拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   尊厳の華

2024年07月27日 | 東洋自分なり研究所

  72年・・・という歳月を人間として生きてきて、『何のため生きている?』という極単純で、当たり前な疑問に

  もうそろそろ『答えろや!』・・・と、絶えず心のどこからか、答えを迫られてきた気がする。

 

  もしかしたら、この『疑問』が原因で自殺する若者もいるのだろうか?

 

  私のような単純なボンクラ(梵蔵)は、これだけ永い年月、自然を観察するでもなく観察してくれば

  『自然』はまさに『自ずから然り・・・』と教え、人間も『華を咲かす』ものだという極シンプルな結論に落着した気がする。

 

  そして、それというのは悟りを開いた釈尊の意志を継いで、坐禅という瞑想法で『自灯明、法灯明』に勤しんだ

  古(いにしえ)の仏教徒それぞれ皆が、『華を咲かせた』からこそ、『法華経』やら『華厳経』という『華』をテーマにした

  大経典をあみだして、仏教を小乗から大乗へと大変革した経緯があるのではないだろうか。

 

  私は自分のブログタイトル『拈華微笑』を、そこまで考えて付けたわけではなかったが、直観的にやはり『華』がキーワードであったのかも。

 

  数年前、Newspiksという有料配信動画、落合陽一氏が担当する番組で『禅・マインドフルネスを考える』というテーマがあり

  禅僧のネルケ無法氏、とマインドフルネスを推進する2人が参加して会談した時、

  さすがデジタルネイチャーの申し子、落合陽一。番組冒頭、彼が最も興味があるテーマとして『Zenと禅』『近代と禅』『デジタルと禅』という

  お題を掲げたが、残念ながらそれについて深堀りする事はなかったように見えたが、会談中彼が呈した『スポーツ選手が己を忘れて没頭する姿は

  禅に通じるものがあるのでは?』・・・という問いかけがあり、非常に『面白い』とは思ったものの、誰もその『問』に直接応える『答え』が無いままに

  この会談は終わってしまった気がした。 ただその『問』と、その時の落合陽一の異様な『眼つき』は、私の愚脳に突き刺さっていたようで・・・。

 

  パリ五輪が始まり、スポーツ好きな私は、奇しくも『円相』如き、五色の輪(円相)が繋がり合って、そこに見出すのは・・・

  『スポーッ選手が己を忘れて没頭する』のは・・・ひとえに人間の『尊厳の華』を自他不二の形で『観』たいからに他ならず、

  そこに喜びがあればこその『オリンピック・五輪』であると思うのだ。

 

  そもそも仏教は『慈悲と智慧』というが、『慈悲』のもう一つの姿が『尊厳』であると知ってみれば

  釈尊誕生時の『天上天下唯我独尊』の宣言というのが、『尊厳の華を咲かせよ!』の宣言であったと、私は解し、オリンピックを楽しむ・・・べかな。

 

                 

 

              カラフルに 五色の華の 競い合う 愛でるその眼に うつる尊厳 :馬骨

  

  

  

   



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