拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『どうでもいい!』という本音

2024年08月18日 | 東洋自分なり研究所

  するともなく『還暦スキャン』していたのか・・・ (*還暦スキャン=自己の人生を顧みること)

 

  自分の中に『どうでもいい!』という実に凶暴な『質(たち)=性質』が、自我が芽生えたあたりから自己の本流として

  とうとうと流れていた事に、今頃になって自覚してみると、この『質』によってこれまでずいぶん不義理・不人情をしてきてしまった自分の人生に

  暗澹たる気持ちになるのであるが、そもそもどこのあたりから『どうでもいい!』などという『質』が生まれ出たのか?? 考察してみた。

 

  いつの頃からなのか、人々が景色などに感動している場面などでも、私は別になんとも思わず・・・、身の回り品についても、ほとんど関心が無く

  考えてみると、友人と喫茶店に行く・・・というようなことが、27歳にガールフレンドが出来る頃まで無かったわけであるから、そういう意味では

  今思うと私は相当『引きこもり』人間であったろうか・・・。

 

  高校を卒業してから、京王ブラザホテル就職・・・神戸に移動・・・写真学校入学・・・英会話学校・・・東京に移動・・・鍼灸学校・・・無為塾・・・居士林

  という風に自分の人生をざっと大観してみると、その場その場成り行きまかせのようでありながら、その時点で『良し』とする進路選択しているわけで

  その時選ばなかった選択肢に関しては、私にとって『どうでもいい!』・・・事柄であったはずなのだ。

 

  最近になって、私は『意伝子』という佛語を作ったが、自分の本質としての『意伝子』は、『仏華』を開花する以外の『事柄』は

  『どうでもいい!』事として、無意識ながら私によってぶった切られていて・・・いわば『意伝子自動選択人生』であったことに気がつく。

 

  思春期の若(バカ)者たちは、『意伝子』に目覚めかけて、皆と違う何かを『クール!』とか言ってもてはやしながらも、徹底できず

  群れから独立することもなく、より本質な事柄こそを『どうでもいい!』と、地位や金や権力なんかを目指して血眼になってしまうのか。

 

          

  その意伝子によって、導かれる境涯が『観音』というのが私の『本音』であれば、それ以外は本当に『どうでもいい!』

  



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