何度も繰り返された。
1.鳥海山への登拝口は、吹浦・蕨岡(遊佐町)、小滝・院内(にかほ市)、滝沢・矢島(由利本荘市)の6ヶ所があり、争論の記録の中で最も多いのは、矢島と滝沢の逆峰名称(順峰:本山派[天台宗]修験=蕨岡、逆峰:当山派[真言宗]修験=矢島)をめぐるもの。
2.鳥海山山頂にある権現堂修復争論。元禄14年(1701)の矢島と蕨岡との争論は、同年10月晦日の三宝院の判決により蕨岡の主張が認められたこと。
3.鳥海山峰境争論。元禄15年(1702)に蕨岡主導での権現堂造替改修工事(式年造営)が完成し遷宮式を執り行った後、矢島方より庄内藩領と矢島藩領との境目(行政区域)を訴えた峰境争論が勃発した。宝永元年(1704)の評定所による裁許され、鳥海山権現はいまでどおり「飽海郡」となった。現在の県境はこの時の決定が現在に至っている。
などと、面白い、実に面白かった。
他にも、◯川代山争論:川代山の権利をめぐる羽黒山領と幕府・庄内藩領との争い。◯湯殿山の祭祀権をめぐる争論:「両造法論」の発生など、羽黒山[天台宗]と湯殿山[真言宗]との宗教的争い。◯三方領知替え阻止運動《駕籠訴について》などが解説された。


この企画展『歴史の扉シリーズ』は、今後も継続されるとのこと。ますます庄内の歴史を識る楽しみ増えたね。面白い‼

『江戸期に於ける庄内の食べ物事情』 講師:阿部淳子

2019-01-27 16:52:47 | 古文書、郷土史他
「両羽博物図譜」松森胤保

酒田民俗学会主催の市民講座が酒田文化センター4Fで行なわれた。阿部淳子[あつこ]氏(酒田市光丘文庫古典籍調査員)による講義は『江戸期に於ける庄内の食べ物事情』。

「現在の和食の基礎は江戸期に確立された」といわれますが、「地元庄内で何を食べていたの?」についてはあまり知られていません。本講座では、光丘文庫所蔵の「南吉田・伊藤家文書」から、当時のリアルな食生活を感じあいたいと考えています。どうぞご参加ください。

この市民講座内容に惹かれ、ワクワクと参加させていただいた。


講義はとても良かったと思う。地元料理のお膳立てが紹介され、想像を掻き立てられ興味を引いた。そして何より話が、堅くなく分かりやすかったしね。阿部先生、話がうまいね。

国之助日記巻七の後半(安政4年)に、郡奉行の国之助さんが下黒川(旧八幡町)の山論での見分(検分)の行き帰り、各宿(大組頭や肝煎宅)で出された(饗された?)料理膳が記されている。今後の古文書を読み進むうえで大変参考になった。


資料代300円という参加費は格安だが、もう少し高くてもいいから、講義で紹介された古文書の写しも手元にあったら良かったと感じた。
是非また参加したいと思っている。

嘉永貳年酉 忠發公御上京御行列

2019-01-20 20:14:23 | 古文書、郷土史他

古文書「温故の会」の例会が行われた。
今回は鈴K氏の講義で、テキストは、行列の並びや役職が記されている『忠發公御上京御行列』であった。
嘉永2年(1849)1月に「藩主忠發[ただあき]が女御入内のため、侍従として上京した(酒井家世紀巻12)」と『新編庄内史年表』とあるように、忠發の娘が宮中に女御として入るため京都まで(上京)の行列が編成された。その記録(古文書)から並びや役割を説明・解説された。


本日だけの講義だけでは到底終わらず、今後は鈴K氏のシリーズとして解説するとのこと。楽しみです。

古文書解読講座の後は「鵬匠」で

2019-01-12 15:22:36 | 古文書、郷土史他

今年も鶴岡市郷土資料館が主催する「古文書解読講座」を受講してきた。
講師の本間勝喜先生(鶴岡市史編纂委員)が、『自娯抄』から昨年の続きとなる解読と解説を行った。


講義を受けながら、文化10(1813)酉年にタイムスリップする。
岡山での無邊流直指流との山試合を観覧する殿(酒井忠器)のことや、菅原(赤川羽黒橋付近)での荻野流砲術の稽古での一ノ手・二ノ手などの役割の取り決めなど。また、羽黒山別当の着任の話など、なかなか興味深く面白い。
もう二日間の続きの講義がある、楽しみだねぇ。その後は展示されている戊辰戦争の話らしい…、これも面白そうだ。


講座を終え、昼食は以前から気になっていた「鵬匠」で、蕎麦の特盛をいただく…。
うほっ、こりゃ思った以上に特盛だぁ! 味も上々、満足‼


戊辰戦争150年「庄内藩の戊辰戦争」出版記念講演会

2018-11-23 19:39:36 | 古文書、郷土史他

鶴岡市史編纂委員の阿部博行氏の著書出版を記念し、「戊辰戦争150年『庄内藩の戊辰戦争』出版記念講演会」が行われた。
この催しは「まちゼミ」の一環として阿部久書店々主が企画し、「山王町 江鶴亭」が会場でした。老舗呉服屋さんをイベント会場としたもので趣のある室内は、とても良かった。


午後1時半から行われた講演会は定員オーバーの満席状態だったので一番前に座ることに…。う〜む、ラッキー!

演題「庄内藩の戊辰戦争開始をめぐって」 講師:本間勝喜氏

戊辰戦争開始の通説として、慶応3年(1867)12月25日の薩摩藩邸焼き打ちに対する薩摩藩の(庄内藩への)強い恨みであったとされているが、「慶応4年(1868)2月上旬に旧幕符が村山郡旧幕領の高74,000石余を庄内藩の預地とすることを申渡した」ことで、「旧天領の預地支配が命じられたうえ、それを自領に含めることができるとみられたことから、大殿酒井忠発や松平権十郎(親懐)らの重臣たちの目が眩んで、それを死守するために突き進んだ戦争であったこと(ワッパ騒動義民顕彰会誌6号)」から、「庄内藩が速やかに村山『預地』を返上すれば追討の対象とならず、反政府側で戦うことがある程度避けられたはず」と、史料から読み解く。そして「村山『預地』における庄内藩士の、領民に対する暴力事件や年貢米の横領については誤解であった」とし、天童藩家老吉田大八や柴橋元〆河野俊八らが総督府へ偽りの注進を行ったこと、物理的に20,000俵以上の年貢米を一度に酒田に運び込むことなど不可能であったことなどを解説された。


演題「戊辰戦争の戦後処分」 講師:阿部博行氏

氏の上梓された著書からと研究資料から。
1.奥羽越列藩同盟諸藩の降伏、2.庄内藩の降伏、3.戦後処分、4.酒井家の転封、5.戦功賞典、6.奥羽戦勝藩のその後。
講演内容と感想は省略。感想は、『庄内藩の戊辰戦争』を読み終えてからにしようと思う。面白そうだ。


当時、薩長(新政府)では、東北地方の人間を「知識の程度もすべて低位」「知識が進んだ者が、進まぬ者に号令したことの誤解」「暖地に生まれた利発なる者が、寒地に生まれた朴訥なる者に要求した誤解」などと見ていたという。失礼極まりないのである。
後年、盛岡出身の立憲政友会総裁、原敬が盛岡の報恩寺での「戊辰戦争殉難者五十年祭」で、「戊辰戦争は政見の異同(=不一致)のみ、当時勝てば官軍、負くれば賊との俗謡あり、其真相を語るものなり(1917.9.8)」と語ったという。
しかし私は、原敬をこのことから評価することはできない。(話がズレてしまった)

『楽知六講座』懇親会 と『物語しんかい』直会

2018-11-18 19:09:08 | 古文書、郷土史他

いやはや…、昨夜は呑み過ぎてしまったようです…。どうもすみません。掛け持ちの飲み会なんて、いい歳越いて遣るもんじゃないね! まったく。ご迷惑ご心配をお掛けした皆様、大変申し訳ありませんでした。反省‼


◯加茂地区に伝わる…


◯『物語しんかい:編集委員』

庄内には、なぜ西郷隆盛崇拝者が多いのか

2018-11-11 12:03:12 | 古文書、郷土史他

協立三川診療所デイサービスかがやきを会場に、庄内地域史研究所 三原容子氏の講演が、午前10時から行われた。
演題は『庄内には、なぜ西郷隆盛崇拝者が多いのか』。

三原先生は、「NHK大河ドラマ『西郷どん』の時代考証担当者である志學館大学の原口泉氏が、ドキュメンタリーではなく創作されたドラマだから誤解しないでほしいということ、子どもたちに「将来西郷さんのような人になりたい」と思ってもらいたいことを強調した」ことから、「視聴率を気にしつつ虚実を混ぜ込みながら娯楽性を求める手法は、大河ドラマの定番であり驚かないが、西郷隆盛を偉人にしたいとの方針を明言したことに驚いた」という。
ここから、西郷隆盛と菅実秀の二人について、1.現在流布されているイメージ、2.実像を求めて、3.イメージが作られた歴史的事情を話の筋として、とても分かり易く、詳しく、時には面白く講演が進んでいった。「テロリスト西郷と奸醜菅実秀」、う〜む、やはり読むと聴くとじゃ全然違うね。


史実は、やはりきちんとした形で残し、創作(美化)ドラマとして教科書なんかに載ることがないように広く周知する手立てが必要だなと感じた。
とても時間が足りないと感じさせた内容でした。素晴らしい、実に面白い。

松本十郎のことも、もっとよく知りたいと思った次第です。

楽知六講座『王祇祭と松例祭』

2018-11-10 19:00:00 | 古文書、郷土史他

先日、学区生涯学習部も務める棟梁から『楽知六[らくちん]講座』のご案内をいただいた。
私も以前、生涯学習部員だったこともあり興味はあったのだが、当時は確か平日に行われた(?)こともあり、講座に入ることはなかった。そして今回のお誘いは嬉しく興味を惹いた。

講師は、庄内民俗学会代表幹事 春山 進氏。
冊子『庄内のかたち』などのテキスト上での春山氏は知っていたが、実際に話を聴くのは初めてなので一番前の席に座った。
講座は、『田川の祭りと芸能」の全5回で、本日は第4講『王祇祭と松例祭』ということで、用意されている資料に目を通す。

因みに、第1講は『芸能はなぜ生まれたか』ということで、庄内地方における神楽等の伝統芸能の意味や祭事暦など。第2講は『獅子舞と獅子踊』で、各地域の獅子舞・踊りを解説している。第3講は『村に息づく農民芝居』で、黒森歌舞伎と山戸能・山五十川歌舞伎についての講義が行われていた。


◯王祇祭


◯松例祭

知るということは、ある意味…ワクワクと好奇心を刺激する。とてもイイ時間を過ごすことができた。
年末は松例祭、明けてからは王祇祭と行くことに決めた。

御家日用文章

2018-10-28 10:00:00 | 古文書、郷土史他

本日は「温故の会」の例会に出席してきました。先月は欠席したため、なんか久々にワクワクと古文書の読み下しに聞き入りました。
イイですなぁ、「御家日用文章」という幕末期に記された文書雛形集がテキストでした。全編を通して仮名が振られており、読みが今(現代)とは多少違っていて非常に参考になった。そして先生方も「御家流」をなぞって「くずし文字」を体得したことを知った。う〜む、まだまだ私は序の口なのである。奥が深いのである。とてもイイ時間を過ごすことができました。



◯寺入頼ミ遣須(す)文 (寺子屋入学願いの文)

未(いまだ)其願(きがん)候得共 兎角(とかく)
不同之季候ニ御座候処
倍(ますます)御繁栄被御座
賀上候 然(しかれ)者(ば)痴児(ちじ=愚息)
萬太郎儀 未幼少二而 殊二
御面倒筆学御門葉(もんよう)二
差加候様 … … … …


◯山王神社に手習所が在った頃の名簿

戊辰戦争期の官版日誌にみる庄内藩 講師:箱石 大

2018-09-29 16:12:28 | 古文書、郷土史他

先週日曜日の『温故の会』例会は、藤井氏の別荘拝見と重なり入会以来初めて欠席をした。なので何処か身体が「地域史」を所望しているのか、どうも落ち着かない。
本日開催された鶴岡市郷土資料館主催の「戊辰150年」記念歴史講演会をワクワクと待ち望んでいた次第なのです。
演題は「戊辰戦争期の官版日誌にみる庄内藩」、講師は東京大学史料編纂所准教授 箱石 大[はこいし ひろし]氏。
昨年、郷土資料館が発刊した『通史の中の庄内』の中で、箱石氏の「庄内藩の戊辰戦争」は読んでいたが、実際に講演を聴くのは初めて。想像した以上に若く、ちょっと早口だがノリが良い講演でした。良かったと思います。なるほど1965年生まれなんですね。

◯本講演のテーマ:新政府軍に所属した諸藩から維新新政府側に提出され、その後、官版日誌に掲載することによって公表された戦争届書という文書を素材に、戊辰戦争期における庄内藩についてみていきたい。


『太政官日誌』明治元年・第156「久保田藩(=秋田藩)届書写 戦争顛末概畧」の読み下しと地図上での解説は、テンポよく解りやすくて良かった。
新政府による官報での情報・宣伝作戦や、秋田藩サイドから見た(提出した)「秋田口の戦い」などは、「… …、十五・十六両日ノ合戦甚厳ク、賊(=庄内藩)前後ヨリ攻メ立ラレ、死者数百人手負ノ者ハ其数知レ申サス、垓下ノ一敗賊再ヒ不振瓦解土崩、遂ニ本国へ逃帰、諸賊尽ク降伏致シ、… … 」と、庄内藩をヤッツケた感が大いに出ていて自己PR情報戦的で面白かった。でも箱石氏は「庄内藩は強かった‼」などと二三回程強調し、庄内人への配慮も忘れなかった…?

講演の中で、「新庄藩は(地理的に)気の毒であった… …、庄内藩は新庄を焼き… … 」と話されたように、新庄地区を焼き払ったのは庄内藩だと解釈していいようだし、戦争終結後に賊軍の戦争責任者を出せとの命令に、「庄内藩だけ戦死者であった石原倉右衛門を首謀者として仕立てた。他藩では実際の責任者を差し出し処罰されたのに…(ズルいよね)。」的なニュアンスに、史家としての講師に安堵した。

道徳教科書への「徳の交わり~西郷どんと菅はん」掲載についての意見書

2018-07-09 09:26:43 | 古文書、郷土史他

ワッパ騒動義民顕彰会事務局から下記のメールをいただいた。

来年度から使用の中学校道徳の教科書採択を決める7月定例の鶴岡市教育委員会が、19日(木)午後3時から、櫛引庁舎3階にて開催の予定ということで、教科書採択関係は公開ということで、傍聴できるとのことです。もし、希望があれば傍聴してみてください。
当会の意見書は添付したように3日3教委と採択協議会長あてに提出しました。


そして添付資料は、西郷さんと菅さんの「徳の交わり」についての疑問点を、より具体的に記した内容となっている。


道徳教科書への「徳の交わり~西郷どんと菅はん」掲載についての意見書

教育行政に対するご尽力に敬意を表します。また、日頃よりワッパ騒動義民顕彰会の活動へのご理解とご支援を賜りまして心より御礼申し上げます。
この度は、中学校「特別の教科 道徳」教科書採択に当たり、開かれた教科書採択や生徒の実態を踏まえた慎重な教科書採択のためにご努力いただいておりますことに感謝いたします。
さて、今回の教科書採択に当たり1出版社ですが、庄内にかかわりのある「徳の交わり~西郷どんと菅はん」が掲載されました。一部「西郷どん」ブームもあり歓迎の向きもあるわけですが、当会で顕彰・研究しているワッパ騒動の史実とこの中学校道徳教育での「徳の交わり」を考えますと疑問な点が多々あります。
そこで、掲載されている教育出版の教科書が必ずしも採択されるとは限りませんが、当会としては中学生の道徳の学習教材としてはふさわしいとは考えられませんので、主な史実を紹介する形で意見書を提出させていただいた次第です。

参考文献等:
『国史大辞典』吉川弘文館
『庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会
『ワッパ騒動史料 下巻』
『鶴岡市史 中巻』
『新編 庄内史年表』鶴岡市 

(1)「西郷どん」こと西郷隆盛について
①1867(慶応3)年12月9日軍事クーデターとされる「王政復古」の大号令の首謀者
同年6月に大政奉還を目論む土佐藩(高知)後藤象二郎と盟約(薩土盟約)を結ぶ一方、10月には長州藩(山口)芸州藩(広島)の討幕派と討幕挙兵の盟約を交わし、大久保利通とともに岩倉具視とむすんで討幕の詔勅が朝廷から下されるよう工作したことで、この大号令が出されました。
②同年12月25日江戸薩摩藩邸焼打ち事件の挑発者
同年10月頃より西郷隆盛の指示で伊牟田尚平・益満休之助が江戸・関東のかく乱計画を立てます。そして、その計画を実行するため、西郷隆盛の命を受け下総の郷士(在郷の武士)小島四郎(のちの相楽総三)が江戸にもどり、浪人約500名を集め江戸市中で辻斬り、強盗、火付けの狼藉を働き江戸の町を不安と恐怖で混乱させることになります。
その西郷隆盛の命を受けた薩摩藩の狼藉の数々の取り締まり役(江戸市中取締役)を、幕府の命を受けた庄内藩士たちが担っていました。その時、庄内藩士の指揮を執ったのが松平(まつだいら)親(ちか)懐(よし)で菅(すげ)実(さね)秀(ひで)はその補佐役をしていました。
同年12月23日江戸城二の丸の炎上事件、庄内藩屯所(藩士の詰め所)への発砲事件という挑発事件があり、ついに、12月25日幕府の命を受け江戸薩摩藩邸の焼打ちとなったのです。
③1868(明治元)年1月3日鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)の挑発者
②の薩摩藩邸焼打ち事件をきっかけに薩摩藩を打てと江戸から幕府勢が大挙上坂し、それを迎える薩摩藩を主体とする討幕軍が決戦体制を整えます。
1月3日旧幕府大目付滝川具挙の鳥羽口赤池付近を守備する薩摩兵に通行を阻止され強行突破しようとしたことをきっかけに戦闘が始まりました。翌4日朝仁和寺宮嘉彰親王が征夷大将軍に就任し天皇から錦旗と節刀を渡されたことで、討幕軍は官軍となり幕府軍は賊軍とされ戊辰戦争が始まります。
④1868(明治元)年1月10日「赤報隊」結成の指令者
西郷隆盛の指令の下、江戸薩摩藩邸焼打ち事件を逃れた相楽総三らによって赤報隊が結成されました。赤報隊は、初め関東に逃げた将軍徳川慶喜や佐幕派討伐に向かう官軍総督府の官軍先鋒隊として、新政府から承諾を得た「年貢半減令」を喧伝(けんでん)しながら江戸に向かって進軍します。ところが、新政府が「年貢半減令」は不可能だと政策転換をします。多くの民衆がこの転換で新政府に対して幻滅してしまう事を防ぐために「初めから年貢半減令はなかった」とし、赤報隊は実は「偽(にせ)官軍」だとして官軍の手で処刑されてしまうことになるのです。

以上の例でも見られるように、西郷隆盛は誰もが知る偉大な明治維新の立役者ですが、幕末政界の裏面工作に暗躍していた人物でもあります。こうした史実に「敬天愛人」とは真逆の行動が見られ、道徳教育での「徳」を考える人物として扱うというのはどうなのでしょうか。

(2)「菅はん」こと菅実(さね)秀(ひで)について
1865(慶応元)年用人、1867(同3)年側用人、1868(同4)年戊辰戦争が起こると軍事係となり松平親懐(家老、大泉藩大参事、酒田県参事)と共に藩を指揮し、政治的手腕を発揮し戦後処理に当たりました。1870(明治3)年大泉藩権(ごん)大参事、1871(同4)年廃藩置県施行により11月から酒田県権参事となり、西郷隆盛と交わることになります。
1872(同5)年松が岡開墾事業を指導、1874(同7)年ワッパ騒動の責めを受け県政からは退くこととなりますが、「御家禄派」と称された旧藩主側近保守派の頭領として銀行・米倉庫・米穀取引所・蚕種・製糸・機業等酒井伯爵家関係の諸事業を興し、治政面でも強大な影響力を与えた人物です。
1890(明治23)年『南洲翁遺訓』をまとめ発刊しています。※その内容について、西郷隆盛自身(1877年9月自刃)は全然目を通してはいないわけです。


このように活躍をした人ですが、実際に調べてみると、下記のような史実が出てきます。

①1869(明治2)年戊辰戦争の賞罰を松平親懐・菅実秀・和田助弥等で相談し、「卑怯ヲ働キ我党ノ方針ニ妨ケヲ為シタルモノ」として元家老酒井兵部を隠居のうえ禄を400石減の600石に、元番頭堀松弥を禄300石減の300石としました。また、「戦争前門閥ノ威ヲ借リ法図ナキ栄華ヲ極メタル」ものとして元組頭里見広記の処罰も決めます。一方、自分たちの仲間(のちの御家禄派)数名の加増を決定しています。菅実秀の場合は、200石から900石に加増しているのです。
②明治になっても江戸時代庄内藩同様の年貢を取立てしていました。(当時県役人は大半が松平親懐・菅実秀を筆頭に元庄内藩士であった)それが原因となって、いわゆるワッパ騒動として農民たちが立ち上がることとなったのです。
③明治政府の布告(米納でなく石代納)通り年貢を金納にしてほしいという農民たちの願いを拒否したばかりか、酒田県への抗議に立ち上がった農民たちを松が岡開墾の士族たちを動員して武力で弾圧し、100人以上を検挙し牢屋に入れたのです。
④松が岡開墾では、「寸志」と称して萱・藁・丸太や杭・桑の添え木、開墾士族用の草履や薪などを各村から差し出させると共に、農民たちを人足として各組数数百~人数千人徴用しています。 
⑤元老院によるワッパ騒動の取り調べで明らかになりますが、すでに大蔵省所管で国有地になっていた鶴ヶ岡城の土手を崩して堀を埋め、酒田県権参事の立場でこっそり300坪ほど(最終的には約495坪)自宅私有地を広げています。それを見た城内土手沿いの旧庄内藩士たちは、同様に私有地を広げます。

なお、『南洲翁遺訓』に見られる「徳」は、「君子」つまり支配者、治政者、上司としての在り方や心構えの「徳」であり、民主主義の現代社会における価値とは相いれないのではないかと考えられます。

教科書掲載を機に、地域の歴史を学び地域を知り地域を創るきっかけになれば幸いですが、史実に目を閉ざし情緒的な「美談」が流布してしまうことにならないか懸念しています。

道徳教科書展示会のご案内

2018-06-25 20:01:50 | 古文書、郷土史他

先日、ワッパ騒動義民顕彰会の事務局から以下のメールをいただいた。

ワッパ騒動義民顕彰会 メール登録している会員の皆さまいつもお世話様です。
今、来年度から始まる中学校の道徳教科書の展示会を下記のようにしています。
荘内日報の記事を添付しましたが、西郷と菅の「徳の交わり」が教育出版の中学3年の教科書に載りました。皆さんはどう考えられますか。
「徳」と言いながら、菅はワッパ騒動のきっかけを作り、立ち上がった農民たちを弾圧した人物です。また、城の土手をつぶし堀を埋めて敷地を広げたり、酒井の転封阻止のための献金30万両を私物化した疑惑もある人物です。
その人が教科書に載るわけです。地元庄内の人が載ったと手放しでは喜べないと思いますが、他にも、様々な問題の多い道徳教科書になっています。
検定に合格した8社すべての教科書を見ることができます。
教科になって初めての教科書展示会ですので、ぜひ実際に見て意見用紙に意見を書いて出してほしいと思います。
(以下略)


早速、中央公民館に出向き閲覧してきた。


私は政治的しがらみは持って無い(と思っている)。ただ自民党には呆れている…、ガッカリだよ!! 嘘つき、傲慢、厚顔には辟易している。
だから、やはり歴史から学ぶ道徳とは一方的な美談ではなく、史実に忠実で有るべきと考える。
そして教え導く先生方の手腕(生き様)がもっと大事だよね。頼むよ先生方!

2018ワッパ騒動ゆかりの地めぐり 櫛引方面

2018-05-26 19:39:27 | 古文書、郷土史他

最高に心地良い晴天のもと「ワッパ騒動ゆかりの地めぐり」に参加しました。今年は「櫛引方面」とのことで、一昨年とカブる箇所はあるが、なんと言っても資料が詳細でわかり易く充実して良かった。素晴らしい!!
相変わらずの物知らずの私は、見るもの聞くもの皆新鮮でワクワクしながらも、鶴岡郷土史の奥深さを改めて識り感じた次第です。責任者の升川先生、櫛引地区のガイド・解説をされた先生、本当にありがとうございました。全く無口な私でしたが充実した一日を過ごすことができました。感謝!


◯稲荷村:遠賀社《櫛引通・嶋組》

明治7年8月25日、組一同の全戸で外内島の旦那に出掛け問い詰めた後、遠賀社に屯集し、村々から取り寄せた朝飯を食べた。



◯下山添村:八幡神社《櫛引通・嶋組》

しばしば農民等の集会場となる。明治7年8月、浦西らが参集した農民に「石代会社の規則」を読む。9月14日、櫛引通農民2,000人余米一升と飯2食分を持って参集し、松明かかげ法螺貝、鯨波をあげる。



◯板井川村:吉祥寺《櫛引通・青龍寺組》

佐藤専右衛門、佐藤治兵衛門らが活動。石代会社にも加入する。明治8年9月20日、村内の吉祥寺で戸長・伊藤敏則が切腹する。



◯片貝村:鈴木弥右衛門墓参《櫛引通・嶋組》

ワッパ騒動の先駆者。明治7年1月、石代上納を伊藤戸長に願い出る。再三願立てるが、やがて屋敷の取り壊し処分にあう。東橋の袂に墓地がある。


◯松根の渡し


◯宝谷村《櫛引通・黒川組》昼食

畠山多郎右衛門らが活動。石代会社にも加入する。


◯得其楽(そのたのしみをう)
南山(酒井忠治翁)書

「いかなる場所でも、そこで楽しみを見出す」という意味。どのような楽しみでも、素直に受け取ることが大切。そうすれば、大きな楽しみが手に入る。



◯黒川の文書館
主静立人極(静を主として人極を立つ) 忠篤 書

『至誠の域は、先ず慎読(しんどく)より手を下すべし。間居即慎読の場所なり。小人は、此処万悪の淵藪(えんそう)なれば、放肆柔惰(ほうしじゅうだ)の念慮起ざるを慎読とは云なり。是善悪の分るる処なれば、心を用ゆべし、古人云、「静を主として人極(じんきょく)を立つ。」と、是其至誠の地位なればなり。慎まざるべけんや、人極を立ざるべけんや』
(南洲翁遺訓 追加四より)

『聖人定之、以中正仁義、而主静、立人極焉』[聖人之を定むるに、中正仁義を以てし、而して静を主として、人極を立つ]:聖人はこれらのすべての事に、それにふさわしい位置を与える。それは聖人が中庸であること(中)、正しいこと(正)、人間愛にあふれていること(仁)、正義のかたまりであること(義)によって可能なのである。また、動ではなく静を基本として人間の標準を打ち立てるのであり、その聖人自身がまさにその最高の標準なのである。
(周濂渓の『太極図説』「近思録」巻之一)


◯王祇会館:つちだよしはる絵本読み聞かせ

黒川 春日社:明治7年7月末頃からしばしば農民等の集会場となる。数百名から千名前後が連日のように集まり、各所へ押し寄せたりする。


◯農地改革記念碑


◯高寺村:雷電神社《櫛引通・黒川組》

明治7年9月15日、櫛引通りの農民2,000人余が集結し酒田を目指す。徐々に進んでいったが藤島に士族隊出動の報告を受け、決断できないまま夕刻になり引き返した。


忠恕公、重病ご危篤の知らせ

2018-05-23 05:22:04 | 古文書、郷土史他

日曜日に行われた『温故の会』例会。
今月は私の番で、金井国之助日記の安政5年11月からの、鶴ヶ岡の様子を解読した。

金井国之助日記の11月13日付では、酒井忠恕(さかいただひろ)公がご危篤だととの知らせが届き、御家中大騒ぎの様子が記されている。

(安政5年11月)十三日式日詰、八ツ(PM2:00)頃引取る。
一、七ツ半(PM5:00)過ぎより長登へ寄り合いにて参り咄(はなし)居り候内、六ツ(PM6:00)過ぎ相成る。
「早ヤ、早ヤ!」と申す声、門前にて相聞き候に付、仰天いたし聞き立てさせ候所、早追(はやおい)御飛脚に相違無きよし。
嘸(さぞ)、世子君(=忠恕)御不快御不出来の事申し参り候にこれ有るべしと、安き心もこれ無く咄居り候所、又間も無く五ツ(PM8:00)前也。今度は駕籠の早ヤ参り。是は遠藤久右衛門也。
弥(いよいよ)、世子御大病の事に相聞へ、夫より少し相咄居り候て、… … …

【酒井忠恕[さかいただひろ]】天保10年(1839)12.26-安政5年(1858)11.5 世子(=跡継ぎ)。
11代庄内藩主酒井忠発(さかいただあき)の次男。江戸藩邸で生れて天保13年(1842)5月嗣子届出。嘉永5年(1852)土佐藩松平豊熙(山内豊熈)の次女瑛を妻とする。瑛は公武合体派の巨頭・松平容堂の義叔母に当り、庄内藩の重役酒井右京、松平舎人らは忠発を引退させ忠恕を立てて容堂の後盾による藩政改革の実現で難局を打開しようと画策する。安政4年(1857)忠恕は庄内に下向したが病のために急逝。密謀は瓦解し、改革派は藩政より遠ざけられた。(新編庄内人名辞典より)

と、人名辞典に記載されているが、日記を読む限り忠恕さんは江戸藩邸で亡くなったようだね。江戸からの早追に、御家老中はもとより国之助さん達まで大騒ぎ…。
TVでは大河ドラマ『西郷どん』も話題だが、この時代の庄内藩、バックグラウンドでは様々な派閥(?)の動きが…?
識ることは面白い、ふむ実に面白そうだ。