遠い昔、父は良く「子供には情操教育が必要だ」と言って、その一環だったのか、小学1年生だった私に、1枚のクラシック音楽のレコードを買ってくれた。それがクラシック音楽に触れた最初の記憶だ。
あの演歌や浪花節が好きで、仙台の片田舎で育った父に、およそ似つかわしくないクラシック音楽を、娘のために1枚だけ用意してくれた。それは、つくづく父の子煩悩さを物語る思い出だ。
収録曲は確か、冒頭がベートーベンのエリーゼのために、シューマンのトロイメライ、ショパンの別れの曲と…後は思い出せない。
今となっては懐かしい、小さなポータブルレコードプレーヤーで聴いたのだった。
簡易な機械なので、音もあまり良く無かったと思うが、子供の私は好んで何度も聴いた。
「トロイメライ~子どもの情景より」と「別れの曲」は曲調が似ているので、時折どっちがどっちか、分からなくなることがあった。
長じてからは、たまにクラシック音楽のCDを購入した。
シガニー・ウィーバー主演の映画「死と処女」を観て、劇中の要となる曲、シューベルトの「死と乙女」に魅せられて購入したり、ビバルディの四季を購入した時も、ドラマの中で使われていたのだったか、四季の「冬」が気に入ったからだった。買うきっかけは、せいぜいそんな理由だ。正統なクラシックファンとは言えない私。
そうしてたまっていったCDの中でも一番聴く頻度が高かったのはショパンのCDだった。どんな理由で買ったのか、理由も覚えていないけれど、クラシック音楽への憧れは常にあった。


私も父に習い、子供たちが幼かった頃に聞かせ、かなりパッケージは古ぼけている。
子供たちは耳を傾けて聞いたと言うよりは、部屋に何と無く流れていたのを覚えている程度だろうと思う。
子供も巣立ち身軽になった今、コンサートにでもと思っても、年金暮らしには気軽には行けない。クラシック音楽の格調の高さに憧れながら、お値段の高さに打ちひしがれる。
先週、北海道新聞の「クラシック音楽メモ」で、4月8日午後2時「安田文子ピアノ&トークコンサート」がある事を知った。
記事を読むと、安田文子(あやこ)さんは、札幌出身で東京芸大卒業後、ワルシャワショパン音楽院で学んだピアニストである事が紹介されていた。
東京芸大!その大学の名前を聞いただけで、その才能にひれ伏したい衝動に駆られる。
会場は札幌文化芸術交流センターSCARTSコート。
コンサートの演目は「ノクターン第2番」「幻想即興曲」などとあり、私でも知っている曲だ。おまけに全席自由席で入場料は1000円と記載されていた。なんと庶民に優しいお値段だろう。これは行かなければと思い、その日を心待ちにした。
4月8日当日、札幌文化芸術交流センターへ向かった。
午後1時半開場だったが、ずいぶん早くに会場へ着いた。早速チケットを購入すると、キャラメル2個も付いてきた。

会場の規模も知らなかったので、席を確保出来るか少し心配になり、チケットを売る初老の男性に尋ねると、
「席は充分にありますよ」と言われ安心した。
開場の時間までにはまだ間があったので、ショーウィンドウのように大きな窓の側の椅子に腰掛け、創成川方面を眺めながら、ぼんやりしていた。
開場10分前になり会場へ向かうと、すでに長蛇の列が出来ていた。
開場後は、中央の奏者の姿がよく見える良い席に座ることができた。
その後も会場を訪れる人は増え続け、スタッフの方々が椅子を何脚も追加しなければならないほどで、グランドピアノと客席の間がどんどん迫って行った。
ショパンは、クラシックの中でも最もポピュラーで、やはりファンが多いのだ。
やがて、大胆に肩を露出した華やかなドレスをまとい安田さんが現れた。
一曲目。曲の紹介をしてくださってからの「ノクターン第2番 変ホ長調」。
久しぶりの生演奏。空気を伝わる音の迫力、美しいピアノの音色に感激した。もう少しで泣くところだった。
一曲終わるごとに、ショパンにまつわるお話や解説をなさってから、次の曲へ。
曲の合間のお話は、ポーランドの苦難の歴史やショパンの祖国を思う気持ちの強さなど、また身体の弱さゆえに、思う方と結ばれなかった悲恋についてなど多岐に渡り、夭逝したショパンと曲をより深く理解する事に役立っち、一曲一曲が深く心にしみた。
解説なさりながらの演奏は、かなり大変だったのではないだろうか。
前半4曲と、休憩を挟みドレスを替えての後半4曲。何とぜいたくな演目。

演目が進むにつれ、安田さんの指の動きは更に滑らかになり、素晴らしい演奏だった。
最後の演目を弾き終わっても拍手は止まず、結局アンコールに、「雨だれ」「革命のエチュード」そして最後に「別れの曲」の3曲を追加演奏していただいた。
生演奏のピアノの音に身を浸し、幸福な時間を過ごした。
チケット購入の時に渡された2粒のキャラメルは、「クルフカのミルクファッジ」というポーランドで有名なお菓子である事も教えていただいた。
感動を胸に家路につき、帰宅後早速クルフカのキャラメルを食べてみた。

見かけは普通のキャラメルなのだが、口に入れるとホロホロと儚く崩れ、甘いミルクキャラメルがトロリと喉に流れ込んで行く。コンサートの余韻もあり、何だが儚い感じがショパンそのものの様な気がした。
私にとって、素敵な感動と甘い記憶を合わせて残してくれた、心に残るコンサートであった。


