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坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

『大吉原展』と 新吉原を訪ねて <10:00am->

2024-05-10 10:17:35 | 古文書、郷土史他
Open15分前くらいに到着した。会場入口前にはすでに20人ほどが並んでおり、思ったより少なくて意外でもあったが安心した。(しかしその後、続々と入場者は増え続けた……)
『大吉原展』開催についてはSNS上で炎上し、新聞紙上でも開催意義に触れていたことは知っている。
「同展は開幕に先立ち、ピンク色のロゴや「江戸アメイジング」の文言で華やかさを強調し、SNSで無神経だと批判された。
公式サイトでは、「本展に吉原の制度を容認する意図はありません」と弁解したが、報道内覧会でも丁寧な展示内容と、広報が与えたイメージとのギャップを疑問視する質問が相次いだ。(4/9付、読売新聞)」、また「「イケてる人は吉原にいた!」などエンタメ性の強い文言が躍り、「吉原を美化している」といった批判が上がった。(4/25付、朝日新聞)」など、売買春や人権侵害等の負の事実よりエンタメ性(=娯楽性)を強く打ち出した広報(公式HPやチラシ等)へ批判が上がった。
同展学術顧問の田中優子氏(法政大学名誉教授)は、「「江戸アメイジング」のアメイジングとは、びっくりという意味。違和感はなかった。展覧会に目を向けてもらうため、題名に工夫をしている」、また「吉原の経済基盤は売買春だった。人権侵害で二度とこの世に出現してはならない場所。一方、文字や絵画など新しい文化が生まれる拠点にもなった。文化史から見て、見過ごすことは出来ない。両方があることを知ってください」と強調した。(同、朝日新聞)」と説明している。
氏の著書「遊郭と日本人」(講談社現代新書2021年刊)の冒頭に、ジェンダーから見た遊郭の問題として「遊郭は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることのできない場所であり制度である」と、わざわざ太字で記している。当然、今回の展覧会においても全く違いはないのである。


会場:東京藝術大学

田中優子著『遊郭と日本人』が、今回の『大吉原展』のベースにもなっていると思われるが、如何せん新書本で挿絵等はモノクロなのが残念だったが、今回会場で販売されていた大判サイズの『大吉原展 -YOSHIWARA- 』は、オールカラー(P316)で展覧会を細部まで網羅している。この一冊を読み返すだけで、本物を思い浮かべることができる。素晴らしい!

公式図録『大吉原展 -YOSHIWARA-

ちなみに、今年の酒田まつり(5/20開催)でも「花魁道中」が披露されると新聞等が報道じ、選抜された今年の花魁姿の写真とともに喜々とした母娘のコメントが載っていた。 
そこには、「北前船交易で栄えた酒田の花柳界…(云々)」とあるように、舞子も花魁も一緒くたにした華やかさだけが注目され、売買春や人権等の負の部分は、すっぽりと抜け落ちている。でもSNSで批判はされてはいない……ようだ。

展覧会場内唯一写真撮影OKの「江戸風俗人形」

「『江戸風俗人形』は、江戸を中心に文化・文政時代(1804-1830年頃)の妓楼を念頭に制作された作品。檜細工師・三浦宏氏(1926-2019)、人形師・辻村寿三郎氏(1933-2023)、江戸小物細工師・服部一郎氏(1933-2009)の三人の職人技が一体となってつくり上げ、廓の世界を現代に蘇らせたものである」と紹介されている。


浅草寺

展覧会を約3時間ほどじっくり鑑賞した後、上野公園で遅い昼食(コンビニサンド&缶ビール)を済ませ、新吉原跡を訪れるため浅草に向かって歩き始めた。
中国語、韓国語他が大声で飛び交う浅草寺に到着。都内の徒歩は楽しいねぇ。


山形県村山市奉賛会が奉納した大草鞋

浅草寺寺務所で、遠藤虚籟[エンドウ キョライ] の平和を祈った綴れ織りについて伺った。結果は、「仏殿に丁寧に仕舞ってあり、一般公開はしていません。また今後も公開する予定はない」とのこと。突然の訪問に、お忙しい中にも親切に対応していただいた。ありがとうございます。


待乳山聖天(まつちやましょうでん)

墨田川から山谷堀に入る舟は、この寺のある丘を目印にした。 
「寺のシンボルマークは巾着と二股大根。巾着はお金を、二股大根は性のもたらす豊穣を表現している。飛鳥時代からある寺なので吉原とは何の関係もないが、一般に、聖天が男女抱擁の歓喜天をシンボルとするためか、底抜けの明るさに満ちている。(「江戸を歩く」田中優子著・石山貴美子写真より)


山谷堀公園

山谷堀跡、江戸時代は日本堤より下の位置の水の流れる堀だった。 
「吉野通りと交わる辺りまで墨田川から舟が入っていた。鍬形恵斎の『江戸一目図屏風』を見ると、このあたりに少人数用の猪牙舟がぎっしり溜まっており、ちょうどタクシーの溜まり場のようだったことがわかる。山谷堀はここから細くなるため、舟で吉原に入る客はここで降り、葦簀張りの店を冷かしながら土手通を歩いたのである。(前出「江戸を歩く」より)」 


名所江戸百景「真乳山山谷堀夜景」歌川広重

 


見返り柳

 


吉原公園(旧 浅草新吉原江戸町一丁目)


「元和三年(1617)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは”葭原(よしわら)”と呼ばれた。そして寛永三年(1626)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(1656)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するよう命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五ヵ町であった。そのうちの江戸町一丁目は元和四年の吉原開設とともにできたが、はじめは本柳一丁目と呼ばれていた。その後、江戸が大変繁盛していたことから、これにあやかって江戸町一丁目と改称した」(旧町名由来案内看板より)


吉原公園向かいの風俗店街

 


浄閑寺山門


投込寺[なげこみでら](浄閑寺[じょうかんじ]
「浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政2(1855)年の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られてことから「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原總霊塔が建立された。
檀家の他に、遊女やその子供の名前を記した、かん寛保3(1743)年から大正15(1926)年にいたる、十冊の過去帳が現存する。
遊女の暗く悲しい生涯に思いを馳せて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。 荒川区教育委員会」(山門啓示板より)


榮法山浄閑寺

 


新吉原総霊塔

 

 


若紫の墓

 


次郎長寿司

背負うリュックも重く感じ始めた夕方5時。新宿に戻ってファストフード店での夕食より、ここ下町の店が良さそうだなと入ったのが『次郎長寿司』。日比谷線三ノ輪駅近くの、親しみを感じるような寿司店を選んだ。店内には清水の次郎長一家の写真が飾られている。寡黙そうな親方には訊けず、女将さんに「親方は静岡(清水)出身なんですか?」と尋ねた。「いやぁ、埼玉ですぅ、埼玉のxxxというところですぅ」とのことでした。「はぁ、そうですか……」と、旨い江戸前寿司を頬張った。酒は塩釜の浦霞を注文すると、思ったより大きなコップがトンと出された。疲れのせいか早く酔いが回ったようだ、「飲みきれなかったら持ち帰ってもいいから」と 女将さんが声を掛けてくれた。う~ぃ、東京だねぇ。

次郎長寿司、満足‼

深川芭蕉庵 と 大川(隅田川) <7:00am->

2024-05-10 08:14:37 | 古文書、郷土史他
芭蕉庵史跡 芭蕉稲荷神社

定刻通り、早朝5時に「バスタ新宿」に到着。「大吉原展」は、10:00Openなので、それまで芭蕉の住い跡を訪れてみる。
森下駅(都営新宿)で下車し、江戸深川を空想しながら芭蕉の庵跡を目指す。途中、信号待ちで隣にちょこんと並んだ小学生の女の子から「おはようございます」と挨拶をもらった。下町風情なのかねぇ、鶴岡だって挨拶できる子はいるのだろうけれど、それはとてもとても嬉しかった。
晴天の都内、墨田川の流れをこんな間近に見たのは初めてだ。綺麗に整備された河岸でジョギングやウオーキングを多くの人たちが楽しんでいた。パンツ一枚で歩いている男もいる(追剥にでも遭ったのだろうか?)、東京だねぇ。う~む、イイ一日になりそうだ。


芥川の愛した大川(=隅田川)

「殊に大川は、赭(あか)ちやけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」と云ふ大都会を静に流れてゐるだけに、其(そ)の濁つて、皺をよせて、気むづかしい猶太(ユダヤ)の老爺(ろうや)のやうに、ぶつぶつ口小言を云ふ水の色が、如何にも落付いた、人なつかしい、手ざはりのいゝ感じを持つてゐる」(芥川龍之介「大川の水」より抜粋)


深川芭蕉庵旧地

「俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年大阪で病死するまでここを本拠とし「古池や蛙飛び込む水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正6年津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同10年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。(以下略)」(芭蕉遺跡保存会掲示板より)


『深川芭蕉庵』

「古池や蛙とびこむ水の音」の名句を産んだ「蛙合せ」の興行が行われた場所として有名。
今月(5月)16日は「旅の日」だという。芭蕉が奥の細道へと旅立った日を記念して、日本旅のペンクラブが制定したのだと。芭蕉は1689(元禄2)年に江戸(ここ深川芭蕉庵)を出発し、名句を残しながら全行程約2,400kmを歩き「奥の細道」を残した。私も同じ行程を辿るのを夢としているが、今回千住大橋あたりまで行ければなぁと思案している。


万年橋

「万年橋は、区内の橋の中でも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので、この頃にはすでに架けられていたことがわかります。
江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締る、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661~73)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。
小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤(歌川)広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています」(江東区万年橋説明プレートより)


富嶽三十六景「深川万年橋下」葛飾北斎
1830(天保元)−32(天保3年)頃完成


名所江戸百景「深川万年橋」歌川広重
1857(安政4)完成

古文書解読講座 講師:杉原丈夫

2024-04-28 18:45:40 | 古文書、郷土史他
 
古文書解読講座
『幕末期出羽庄内横内村道中記 伊勢参宮道中記の世界』
講師:庄内酒田古文書館館長 杉原丈夫氏

伊勢参宮道中記文書の解読を行うものと期待して講義を聞き始めたのだが、ちょっと違った。
古文書を解読し探求する面白さや、杉原氏自身の古文書への向き合い方を述べた講演でした。
どちらかというと、古文書解読講座の会員へ誘う意味合いも強いかなと感じた。
「記念講演」とは知らず、「解読講座」だと意気込み過ぎて拍子抜けしてしまい、ちょっと残念。

『庄内藩と飛島』致道博物館

2024-04-22 15:09:13 | 古文書、郷土史他
 
致道博物館で催されている『庄内藩と飛島』に足を運んだ。以前から一度は行きたかった島だし、「温故の会」でHosoiさんが飛島に関する古文書の解読発表をされたことで、改めて面白そうだと飛島の歴史に興味を持った。


今、読んでいる「金井国之助日記」は、ちょうど安政6(1859)〜7年(1860)[万延元年]の頃の記録で、外国船の出現や蝦夷地北方警備などの様子が書かれている。今回の飛島企画展とも繋がるところもあり、とても興味深く見学させてもらった。


差出申一札之事「飛島船難破漂着 嘉永4年(1851)」


イギリス舟(船)之図 「御用控より」

【書き込み】安政六未九月廿七日飛島江着舟(船) (赤字)伝馬舟(船)ツリ上置也


御年貢鯣 見分ノ図 「飛島図画 天保11年(1840)より」

「金井国之助日記」では、スルメの単位を「〜手」として、「するめ二手到来」などと書かれている。サークル仲間内では、「1手=5枚(片手の指の数)」派と「1手=10枚(両手の指の数)」派とに分かれて、保留事項になっていた。
飛島では米が採れないので、年貢はスルメ(鯣)で納めている。そしてこの「見分の図」では、役人が5枚セットの鯣を秤に掛けている。
また下図では、手間ひまかけて仕上げた鯣5枚を、紐で編んでる様子が描かれている。これはやはり、1手=5枚が正解だろうね。


烏賊の制作全て成る図

【書き込み】のしては干し手数の成る事おびたゞし シオフキ、トビカラスなどとりて図の如く あみたてる

広報が納品になった

2023-12-26 21:04:13 | 古文書、郷土史他
 
シルバー人材センターに広報が納品になったと聞き、ワッパ騒動義民顕彰会の分として5部いただいた。ありがとうございます。広報委員の初仕事が終わった。


広報連載の『つるおか発見』というページがあって好評とのこと。そしてなんとこの度、私が原稿を書くことに……。
来年の2024年は「ワッパ騒動・農民蜂起150周年」の節目の年となる。多くの方々に関心を持ってもらいたい思いで「ワッパ騒動」の記事にした。
広報をご覧になったシルバー会員の皆さんが、「ほぉ…」と興味を示していただけたら幸いである。

大山 郷政録 温故の会

2023-12-17 21:04:15 | 古文書、郷土史他
 
毎月行われている、古文書サークル『温故の会』の例会。
Abe氏が年に2回ほど解読する大山郷政録は、毎回楽しみにしている。


しかし、物知らずの私には何を言っているのかチンプンカンプンなのである。
まず、米出新田村がどこなのか? なぜ捨水貰いの願い立てなのか? 林崎村に対してなぜそんなに気を使うのか? Abe氏が朗読する郷政録(古文書)と、その解読文を見比べるのだが、字面を追うだけでまったく繋がっていかないのである。あぁぁ……。


やはり自分でもう一度、自分のペースで原文を解読しながら筆記し、理解していかないと繋がっていかない。回転がにぶいのである、ハァ。

林崎村といえば林崎堰。林崎堰といえば、私の町を流れる青龍寺川の西大海橋・佐文屋さん裏手付近から分水していたはず……と、早速、『青龍寺川史』を開いてみる。
そこには、「明和年間(1764〜)に水不足が極度に深刻化するにともない、合理的な分水方法や用水確保を藩に要求する農民の運動が急速に高まっていった…(中略)、この時期における林崎堰の捨水利用をめぐる藩と農民との論争を中心にして、捨水に関する堰組の規制について見ることにしよう」(P128)などと記されている。それに大山川左岸と右岸との水問題に加え、天領と庄内藩領の農民間の諍いもあるようだ。
「筧貰取〜」の「筧」とは、大山川右岸(林崎村)側から左岸(米出新田村)側に、川の上に掛け渡した木の樋のことだったのかと漸くイメージを掴み、当時の模様を知る。
おぉぉ……、面白い、実に面白い‼

第97回庄内歴史懇談会巡見

2023-11-23 15:03:59 | 古文書、郷土史他
先日、町内会元文化部長のAbeさんから電話で、今年の『庄内歴史懇談会の巡見』のお誘いを受けた。
朝8:50、天気やや曇り。市役所玄関前に男性9人、女性4人の13人が集合した。以前『温故の会』に在籍した安野さんも参加しており、久々に楽しく会話させてもらった。お元気そうで何よりです。
巡見先は、致道館(解説:富樫恒文氏)→安倍家住宅(敷地内での見学、説明:阿部博行氏)→菅家(建物・庭園見学、講話:菅秀二氏)の3施設で、ちょうど昼頃までの見学会だったが、解説や講話も丁寧で分りやすく、物知らずな私にはとても勉強になった。


致道館


聖廟と解説する富樫恒文(致道館統括文化財保護指導員)さん



鶴岡市指定文化財 史跡 安倍家住宅
指定:令和5年1月26日

安倍家住宅は、安政6(1859)年の創建で敷地の広さや間口、建物等の配置、茅葺屋根や外壁を含め、藩政時代の100石取級の武士の住宅の状況を極めてよく伝えています。敷地も分割されることなく現在まで住み継がれてきたことは、大変貴重な事例です。
(鶴岡市教育委員会社会教育課 掲示看板より)



安倍家裏庭より


旧松本十郎邸の孟宗竹林

今後、松本邸は第3学区学童保育施設の改築地として市が取得し、「隣接する安倍家住宅の保存活用事業と調和を図って進めていく」としている。


菅家庭園


枝垂れ桜


相逢如夢又如
飛去飛來悲且欣
一諾半錢慚季子
晝情夜思不
送 菅先生 南洲 (印) (印)

[あ]い逢う夢の如[ごと]く 又雲の如し
飛び去り飛び来[き]たって 悲しみ且[か]つ欣[よろこ]
一諾[いちだく]半銭[はんせん] 季子[きし]に慚[は]づれども
昼情[ちゅうじょう]夜思[やし] 君を忘れず

<大意>会えたかと思えば、また別れなければならぬ。あたかも飛び来たり飛び去る雲のごとく、逢って欣んだのもつかぬ間、また別れの悲しみが待っている。自分が廟堂にあった時、あなたに約束したことも[開墾事業に対する援助など]空しくなってしまい、然諾を重んじた季布[漢・高祖の名臣]に恥ずるものがあるが、なお貴方がたのことを、夢の間も忘れるものではない。
 菅先生に贈る 西郷隆盛
(『菅実秀と庄内』安藤英男著p216より)


我家松籟洗塵縁
満耳清風身欲
謬作京華名利客
斯声不已三年 南洲 (印) (印)

我が家の松籟[しょうらい:松風の音]塵縁[じんえん]を洗い
満耳[まんじ]の清風身僊[み・せん:仙人]ならんと欲す
[あやま]って京華名利の客[けいかめいりのかく:都に出て名誉利益を追う客]となり
[こ]の声聞かざること已[すで]に三年

<大意> 故郷の我が家の松風の響きは俗世間のしがらみを洗い流してくれる。耳いっぱいに響く清らかな風のおかげで、 この身も仙人になれそうだ。道をあやまって、 にぎやかな都で名声や利益を求める人間にな ってしまったおかげで、このすがすがしい松風の音色を三年も聞くことができなかったのだ。


落款 藤氏隆永(上) 南洲(下)

西郷隆盛の名が、隆盛ではなく、隆永であること物知らずな私は初めて知った。そうだったのか。

最上義康公首塚

2023-11-12 23:22:59 | 古文書、郷土史他
 
朝日からの帰り、前から気になっていた最上義康の首塚を確認した。


『最上義康』
 修理太夫、天正3年(1575)~慶長8年(1603)8.16 武将。山形城主最上義光の長男。慶長5年(1600)9月は長谷堂合戦で上杉景勝の武将直江兼続と戦って伊達政宗に援兵を依頼。翌6年(1601)3月、酒田城攻撃の総大将となる。その後、父義光と不和を生じて同8年(1603)高野山入りを命ぜられ、庄内丸岡の一里塚を通りかかったとき、義光の密命をうけ待ち伏せしていた土肥半左衛門から銃で撃たれて死亡した。享年29歳。のちに義光はこれを深く悔い、山形の常念寺をその菩提寺にするとともに、同寺の岌讃専阿[キュウサンセンア]を鶴岡の天翁寺に派遣してこれを中興し、寺号を常念寺と改めて義康の霊を弔わせた。(庄内人名辞典より)


首なし地蔵堂と修理塚 (11/27撮影)

 戦国の武将山形城主・出羽守最上義光嫡男、修理太夫義康公は、家督の件で悪い家臣のおとしいれによって父義光公から追放され、わずか15名の家来を連れ高野山に登る途中、父義光の重臣大山城下対馬守の与力、土肥半左ェ門の待ち伏せにあい、ここ一里塚で首をはねられました。慶長8年(1603)8月16日、義康29歳。
 一里塚の村人は、修理太夫義康と主従をあわれみ、遺体を手厚く葬り、この地を「修理塚」と名付けました。霊を慰めるため、2体の石像を安置し赤い腹巻きで包み、お堂にお祀りしたが、一夜の内に首が落ちました。その後、何度となく首を据えてもすぐに落ちるので(首なし地蔵)と呼ばれています。
 首なし地蔵堂のお祭りは、毎年4月24日、修理塚地蔵様供養のお経をあげ、この日だけ開帳されています。非業の主・修理太夫義康公をはじめ主従の遠い時代を偲びあう祭典が、講中一同の手により400年もの間続けられております。
   櫛引町指定史跡「首なし地蔵堂と修理塚」 平成14年1月15日 櫛引町教育委員会
(地蔵堂説明書きより)


片桐繁雄著『戦国の明星 最上義光』(2014.1 発行)

元北海道開拓使大判官松本十郎と庄内 講演 三原容子

2023-10-24 18:41:29 | 古文書、郷土史他
 
ワッパ騒動義民顕彰会でも相談役を務めている三原先生の講義「松本十郎」を聴講した。
久しぶりに酒田文化センターの3階まで上がった。過去には競技かるた会の練習会場だったり、酒田民俗学会誌発刊打ち合わせの場だったりと公私に渡ってお世話になった施設なので、懐かしさを感じながら、酒田郷土史研究会が主催する会場301号室へと向かった。
なんと、今回の講演会を最後に解散するという当研究会には、以前仕事上でお世話になったJAOBの方が2名も居られ、懐かしく感じた。会誌もご購入いただき感謝です。


1階ロビーには、書籍「太陽建築」出版記念シンポジウム開催のポスターが掲示されていた。ありがとう!

「ゆどの詣で」全行程を歩く 3日目

2023-09-18 18:54:08 | 古文書、郷土史他
大岫峠から下り、田代沢付近にあった熊の足跡。


山船頭人の布施範行さん(西川町)と伊藤哲哉さん(大鳥地区)

最終日の今日は「湯殿山→龍ケ池→ニノ峠→大岫峠→焼山尾根→志津五色沼→志津口留番所跡」約9km、標高差430mのコース。
案の定、左膝の腫れと痛みで辛いところではあるが、今回心待ちにしていた一番のコースなので、ワクワクと歩き始めた。


龍ヶ池まで一気に登る


雨池


大岫峠


峠 真壁仁

峠は決定をしいるところだ。
峠には訣別のためのあかるい憂愁がながれている。
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする。
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない。
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける。
峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい。
みちはこたえない。
みちはかぎりなくさそうばかりだ。
峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
たとえ行く手がきまっていても
ひとはそこで
ひとつの世界にわかれねばならぬ。
そのおもいをうずめるため
たびびとはゆっくり小便をしたり
摘みくさをしたり
たばこをくゆらしたりして
見えるかぎりの風景を眼におさめる。


焼山尾根


道普請供養塔


五色沼


石畳


志津口留番所跡


まいづるや

「ゆどの詣で」全行程を歩く 2日目

2023-09-17 18:42:19 | 古文書、郷土史他
2日目のコースを歩き終え、「民宿田麦荘&そば処ななかまど亭」の前で記念撮影。
しかし今年10月末で閉店するとのこと。常連客ではなかったけれど思い出のあるお店でした。残念だねぇ。閉じる前にもう一度蕎麦を食べに行こうと思う。


七ツ滝

中日の今日は、「田麦俣 → 蟻腰坂 → 細越峠 → 湯殿山奥の院」約9km、標高差660mのコース。
このコースは13年前の春に「雪ツバキ回廊トレッキング」で、一度歩いているが、とても気持ちよく爽快だったことを思い出した。
昨日の疲労感というか、左膝に鈍痛の違和感が少々気になるが、まずまずの天気に安堵し軽やかな気持ちで集合した。


出発

皆さん、笈摺[おいずり]と菅笠を身に纏い、とてもよく似合っている。私は似合っているのだろうか?
山船頭人(ガイド)は、会長の小野寺さん一人だけだった。皆さん稲刈り等で忙しいのかな? スタッフの鈴木さんは昨日に引き続き、よろしくお願いします。


蟻腰坂


弘法茶屋        龍神ブナ


十王峠と塞ノ神峠

振り向けば、昨日歩いた十王峠と塞ノ神峠が遠くに見えた。


独鈷茶屋跡


独鈷スギと茶屋の古写真       護摩壇石

倒木前の独鈷スギ(=ねじれ杉)と茶屋の古写真を見せてもらう。茶屋の実像が私のイメージと違ったことに、思わず苦笑いをしてしまった。


月山展望台


大掘抜         細越峠


湯殿山遥拝所


笹小屋跡        湯殿山参籠所

以前歩いたときは、笹小屋跡から街道を進み『湯殿山ホテル』へと向かったが、今回は湯殿山奥の院で特別祈祷を行うため、分岐点から湯殿山参籠所へと向かった。


湯殿山神社本宮

参籠所からバスに乗り湯殿山神社に到着。
湯殿山神社は「語るなかれ」「聞くなかれ」といわれ、本宮は撮影禁止、裸足で参拝する神秘的な場所。
初めて湯殿山神社をお参りし、ご祈祷してもらった。そして熱めの足湯は非常に気持ちよかった。
今日も大満足の一日を過ごすことができた。感謝。

「ゆどの詣で」全行程を歩く 1日目

2023-09-16 18:58:33 | 古文書、郷土史他
 
「出羽の古道『六十里越街道』古道歩き」のイベントを知る。
かねてから念願であった「松根 → 大網 → 田麦俣 → 細越峠 → 湯殿山 → 大岫峠 → 志津」の行程で、庄内(松根)から内陸(志津)まで3日間かけて歩く、あさひむら観光協会の企画に参加した。

初日の今日は、「本明寺→松根八幡神社→十王峠→注連寺→大日坊→田麦俣」約11km、標高差400mのコース。
このコースは古道に沿って市道もあり、以前ロードバイクで走ったことがある。今となってはイイ思い出だなぁ。
生憎天気は、朝から雨模様だ。先日までの晴天猛暑続きからしてみれば「なんてこった、誰なんだ雨人間は⁉」と呟かずにはいられない。


集合場所は「あさひむら観光協会」駐車場。参加者19名で、関東圏から8人、遠くは大阪から1人、秋田、長井から1人ずつ、庄内から8人という元気な老若男女が集まった。六十里越街道山船頭人(ガイド)3名、スタッフ1名がマイクロバスに乗車し、小雨模様の中、最初の目的地である『松根の渡し』へと向かった。


松根の渡し

幕末頃の渡し賃は銭5文(約10円)だったと知る。


本明寺

まずは『弘法の渡し』を見学後、『本明寺』までバス移動し、住職の話を聞き、即身仏の本明海上人を拝観した。由来等は『湯殿山と即身仏』に詳しいのでここでは省略する。


元気に歩きだします

本明寺を後にし、初日のガイドを務める山船頭人会長の小野寺良寛さんを先頭に、渡部進さんや協会スタッフの鈴木順さんを後備えにして、古道を歩き始めた。


うなぎの背中付近から


十王峠


イタヤ清水


注連寺


大日坊

昨年の夏に長女夫婦、長男夫婦と二度、即身仏の真如海上人を拝観し、同時に住職から寺の由来も詳しく聞いていたが、山船頭人の小野寺会長から、大日坊の山門移築の話を聞き、山門茅葺き屋根の修繕など維持費が賄えなくて、真室川正源寺に移築されたことを知った。


皇壇のスギ

ここを訪れるのは、「ワッパ騒動ゆかりの地めぐり」の時以来二度目。あまりにも敷地が広すぎてイメージがついて行かない。


湯殿山大日坊之景


塞の神峠

田麦俣の児童達は、毎日ここを歩いて大網小学校まで通学し、冬の大雪の日などは、昼頃に到着して弁当を食べ終わると「もう下校しなさい」と言われたという。いやぁ大変だったんだね。しかし何より驚いたのは、普段田麦俣から大網まで1時間半で歩いた子どもたちの健脚ぶりだね。


柳清水


民宿「田麦荘」

ワッパ騒動義民之碑建立記念講演

2023-09-14 20:36:38 | 古文書、郷土史他
 
ワッパ騒動義民顕正会主催の秋の講演会が、第四コミセンを会場に午後2時から開催された。
講師に、本会顧問である庄内地域史研究所代表の三原容子氏をお招きし、『私と庄内地域史研究 -ワッパから拡がる多くの課題- 』について話していただいた。


講演内容
◯多くの人々が関心を持って歴史研究の環に加わってくださることを願って
1. ワッパ騒動(ワッパ事件、庄内ワッパ事件など)の概要
 (1) 地域で知られてきたのはここ20年
 (2) 「Wikipedia」の「ワッパ騒動」の冒頭
 (3) ポイント
 (4) 各段階(前期+百姓一揆的活動時代+裁判闘争時代)
2. いつどのようにワッパ騒動を知ったのか
 (1) 京都時代
 (2) 2000年秋から自分の関心と講義準備のため庄内関係、山形県関係の本を手当たり次第読む
 (3) ショックを受けた2つの発見、なぜだっ‼
 (4) なぜ⁉ の答えとして「ワッパ騒動」を知る
 (5) 山形県・酒田市・公益大による「庄内は公益の故郷」キャンペーンへの反論をまとめる
 (6) 上記反論を準備中(2005年)に顕彰を進める星野正紘氏と出会う
3. ワッパ騒動が長く知られてこなかった事情
 (1) 一般的に近現代史が知られない理由
 (2) 特に庄内の特殊事情により地元の歴史が知られない理由
4. 現在までのワッパ騒動研究
 (1) 『大地動く』
 (2) その後


大変興味深い内容のご講演でした。
庄内の特殊性を内包した複雑かつデリケートな部分も取り上げられ、良かったと思う。
初めて参加した人も、興味津々「凄く為になった‼」と感動していた。


講演会の後、総会が行われた。
活動報告、決算が報告され、来年度(2024年度)のワッパ騒動150周年記念に向けての活動計画及び予算案が承認された。

多くの方々が会員になってくれたら嬉しいなぁ。