拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 円覚の三学(戒・定・慧)

2021年11月29日 | 観自在

  禅寺で禅の修行をしている時、私の場合であるけど…。

  その『しきたり』に則り、ただただ坐ったり、歩いたり、お経をよんだり、老師の提唱を聞いたり

  作務をしたり、茶礼や食事をしたり、独参したり・・・淡々と修行をしていたわけであるが

  それがその頃や、その後に禅書などで読んで学んだ『三学』ということであったかぁ〜・・・としみじみと  

  その修行の仕組み・・・戒・定・慧…と、慧(悟り)に向かって 修行者を追い込んでゆくシステムのデクレッシェンド印

  『 > 』状にうまいことハマっていたのだと感心。(戒・定・慧を調身・調息・調心と言い換えるとわかりやすいだろうか)

  そういった意味でも、大学なんかよりもよほどしっかりしたカリキュラムで『円覚』は人間育成していたのだ。

 

  とか言っても、三学『戒・定・慧』という仏教用語がなんのことが分からない人もいるであろう。辞書を参照すると

  戒〜戒(律)を守り生活を正すことによって定をたすけ

  定〜禅定の澄心によって智慧を発し

  智慧〜真実を正しく観察することで、真理をさとり、仏道が完成される・・・とある。

  出家した新禅僧たちはまさに『戒・定・慧』の三学に一意専心する寺内で、最低三年はそこで基礎を叩き込まれる。

 

  ボンヤリ者の私は、禅修行中は『無』ばかり追っていて、『仏道システム』まで考えがおよばなかったが

  『三学』いうものが確立していたんだなぁ・・・と、日本における『禅修行』の素晴らしさに改めて思いを馳せる。

 

  自分の生活スタイルを『慧』にむかってシンプルにしていく、それが『戒』。

  あとはひたすら坐禅して『定力』を養いひたすら深めてゆく・・・という『三学』の中で、

  私の場合、寺にこそ入らなかったが、それまで活動の中心であった『写真』を一切止め、

  土日坐禅会と月一回一週間の僧堂接心に参加すべく生活のすべてをシフトするなかで

  自然と『戒・定・慧』という流れに乗っていたわけだ。

  寺で耳にタコができるほど読まされたお経『四弘誓願〜衆生無辺誓願度・煩悩無尽誓願断・法門無量誓願学・仏道無上誓願成』は

  この『三学』を比較的具体的に唱える者にその仏教思想を解説していたのだ。

  そしてそれは『慧』=(悟り)のその先に『衆生無辺誓願度』という『慈悲』の活動を第一に促しているのが仏道であることを示している。

         

           写真は今月16日の朝、突然、鴉の大群がわがアパートの対面にある16階の屋上のうえを旋回

           何事かと、写真を撮りまくった図。カラス会議は30分に及び、7時半に解散となった。議題はなんであったのだろうか?

  

  



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