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坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

いやぁーっ 暑い‼

2023-08-06 23:43:25 | 古文書、郷土史他
 
大手町フィナンシャルシティの片隅に立つ「庄内藩酒井家神田橋上屋敷跡」地の標柱。
やはり一度は訪れて見たかった場所の一つだ。


大手町フィナンシャルシティ・ノースタワー

右端神田橋御門「酒井左衛門尉」

浅草寺 風雷神門

金龍山浅草寺本堂より宝蔵門を見る

「カフェ ヒビキ」でミートソース&生ビールのボッチ昼食

東京国立博物館

蚊帳から出る美人 鈴木春信

東都名所・佃島 歌川国芳

歴史ロマン愛好会『アツシ判官松本十郎について』

2023-07-14 19:18:49 | 古文書、郷土史他
 
先月に開催された中央公民館主催の春季講座で佐々木勝夫先生の講義を拝聴し、「松本十郎は庄内でもっと顕彰されるべき人物だ。このままでは忘れ去られてしまう」との先生の言葉に刺激され、今回の『歴史ロマン愛好会』の講座に初参加した。
今回の講義内容は、中央公民館のときの内容とほぼ同じだったが、おさらいも含め良い時間を過ごせたと思う。最後の質疑の時、先生に「鶴岡で忘れ去られてしまいそうな松本十郎」について率直な考えを伺った。応えは「… … … … … … 」だったように理解した。難しいよね。


何年かぶりに訪れた櫛引老人福祉センターに、以前営業で何度も伺った記憶が思い出され、鳥渡懐かしさを感じた。スタッフに知ってる人はもういない。


『鶴岡の誇り・松本十郎と北海道開拓』講座終了

2023-07-05 22:20:12 | 古文書、郷土史他
後列中央・松本十郎「明治大正期の北海道(写真集)」から

鶴岡市中央公民館春季講座『鶴岡の誇り・松本十郎と北海道開拓 -アツシ判官の足跡をたどる- 』講師:佐々木勝夫氏による3回の講座が終了した。

講座のねらい:北海道の開拓に尽くした『鶴岡の誇り・松本十郎」は、1869(明治2)年、開拓使判官として根室に着任し「アツシ判官」と呼ばれた。その後の大判官の足跡も辿り、アイヌ人と北海道の開拓の歴史とを重ね合わせて、その峻烈な生き方を共に学んでいきたい。

講義の終わりに、佐々木氏が「まだまだ語り尽くせない」と言われたように、もっともっと松本十郎の研究成果を深く語りたかったのだろうと感じた。そこで「今月14日に櫛引老人福祉センターで続きをやるので、興味のある方は是非来てください」と話された。
おぉ、それはそれは是非とも伺ってみたいと思う。
そして、21日(金)から始まる櫛引生涯学習センター主催の「古文書解読講座『もののけ』を読む」の参加申し込みも行った。

歴史講演会「家康と忠次が生きた時代 −危機を乗り越えた先に−」

2023-06-03 20:02:42 | 古文書、郷土史他
 
「酒井家庄内入部400年記念事業NEXT100連載企画」と銘打ち、酒井忠次ゆかりの地で、大河ドラマ「どうする家康」の時代考証陣が語る歴史講演会が中央公民館で行われた。


講演1. 家康と忠次「二人が歩んだ徳川家の戦国時代」
   講師(左):柴 裕之氏(東洋大学文学部非常勤講師)
講演2. 家康vs武田信玄・勝頼「戦争と外交」
   講師(右):平山 優氏(健康科学大学特任教授)
対談 平山氏・柴氏「時代考証から見た家康と忠次」
   MC:菅原義勝氏(致道博物館学芸員)

NHK大河ドラマ『どうする家康』の時代考証をされている講師方の講演と対談は、なかなか面白く感じた。これは4月30日の開かれた平野明夫氏(國學院大学兼任講師)の講演会「酒井家の歴史と徳川家康」を聴き、心許ない知識と興味をもっていたからか。今回、酒井家の家系、家康最大の危機、十二ヶ条の訴状と信康・築山殿事件、戦国時代の外交や人質など、二つの講演と対談と、とても興味深く聴かせてもらった。

続 鳥海山を一廻り と 矢島町日新館

2023-06-02 23:52:17 | 古文書、郷土史他
由利本荘市鳥海町Map「道の駅 清水の里鳥海郷」Leaf.より

今回のShimadaさんとの小旅行は、とても勉強になった。戊辰戦争の記録を違った角度から見れば、景色が変わって見える。さらには理解が繋がりをもって広がってゆく、気持ちの良い感覚が楽しかった。Shimadaさんは言う「史跡を廻ることは、座学とは違って知識が定着し易いんだ」と。確かに物知らずな私は、読んだ書物の中には字面を追っただけの箇所がいっぱいある。最近やっと少々知識が繋がってきた感じが鳥渡嬉しいのだが……。

金山町といえば恥ずかしながら『金山杉』と『米の娘ぶた』しかイメージできなかった私だが、『仙台藩士戊辰戦歿碑』や『戊辰戦争三本松戦跡』を訪れ、「官軍と言い賊軍と言っても、時の勢と立場の相違からきた同胞相うつ悲しい戦であった。金山の人々は、以来これらの霊に香華を手向け厚くその冥福を祈ってきた」と記す心の温かさに、金山町が好きなってしまった(単純なのである)。そして旧羽州街道沿い点在する歌碑も効果的に金山町をPRしていたのは良かった。


島田家文書「慶応四年 他行其外日記并桝田詰中諸扣」

旧羽州街道から国道13号を北上し、秋田県院内で立体交差する国道108号を見逃すという時間的ロスはあったが、ちょうど昼頃に道の駅「清水の里・鳥海郷」(鳥海町)に到着した。一番の目的である百宅側の鳥海山を訪れる前に、まずは「百宅蕎麦」で腹ごしらえ。なかなか美味しいが、蕎麦湯が付かないので☆二つ減。でもスタッフの親切な対応には☆五つ‼


  (解読文)
  今度 官軍矢島口ゟ向ひ候趣
  相聞ニ付 先達之通 大組頭 猟
  師縅之者 桝田へ相詰候様 十日 御達
  相成 十一日相詰申候  ※7月11日
      覚
  昨十一日 桝田村三五郎と申者
  矢島領百宅村へ 為聞繕
  指遣候処 今日罷帰申聞候 同領
  直根村大名主 当十日 急ニ矢
  島城下へ被呼出申達候ニ
  矢島人数 百宅へ 今明日中
  出張いたし候ニ付 早々宿向用
  意いたし候様 尤 当十四日頃ゟ
  … … … … …

道の駅の案内スタッフから、法体の滝までの経路と所要時間を訊き、百宅を目指した。ここから見える鳥海山は庄内側のそれとは随分違うことに新鮮さを感じた。古くから交流があったであろう升田と百宅、そう考えると戦とはなんと無駄で悲惨なことだったか……と強く感じた。
法体の滝では、清流と呼ぶに相応しい子吉川上流の景観を楽しんだ。その後更に上り祓川を目指した。1868年7月21日、庄内藩四番大隊別隊の3隊が鳥海山山頂越えして一息ついた祓川神社(標高1212m)からは、矢島町方面が眺望できた。


坂本俊亮「戊辰戦争と新庄藩 上」

 ◯第15章 金山の役
7月11日のこと、銀山越えの夜行軍にて鏡沢に出た桂太郎率いる長州・肥州隊250人は、及位[ノゾキ]村に煙の上がるのを見捨て、漆野から日当[ヒアタリ]の羽州街道に出て午後3時には森合峠の麓に達し、峠の山上に布陣する梁川播磨[ヤナガワハリマ]の防衛線に相対した。
(中略)
この時は既に新庄藩は政府軍との内応が約束されていたし、梁川は新庄藩の寝返りを以前から疑っていたのである。
森合峠に向かった政府軍は新庄軍の軍旗を認めると、これに向かってはいっさい発砲せず、新庄軍も官軍には発砲しなかった。新庄兵は空砲を撃ち、あるいは戦術離脱の行動をとったので、梁川軍の防衛線はたちまち破綻した。
(中略)
仙台藩隊長の梁川播磨は腹背から新政府軍の攻撃を受け、袋の鼠の窮地に立ち仙台軍は混乱の極みに陥った。南北から挟み打ちにされた仙台軍は、政府軍に散々な敗北を喫し進退窮まって壊滅状態になった。東西に逃げたもの以外は金山北端の三本松に至って、そこでほぼ殲滅した。
(中略)
さて、森合峠で官軍についた新庄藩の隊は、官軍の本道を上がるのを見すまし、頃合いを見て飛森間道に下り、飛森村を経て平岡に入った。
(中略)
(新庄藩)隊長の常井と高橋の二人は隊下の一同を御橋のたもとに遣わして本丸に入り、玄関から土足のまま御席に参じた。藩主(戸沢)正実から「大義」との御意を賜った。開戦の時刻など御下問あり、官軍には発砲せずと言えば、「それは良かった」との仰せであった。
(PP145-148)


佐藤賢一「新徴組」

 ◯十三、矢島
7月26日、庄内藩四番大隊別隊は蕨岡登山口に詰めた。新徴組3隊106人。取扱頭取は一番隊が林茂助、二番隊が白井為右衛門、三番隊が赤沢源弥と、いずれも庄内藩士であるとはいえ、その雰囲気は他の大隊、いや、四番大隊と比べても、いくらか違うものになった。今野順次郎という遊佐郷大庄屋今野家の倅までが、案内を兼ねての農兵50人を連れて合流、さらに送り人足100人をあわせて、最終的には総勢250人余の行軍になった。やや雑多な感が否めなくなるほどに、我らこそ最精鋭たるを示すのだと、新徴組は士気を高めるばかりだった。
(中略)
鳥海山も頂で明かす夜となると、もう真冬に等しかった。それも大半の隊士が経験したこともない、北国の厳しい寒さだ。
(中略)
寒くて、寝ていられない。いっそ起きよう。誰彼となく言い始めたものが、実行に移されていた。夜も明けきらない早朝までには、全員の身支度が完了して、結局のところ、ほとんど徹夜での進発となった。土地勘のある農兵などは、すでに山を下っており、祓川神社の宿泊所というのも、そこで待つと連中が言いおいた場所だった。
(中略)
山林を抜けると、広々とした湿原が現れた。竜ヶ原湿原というらしいが、その辺に建つのが祓川神社だった。
山頂の寒さから逃れたい一心でか、あるいは滑り落ちるくらいに急な下り坂に助けられたか、祓川神社には当初予定より随分早い到着になった。お天道さまの高さからしても、まだ昼九ツ(午後12時)になっていなかったが、朝食が早かったし、なにより、これから先は敵地であるからと、皆で糧食を使ってしまうことにした。
(PP407-413)


杉村顕道「彩雨亭鬼談」より

 ◯鳥海山物語
鳥海山という山をご存知でしょうか。
山形県と秋田県の県境線にあって、そうですね、海抜にしてどの位ありますか、相当高い山です。俗に秋田富士と呼ばれていますが、やっぱり山形県の鶴岡・酒田辺りから眺めるより、秋田の横手、大曲附近から見るほうが秀麗な山容をしています。
(中略)
時は亨保、世は8代将軍吉宗の治世。そして人は善政に平和を謳っていた。だが然し、ここ奥州の天地では、庄内藩と佐竹藩との間に鎬[シノギ]を削って、領地争いが続けられていた。即ち、鳥海山が果たして両藩の何れに属するかという問題である。
この争いは既に13年の長きに亘って続けられていたが、依然として解決の光明を見なかった。その結果は遂に両藩から幕府に懇請して大公儀の現地検問、両藩代表者の対決訊問という最後の大詰まで来てしまった。
その頃、庄内藩の上席家老に加藤大弐と呼ぶ人があって、当時既に50の坂を5つ6つ越していた男盛り、しかも老獪無類の大政治家で、見識力量先ず庄内藩始まって以来の人物と尊ばれていた。
(中略)
そうこうしている中に、遥々[ハルバル]江戸の幕府から役人が出張し、矢島藩の舘屋敷で、晴れの対決訊問の日がやってきた。
庄内藩の代表は約束通り上級家老加藤大弐、片や佐竹藩側の立役者は(佐竹藩の分藩)矢島藩の家老渡辺図書[ズショ]、これが又、花も恥じらう22歳の青年であった。
(中略)
遂に図書は口惜し涙を流した。
「然らば拙者の口上を御取次ぎ願い度し。先年大夫(=家老)に欺[タバ]かられて、まんまと鳥海山を盗み取られしは不覚の至とは申せ、拙者当時の責任者として、藩主に対し申し開き相立ち申さず、依ってその申し訳のため、恐縮ながら御当家御玄関式台を拝借して切腹致す所存故[ユエ]、右の次第を強[タ]って御承引願い度し」と式台にどっかと座って、手早く肌を寛[クツロ]げ、小刀を以てグサッと左腹に突き立てた。
(以下略) 
(PP43-56)


祓川から矢島町に向かい、島田さんの意向で矢島町図書館を目指す。由利本荘市役所矢島総合支所では、女性職員が心良く図書室を併設する矢島日新館の場所を教えてくれた。親切なMAPでの対応がとても好感が持てました。
日新館の図書室で佐林宏一氏の「由利戊辰戦争古文書集」を紹介してもらった上、更には非売品だという此の書の入手と、在庫無しという「第1集」の全コピーの承諾を佐林氏からいただくため、忙しい中、良心的に対応してくれた生真面目そうな女性職員には、大変お世話になりました。心より感謝です。
また隣接する矢島郷土文化保存伝承施設の職員さんにも親切に対応していただいた。重ねて感謝致します。

鳥海山を一廻り

2023-06-01 23:53:59 | 古文書、郷土史他
祓川登山口からの眺望(矢島・鳥海方面)

朝、古文書「温故の会」の大先輩Shimadaさんから「現在、黒瀬林道は通行止めで復旧の見込みはないとのことなので、秋田県側から行ってみないか?」的な内容の電話をいただいた。これは、Shimada家に残る戊辰の記録「慶応4年『他行其外日記并桝田詰中諸控』辰3月下旬ゟ」の解読で、旧八幡町升田地区と秋田県由利本荘市鳥海町百宅地区に繋がる山道での戊辰戦争の記録から、実際に訪れて見たいと思ったことに依る。
天気もよく、午前9時に庄内町狩川の道の駅「風車」で待ち合わせ、私の車で出発した。訪れた場所は、狩川→(R47-R13)→金山町→(R13-R108)→秋田県鳥海町→百宅→祓川→矢島町→(本荘IC)→酒田→狩川と、鳥海山をぐるっと一周した。
帰宅したのは午後6時半過ぎだったが、大変勉強になった楽しい一日だった。感想は「続編」に続く。


仙台藩士戊辰戦歿碑

「これは明治23年旧仙台藩士遺族有志によって建てられた追悼碑である。
慶応4年(戊辰・1868年・9月に明治と改元)3月、江戸城は天皇を奉ずる薩長土肥等の新政府軍に明け渡された。しかし徳川恩顧の大名の間に反感が強まり、東北諸藩は同年閏4月23日、宮城県白石で仙台藩を中心に、奥州同盟を結成し、奥州鎮撫総督九条道孝、副総督沢為量を主班とする薩長主力の新政府軍と方々で激しい戦いをまじえた。
この時、新庄藩は結局新政府軍(官軍)としての態度を貫いたが小藩のことであり、終始苦しい立場にあった。新政府軍の主力は秋田にあり、同盟軍の主力仙台勢500余名は5月末仙台を発し、交通の要路金山に軍を進めた。
7月11日、長州の桂太郎(後の総理大臣)を将とする新政府軍は北方森合峠から、一方薩摩兵を主とする一隊は役内から有屋に出て金山を攻めた。両面に敵をうけた仙台藩兵は大混乱におちいり、当日夕刻隊長梁川播磨は当町田屋四本松で壮絶な戦死をとげ、軍監五十嵐岱助ら戦死者合計33名を数え、仙台藩は潰滅した。
敵と言い、味方と言っても日本人同士の悲しい戦いであった。なお新庄城が同盟軍おもに庄内勢に攻められ、落城するのはこの3日後7月14日のことである。
この碑は戦死者の遺骸を葬った場所に建てられている。
 昭和54年8月 金山町」
(案内板より)



仙臺藩士戦死之墓    羽州街道中ノ森峠入口



西田羽長坊句碑「竹涼し 松には見へぬ 風ながら」



梁川播磨戦死の地


「慶応4戊辰(1868)年7月11日の夕刻、仙台藩将梁川播磨がこの地に戦士した。数え年37歳であったという。
この碑は、40余年後旧仙台藩有志により建立されたものである。
慶応4年3月(9月に明治と改元)徳川氏は江戸城を明け渡し、いわゆる明治維新の政府となるが、奥羽の大名には薩長を中心勢力とする新政府軍に強い反感をもち、閏4月これに対し仙台藩が中心になり奥羽同盟が結ばれた。
新政府軍は奥羽鎮撫総督九条道孝のひきいる薩長を主とする兵力が秋田に集まっていた。これに対し同盟軍の主力仙台藩兵500余名が5月仙台を発し、新庄を通り金山に陣していた。
7月11日、長州の桂太郎(後の総理大臣)一隊が森合峠から、一方薩摩軍を主力とする一隊が、役内から有屋峠の険を越え、相応じて仙台勢を攻めた。
仙台藩は総くずれになり、藩将梁川播磨も今の十日町あたりで重傷を負うた。彼は橋を渡り馬を降りたどり着いたこの地、森合峠の麓において薩長の兵に襲われ壮絶な戦死をとげた。
官軍と言い賊軍と言っても、時の勢と立場の相違からきた同胞相うつ悲しい戦であった。
金山の人々は、以来これらの霊に香華を手向け厚くその冥福を祈ってきた。
 平成7年8月 金山町」
(案内板より)


梁川播磨歌碑「積む雪に 通路たへて おのづから
うき世を へだつ 冬の山里」賴親


旧羽州街道 森合峠

「江戸初期以来、秋田領への通路は有屋峠越えの廃止により、本街道はこの山峡を通るようになった。諸大名が供揃えを従え上り下りし、明治11年英国婦人イザベラ・バードもここを通った。
明治13年、三島県令がこの街道に大改修を加え、翌年明治天皇の御幸があった。文人田山花袋がここの峠から月山の美しい姿をたたえている。
昭和33年、国道13号線が薬師山の西側を通るようになり、全くの廃道となった。
(一時荒廃していたが、昭和56年林道として現在のように整備された)
 平成6年9月 金山町」
(案内板より)

佐竹義和公歌碑

「秋田(久保田)9代藩主佐竹右京太夫義和公は、41年という短い生涯の中で、藩政の上では殖産興業、鉱山改革、藩校の創設等を推進し藩中興の祖と敬慕された。
また文人としても名高く、文化3年から同11年までの間、参勤道中の折々に詠まれた数多い歌の中に、本町を詠じた歌が9首も残されている。
この歌は、文化6年の春に詠まれたその中の一首である。
『岩ヶ根や また寂しさも 真清水の 音を聞きつヽ たどる山影』 義和
平成3年7月吉日建立 金山町」
(案内石碑文より)



田山花袋歌碑

「『日本一周』抄 金山の一夜 田山花袋
私は月山の姿を伴侶として歩いた。金山の宿に入ろうとする時、暮色の中にはっきりと大きく緩く靡いてゐる姿を見てから私の月山に對する憧憬は一層加った。何といふ好い山だろう。
群山の中から丁度滿月が三分の一位を現したやうな形である平凡な圓錐形ではなくて大きな大陸的な感じを与へる山の姿であった。それでゐて靜かな落附いた氣分であった。
 平成2年7月吉日建立 金山町」
(案内石碑文より)


道の駅「清水の里・鳥海郷」ほっといん鳥海


百宅法体そば


百宅方面から望む「秋田富士」


法体の滝

祓川登山口Parkingからの鳥海山山頂

2023ワッパ騒動ゆかりの地めぐり

2023-05-18 16:36:50 | 古文書、郷土史他
ワッパ騒動ゆかりの地めぐり
「森藤右衛門を偲び、酒田への道と騒動後の農民を探る」

山形市では34.6℃と5月としては観測史上初の気温を記録し、鶴岡でも30℃オーバーの夏日となった5月18日(木)に、ワッパ騒動義民顕彰会が主催する「ワッパ騒動ゆかりの地めぐり」が開催された。
参加者の中に強烈な「晴れ男」か「晴れ女」がいるに違いない。なにしろ「雨女」と自負するカミさんが参加しているのにもかかわらずに晴天なのだから。


(有)平和観光バスと高橋運転手

参加者は、男性15人、女性5人の20人。皆さんワクワクと冷房の効いた平和観光バスに乗り込み、午前9時10分に出発した。

第1部 鶴岡城下から酒田への道

鶴岡から酒田へ向かうには、酒田街道と羽州浜街道、それに赤川の川舟がある。
◯酒田街道:鶴岡→文下(1里9丁)→横山(12丁50間)→押切(1里)→門田[カドタ](2里)→新堀(10丁50間)→酒田(2里19丁)、〆7里29丁50間(31.28km)※合計が合わないが…。
◯羽州浜街道:鶴岡→大山(1里31丁)→浜中(2里25丁)→宮野浦(3里6丁)→酒田(2里)、計9里26丁(38.86km)
◯船路:8里(32km) (以上「荘内史要覧P37-38」参照)


洞雲院(鶴岡市・文下)

鶴岡から伸びる酒田街道の文下集落のクネクネっとした道を歩く……、新鮮だぁ! それにしても、大きくて立派な家が多いなぁ、敷地も広いし。
しかし、なんで「文下」で「ほうだし」なんだろう…と疑問が。

「『文下(ふみくだ)し。葉に文を書き川に流したところ』 市の東北端の村で赤川に沿い、三川町横山に対する。もとの地形図にほうだす。地名の難解で知られる。類似地名に帆出、文出がある。昔タラヨウ(多羅葉)のような葉に尖ったもので字を書き、川に渡したという。ほうだしはふみくだしからの訛りで、葉に文を書き赤川に流し下した習わしのあったところであろう」(大沼浩編著 『荘内地名辞典』 増補改訂第二版 参考) と説明されている。


木造の蛾眉橋
「酒田河川国道事務所ホームページへ」より


桃陰山多福院(三川町・横山)

三川町横山地区、ここも街道って感じがプンプンする。備中街道に繋がる要所でもあり、酒井備中守忠解[タダトキ]も参勤交代でここを通ったのかと想い浮かべてみた。


高井山勝楽寺(三川町・横山)

このような視察小旅行でもなければ、歩くことなどないだろう。そんな貴重な時間を過ごしている。おもしろい!


横山菅原家

横山「菅原家」の由来
「菅原家」は、菅原新左衛門氏を先祖とし、以後、代々名主として村政に携わり、その間凶作・洪水などに際しては私財を提供して困窮農民を救済し、度々酒井藩より褒賞等を受け、天保3年(1832)には大庄屋格に任命されている。特に、明治初期より三代にわたり赤川への『蛾眉橋』架橋の難事業を成し遂げ、今日の三川町の生活・経済活動の礎となった功績は大きいものがある。
「菅原家」の家屋は、宝暦3年(1753)以前に建造されたと推定され、木造茅葺き平屋建の総建坪100.98坪(333.53㎡)、両中門造り、せがい造りの手法など意匠的にも優れた建築であり、大庄屋格としての風格ある架構で、明治14年(1881)には明治天皇御巡幸の際に小休止所となった。
平成12年3月 三川町教育委員会 (松の下の掲示板より)



最上川船着き場(酒田市・新堀)


第2部 森藤右衛門


森藤右衛門顕彰碑(酒田市・亀ヶ崎1)


小幡楼(酒田市・日吉町2)


小幡楼(昼食)


小幡楼01


砂高山海向寺(酒田市・日吉町2)



両羽新報社跡(酒田市・寿町)

「森藤右衛門の両羽新報社」
「明治14年4月、藤右衛門は今町一番地に両羽新報社を作った。この場所は寺町の齋藤八十八塗物店の筋向いである。藤右衛門は同7年に酒田で初めて「出羽新聞」を発行したが、まもなく新聞紙条例違反で発行停止となった。墓は大信寺」(「続々酒田ききあるき」:田村寛三著より)


明治16年の地図に『新報社』の文字が見える。現在の『居酒屋 気ぶん屋』のところのようだね。


清涼山大信寺(酒田市・寿町)



森藤右衛門墓参

「酒田監獄」
「明治7年2月、上清水村の白幡五右衛門が石代納につき嘆願書を代官へ提出し、捕縛され、酒田北寺町の土牢に入れられ、拷問をうける」(酒田市年表改訂版P307)と記されている。
この「酒田北寺町」がどの辺なのかは不明だが、上記地図の地持院北側(現在の北新町一丁目)に『監獄』の文字が見える。琢成学区コミュニティ防災センター辺りだろうか?

第3部 ワッパ騒動後活躍した農民


菅原豊蔵顕彰碑(鶴岡市・道形町)


田川太郎の里歴史ウォーク

2023-05-14 23:48:14 | 古文書、郷土史他
 
田川地区自治振興会主催の「田川太郎の里歴史ウォーク『七日台山城と大日坂道、砂谷新道を巡る山旅』」が行われた。参加したは、53名の応募の中から抽選で選ばれた33名の方々。開会挨拶のあと主催者のサポート付で3班に分かれ、田川太郎ゆかりの史跡や湯田川温泉と少連寺地区を繋ぐ「安産参りの道」(砂谷[イサゴダニ]新道)を巡る歴史ウォークを楽しんだ。


ウォーキングコースは、田川コミセンを出発(9:20)→田川山梅林寺→七日台積石塚墳墓群→七日台館→大日坂(古道)→大日堂跡→大日山長福寺(田川孟宗汁で昼食)→湯田川温泉旧遊郭→砂谷[イサゴダニ]新道→少連寺地区→田川コミセン(14:45)着。その後、郷土資料館(コミセン内)見学。

身近でありながら全く知らない地域を、詳しく楽しい解説付きで歩くのは本当に勉強になりました。素晴らしい!

コースを遊歩道として整備し、そして歴史解説を担った『ぶら田川隊』の皆さん、また、孟宗汁などの準備に携わったコミセンスタッフの皆さんには、心より感謝いたします。本当に良い時間を過ごすことができました。ありがとうございました。


七日台積石塚墳墓群


大日坂道


大日堂跡  長福寺に移された石像大日如来坐像


長福寺住職と移設された石造笠塔婆と卒塔婆


長福寺本堂の錫杖を持つ十一面観世音菩薩


砂谷新道 文化14年に加藤喜惣治が開いた安産参りの道
寄贈された一里六丁の里程標


番外編 興味津々…五重の館

ワッパ騒動史料学習会(2023.5.9)

2023-05-09 21:01:57 | 古文書、郷土史他
 
今回の学習会では、大隈文書(控)の中で明治7年4月に大伴千秋が記した『探偵箇条目録』(P5)の解読が行われた。その箇条の中に、「一、酒田湊ニ於テ娼妓ノ外、売淫姦通等勝手次第ニ有之ヲ打捨、其儘ニ指置事、但シ親子姦通スル事判然タルヲ其儘ニ指置事」とあり、酷い話だね、親子密通だなんて江戸時代でだって許されない話だよね…などとの話になった。

庄内藩でも兄妹密通の史料があるとの話がだされた。物語としては知っていたが、「加藤大弐の事」として『大泉叢誌』(巻百二十三)に「◯加藤大弐事 名ハ政発、字揚甫と云、千五百石となる。嫡子多治美、妹松田と不義一件ニ付、断絶。二男衛夫へ別段六百五十石被下置候。… … … … 」(致道博物館刊:大泉叢誌第4巻P281)と記されている。


怪談話としては、杉村顕道の『彩雨亭鬼談』に「鳥海山物語」として収録されている。

ワッパ騒動義民顕正会 総会

2022-09-17 18:00:11 | 古文書、郷土史他
 
ワッパ騒動義民顕正会の通常総会が第4コミセンで行われた。
総会終了後は、小グループは別れての勉強会を予定していたようですが、出席者が少なく全体座談会形式での勉強会となった。
顕正会の歩みに絡めた思い出話も出たり、毎月恒例の勉強会のように様々な深い考察を述べ合う会は勉強になります。

ワッパ騒動義民顕正会誌10号も発刊した。おめでとうございます。
この総会で、顕正会会長の本間先生がご勇退され、長南先生が満場一致で新任された。

知人の死を悼む

2022-09-12 17:53:12 | 古文書、郷土史他
 
突然知らせでした。
春頃から術後の体調が思わしくないとは聞いていたのですが…、残念です。

古文書サークルの先輩。
もっともっと山歩きや、地層や地形の話を聴きたかった。いつも穏やかで、はにかむような笑顔が印象的でした。
昨年の暮前、サークルの帰り道、お互い「ステージ3」だよと打ち明け、「頑張りましょう!」と励ましあって笑顔で別れた。その後のサークルで一度お会いした時、随分痩せたなとは感じたけれど、お元気そうだったのに。その日が最後となってしまった。まだ60代半ばなのに、残念です。
大変お世話になり、ありがとうございました。ご冥福をお祈り致します。