今考えても、どうにも腑に落ち無い事がある。
今から18年程前の冬、幼稚園のママ友に誘われて、地域の子供の為のイベントに参加したときの事だ。
プラスチックのソリを持参し、豊平区にある月寒公園へ向かった。
幼稚園の年中だった娘は直ぐにお友達と遊び始めたが、小学3年生の息子は、所在なげであった。
ここは一つ、私が楽しげにソリでも滑れば、彼も遊ぶ気になるだろうと思い、はしゃぎながら「お母さんも滑ってみよう」と息子に言って、なだらかな坂を登った。
ソリのへさきを山すそへ定め、ソリをストップさせていた両足を同時にソリの内側に収め、滑り出した。真っ直ぐ下へ滑り出すはずだった。
それが、突然右方向に引っ張られるように向きが変わり、滑り出した。
その先には、誰かが雪を盛り上げて作った小さなジャンプ台があったのだが、もう避ける間もなく、ソリは真っ直ぐにそこをめがけて加速した。
あっと思う間もなくソリごと宙へ放り出され、私は背中からドサリと落ちた。
どのくらいの高さから落ちたかは、よく覚えていないが、落ちた途端、これはただ事では無いなという感覚があった。
起き上がろうと寝返りを打つ様に体制を変えた途端、痛みと共に「ウッウー、ウッウー」と言葉にならないうめき声が自然に漏れ、話す事が出来なくなってしまった。
そばに来て「大丈夫?」と聞いてくる息子に応える事も出来ず、ママ友達は中々気付いてくれなかった。その時間は短かったのだろうけど、私にはとても長く感じられた。
やがてママ友達が異常事態に気付いてくれたのだが、「どうしたらいいんだろう」「背中たたいた方が良いのかな」等と言い出す人も。
たたかれてはたまらんと思い、首を横に激しく振ったところ、やっと言葉を話す事が、出来るようになった。
恐る恐る立ち上がってみる。どこも痛くない。しかし、痛くは無いが両手が何時もと違う、しびれた様な感覚だった。
周囲から「救急車呼びますか」と声をかけられたが「いえ、大丈夫です」と一旦断った。断ったものの、これからの行動を頭の中でシミュレーションしてみると…病院に行かなきゃ。家に帰って保険証持って来なきゃ。まず、タクシーに乗って帰る…と、ここまでイメージした時に、背中を丸めて車に乗ることは難しい事に気づいた。結局、救急車を呼んでもらった。
救急車が到着し、救急隊員が大きなプラスチックのソリを引いて来るのが見えた。それに乗ったら、このデコボコの雪道の振動で、折れているかもしれない骨がズレてしまいそうな予感がした。
結局、ソロリソロリと100メートルくらい離れた救急車が止まっている場所まで歩いて行った。
子供たちは取り敢えずママ友に預かってもらう事に。
救急車に乗るのはこれが初体験だった。仰向けに寝て搬送されたが、路上のデコボコが直に体に響き、酷い乗り心地だった。
古い救急車でサスペンションが悪かったのか、これでは病人やけが人を運ぶのに適さないのではないか。私はいいとして、多くの急患の人びとが、ただでさえ具合が悪い所に、こんな乗り心地では気の毒なことだと心底思った。
救急車こそ、サスペンションの良く機能する上等なものを用意すべきではと思った。
救急病院へ到着すると、看護師さんに「つま先、動かせますか」と聞かれた。動かなかったら、脊髄損傷と言うことなのだろう。歩いて救急車に乗ったぐらいだから、無事とわかってはいたが。
レントゲン写真を撮り、さらにMRIという機械で背骨の状態の詳細を確認する事になった。
MRIはかまぼこ型の棺桶の様な形で、その中に身体全体を見動きできない状態で収納され、ひたすら「ドガガガガ…」という、戦場の機関銃の様な音が鳴り響くのを聞きながら、終るまで辛抱しなければならない。
その状況に不安になったり、具合が悪くなる人も出るらしいが、私は初めてのものは、何でも好奇心の方がまさって、「ほう、これがMRIなるものか」と興味津々だった。
検査の結果、胸骨部分の上から11番目の骨が圧迫骨折している事が判明した。
私に結果を伝えてくれた医師は、「天は二物を与えた亅と言ってしまうほどの超が付くほどのイケメン先生で、私は診断の言葉を聞きながら、思わず見とれてしまった。
「とにかく横になっていて下さい」と言うアドバイスを受け、鉄板入りのコルセットを付けて養生する事になった。
診断を終えてしばらくすると、道内の遠方に出張していた夫が急遽帰札し、途中子供をピックアップし家に帰った。
それからの一週間は、ただゴロゴロと過ごした。新聞ものんびり読める。子育てであくせくと日々過ごしていた私にとっては、極楽であった。
ところで月寒公園のあの坂は、私が小学生の頃、よく慣れ親しんだ場所であった。
当時そこから少し離れた美園に住んでいた私は、スキーを担ぎ、足繁くこの場所へ通って遊んでいたのだ。
スキーを楽しんでいた割には、直滑降しか滑れず、止まることもスピードがゆるむに任せていたから、一度小さな立ち木に衝突して、一瞬気を失ったことがある。気がつくと、どこかのおじさんが笑いながら、衝突で散らばった私のスキーだったか、ストックを私に手渡してくれたのを覚えている。
今回で月寒公園で遭遇した2度目のアンラッキー。因縁の場所なのだ。
月寒公園(月寒3条4丁目)について調べてみたところ、『明治末期、歩兵第25連隊の小演習場として使用され「千城台」と名付けられていた場所』だということだった。
そう言えば、小学校のクラスの男子達がその斜面の事を「射撃場」と呼んでいて、地面をほじくると運が良ければ薬きょう等が出てくると興奮気味に話していた。
「千城台」を検索してみたところ、千葉県の地名が出て来た。
「センジョウダイ亅と読むのかと思ったら、「チシロダイ亅と読むらしい。
かつて千葉県は「軍都」と呼ばれ、様々な軍事施設があった場所だと知った。
月寒公園を「千城台亅と名付けたのはどんな理由からだったのだろう。
連隊長が千城台出身だったから。あるいは隊の大半が千城台出身者だった。または、月寒公園周辺の風景が千城台に似ていたから。…私の憶測だが、故郷千葉を離れ、日本の北の外れにやって来た歩兵第25連隊が、士気を上げるため、軍都千葉を思い起こす地名をこの月寒公園に名付けたのではないだろうか。
月寒公園には様々な石碑があるが、日露戦争で戦死した戦没者慰霊碑「月寒忠魂碑」もある。
少し離れた平和公園(月寒2条7丁目)の方には「忠魂納骨塔(月寒忠霊塔)」があり、そこには歩兵第25連隊の戦没者の遺骨箱222柱が納められているそうだ。
月寒公園周辺には、戦没者の無念の霊が彷徨っているのか。
小学校の時の“立木激突”、そして18年程前の“ソリでジャンプ骨折”…山怪…まさかね。
骨折して帰宅した日、日付を確認したところ、その日は何と「父の命日亅であった。
すっかり忘れていた私に、父がお灸をすえたのでは。いやいや父は私のGuardian angelのはず。
そんな酷い仕打ちはしないでしょう。
しかし、命日をすっかり忘れる娘とは、自分で言うのも何ですが、親不孝の極み。こんな娘でスイマセン。