拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
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  『坐』の字(2)

2024年02月22日 | 東洋自分なり研究所

  『坐』の字については、すでに書いていた 2023年10月2日のブログ記事〜『坐』の字

 

  しかし、私はいま改めて古(いにしえ)の仏典の漢語訳者たち・・・例えば『鳩摩羅什』(4世紀の人)等の仕事に対し感嘆し、賞賛する者だが

  果たして、ウィキペディアを見てみると

  『彼の翻訳が後代の漢字圏に与えた影響は計り知れない。なお、唐の玄奘三蔵による訳経を「新訳」と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳・・・』

  とあり、『漢字圏に与えた影響』に言及していた・・・ことは嬉しい。

 

  私は今、やはり中国人作家の小説『三体』を再度挑戦していて、その中に『シンプルな表象の下に、膨大な情報量と細部が隠されている…』という一文をみて

  まさに『漢字』の事を言っている、ように感じたがその真意はこの本を最後まで読み進めなければ解らない。 が、それにしてもこの文言が意味するところは大きい。

  私は、『考えるな、漢字ろ!』に開眼してから、漢字は東洋の真髄を解く『方程式』と言ってみたが、その確信はますます深まっている。 

 

  同時に、『コンピューター』とか『AI』とかの発展にともない、子供達の漢字学習における修行のような『手書き』の時期を失っている事を私は案じている。

  キーボードを叩いて、漢字変換出来てしまう状態は、『漢字』を一字一字、手作業という身体性を伴って覚えるのとは、人間の脳に与える影響という意味で

  その差は非常に大きいであろう。私はいま海外に在住しているから、いわゆるハーフの子供達を沢山見知っているが、話せる子はいても漢字を書ける子は

  ほとんどいない・・・という現状をみると、私が子供だった頃の『漢字』を覚える為の膨大な時間の重さ、重要さにあらためて驚嘆する。

  もしかすると、『漢字』を日本において覚える事というのは、『日本人』としての特徴の一端を担う要素の重要な素因の一つなのかもしれない??

 

  しかし、それはあたかも、今日取り上げる漢字『坐』のように、現日本人が行わない、ザ・ニッポン人としての畳の上での正座の習慣を失いつつある

  点において『漢字習得』事情と似通っている気がしておかしい。

  というのも、言語学ならぬ言悟学的に『坐』という字には『瞑想+悟(無位の真人との対面)』が表象されていると読むことができるからだ。

 

  漢字には『音読み』と『訓読み』があるように、じつはもう一つ『色読み』と『空読み』があると馬骨は考える。

  色界では『坐』はたんに『坐る』という意味に読むが、空界的には『坐』は『瞑想と悟』と読む。・・・古の仏教徒はぶっ飛んでいた!

 

              『坐』の字の原風景がここにある。

  

 



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