拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

悟りの郷〜その3

2020年11月19日 | 考えるな、漢字ろ!
前回、『悟り』は『郷里』と誤読せよ・・・と書いた。

(*仏教、禅に関する発言する時には私は自分を『馬骨』と名のることにしている)

それには馬骨流の妄想に近い解読術によってであって、ただ単に誤読を勧めているわけではない。

『郷里』で待っている人に会って来ることが大事だ・・・
そう言ったわけは漢字辞書にある、『郷』の字の解字から閃いた『解読』なのだ。

   甲骨文ではこうなっていて⬇︎

       
      『郷』の字〜ごちそうを真ん中にして、二人が向き合うさまに型どり、向かうの意味を表す・・・とある。

馬骨は、この二人の間にある『ごちそう』というのは、じつは『鏡』なのだ・・・と直観。
仏教では『大円鏡智』、神道であれば『八咫鏡(やたのかがみ)』であろう。

郷里(悟り)に帰って、出逢わなければならないのは、『真実の自己、本来の自己』であり
人間にとっての、心のごちそうは『真実の自己』を知ること以外ではないから…。

そう考えた時、向かいに座っているのは、『鏡』の向こうに映っているもう一人の自分であり
自分が観ているつもりで『鏡』に映っている自分を観ていたら、『鏡』に映っている自分も自分を観ていた!
その瞬間、どちらでもない自分の『声』を聞く・・・・それが『自他不二』で『悟り』の正体の『不ニノ法門』で
自己を他人、他人を自己のように愛することができる人間への『認知革命』であった。
また、この『声』を聞くことを仏教では『観音』という・・・
これは勝手な「馬骨論」であり、正否はさだかではない。『創造的誤読』あるいは『遊戯三昧』か・・・

        


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