見出し画像

ポジティブな私 ポジ人

真夜中の思い

父は男の子が欲しかったと後から知った。
昭和一桁生まれの父は、跡継ぎの男の子を欲しがるのは当然と言えば当然だ。

生まれた直後は私が女の子だったので、さぞかしがっかりしただろうが、それでも子煩悩な父は随分可愛がってくれた。

幼児の頃は、「お前の特等席だぞ」と言って、自分のあぐらを私専用の椅子にみたて、座らせてくれた。
私のお尻がスッポリと収まる父のあぐらは座り心地が良く、常に私は父のあぐらに座るようになった。

その内、体重も増え身長も伸び、父の顎を私の頭で打つような事もあり、就学前にはとうとう父の特等席から「どけ」と言われるようになってしまった。
体重も増えていたので、さぞかし脚も痺れたことだろう。

小学1年生になると、父は私に柔道を指南する様になった。
父と触れ合うのは楽しかった。
簡単な投げ方や受け身の仕方を教えてくれたが、私は柔道より空手に惹かれていた。
父は剣道も柔道も心得ていたが、残念ながら空手は出来なかった。

父の見かけは、腹回りだけ見ると七福神の布袋様の様な体型だったが、運動神経はかなり良かった。
卓球をすれば、あの体型で華麗なスマッシュを決めた。
バドミントンも父に教わった。

その頃、4世帯が入居する小さなアパートに住んでいたのだが、アパートの裏でバドミントンを父とよくした。

アパートの裏には畳2条程の広さの犬小屋があった。
犬小屋に天井が無かった為、私が打ち損じたシャトルコックが、犬小屋に入ってしまう事が何度もあった。

大家さんの飼っている犬はスピッツの雑種で、小学1年の私にとっては大きく感じられた。
おとなしい性格の犬で、大家さんのお兄ちゃんと遊んでいる姿をよく見かけてはいたけれど、怖がりの私はシャトルコックを犬小屋の中に入って取りに行くのが怖かった。

1、2度は父が取りに行ってくれたが、あまりにも何度も犬小屋へ入れてしまうので、父は機嫌を損ねてしまい、私は頑張って自分が取りに行かねばならなかった。
父と一緒にするスポーツでバドミントンが一番好きだった私は、風のない日には良く父を誘った。父もよく応じてくれた。

成長するにつれ、父とスポーツをする機会は次第に失われていった。

中学に入ると、もはや父と話す機会すらもあまり無くなってしまった。話す機会があったとしても、何故か最後は喧嘩になってしまうことが多くなった。
この次は冷静な話し合いをしようと試みるのだが、性格が似ているせいか、お互いにカッカしてしまい、もの別れに終始した。

その内に、父は母を介して話を伝えて来るようになった。
話を伝える母に私も間接的に父の話に答える事になるので、母は父と私の伝令の様であった。

中学3年の受験勉強の時期、自分の部屋にはストーブが無かったため、電気コタツを使用していた。
夜遅くまで勉強していると、ちょっと眠くなった時にコタツに潜り込んで眠ってしまう事も良くあった。

その時期、父は私が起きているか確認することがあったのだが、コタツの中で寝ている姿を発見して激怒し、私のスクールバッグを眠っている私の顔に投げつけて来たことがあった。

女の顔は命なのに、顔にあんなデカいスクールバッグを投げつけるなんて酷い。私は父に対して腹を立てた。
しかし、母の話によると、ごく最近電気コタツの中で焼死したと言うニュースがあったので、危機感を感じた父が過激な行動に出てしまったのではないかと弁明していた。
「私の命を案じての行動亅そう聞かされて、腹立ちも自然に治まり、反省もした。

高校は札幌開成高等学校に入りたいと思っていた。
しかし、担任からは「今の成績では無理だから別の高校にするように亅と親を通じて伝えられていた。
私は開成高校以外は考えられなかったので、どうしても受験したいと訴えた。
結局、親から私の希望を担任に伝え、私の希望は通ったが、母が「落ちて親に恥をかかせないように亅と私に釘を刺した。
それはものすごいプレッシャーとなって、私のお尻に火をつけた。それが良かったのかも知れない。親に恥をかかせないで済んだ。

せっかく希望の高校に入ることが出来たのに、突然父に苫小牧への転勤命令が出た。父は私が札幌で下宿生活をする事など許さなかった。

開成高校の入学式の日、私は自己紹介をして転校する旨を告げ、クラスメートのささやかな驚きと、どよめきの中、一人教室を出た。

担任になるはずだった斉藤先生(雰囲気が凄く良い先生だったので、今でも名前も顔も覚えている)やクラスメート。中学から一緒に受験した仲間もいて、良さそうなクラスだった。

今思い出すとあんなに行きたかった高校だったのに、何故私はすんなり父に従ったのだろう。
いずれにせよ私は父には逆らえなかった。些細なことではいつも逆らっていたというのに。
私には家族と離れて生活する勇気も技量もなかった。

結局高校は苫小牧の高校へ通った。土地が違うとクラスメートも札幌とはかなり違っていた。

札幌の高校ではクラスが静かだったが、苫小牧のクラスは初顔合わせのハズなのに、何年一緒に過ごしているのかというぐらい、騒がしかった。私は圧倒された。
苫小牧は“かかあ天下とからっ風”で有名らしい。そんなわけで、女子達は遠慮がなかった。

私がビビってしおらしくしていると、休み時間に「あんた弁当持ってきた?」と大柄な女子に声をかけられた。
みんなサバサバとした良い子ばかりだったが、私は卒業までよそ者のようで馴染むことは出来なかった。

父の口癖の一つに「誰に飯を食わせてもらってるんだ」と言うのがある。
私が自分のしたい事を主張する時などに、よく言われた言葉だ。
それを聞かされる度、私は「早く働いてその言葉を封じたい亅と思うようになった。

それで、高校3年の時に進学はせずに働く事に決めた。
元々勉強は嫌いだったし、将来何をしたいと言う展望も全く無かった。父の言葉を封じることが先決であった。

就職にあたって、父はわざわざ面接官の質問をシュミレーションして私にレクチャーしてくれた。
しかし、私は真剣に父の話を聞いていなかった様だ。
高校の進路相談の先生から99%採用間違いなしと言われていた大手銀行の面接に失敗してしまった。

その頃父は高血圧症から腎臓病を患っていた。
父の事前のレクチャーで、「病気の件は口に出すな亅と言う指示が出ていたらしいのだが、聞いたことすら覚えていなかった。
父に言わせれば、それが不採用の要因に違いないと言うことだったが、真実はわからない。ただ、父の病気の話が出た時は、面接官達が色めきだったのは、明らかだったが…。

結局私は小さな信用組合に就職した。家庭的な雰囲気の良い職場であった。

同期で入社した同僚に、ある日「良い人がいるので紹介したい亅と言われ、日曜日に会うことになった。

同僚の彼と彼の友人と四人で会い、しばらく談笑したあと、同僚カップルが席を外す事になった。
私にとっては初めてのことであり、ぎごちなく会話し、帰宅した。

その後も同僚が色々フォローしてくれて、私達は交際を続けた。
毎週日曜日、ほぼ会っていたので、父がその異変に気付き、家族と行動を共にすることを要求した。
しかし、私はだんだん彼と会うことの方を優先する様になった。

一度父に彼を紹介もしたが、彼の家庭が複雑であった事などから、交際は反対されていた。
最終的には「好きにしろ」と言われ、突き放されてしまった。
理解を得られなかったのは残念だったが、私の意志は変わらなかった。

次第に父と距離をとるようになってしまった。同じ屋根の下に住んでいて、全く口をきくこともなくなってしまい、少々辛くもあった。

ある夜、テレビで映画を見た後、ソファーに寝そべりウトウトしていると、母が「そんなとこで寝ないでよ亅と言って居間の電気を豆電球にして、床についた。私は「今起きる」と返事をしたものの、知らない内にすっかり眠り込んでしまった。
数時間は眠っていた様だ。

気がつくと、暗がりの中、父が私の頭を撫でていた。まるで小さな子どもの頭を撫でる様に…。
私が目覚めたのに気づいたのか、すぐ様私から離れ、寝床へ行ってしまった。一言も話さずに。

口をきかなくなってから随分と日にちが流れた中で、垣間見た父の優しさだった。

申し訳ない思いと、どうにも出来ない自分の気持ちと、父の思いに応えられないもどかしさと辛さと…。

「親不孝だなあ亅と心の底から思った真夜中だった。


コメント一覧

ポジ人
コメントありがとうございます。
松濤館流!!私も10年ちょっとやりましたよ。強くないですけど。型を演武するのが好きでした。
nognogblack
ボクの父は空手と柔道をやっていました。

ボクは空手かボクシングをやりたかったのですが、
買ってくれたのは、全く興味の無い野球のグローブでした。

フツーの子供として育てたかったんでしょうね。

結局、グローブをはめる事も無く…空手一筋に
松涛館流と正道会館を5年ずつやりました。

結果…いまだに野球のルールも分かりませんし、ボールが怖くてキャッチボールすら出来ません(^_^;)
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「思い出」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事