拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  気合の国・・・

2023年04月01日 | 東洋自分なり研究所

  今日土曜日は私のバトミントンの日で、2階建てで16面コートある練習場に早めに着いたら、下の階で子供たちがレッスンを受けていた。

  こうしたレッスンを見ていると、いつも思うことは・・・『気合』という教授法が西洋ではほどんど見られないことだ。

  もちろんレッスンの対象が子供ということもあるが、そうでなくとも文化的な違いなのだろうか? いやいや、そういえば日本でだって

  『気合教授法』ってほどんど見たことがなかったっけ。

 

  この教授法を遺憾なく発揮しているのは間違いなく『禅寺』であると思う。

  形式になっているとはいえ、そのための入門の試練が初心の禅僧に課せられ、その『気合教授法』を受け入れるという相互の了解をとるのだろう。

 

  『気合教授法』とは何か?というと、自己に立ち向かう姿勢を示す為?か、他己との関係を限界まで割愛するかの如く突き放す『教授法』で

  大事なことはすべて『気合』という瞬間の『掛け声』で、次になすべき事を指示する方法で、最初は怒鳴られ、叱られているようで恐ろしさを

  感じる人もいるだろう。 娑婆では優しく説明してくれるであろう場面が、『禅』では怒鳴る・・・のだ。

 

  私は当時、30歳のオッサンであったからか、早くからそのカラクリに気が付いていたから、怒鳴られても感情的には馬耳東風であった。

  坐禅しているとき、ボーッと坐っている者がいると、警策という板状の棒で背中を叩くのも『気合教授』による教えであることを

  理解する者はどれほどいるだろうか? 

  『禅』仏教が中国で生まれ、中国思想の根源をなす『気』を取り入れた・・・唐時代の禅僧が『喝!』や『三十棒』で『気合』を入れるのも

  あと一歩で『此岸』から『彼岸』へ飛躍できそうな者に『気合』を入れたにほかならない。

  ・・・そう、『気合』は理屈を超えて事態を瞬時に掌握する『教授法』で、それを使うタイミングこそが優れた指導者に求められる資質であろう。

        

  坐禅や太極拳は『静』であるようで、じつは『気合』の持続による『意識から無意識』への限りない覚醒・・・だろうか。

  

  



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