拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  居士禅入門〜ガマン

2023年04月30日 | 東洋自分なり研究所

  ふだんこのブログでは『禅はええよ…』的なことを言いながら、具体的にどうすればいいか?的なことは全く言っていなかった。

  まぁ、興味のある人はプロの禅坊さんの本を読むなり、直接『坐禅会』を行っている寺やそれに相当する会などに参加すれば良いだろう・・・。

  ぐらいに思って、人はそれぞれ『縁』に従って『道』を探り当てて行くものであろう・・・という感じでいるが

  私の言うことを真に受け、かりに実際に禅修行を始めた人がいたとして、一般人として修行するに当たり何か『参考意見』なるものを

  私の体験から書くことが出来ないであろうか・・・と今回思ったりした。

 

  まず、私のように僧侶ではない立場で『仏教』を信奉する者のことを『居士』というが、辞書でみると

  ① 学徳がありながら、官に仕えず民間にある人

  ② 在家の男子であって、仏教に帰依した者

  ・・・とあり、私の場合②に相当するが、入門当初は仏教に帰依したつもりは全くなく『居士』といわれても

  私には何の意味もなく、たまたま在家に向けて『禅修行道場』を開放していた円覚寺の『居士林』の土日坐禅会や年数回行われる

  接心に黙々と通っていただけ。 その後どこの寺とも関わりなく、『居士』というより『孤士』により近い今日此頃である。

 

  しかし、『居士林』や『円覚寺』・・・それ以前にお世話になった小さなお寺や、多大な影響を受けた『鈴木大拙居士』の著書、

  動機を与えてくれた『師』、ひいては日本仏教、伝統文化それら全てに感謝の念を持っに至った自分は、やはりそれなりに『居士』なのだと思う。

 

  世の中には、著名な禅僧による『禅入門』などは巷に溢れているが、どこの馬の骨…的『居士』による、妄想レベルの誰も問題にしない

  疑問にまで深堀りして、大衆に無責任な『参考意見』を述べている者は恐らく少ないように思う。

 

  今日のお題は『ガマン』・・・で、そもそもは『ガマン』というのが単なる『我慢』とは別に、私はヤクザが言うところの『刺青』の

  『ガマン』を私は最初イメージしていた、というのもこちらヨーロッパではいまや『猫も杓子も』状に『タトウー』が隆盛で

  こんなお婆さん…が?、と思うような女性までが足首あたりに『刺青』を入れているのを見て、『タトウー』という刺青がどれほどの

  痛みであるか…という流れでヤクザの『ガマン』について調べていると、平山重樹著『ヤクザ大全』を紹介した抜粋文に出会った。

 

   『オレなんか、こんなおとなしい顔してるでしょ。刑務所に行くと、どうしてもカタギに見られてしまって、他のヤツから舐められてしまうんだね。
    それじゃいかんと彫ったんだけど、やはり見る目が違ってくるわね。』

   『ガマンというくらいで、そりゃ立派なものが入ってれば入ってるほどどこでも幅がきくし、チンケなものしか入ってないヤツは、

    バカにされるのがオチだね。どれだけガマンできるか、根性がすわってるかということの証明にもなるわけだからね。』

   『オレの場合は、これでカタギにあと戻りできないんだという覚悟を決めるために彫ったけどね。』

 

  私はこの抜粋文を読んで、いろいろ考えさせられ、居士林で坐っていた時、指導してくれていた雲水が『坐禅は我慢大会じゃないぞ!』と

  一喝していた事を思い出していた。

  その当時はその言葉に対して別に何も考えなかったが、今私は『禅修行』の第一歩は『我慢』以外の何ものでもない・・・と思っている。

  実際、居士林で4,5年修行した時、一応終了と自分で決めてニューヨークに向けて旅立ったが、この苦しい修行を耐え抜いた自分を誇り

  意味のない自信に溢れていた事を思い出す。

  それを裏付けていたのはヤクザの上記の証言と全く同じ『ガマン』の意義であり、ただ『刺青』のように眼に見えない『ガマン』であったのだ。

                                

 

  他の修行者はどうか知らないが、『居士林』での禅修行は、在家の立場で週一回、土日の一泊二日の坐禅会で終了すれば即解散で

  慰め合う仲間もできず、せっかくの週末を殺伐とした雰囲気の中、ゆるやかな拷問のような坐禅会に毎回参加してくるような者は

  坐禅に崇高な手応えを覚える人間か、私のように自分に負けてたまるか…的な、わけのわからん『意地』、つまりは『我慢』のような

  低次元の意志の強さ・・・はやっぱり必要なのではないかと思うのだ。

  そしてときに『我慢』ができず、『意気地無い自分』を真正面に受け止めなければならない時、隣や対面で同じように耐えて坐している姿

  に励まされ、その『我慢』がいつの日か自他を超えた『慈悲心』にまで昇華させる過程が『禅修行』にはある。

  

 

  

  

  



最新の画像もっと見る

コメントを投稿