拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
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  新釈 『兎と亀』

2024年02月14日 | 東洋自分なり研究所

  東洋では古来より『道』の概念を探究してきた。

  その中で、『平常心是道』という言葉は禅の公案としてつとに有名で、13世紀の禅書『無門関』に、

  中国の唐時代の禅僧「趙州(778年‐897)」禅師とその師にあたる「南泉(748‐835)」禅師との問答がある。

  

  趙州が師の南泉和尚に「如何是道(道とはどんなものでしょう)?」と尋ねた。 (道=仏道)

  南泉 「平常心是道(ふだんの心、そのものが道である)」

  趙州 「その心とはどのようにしてつかむことができるのでしょうか」

  南泉 「つかもうとすれども、つかむことはできない。」

  趙州 「つかむことができなければそれは道ではないのでは」

  南泉 「道は考えて理解できない。しかし、わからないといってしまうこともできない。考えて分かるのであればそれは妄想である。

       わからないものであればまったく意味のない事になってしまう。」

  南泉 「理解できる理解できないという分別を離れると自ずからそこに道が現れる。まるで澄み切った秋空の如く、分別を入れる余地はまったくない。」

 

  まぁ、素直に『平常心是道』を文字通り受け入れてみた時、世間一般を見渡すと、我々というのは随分『道』から逸れているよなぁ・・・の感想。

  人間というのは、その『道』に『乗るか、逸るか』の二者択一のように思えた時、その『逸る』の字から、私は『兎』を思い浮かべた。

 

             

 

  果たして、新漢語林によると、『逸』の解字から『免』は兎の象形・・・と書いてあった。

 

  その時、子供の頃 耳にしたイソップ寓話の『 兎 と 亀 』を考えていたが、 歩みのノロイ 『亀 』が競争して 『兎 』に勝つ・・・本当の理由は、

  人間の強い『逸脱願望』に根ざすのでは・・・などと思ったのだ。

 

  そう考えると、『勉強』はやればやるほど、『道』から逸れ、『免許証』などというものも、『道』から逸れている事の証明・・・なのだろうか??

  

  



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