拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『覚問 』としての『悟覚』には、覚悟がいる・・・

2024年08月17日 | 東洋自分なり研究所

  居士林で侍者役をしていた時(36年前)、土日坐禅会・開始前に新参者の面接をしていた雲頂庵の和尚のそばに控えて

  新参者と和尚のやり取り(会話)を聞くことができた。(非常に貴重な経験)

 

  ある日、真面目そうなアメリカの青年(18〜20歳?)が来たとき、

  和尚:君は、何故ここに来たのですか?

  青年:私は禅を学びに来ました。

  和尚:ここは、禅を学ぶところではありません。 ・・・と言って、彼を帰らせたのです。

 

  私はこの一件について、何故和尚はあんな事を言って、彼を帰らせたのか・・・? 

  私はいまだに和尚の真意がわからない・・・。 あれってもしかして、私への公案であったのであろうか??

 

  大学に憧れながら(?)行けなかった劣等感を抱いていた私は…、色々なことをした挙げ句に、29歳になって、学問ならぬ、『覚問』する

  場としての『円覚寺・居士林』にまで来たわけだが、確かに、学問であれば『学ぶ』と言えるが、『覚問』は『学ぶ』・・・というような

  どこか『受け身』の気持ちでは埒が明かない『覚問』であった。

 

  それにしても、帰す事なかったのに・・・。 

  あの青年も本当に禅を学びたかったら、毎週来て面接すればよかったのに・・・と、私は今でも残念に思う。

 

              

               これからの世の中、『覚問』というか、『悟覚』に真剣に立ち向かう若者が絶対に必要だ!!の図

  



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